品川 弥二郎 ( しながわ - やじろう )
天保 14年 閏 9月 29日 ( 1843年 11月20日 ) - 明治 33年 ( 1900年 ) 2月 26日 ) は、日本 の武士 ( 長州藩 士)、政治家 。勲一等 子爵 。名は省吾、弥吉。号 は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。
経歴
天保 14年 ( 1843年 )、長州藩 の足軽 ・品川弥市右衛門の長男として生まれた。
安政 5年 ( 1857年 )、松下村塾 に入門して吉田松陰 から教えを受けるが、安政 7年 ( 1859年 ) に安政の大獄 で松陰が刑死すると、高杉晋作 らと行動を共にして尊王攘夷 運動に奔走し、英国公使館焼き討ち などを実行している。
元治 元年 ( 1864年 ) の禁門の変 では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進 、山田顕義 らと御楯隊 を組織した。
慶応 元年 ( 1865年 )、木戸孝允 と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟 の成立に尽力した。戊辰戦争 では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
明治維新 後の明治 3年 ( 1870年 )、渡欧して普仏戦争 を視察するなどドイツ やイギリスに留学する。
内務大書記官や内務少輔 、農商務大輔 、駐独公使、宮内省 御料局長、枢密顧問官 などを歴任する。
明治 17年 ( 1884年 )、維新の功により子爵を授けられる。
明治 24年 ( 1891年 ) に第 1次松方内閣 の内務大臣 に就任するが、次官の白根専一 とともに警察 を動員して強力な選挙干渉 を行なって死者 25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた ( ただし、実際の経緯については諸説存在する )。
その後は西郷従道 と協力して政治団体・国民協会 を組織する。
民間にあっては、獨逸学協会学校 ( 現:獨協学園 ) や旧制京華中学校 ( 現:京華学園 ) を創立し、また信用組合 や産業組合の設立にも貢献している。
明治 33年 ( 1900年 )、肺炎のため死去。享年 58歳。
人物・逸話
・戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん 」) は、品川が作詞をしたとされる。
・松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している。
・同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀 は、明治 24年 ( 1891年 ) の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大を欠いたものであると難じ、選挙干渉以後の言動は陸奥宗光 への嫉妬と復讐の私情に制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰と比較して、同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了の疑問なり」と書く[1] 。
・維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都 に尊攘堂 を建立して京都帝国大学 に寄贈した。品川の死後、山口県 下関市 の功山寺 にも建立されている。
・東京都 千代田区 九段南 の田安門 前 ( 九段坂公園内 ) に銅像がある。高村光雲の監督によるという。
・大日本山林会 初代幹事長を務めた。
・大日本水産会 第一次幹事長 ( 初代会長に相当 ) を務めた( 任期:明治 15年 ( 1882年 ) 2月 12日 - 同 19年 ( 1886年 ) 4月 26日 )[2] 。
・大日本農会 初代幹事長を務めた。
・1885年 ( 明治 18年 ) に、塩原温泉 塩釜の地 ( 栃木県 那須塩原市 ) に別荘を建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている。
栄典
・明治 33年 ( 1900年 ) 2月 26日 :勲一等旭日大綬章
系譜
・品川氏
弥一右衛門 - 弥次郎 - 弥一 - 清太郎
脚注
1. 鳥谷部春汀 『明治人物評論・正』 博文館、1898年、22-30p。
2. 『大日本水産会百年史』社団法人大日本水産会、1982年。
関連項目
外部リンク
品川 弥二郎(京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)
品川弥二郎関係文書(その1) | 国立国会図書館 憲政資料室
(wikiより)
関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11584694877.html
1506 品川弥二郎之墓(京都市東山区清閑寺霊山町35・正法寺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10513267587.html
119 吉田松蔭の陰墓(南千住・小塚原回向院)
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