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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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2459 平山省斎墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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幕末の外国奉行・江戸幕府若年寄・明治初期の宗教家。従六位。


初名、田村久蔵。前名、黒岡謙次郎。名、敬忠。字、安民。号、省斎・素山。


父、陸奥三春藩士・黒岡活円斎 ( または旗本・岡田甚平? )。


江戸に出て叔父 : 奥御祐筆組頭・竹村七佐衛門に寄宿、安積艮斎に師事。


幕臣・平山氏の養子として幕臣となり、嘉永 4年 ( 1851 ) 御目付役。


安政元年 ( 1854 ) 堀利熈・村垣範正に従い蝦夷地を視察。


安政 2年 ( 1855 ) ペリー再来航のとき岩瀬忠震とともに下田で応接に当たる。


その後、北方、長崎などの警護に就く。


安政 4年 ( 1857 ) 勘定奉行・水野忠徳に従い、長野でロシアやオランダの使節を応接。


安政 6年 ( 1859 ) 安政大獄の岩瀬失脚に連座し免職。


慶応元年 ( 1865 ) 目付の復帰、再び外交の先頭に立つ。


大島友之允・勝安房らと征韓論を唱える。


慶応 2年 ( 1866 ) 外国奉行となり朝鮮に差遣。


徳川慶喜に抜擢され外国総奉行。


慶応 3年 ( 1867 ) 若年寄。


対薩長強硬派だったため鳥羽伏見での敗戦後、徳川慶喜より免職登城禁止となる。


明治 5年 ( 1872 ) 赦免となり、官途に就かず、氷川神社宮司や日枝神社祠官となり、禊 ( みそぎ )・淘宮 ( とうきゅう )・天学・蓮門・儒教・心学など多くの民間の講社を結集し神道大成教を創立。


御岳教の別派独立の際はその管長を兼ねる。76歳没。


著書:「平山省斎遺稿抄」。


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10973807790.html
635 岩瀬肥後之守(忠震)墓(豊島区東池袋4丁目・雑司が谷霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11149493801.html
858 岩瀬鴎所の墓碑(墨田区向島3-5-2・白髭神社内)


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2460 天眼寺殿・舞姫墓(台東区谷中1-2-14・天眼寺)

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天眼寺殿 ( てんがんじどの )・藤姫 


天和元年? ~ 元禄 11年 6月 23日 ( 1681 ? - 1698 )


山形藩主・松平忠弘室。父、肥後国熊本藩初代藩主・細川忠利。母、側室。


父方祖母は、明智光秀の娘・細川ガラシャ ( 玉子 )。


天眼寺を開基。17歳没。


墓は、天眼寺墓地 ( 谷中 1- 2- 14 )。松平家墓域内。「天眼寺殿慈光性輪尼大姉」。


江戸に菩提寺がないので谷中に土地を求め、寺を開基し「天眼寺」とした。


この後、松平家の菩提寺となる。


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2461 宮城玄魚墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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宮城玄魚 ( みやぎ - げんぎょ / みやぎ - はるな )・桜素亭玄魚 / 素亭玄魚 / 宮城梅素 ( みやぎ - ばいそ )


文化 13年 12月 ~ 明治 13年 2月 7日 ( 1816 - 1880 )・・・文化 14年説あり。


書画家・経師屋。


本名、宮城喜三郎。父、宮城彦三郎。


東京日本橋石 町4丁目で生まれ浅草に住む。名、貞雄。号、整軒・桃園・科斗子・水仙子・小井居・梅素・楓阿弥等。


黄表紙や浮世絵の絵や文章には梅素亭玄魚を名乗った。


15歳で浅草の書画骨董家万屋・金子吉兵衛の丁稚となる。


御家流 ( おいえりゅう ) 書家・武田交米に師事。


また、国学者で歌人の岸本由豆流 ( きしもと - ゆずる:1789 - 1846 ) の門に入り、和歌でも有名となる。


父の老いにより 20歳で家に戻り父の家業を手伝うが、書画の版下を得意とし、注文も多かったことから、経師職を辞め専らこれに従事し、小説の版下でも有名となった。


活字の秀英体B型仮名書風の版下を作り、活版印刷の成立に大きな貢献をした。


また、千社札・絵ビラに使われる江戸文字を創った。


発句を守村抱儀に師事、狂歌を良く詠み、狂文も綴った。


なお、仮名垣魯文とも交流があった。64歳没。


著書:「大工注文往来」、「 開化漢語用文」 。

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2462 飯田直之丞墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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飯田宣之 ( いいだ - のぶゆき ) / 飯田直之 ( いいだ - なおのじょう ) 天保 10年 9月 11日 ~ 明治 40年 8月 25日 ( 1839 - 1907 )


