3059 辨慶石(中京区三条通麩屋町西入北側)
辨慶石の由来 この石は辨慶が熱愛したと謂はれ 辨慶は幼少の頃三条京極に住み死後 この石は奥州高館の辺にありましたが 発声鳴動して「三条京極に往かむ」といひ その在所には熱病が蔓延したので 土地の人が恐怖し亨徳三年(約五百年前) 三条京極に移し以来当町を辨慶石町 と称するに到りました その後市内誓願寺方丈の庭に移りましたが 明治二十六年三月町内有志者により当町へ 引取られ...
View Article3061 高瀬川一之船入(京都市中京区一之船入町)
川の西方の掘割を一之船入という。高瀬川は慶長十六年 ( 1611 ) 頃、角倉了似が開いた運河でここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を船入といった。角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運びいれるため、この川を開いたもので...
View Article3062 角倉氏邸跡(中京区木屋町通り二条下がる)
さて、高瀬川は、慶長十六年 ( 1611 ) に、安土桃山・江戸初期の豪商・角倉了似とその子素庵が開いた運河です。角倉家は元々医術を本業としていましたが倉(高利貸し・質屋)でも成功し富を蓄えます。そして、角倉了似自身も、豊臣秀吉の時代、朱印船貿易で安南国 ( ベトナム ) との貿易などで成功しさらに莫大な富を得ました。その後、国内の河川開発にも乗り出し,慶長十一年 ( 1606 ) 年に保津川 (...
View Article3063 桂小五郎像(中京区河原町通御池上ル)
● 桂小五郎像明治維新を成し遂げ近代日本の礎を築いた桂小五郎 ( 水戸孝允 1833~1877 ) は長州藩士、吉田松陰の門下生。長州屋敷跡の当所にその像を建立し、事績を顕彰する。(案内板より)京都ホテルオークラの北西角に鎮座している。● 長州藩邸跡高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩 ( 現・山口県) )...
View Article3064 池田屋跡(中京区三条通河原町東入)
池田屋事件 ( いけだやじけん ) は、幕末 の 1864年 7月 8日 ( 元治 元年 6月 5日 ) に、京都 三条 木屋町 ( 三条小橋 ) の旅館 ・池田屋に潜伏していた長州藩 ・土佐藩 などの尊王攘夷 派志士 を、京都守護職 配下の治安維持組織 である新選組 が襲撃した事件。池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇 は書面で洛陽動乱と名づけている。経緯発覚幕末 の京都 は政局...
View Article3065 坂本龍馬妻・お龍独身時代寓居跡(中京区木屋町通六角下る東側(高瀬川山崎橋東詰下る))
● 坂本龍馬妻 此付近 お龍 独身時代 寓居跡 坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。...
View Article3066 旧土佐藩邸役宅跡(京都市中京区蛸薬師河原町東入ル備前島町307・PLEXUSビル)
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View Article3067 中岡慎太郎寓居跡(京都市中京区河原町通四条上ル東側)
土佐藩郷士で坂本龍馬とともに薩長同盟成立に活躍した中岡慎太郎は、近江屋と通りを挟んで目と鼻の先である土佐藩御用達書林菊屋 ( 鹿野安兵衛宅 ) に住んでいました。この菊屋の息子は、龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺された当日、龍馬に鶏肉を買ってくるように言付けられた峰吉で、その峰吉が事件発生後の第一発見者となりました。現在は、「象」というあぶらとり紙専門店となっている。(案内板より)● 中岡 慎太郎中岡...
View Article3068 坂本龍馬・中岡慎太郎像(東山区円山町473他)
贈正四位 坂本龍馬先生贈正四位 中岡慎太郎先生銅像銘土佐藩士坂本龍馬先生 中岡慎太郎先生は維新回天の偉業達成の為に最も重要な事績を遺しながら惜しくも大政奉還後僅かに三旬を経た慶応三年十一月十五日...
