3078 本満寺(上京区寺町通今出川上る2丁目鶴山町16)
日蓮宗の本山で関白近衛通嗣を弔い、その邸内に広宣流布山本願満足寺を創建したのが始まりで後現在地に移された。慶応3年4月、新選組で過激な攘夷論を唱えていた田中寅三が新選組を脱走、御陵衛士に加入しようとするが、約定により加入が許されず、本満寺に潜伏するが、翌日捕らえられて切腹する。 上京区の寺町通りにあり、山中鹿之助の墓もある。名古屋より引き上げてきた赤報隊二番隊・三番隊の宿舎にもなった。●...
View Article3079 大久保利通邸跡(上京区河原町通今出川下る西入る)
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政 13年8月10日 (1830年 9月26日 ) - 明治 11年(1878年 )5月14日 )は、日本 の武士 (薩摩藩 士)、政治家 。位階 勲等 は贈 従一位 勲一等 。明治維新 の元勲 であり、西郷隆盛 、木戸孝允 と並んで「維新の三傑 」と称される。また維新の十傑 の1人でもある。生涯生い立ち文政 13年8月10日 (1830年 9月26日...
View Article3080 手島堵庵五楽舎跡碑(中京区富小路通六角上る西側)
手島 堵庵(てじま とあん、享保 3年5月13日 (1718年 6月12日 ) - 天明 6年2月9日 (1786年 3月8日 ))は、江戸時代 中期の心学者 。豪商上河蓋岳 の子で、母は上河氏 。子に手島和庵 がいる。本名上河喬房。通称を近江屋源右衛門という。字は応元、名は信、別名は東郭。18歳の時に石田梅岩 に師事。元文 3年(1738年 )開悟し、宝暦 12年(1773年...
View Article3083 祟忠之碑(京都市東山区本町15-778・東福寺)
勤王のために戦死した兵士を讃えるため、幕末から明治にかけて活躍した山口の国学者近藤芳樹が記した記念碑である。 にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View Article3084 防長忠魂碑(京都市東山区本町15-778・東福寺)
鳥羽伏見の戦争前夜、長州藩兵は東福寺に本陣を置いた。国宝三門の横に防長忠魂碑が建てられている。石碑は、長州出身の寺内正毅、田中義一、山県有朋の寄付により建立された。大正6年11月、長州藩殉難の士五十回忌に建てられた。表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽伏見で戦死した48名の名前が刻んである。 にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。
View Article3086 伊東甲子太郎墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)
伊東 甲子太郎(いとう かしたろう、天保 5年12月3日 (1835年 1月1日 ) - 慶応 3年11月18日 (1867年 12月13日 ))は、新選組 参謀 及び文学師範、のち御陵衛士 (高台寺党)盟主。諱...
View Article3087 服部武雄墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)
服部 武雄(はっとり たけお、天保 3年(1832年 ) - 慶応 3年11月18日 (1867年 12月13日 ))は、新選組 隊士・御陵衛士 。通称は三郎兵衛。来歴1832年 、播磨 赤穂藩 の服部覚平として生まれる。「殉難録稿」他には奸臣を斬って出奔した旨が記されているが、可能性は皆無といえる。新選組に加盟し、元治 元年10月の編成では尾形俊太郎...
View Article3088 毛内監物墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)
毛内 有之助(もうない ありのすけ、1835年 3月26日 (天保 6年2月28日 ) - 1867年 12月13日 (慶応 3年11月18日 ))は、新選組 隊士、御陵衛士 。諱 を良胤、通称は監物(けんもつ)。来歴1835年、津軽藩 用人・毛内裕胤の次男として生まれる。脱藩後、江戸 で学才を活かして家庭教師の職をつとめる。元治 元年(1864年 )10月、伊東甲子太郎...
View Article3089 高村久蔵・合同墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)
● 高村久蔵新井忠雄従者合同墓● 茨木司茨木 司(いばらき つかさ、生年不詳 - 慶応 3年6月13日 (1867年 7月14日 ))は、新選組 隊士。諱は信忠。会津藩 出身。慶応元年(1865年 )の入隊とされる。尊皇攘夷 思想が強く、慶応3年(1867年)3月に結成された伊東甲子太郎 らの御陵衛士 に参加を希望したが、その才を惜しんだ近藤勇...
View Article3090 藤堂平助墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)
藤堂 平助(とうどう へいすけ、弘化 元年(1844年 ) - 慶応 3年11月18日 (1867年 12月13日 ))は、新選組 隊士(八番隊組長)、のち御陵衛士 (高台寺党)。諱 は宜虎(たかとら)。生涯弘化元年(1844年)、武蔵国 江戸 にて誕生。永倉新八 の同志連名記や京都在留当時の風聞書によれば、伊勢 津藩 主藤堂高猷 の落胤 とも、伊勢久居藩 家老藤堂八座...
View Article3091 仲恭天皇 九條陵(京都市伏見区深草本寺山町)
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保 6年10月10日 (1218年 10月30日 ) - 天福 2年5月20日 (1234年 6月18日 ))は鎌倉時代 の第85代天皇 (在位:承久 3年4月20日 (1221年 5月13日 ) - 承久3年7月9日 (1221年 7月29日 ))。諱...
View Article3092 崇徳天皇皇后 聖子陵(京都市伏見区深草本寺山町)
藤原 聖子(ふじわら の きよこ、保安 3年(1122年 ) - 養和 元年12月4日 (1182年 1月10日 ))は平安 末期の后妃。崇徳天皇 の中宮 、近衞天皇 の養母、女院 。院号 は皇嘉門院(こうかもんいん)。摂政 関白 太政大臣 ・藤原忠通 の長女、母は北政所 従一位 ・藤原宗子 (権大納言 ・藤原宗通 の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。生涯大治 4年(1129年...
View Article3093 九條尚忠墓(京都市東山区本町15-778・東福寺)
九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政 10年7月25日 (1798年 9月5日 ) - 明治 4年8月21日 (1871年 10月5日 ))は、江戸時代 後期から明治 時代の公家 。官位は従一位 ・関白 。人物左大臣 ・二条治孝 の子で、母は樋口基康 の娘。正室は唐橋姪子 。九条道孝 は長男。孝明天皇 の妃・夙子 は娘。大正天皇 の后・節子 は孫。実兄の権大納言・九条輔嗣...
View Article3095 薩摩島津伏見屋敷跡(京都市伏見区東堺町472・松山酒造 入り口、東側)
薩摩島津伏見屋敷跡 / 天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地 / 坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地江戸時代、ここに薩摩島津家の伏見屋敷がありました。 徳川将軍は3代家光以後、約230年間、江戸にこもり京都にやってきませんでした。そのため原則として諸大名にも上洛を禁じました。西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときは京都ではなく、伏見を通ってゆきました。...
View Article3096 永持亨次郎墓(中京区三条通大宮西入上瓦町70・妙泉寺)
幕臣。ロシアとの交渉のためディアナ号におもむき、ねばり強く交渉する。安政元年には下田玉泉寺でロシア側と条約の最終的な詰めを行い、樺太(サハリン)の帰属、原住民などの取扱などを除いて大筋で合意に達した。...
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