彰義隊員のち徴士・東京養育院副院長。


初名、丹野蔵之助のち直之丞。号、古堂。父、丹野定右衛門 ( 三男 )。宮城県出身。


仙台で松本亮之助に師事し朱子学を学ぶ。のち藩主に従い江戸に出る。


京阪で遊学。図書頭・林鶯渓に入門。


慶応 2年 ( 1866 ) 長州征伐の役で幕府黒鍬組・飯田政之助が戦死の後、その後を継ぐ。


慶応 3年 ( 1867 ) 撤兵指図役・交際役に抜擢される。


戊辰の役にのち彰義隊員となる。のち悔悟して徴士となる。


明治 5年 ( 1872 ) 文部省出仕。


明治 10年 ( 1877 ) 東京養育院副院長。外国語学校教授。下谷区会議員。東京府学務委員。


明治 21年 ( 1888 ) 神奈川監獄署教誨師。


明治 31年 ( 1898 ) 横須賀監獄署教誨師。


明治 34年 ( 1901 ) 辞職。68歳没。

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2463 赤井景韶墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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赤井景韶 ( あかい - かげあき )

安政 6年 9月 ~ 明治 18年 7月 27日 ( 1859 - 1885 )


上越地方の急進的青年民権家。


父、越後高田藩士・赤井喜平 ( 長男 )。中頸城郡高田木築町出身。幼名、乙五郎。


赤井家は高田藩の下級士族で、父・喜平は明治元年 ( 1868 ) の戊辰戦争で戦死し、母子家庭となった。


西南戦争では、神奈川県巡査として戦地に赴く。


のち故郷の越後に帰り代言人を開業。


高田に自由党が結成されるや入党して党務に尽力。


明治初期、自由民権思想の反政府運動は、明治 16年 ( 1883 ) 3月「高田事件」を起こした。


赤井景韶は、これに連座、内乱罪で収監、重禁獄 9年の実刑となる。裁判官は玉乃世履であった。


その後明治 17年 ( 1884 ) に松田克之とともに脱獄するも、松田は程なく逮捕され、赤井は逃亡途中で人力車夫を殺害し警察は名誉にかけての大捜査網を敷いた。


世間では、逮捕地を賭けるといったことが行われたという。


山田賢治という偽名で逃げ回っていたが、9月 10日に大井川橋際で逮捕となる。


明治 18年 7月 27日死刑となる。辞世の句は、


   「青葉にて散るともよしや楓葉の
        あかき心は知る人ぞ知る」


● 高田事件
高田事件 ( たかだじけん ) は、1883年 3月 20日に発生した新潟県高田・頸城地方を中心とした自由党員らを対象とした自由民権運動に対する弾圧事件。ただし、逮捕された大部分が冤罪であった。


3月 10日、富山県高岡において開かれた自由党員による北陸七州有志懇談会が開催され、北陸地方における自由民権運動は最高潮に達した。


ところが、19日になって参加者の 1人である長谷川三郎が警察官を侮辱した容疑で逮捕され、翌日に長谷川の自白に基づいて加藤貞盟・八木原繁祉・赤井景韶ら新潟県の活動家 20名余りを政府転覆容疑で逮捕した。


ところが、問題の長谷川は実は新潟始審裁判所高田支庁の検事補・堀小太郎の部下であり、所謂スパイとして活動に参加して加藤・八木原ら地元自由党幹部の情報を入手して、堀と打ち合わせの上で逮捕に至らしめたものであった。


その結果、5月までにあわせて党員や支持者ら 37名が逮捕された。


もっとも、政府転覆計画の捜査そのものが一種の見込み捜査であり、その大半の容疑者については証拠が見つからないまま、8月までに 22名が不起訴、加藤・八木原ら自由党幹部 12名は起訴したものの公判を維持できず、免訴・責付釈放となり事実上の無罪となった。