View Article3069 囲碁「本因坊」発祥の地碑(京都市中京区藤木町)
この寺町通の名は、天正十七年(1589)頃豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。寂光寺もそのひとつで、別名を久遠院ともいい、通りを挟んだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。...
View Article3070 幸野楳嶺生誕地碑(下京区新町通り四条下がる)
幸野 楳嶺(こうの ばいれい、弘化 元年3月3日 (1844年 4月20日 ) - 明治 28年(1895年 )2月2日 )は、江戸時代 末から明治 初期の日本画家 。名 は直豊、幼名 は角三郎、字 は思順、号 は楳嶺、他に鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数。生い立ち・作風・エピソードなど生い立ち弘化 元年3月3日 (1844年 4月20日...
View Article3071 佐賀鍋島藩屋敷跡(上京区上長者町通り智恵光院東入る)
佐賀藩(さがはん)は、肥前国 佐賀郡にあった外様 藩 。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏 が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)という俗称もある。明治維新 を推進した薩長土肥 のひとつである。現在の佐賀県 、長崎県 の一部にあたる。藩庁は佐賀城 (現在の佐賀市 )。藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高 は35万7千石。支藩として蓮池藩 、小城藩 、鹿島藩 があった。藩史鍋島氏は龍造寺氏...
View Article3072 浅見絅斎邸跡(中京区錦小路通高倉西入南側)
浅見 絅斎(あさみ けいさい、承応 元年8月13日 (1652年 9月15日 ) - 正徳 元年12月1日 (1712年 1月8日 ))は、日本の江戸時代 の儒学 者・思想家 。名は重次郎。諱は安正。筆名として望楠楼。来歴近江国 (現滋賀県 高島市 )に生まれる。はじめ医者を職業としたがやがて山崎闇斎...
View Article3074 呉春宅址(中京区東洞院通錦小路上る西側)
呉春(ごしゅん、 宝暦 2年3月15日 (1752年 4月28日 ) - 文化 8年7月17日 (1811年 9月4日 ))は江戸時代 中期の絵師 である。四条派 の始祖。本姓 は松村(まつむら)、名 は豊昌(とよまさ)。字 を裕甫、のち伯望(はくぼう)、通称 を文蔵(ぶんぞう)、嘉左衛門。号...
View Article3075 菁々塾跡(中京区高倉通錦小路上る東側 貝屋町)
菁々塾は,西谷淇水(1824~91)が開設した私塾。淇水は,江戸中期より手跡指南所篤志軒を営む西谷家の8代目であった。慶応3(1867)年・翌明治元年に小学校設立を建言。明治2(1869)年京都市中に64の小学校が開設されたが,それは寺子屋などの私塾を基礎としたものであり,菁々塾もその一つで下京第四番組小学校(日彰小学校)に発展した。この石標は菁々塾の跡を示すものである。 ●...
View Article3076 石田梅巌邸址(中京区堺町通蛸薬師上る東側)
石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享 2年9月15日 (1685年 10月12日 ) - 延享 元年9月24日 (1744年 10月29日 ))は江戸時代 の思想家 、倫理学者 。石門心学 の開祖。名は興長。通称、勘平。概要丹波国 桑田郡東懸村(現:京都府 亀岡市 )に、百姓の次男として生まれる。1695年 、11歳で呉服屋に丁稚 奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。1707年...
View Article3077 八文字屋自笑翁邸跡(中京区麩屋町通六角下る西側)
八文字屋 自笑(はちもんじや じしょう、生年不詳 - 延享 2年11月11日 (1745年 12月3日 ))は、浮世草子 作者、版元。姓は安藤、京 の書肆八文字屋八左衛門の2代目か3代目。元禄 初年ころ家業を継ぎ、絵入狂言本 を出板、元禄9年(1696年 )ころから代作者の江島其磧 と提携し、その「けいせい色三味線」「役者口三味線」で、その後の役者評判記 、浮世草子...
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