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2568 松尾芭蕉像と句碑(台東区浅草2-1-16・弁天山)

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くわんをんの


いらか見やりつ

花の雲  はせを


俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年 ( 1644 ) 伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。


芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。


独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄七年 ( 1694 ) 十月十二日、大阪の旅舎で五十一年の生涯を閉じました。


この句碑は寛政八年 ( 1796 ) 十月十二日、芭蕉の 103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。


八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難になっております。


奥山庭園にある『三匠句碑』( 花の雲 鐘は上野か浅草か ) と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。
(案内板より)


● 松尾芭蕉

松尾 芭蕉 ( まつお - ばしょう、寛永 21年 ( 1644年 ) - 元禄 7年 10月 12日 ( 1694年
11月 28日 [1] ) は、江戸時代 前期の俳諧師


現在の三重県 伊賀市 出身。幼名は金作[2] 。通称は甚七郎、甚四郎[2] 。名は忠右衛門宗房[2] 俳号 としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉 ( はせを ) と改めた。北村季吟 門下。


蕉風 と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[3] を確立し、後世では俳聖[4] として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。


芭蕉が弟子の河合曾良 を伴い、元禄 2年 3月 27日 ( 1689年 5月 16日 ) に江戸 を立ち東北 北陸 を巡り岐阜 大垣 まで旅した紀行文『おくのほそ道 』がある。


生涯

伊賀国の宗房

伊賀国 ( 現在の三重県 伊賀市 ) で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない[2] 。出生地には、赤坂 ( 現在の伊賀市上野 赤坂町 ) 説[2] と柘植 ( 現在の伊賀市柘植 ) 説の 2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。



阿拝郡 柘植郷 ( 現在の伊賀市柘植 ) の土豪 一族出身の父・松尾与左衛門と、百地 ( 桃地 ) 氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男 として生まれる[2] 。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた[2] 。 松尾家は平氏 の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民 だった[5]


明暦 2年 ( 1656年 )、13歳の時に父が死去[2] 。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。


そのためであろうか、 異説も多いが寛文 2年 ( 1662 ) に[5] 若くして伊賀国上野の侍大将 藤堂新七郎良清 の嗣子・主計良忠 ( 俳号は蝉吟 ) に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい[2] 。2歳年上の良忠とともに京都 にいた北村季吟 に師事して俳諧 の道に入り[2] 、寛文2年の年末に詠んだ句


春や来し年や行けん小晦日 ( はるやこし としやゆきけん こつごもり )


が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春 の日に詠んだという[5]


寛文 4年 ( 1664年 ) には松江重頼 撰『佐夜中山集』に、貞門派 風の 2句が「松尾宗房」の名で初入集した[2]


寛文 6年 ( 1666年 ) には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている[2]


しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山 報恩院 に納める一団に加わって[5] 菩提を弔い[2] 、仕官を退いた[5] 。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文 7年 ( 1667年 ) 刊の『続山井』( 湖春 編 ) など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる[2]


その後、萩野安静撰『如意宝珠』( 寛永 9年 ) に 6句、岡村正辰撰『大和巡礼』( 寛永 10年 ) に 2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』( 寛永 11年 ) に 1句がそれぞれ入集した[5]


寛文 12年 ( 1672年 )、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ 』を上野天神宮 ( 三重県伊賀市 ) に奉納した。これは 30番の発句合で、談林派 の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄 六方詞 など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった[2]


また延宝 2年 ( 1674年 ) 、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた[2] 。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった[2]


詳しい事は『松尾芭蕉ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10971643168.html
632 松尾芭蕉 象潟の句碑(台東区・浅草三丁目 宮戸座跡の碑横)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11274729742.html
975 芭蕉雪見の句碑(墨田区向島5-4-4・長命寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11304603465.html
1134 松尾芭蕉句碑(広島県尾道市・千光寺公園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11732157464.html
1722 松尾芭蕉句碑(松山市道後姫塚114・義安寺)


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