ところが、赤井景韶については前年 11月 4日に、ともに逮捕された井上平三郎・風間安太郎の 2名とともに高田で協議して「天誅党」と呼ばれる秘密結社を結成して政府高官の暗殺計画を企て「天誅党」の結成趣意書を文書としたことが判明した。文書は具体的なものではなかったが、赤井の自筆であったことから当局は 3名を国事犯として告発した。赤井以外の 2名は協議には参加したものの、明確な物的証拠がなかったことから計画参加の証拠なしとして、高等法院における予審で免訴となったが、赤井のみは直筆の趣意書を根拠として 12月 17日に重禁錮9年の判決を受けた。


なお、赤井は翌年 3月に石川島監獄から脱獄して逃走中に目撃した人力車車夫を殺害、9月に静岡県にて逮捕され、1885年 7月 27日に殺人罪によって絞首刑となった。


逮捕された大部分は当局によるでっち上げの告発による逮捕であり、後日明らかとなった赤井の事件とも全く無関係であった ( そもそも、赤井の1件も見込み捜査によって偶々発覚したものであった )。


そのため、この事件は自由民権運動弾圧を図った当局の捏造事件とされている。
(wikiより)


2463 赤井景韶 赤井 景韶
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2464 池田蕉園墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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池田 蕉園 ( いけだ - しょうえん )

1886年 5月 13日 - 1917年 12月 1日 ) は、明治 から大正 にかけての女性浮世絵師 日本画家


本名・池田 ( 旧姓 : 榊原 ) 百合子 ( あるいは由理子[1] )。夫も日本画家の池田輝方


生涯
出自

1886年 ( 明治 19年 ) 5月 13日、東京 神田 雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に一人の弟、三人の妹がいる[2]


父・浩逸は旧岸和田藩 士であったが、慶應義塾 福沢諭吉 に学び、彼の勧めによりアメリカ ラトガース大学 に留学して鉄道を研究、日本鉄道 に勤務したのち、岩倉鉄道学校 ( 現在の岩倉高等学校 ) の幹事となった人物。母・綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道 の娘で、和歌 に優れていたほか、1876年 ( 明治 9年 ) ごろからは国沢新九郎 の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎 にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。夫妻は鹿鳴館 にも出入りしていた[3] 名士であった。


修行時代

1893年 ( 明治 26年 ) 4月に両国 の江東小学校に入学、1895年 ( 明治 28年 ) には一家が麹町区 富士見町に転居したため、富士見小学校 3年に編入。


この頃より草双紙 の絵を石版 に描き写すなどして画才を発揮し始める。


1898年 ( 明治 31年 ) 4月に女子学院 ( 現在の女子学院中学校高等学校 ) に入学、当時開明的とされた教育を受けるが、1901年 ( 明治 34年 )、学業のかたわら 15歳で日本画家・水野年方 ( 1866-1908 ) の主宰する慶斎画塾に入門。


蕉園の号は、上村松園 に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えた。


入門翌年 1902年 ( 明治 35年 ) ごろに「桜狩」を発表して画壇デビュー。この頃より同門であった池田輝方 と相思相愛の間柄となり、学業を放棄。


1903年 ( 明治 36年 ) からは、同門であった鏑木清方 が主宰する研究グループ・烏合会 に、村岡応東 吉川霊華 ( 1875 - 1929 ) らとともに参加してさらに研鑽を積む。同年第 9回絵画共進会で「つみ草」が、第 10回の同会では「夕暮れ」が入選。


苦悩を芸術に昇華

同年、師の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪、この出来事の顛末は田口掬汀 による連載記事「絵具皿」で万朝報 に報じられ、広く話題となった。


蕉園は悲しみのあまりしばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵 風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれ、3年間のブランクの後、1906年 ( 明治 39年 ) に美術研精会に出品した「わが鳩」で研精賞碑を受賞、橋本雅邦 に実力を認められる。


1907年 ( 明治 40年 )、21歳で東京勧業博覧会 に『花の蔭』を出品して

2等賞、同年秋に開催された第 1回文部省 美術展覧会 ( 文展 ) では「もの詣で」で 3等賞を受賞。


「閨秀画家の双璧」

1908年 ( 明治 41年 ) の第 2回文展には「やよい」を出品して 3等賞を受賞。この年には師・年方が死去したため、翌 1909年 ( 明治 42年 ) からは川合玉堂 に師事し、鈴木華邨 にも指導を受ける。


