日蓮宗の本山で関白近衛通嗣を弔い、その邸内に広宣流布山本願満足寺を創建したのが始まりで後現在地に移された。
慶応3年4月、新選組で過激な攘夷論を唱えていた田中寅三が新選組を脱走、御陵衛士に加入しようとするが、約定により加入が許されず、本満寺に潜伏するが、翌日捕らえられて切腹する。
上京区の寺町通りにあり、山中鹿之助の墓もある。
名古屋より引き上げてきた赤報隊二番隊・三番隊の宿舎にもなった。
● 田中寅蔵
田中 寅蔵(たなか とらぞう、天保 12年(1841年 ) - 慶応 3年4月15日 (1867年 5月18日 ))は、新選組 隊士(撃剣 師範)。田中寅三ともいう。
加賀国 で生まれる。
元治 元年10月頃に新選組に入隊。
剣の腕前は高く隊内では撃剣師範となった。
伊東甲子太郎 の御陵衛士 に加わろうとするが拒絶され、本満寺 に隠れるが見つかり、慶応3年4月15日切腹となった。墓は光縁寺 にある。
辞世の句
・四方山の 花咲き乱る 時なれば 萩も咲くさく 武蔵野までも
この句は、長州藩 (萩)を支持し、武蔵国 出身の近藤・土方らを批判した句と言われている。田中の辞世之句は他にも数点、残っていることが確認されている。
(wikiより)
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