3040 山内一豊の銅像(高知城追手門のすぐ脇)
土佐藩初代藩主・山内一豊は、天文 14年 ( 1545 ) 生まれ。13歳の時尾張国 ( 愛知県 ) 岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年 ( 1576 ) 豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国 ( 滋賀県 ) 長浜 2万石の城主から、天正 18年 (...
View Article3041 野中兼山先生邸址(高知市丸ノ内1)
野中兼山 ( 1615 - 1663 )土佐藩家老 30年間藩政を委任され 南学奨励 用水路と新田開発 郷士起用等に画期的業績を挙げたが 領民疲弊の責任を問われ 寛文 3年 ( 1663 ) 辞任 同年 12月急逝した 49歳 翌年諸子は宿を幽閉され 野中家は断絶(案内板より)● 野中兼山野中 兼山 ( のなか - けんざん )( 元和 元年 ( 1615年 ) - 寛文 3年 12月 20日 (...
View Article3042 板垣退助先生像(高知城)
天保 8年 ( 1837 ) 4月 17日、土佐藩馬廻格・乾永六の長男として高知城下中島町に生れた。 少年時代から学問よりも相撲や闘犬などの勝負事を好み、士格青年の社団組織「盛組」の中心人物として乱暴を働き処分を受けている。 安政 2年 ( 1855 ) には 1年間江戸勤番を勤めるが、安政 3年 8月には総領職没収、城下四ヵ村禁足という重い処分を受けて、3年間城西神田村で生活したこともある。...
View Article3043 山内一豊の妻の銅像(高知市丸ノ内1-2-1)
山内一豊の妻は、弘治 3年 ( 1557 ) 生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国 ( 滋賀県 ) 浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国 ( 岐阜県 )...
View Article3044 楠正興尚徳碑(高知城)
医師・楠正興。先祖はその昔芸郡に下った楠正成の曾孫正盛を祖とし、町氏と称して長岡郡久礼田村 ( 南国市 ) で医を業とした。正興は日野・華岡の二氏に学び、更に西洋医術に基づく内科・産科医の奥義を究めて帰国したので、治療を乞う者はその門に満ちたと伝える。十五代藩主・山内容堂公の侍医に迎えられ、士席に編入された。明治元年 ( 1868 )...
View Article3045 平井収二郎先生誕生之地(高知市山手町)
幕末の志士。号を隈山 ( わいざん ) といい、天保六年 ( 1835 ) この地で生まれた。早くより文武を志し、英邁闊達で戦国策士の風があったという。文久三年 ( 1861 )...
View Article3046 真邊戒作正精墓(高知市丹中山・歴史公園)
御馬廻。迅衝隊 6番隊長、第 4胡蝶隊司令として会津まで若松城攻略戦まで転戦。のち高知藩留学生団長として英国へ留学したが、帰国後の明治 12年 ( 1879 ) 自殺した。(案内板より) にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View Article3047 長崎貫太頼房墓(高知市丹中山・歴史公園)
土佐郡小高村の徒士 ( かち )。迅衝 6番隊士として、幕府大鳥軍と戦い白河表において慶応 4年 ( 明治元年、1868年 ) 7月 27日戦病死した。33歳。 にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View ArticlePR: ちょっとの工夫で、今年の冬も楽しく快適に-政府広報
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View Article3048 田中煌之進重行墓(高知市丹中山・歴史公園)
土佐郡小高村の徒士 ( かち ) 迅衝 1番隊士として、隊長・日比虎作のもとで幕府大鳥軍と戦い、湯本街道において慶応 4年 ( 明治元年、1868 ) 6月 12日戦死。25歳。 にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View Article3049 柳原極堂句碑(松山市一番町3-3-7・萬翠荘)
城山や筍のびし垣の上柳原極堂 ( きょくどう )( 1867 - 1957 慶応三年 - 昭和三二年 )極堂は子規の新俳句普及のため、俳誌「ほととぎす」を発刊、松山俳句界の興隆につとめ、晩年は子規顕彰に尽くした。この句は「ほととぎす」第七号 ( 明治 30年 7月 ) 所載の句で、それには「筍」が「竹の子」となっている。極堂翁三一歳の時の句である。句集『草雲雀』著書『友人子規』等。(案内板より)...
View Article3050 近藤長次郎邸址(高知市上町2-8-20)
近藤長次郎 ( 1838 - 1866 )天保 8年 大黒屋の長男に生まる長じて坂本龍馬に兄事して活躍神戸海軍操練所をへて長崎、亀山社中に投じユニオン号譲渡をめぐって薩長連合に一役をになうも、そのあと単独に海外渡航を企てたことが社規に反し、慶応 2年早春自刃して果てた 行年 29才(案内板より)● 近藤長次郎近藤 長次郎 ( こんどう - ちょうじろう )( 天保 9年 3月 7日 ( 1838年...
View Article3052 三条大橋疑宝珠刀傷跡(三条大橋)
三条大橋西側から二つ目の南北疑宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。「でも本物なの?」 という疑問も残りますが・・・三条大橋を渡る時に、見てみてはいかがでしょう。(案内板より) にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View Article3054 大場久八墓(静岡県田方郡函南町間宮193・広渡寺) ID:x38b7o
大場久八 ( だいばのきゅうはち )( 文化 11年 ( 1814年 ) - 明治 25年 ( 1892年 ) 12月 4日 ) は、江戸時代 後期の博徒で、伊豆・甲斐 ・武蔵 ・相模 一円におよそ 3,000人の子分を抱えた伊豆 の大親分。本名は森久治郎。東京湾 岸のお台場 の製造に尽力した人物として知られる。来歴伊豆国間宮村の百姓栄助とのぶの倅に生まれる。天保 13年 ( 1842年...
View Article今回の旅行は
めちゃめちゃ、端折りながらの御紹介になります。1日目は・・・岩国空港からバスに乗り岩国駅へと、ホテルに向かい荷物を預けてから錦帯橋へとバスで向かう。まずは前回バスツアーの休憩時間の時間切れで中途になっていた『吉川家墓所』へと向かいコンプリート。 ( 紅葉谷公園の紅葉 ) (...
View Article3055 茶人珠光・織田信雄・加藤清正・紀州藩邸古蹟碑(中京区西洞院通三条下る東側)
この地は清泉があり「柳水」として有名で,千利休も茶を点じたという。村田珠光(1422~1502)の名を記すのは,茶道の祖といわれる珠光もこの水を使ったということであろう。近世初期には織田信長息の信雄(1558~1630)がこの地に住し,のち肥後加藤家京邸となった。貞享年間(1684~87)以降明治3(1870)年までこの地に徳川御三家の一つ,紀州和歌山藩邸があった。...
View Article3056 桂小五郎幾松寓居址碑(京都市左京区木屋町御池上がる)
京料理旅館 幾松さんは宿泊すると、”幾松の間”には今も尚、抜け穴・飛び穴・のぞき穴・吊り天井などが有るそうですが「吊り天井」だけは見学できるとか・・・ にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View Article3057 武市瑞山先生寓居之跡(中京区木屋町通三条上る)
武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本 の志士 、武士 (土佐藩 郷士 )。土佐勤王党 の盟主。通称 は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名 は鹿衛。諱 は小楯(こたて)。号 は瑞山または茗澗。変名 は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号 を吹山とした。土佐藩郷士・武市正恒 (白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子...
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