こうした研鑽の甲斐あってか、この前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となった。同年刊行の泉鏡花 の『柳筥』の挿絵が知られており、同年の第 3回巽画会展へは「帰途」、やはり同年の第 3回文展に「宴の暇」、1910年 ( 明治 43年 ) の第 4回展に「秋のしらべ、冬のまどい」、1915年 ( 大正 4年 ) の第 9回展に「かえり路」を出品してそれぞれ 3等賞、1916年 ( 大正 5年 ) の第 10回展では「こぞのけふ」で特選を受賞し、1912年 ( 大正元年 ) の第 6回展第 2科の「ひともしごろ」、1914年 ( 大正 3年 ) の第8回展の「中幕のあと」はともに褒状を受けた。


1910年 ( 明治 43年 ) の日英博覧会 には「紅葉狩」「貝覆」の二曲一双屏風 を出品。


1911年 ( 明治 44年 ) の第 1回東京勧業博覧会へ出品した「夢の跡」では、「朦朧派」の影響の下、人物の目元などにぼかしをかける叙情的な表現が用いられたが、これは伊東深水 竹久夢二 などの追随者を生んだ。


この活躍により、同様の動きを見せていた京都 上村松園 とともに「東の蕉園、西の松園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」とされた他、のちには大阪 島成園 を加えて「三都三園」と呼ばれたりもした。


こうした一方で泉鏡花 の『柳筥』『白鷺』の口絵 を手がけ、徳田秋声 の『誘惑』、雑誌「女学世界 」「女鑑 」「少女世界 」「少女画報 」などの挿絵も描いた。蕉園自身は泉鏡花の文学の熱烈なファンでもあり、1908年 ( 明治 41年 ) には彼を支持する人々の集まり「鏡花会」に参加。泉本人のほか、長谷川時雨 との交友も盛んとなった。このほか観劇、邦楽 などの愛好家としても知られた。


文展のおしどり画家、そして死

1911年 ( 明治 44年 )、放浪生活から戻った輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ね、夫婦で屏風 や双幅を合作したりもして、「文展のおしどり画家」と呼ばれた。


1914年 ( 大正 3年 ) には再興・第1回日本美術院展 ( 院展 ) に輝方の「お夏 」とともに「おはん」を出品しているが、これは二人のただ一回の院展出品となった。


そのころには国民的名士として知られ、上流階級の夫人、令嬢を多く門弟としたほか、大正天皇 の前で絵を描いてみせたりもし、作品は高値で買い取られた[4] 一方、文展には多くの模倣作が溢れて識者の顰蹙を買い、私生活での行動までもが人々の興味の対象[5] となった。


1916年 ( 大正 5年 ) の第 10回文展での特選受賞は夫婦揃ってのものだったが、蕉園はこの翌年 1917年 ( 大正 6年 ) に結核 に倒れ、夫輝方の献身的な看病もむなしく、やがて肋膜炎 を併発、同年 12月 1日、31歳で死去。


犬養毅 、当時の皇后宮 大夫、文部次官など政、官界の要人、高村光雲 鏑木清方 、徳田秋声、松岡映丘 ら多くの美術人、門弟、愛好家たちが参列する盛大な葬儀[6] が営まれ、谷中墓地 に埋葬された。法名 は「彩雲院蕉園妙観大姉」。夫の輝方も 4年後の 1921年 ( 大正 10年 ) に 38歳で没した。


弟子に、木谷千種 松本華羊 ポール・ジャクレー など。


作品

・「秋園」 絹本著色 福富太郎 コレクション 1904年(明治37年)第九回烏合会出品

・「宴の暇」 絹本著色 福富太郎コレクション 1909年(明治42年)第三回文展

・「春流 」 絹本著色 実践女子学園 所蔵

・「夢の跡」 絹本著色 二曲一隻 福富太郎コレクション 1911年(明治44年)

・「桜下美人図 」 絹本着色 城西大学 水田美術館所蔵 1911年(明治44年)

