幇間塚 ( ほうかんづか )
「幇 ( ほう )」とは、たすける意。
幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。
たいこもち、男芸者のこと。
幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和三十八年に建立された。
碑には、浅草生まれで、大正、昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎の俳句がある。
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
(案内板より)
● 幇間
幇間 ( ほうかん、たいこ ) は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者 ・舞妓 を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業である。
解説
幇間は別名「太鼓持ち ( たいこもち )」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。
歴史は古く豊臣秀吉 の御伽衆 を務めたと言われる曽呂利新左衛門 という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。
また、太鼓持ち は俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。
この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。
宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。
専業の幇間は元禄 の頃 ( 1688年 - 1704年 ) に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦 ( 1751年 - 1764年 ) の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。
現在では東京に数名と岐阜に1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。
古典落語 では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。
台東区 浅草 にある浅草寺 の本坊伝法院 には 1963年 に建立された幇間塚がある。
幇間の第一人者としては悠玄亭玉介 が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。
正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は 5 ~ 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。
もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。
芸者と同じように、芸者置屋に所属している。
服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織 を着て、白足袋に雪駄 、扇子 をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。
一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。
幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。 噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。
文献
太鼓持ちあらい 『「間」の極意』角川ワンテーマ21、2001
太鼓持ちあらい『太鼓持あらいのユーモア話術』三笠書房、2004
桜川忠七 『たいこ持ち 幇間五十年の一代記』かのう書房、1990
藤井宗哲 『たいこもち ( 幇間 ) の生活』雄山閣出版、1982
悠玄亭玉介 『幇間の遺言』小田豊二 聞き書き、集英社、1995 のち文庫
関連項目
幇間探偵しゃろく - 幇間が主役の漫画。
高橋茂雄 (お笑い芸人)
タイチ (プロレスラー)
外部リンク
(wikiより)
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