Quantcast
Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3950

2416 大村益次郎像(千代田区九段北3-1-1・ 靖国神社境内)

$
0
0

大村 益次郎 ( おおむら - ますじろう、 文政 8年 5月 3日 ( 1824年 5月 30日 ) - 明治 2年 11月 5日 ( 1869年 12月 7日 ) は、幕末 期の長州藩 の医師、西洋学者、兵学者 である。維新の十傑 の一人に数えられる。


長州征討 戊辰戦争 で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制 において軍務を統括した兵部省 における初代の大輔 ( 次官 ) を務め、事実上の日本陸軍 の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六良庵(または亮庵)、のちに益次郎雅号 良庵良安亮安 永敏 ( ながとし )。位階 は贈従三位、後に従二位。家紋 丸に桔梗


生涯

村医

周防国 吉敷郡 鋳銭司 ( すぜんじ ) 字大村 ( 現・山口県 山口市 鋳銭司 ) に村医の村田孝益 と妻・うめの長男として生まれる。


天保 13年 ( 1842年 )、防府 で、シーボルトの弟子の梅田幽斎 に医学や蘭学 を学び、翌年 4月梅田の勧めで豊後国 日田 に向かい、4月 7日広瀬淡窓 、の私塾・咸宜園 に入る。


1844年 6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化 3年 ( 1846年 )、大坂 に出て緒方洪庵 適塾 で学ぶ。


適塾在籍の間に長崎 奥山静叔 のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾 の塾頭まで進む。


嘉永 3年 ( 1850年 )、父親に請われて帰郷し、四辻で開業し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。


江戸出府・講武所教授

嘉永 6年 ( 1853年 )、アメリカ合衆国 ペリー 提督率いる黒船 が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予 宇和島藩 の要請で出仕する。


ただし宇和島藩関係者の証言では、大村はシーボルト 門人で高名な蘭学者の二宮敬作 を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでないという。


宇和島に到着した大村は、二宮や藩の顧問格であった僧・晦厳 高野長英 門下で蘭学の造詣の深い藩士・大野昌三郎 らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。


このとき藩主・伊達宗城 参勤交代 で不在、家老 も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、益次郎の待遇を 2人扶持・年給 10両という低い禄高に決めた。しかし、このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇の約束といった事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。


大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。


安政 元年 ( 1854年 ) から翌安政 2年 ( 1855年 ) には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネ を紹介され、蘭学を教える。


イネは後年、大村が襲撃された後、蘭医・ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。


宇和島では提灯屋の嘉蔵 ( 後の前原巧 ) とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない ( 国産第 1号は薩摩藩 といわれている )。


大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃、村田蔵六と改名する。


安政 3年 ( 1856年 ) 4月、藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸 に出る。同年 11月 1日、私塾「鳩居堂」を麹町 に開塾して蘭学・兵学・医学を教える ( 塾頭は太田静馬 )。


同 16日、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府 蕃書調所 教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米 20人扶持・年給 20両を支給される。


安政 4年 ( 1857年 ) 11月 11日、築地 の幕府の講武所 教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生 ( 大村のこと ) の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政 5年 ( 1858年 ) 幕府より銀1 5枚の褒章を受けた。


同年 3月 19日には長州藩 上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎 ( のちの木戸孝允 ) と知り合う。


これを機に万延 元年 ( 1860年 )、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布 の長州藩中屋敷に移る。


文久 元年 ( 1861年 ) 正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関 周辺の海防調査も行う。同年 4月、江戸へいったん帰り、文久 2年 ( 1862年 )、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボン のもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫 大槻俊斎 桂川甫周 福澤諭吉 大鳥圭介 といった蘭学者 洋学者 や旧友とも付き合いがあった。


長州征討

文久 3年 ( 1863年 ) 10月、 へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。


元治 元年 ( 1864年 ) 2月 24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館 での西洋兵学の講義を行い、5月 10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。


一方では語学力を買われ、8月 14日には四国艦隊下関砲撃事件 の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の 12月 9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。


長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は周布政之助 が付けたとも、高杉晋作 が付けたとも言われている。


長州藩では元治 元年 ( 1864年 ) の第一次長州征伐 の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応 元年 ( 1865年 )、高杉晋作らが馬関 で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。


同年、大村は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海 へ渡っている。この公式文書は残されておらず、わずかに残された大村本人のメモしか知ることが出来ないため、仔細不明である。


福沢諭吉は自伝『福翁自伝 』で、1863年 の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、

「( 福沢が )『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。……あきれ返った話じゃないか』と言うと、村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。……長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴原にわがままをされてたまるものか。……これを打ち払うのが当然だ。もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。』と言うその剣幕は以前の村田ではない。」

と、長州藩士になりたての大村が過激な攘夷論を吐いたことに驚き

「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までと云うような訳で、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」

と解釈している。大村自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、福沢と大村は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある[1]


高杉らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊 の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎 ( 木戸孝允 ) の推挙により、大村は馬廻役譜代 100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をそれぞれとっている。


このころ大村は精力的に、明倫館 や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に彼の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここでは大村はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。


慶応 2年 ( 1866年 )、幕府は第二次長州征伐 号令、騒然とした中、明倫館が再開される。


桂小五郎は同年 5月に藩の指導権を握り、大村、高杉、伊藤博文 、井上聞多 ( のち井上馨 ) らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに 3月 13日、大村は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが、5月には近代軍建設の責任者となり、閏 5月 6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され、名実共に藩士となる。


大村は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊 を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月 22日には 1600人の満 16歳から 25歳までの農商階級の兵士を再編した。


さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。


さらに、5月 26日、青木群平 を長崎に派遣して最新のライフル銃 であるミニエー銃 を購入せしめる。だが、これは幕府の横槍で不調に終わり、7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人・グラバー と交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃 4300挺、ゲベール銃 3000挺を購入する。


6月に戦闘が開始される。大村は石州 口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。


6月 16日、大村は中立的立場を取った津和野藩 を通過して浜田 まで進撃する。


7月 18日に田城 を陥落させ、のち石見銀山を占領した。このとき、炎上する城を見て部下が出雲藩 の救援を心配したが、大村は、赤穂浪士 の討ち入りの故事を引き合いにして「決して雲州そのほかから無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない。」と論理的に戦況を分析して断言し、皆を安心させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼 は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。


征討終了後、山口に帰還、12月 12日海軍用掛を兼務する。海軍頭取前原彦太郎 ( のちの前原一誠 ) を補佐する。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。


戊辰戦争」、兵制論争」、「暗殺」、「経歴」、「人物」、「参考文献」、「関連作品」、「関連項目」、「脚注」、「外部リンク」については、『大村益次郎ウィキペディア』を御覧下さいませ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10863968842.html
533 佐久間象山先生・大村益二郎遭難の碑(木屋町御池上ル・中華料理ハマムラ横)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10512230503.html
116 緒方洪庵墓(文京区本駒込1・高林寺)


2416 大村益次郎 大村益次郎
2416a
2416b
2416c
2416d







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3950

Trending Articles