・「小松引 」 絹本著色 島根県立石見美術館 所蔵 大正初期

・「さつき 」 絹本著色 東京国立近代美術館 所蔵


関連項目

池田輝方

浮世絵#代表的な浮世絵師

浮世絵師一覧

肉筆浮世絵


出典

1. 日本女性人名辞典 72ページ

2. 大正ニュース事典 第3巻 20ページ。なお日本美術院百年史・第3巻上では4人姉妹の長女としている。

3. 日本美術院百年史 3巻上・図版編 784ページ

4. 大正ニュース事典 第2巻 757ページ 「この日いつでも真先に買約を付ける博文館の大橋新太郎氏」が「買約済みの札を貼ったは『雨のあと』紺谷光俊氏(価格五十円)、『つやさん』樋口富麿氏(五十円)、『かえり路』池田蕉園女史(三百五十円)、『霜月十五日』河崎蘭香女史(二百五十円)」とあり、このほかにも幕内誠雲「秋景山水」に五十円、速水松琴「葉桜」に八十五円、伊藤少坡「製作の前」に百七十円、高島岑楓「涼気」に六十円の値がつけられた、と報じられている(時事新報・大正4年10月16日)。

5. 大正ニュース事典 第2巻 757ページ 「池田輝方、同蕉園両氏の絵の前に立った二人の若い婦人は・・・・『お二人ともどうしてこのように髪の線描きが似て居るのでせうね』『詰まりお名前が違つても、両方でお手伝いをなさるのよ』『まァ流石御夫婦は違ったものね』」(大正4年10月16日 時事新報)

6. 大正ニュース事典 第3巻 20ページ



参考文献

河北倫明 総監修 『日本美術院百年史 第3巻上・図版編』 日本美術院、1992年

千足伸行 監修 『すぐわかる女性画家の魅力』 東京美術 、2007年4月、ISBN 978-4-8087-0809-2

細野正信 監修 『日本絵画の楽しみ方 完全ガイド』 池田書店 、2007年12月、ISBN 978-4-2621-4526-6

・桃投伸二 「池田(榊原)蕉園・天分のみでなく努力でもない、情熱から生じた特殊な芸術」(美術誌『Bien(美庵)』Vol.47、特集「個性の時代にキラリと光る、女性ならではの視点とは? —松園、蕉園、成園—」、藝術出版社 、2008年春[1] ISBN 978-4-434-11631-5


辞典類

・大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ 出版事業部 『大正ニュース事典』 1、2、3巻、毎日コミュニケーションズ、1986-87年

・河北倫明監修 三輪英夫
佐藤道信
山梨絵美子 執筆 『日本近代美術事典』 講談社、1989年9月、ISBN 978-4-0620-3992-5

祖田浩一 監修 芳賀登
中嶌邦
一番ヶ瀬康子 『日本女性人名辞典 普及版』 日本図書センター 、1998年10月、ISBN 978-4-8205-7881-9

・『20世紀日本人名事典 あ~せ』 日外アソシエーツ 、2004年7月、ISBN 978-4-8169-1853-7


外部リンク

池田 蕉園:作家別作品リスト 青空文庫

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11005530039.html
658 間島冬道墓(台東区・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10681492866.html
353 泉鏡花墓(豊島区南池袋4丁目・雑司が谷霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10514752843.html
124 徳田秋声旧宅(文京区本郷6-6-9)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10825293703.html
496 高村光雲・光太郎・智恵子墓(豊島区駒込5-5-1・染井霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10594678941.html
259 鏑木清方墓(台東区・谷中霊園)


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2465 池田輝方墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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池田輝方 ( いけだ - てるかた )

明治 16年 ( 1883年 ) 1月 4日 - 大正 10年 ( 1921年 ) 5月 6日 ) は明治 大正 期の浮世絵師 日本画家 。本名・池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園 の夫。


生涯

明治 16年 ( 1883年 ) 1月 4日、東京市 京橋区 ( 現在の東京都 中央区 ) 木挽町で建具 職人・池田吉五郎の次男として誕生。


明治 28年 ( 1895年 ) に水野年方 内弟子 として入門。


明治 32年 ( 1899年 ) から一年余りを岡山 で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。


明治 35年 ( 1902年 ) に日本絵画協会 日本美術院 の共催による第 12回絵画共進会で「山王祭 」が、同 13回展では「婚礼」がともに 1等褒状を得、翌明治 36年 ( 1903年 ) の第 14回展では「江戸時代 猿若町 」が銅賞 3席となった。


他方、鏑木清方 らによって明治 34年 ( 1901年 ) に結成された烏合会 にも、結成直後から参加、明治 36年 ( 1903年 ) の同会の第 6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園 ( のちの池田蕉園 ) をモデルとした「墨染」を、第 8回展には「奥勤め」を出品した。


この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治 44年 ( 1911年 ) に結婚した。


この事件の顛末は田口掬汀 によって連載記事「絵具皿」として万朝報 に掲載され話題となる。


この間明治 40年 ( 1907年 ) には川合玉堂 に師事しており、風俗画 に特色を示している。


また、同年、浮世絵 に惹かれて来日していたフランス人 浮世絵師 ポール・ジャクレー 日本画 を教えている。


大正元年 ( 1912年 ) の第 6回文部省 美術展覧会 ( 文展 ) では「都の人」が褒状、大正 3年 ( 1914年 ) の第 8回展では「両国」で 3等賞、大正 4年 ( 1915年 ) の第 9回展では「木挽町の今昔」で 2等賞を受賞し、大正 5年 ( 1916年 ) の第 10回展では「夕立」( 山種美術館 蔵 ) で妻の蕉園とともに特賞を得た。


翌大正 6年 ( 1917年 ) には徳田秋声 の『誘惑』、小杉天外 の『七色珊瑚』の挿絵を蕉園と共作。


大正 8年 ( 1919年 ) の第 1回帝国美術院展 ( 帝展 ) では江戸時代の絵師・英一蝶 流刑 を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」( 島根県立石見美術館 ) が推薦出品とされ、浮世絵 の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。


同年石井林響 ( 1884 - 1932 )、山内多門 ( 1878 - 1932 ) と如水会を結成。


大正 10年 ( 1921年 ) 5月 6日没。墓所は台東区 谷中 谷中霊園


没後の大正 13年 ( 1924年 )、浮世絵 と同じ技法による新版画 「新浮世絵美人合 一月 かるた」が版行された。


代表作

・桜舟・紅葉狩図屏風 (松岡美術館 ) 絹本著色 明治45年(1912年

・夕立 (山種美術館 蔵) 大正5年(1916年

絵師多賀朝湖流さる 島根県立石見美術館 ) 絹本著色 六曲一双 大正8年(1919年

・若衆紅葉狩図 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵


関連項目

浮世絵#代表的な浮世絵師

浮世絵師一覧

肉筆浮世絵

新版画


参考文献

・近代日本美術事典 河北倫明 監修 三輪英夫
佐藤道信
山梨絵美子 執筆 講談社  1989年 ISBN 978-4-062-03992-5


外部リンク

池田 輝方:作家別作品リスト 青空文庫

(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11935262923.html

2464 池田蕉園墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)


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2466 清水彦五郎墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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清水彦五郎 ( しみず - ひこごろう )

( 1855 * ‐ 1913 )


明治時代の官僚。


嘉永 ( かえい ) 7年 11 月19日生まれ。


もと筑後 ( ちくご )( 福岡県 ) 柳河 ( やながわ ) 藩士。


藩の貢進生として開成学校に学ぶ。


明治 17年文部省に入り、のち帝国大学書記官兼舎監となる。


31年東京商業学校 ( 現一橋大 ) 校長に転じ、34年東京帝大書記官に帰任。


大正 2年 4月 15日死去。60歳。


夏目漱石に見合いをさせようとした人。


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2467 江崎岩吉墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)

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江崎 岩吉 ( えさき - いわきち )

1890年 12月 1日 - 1986年 1月 16日 )は、日本海軍 の軍人。最終階級は海軍技術中将


経歴

東京市 議・江崎礼二 の四男として東京 で生まれる。


東京府立第三中学校 第一高等学校 を経て、1916年 4月、海軍造船学生となり、1917年 7月、東京帝国大学 工科大学 ( 後の工学部 ) 造船学科 ( 後の船舶工学科 ) を卒業し、海軍造船中技士 ( 後の海軍造船・造機中尉 ) に任官し横須賀鎮守府 付となる。


呉工廠 付、同造船部副部員、造船監督官、艦政本部 員 ( 第 4部 )、イギリス 駐在などを経て、1923年 10月から 1926年 6月まで、グリニッジ海軍大学で学んだ。


艦政本部 ( 第 4部 )、横須賀工廠 造船部員、横須賀鎮守府付、艦政本部員 ( 第 3部 )、海軍技術研究所 出仕、兼艦政本部員 ( 第 4部 )、呉工廠造船実験部長、横須賀工廠造船部長などを歴任し、1940年 11月、海軍造船少将 に進級した。


艦政本部出仕 ( 第 4部 )、基本計画主任 ( 1941年 - 1943年 ) などを勤め、1942年 11月、海軍技術少将となる。


さらに、艦政本部第 4部長となり、1944年 5月、海軍技術中将に昇進。同年 10月、予備役 に編入された。


参考文献

秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会 、2005年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

・福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10996472730.html
649 江崎礼二墓(台東区・谷中霊園)


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でぶそば(横浜市栄区笠間2-6-7)

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相方が帝釈天近くの出身なもので「渥美清」さん関連の場所には行きたくなるようです( 笑 )。


何度の行こうと思っても行けなかった場所に、ようやく行って来ました。


この日は鎌倉霊園で「高倉 健」の墓所を探しても見つからず 意気消沈しながら向かいました。


大船駅から細い道を、10分ほど歩いて辿り着きました。(ただ道なりに歩いて)


渥美清さんがチョクチョクお食事をされていたそうです。


それも「寅さんセット」半チャーハン、半ラーメン、半シューマイの 3点セットで、1,130円。


昔、この御店の近所に『松竹・大船撮影所』が有り「男はつらいよ」はそこで撮影していたので、渥美清さんが好んで食していたそうです。


ラーメンは昔ながらの醤油ラーメンは懐かしい味、チャーハンは若干硬めの小生好み、シューマイはあっさり味でした。


餃子は、350円

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124d チャーハン ( 半 )
124e ラーメン ( 半 )
124f シューマイ ( 半 )
124g 餃子 ( 1人前 350円 )

2468 佐藤一斎之碑(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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佐藤 一斎 ( さとう - いっさい )

安永 元年 10月 20日 ( 1772年 11月 14日 ) - 安政 6年 9月 24日 ( 1859年 10月 19日 )) は、美濃国 岩村藩 出身の著名な儒学者 は担。通称 は捨蔵。字を大道。 は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。


生涯

安永元年 10月 20日 ( 1772年 11月 14日 )、岩村藩 家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町 ( 中央区日本橋浜町 ) の藩邸下屋敷内で生まれた。


寛政 2年 ( 1790年 ) より岩村藩に仕えた。


12、3歳の頃、井上四明 の門に入り、長じて大坂に遊学、中井竹山 に学んだ。


寛政 5年 ( 1793年 ) に、藩主・松平乗薀 ( のりもり ) の三男・乗衡 ( のりひら ) が、公儀 儒官である林家 に養子として迎えられ、当主 ( 大学頭 ) として林述斎 と名乗った。


一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所 に入門する。


文化 2年 ( 1805年 ) には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。


儒学 の大成者として公に認められ、天保 12年 ( 1841年 ) に述斎が没したため、昌平黌の儒官 ( 総長 ) を命じられ、広く崇められた。


当然、朱子学 が専門だが、その広い見識は陽明学 まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。


門下生は 3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷 佐久間象山 渡辺崋山 横井小楠 等、いずれも幕末に活躍した人材たちがいる。同門の友人には 崎慊堂 がいる。将軍侍医の本宗春院 とは極めて親しかった。


また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄 」では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山 を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々 ( 特に明治 以降 ) 「言行不一致」と批判される事となった。


安政元年 ( 1854年 ) の、日米和親条約 の締結交渉では、大学頭・林復斎 ( 述斎の六男 ) を補佐している。


安政 6年 9月 24日 ( 1859年 10月 19日 )、88歳で死去した。


著書


志四録 :一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録。指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛 の終生の愛読書だった、今日まで長く読み継がれている。

   ・『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』の4書の総称である。


以下は一斎の言葉として有名な「三学戒」で、『言志晩録』第 60条としてある。

   2001年 ( 平成 13年 ) 5月 に総理大臣に就いて間もない小泉純一郎 が、議院 での「教育関連法案」審議中に、言志四録について述べ、知名度が上がった。

「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

重職心得箇条 :一斎が、重役としてあるべき心構えを聖徳太子 十七条憲法 に擬して十七箇条に書き記したもの。


関連人物

吉田茂 - 一斎の孫娘・士子 ( ことこ ) が養母。

佐藤方政 - 岩村藩の佐藤家は、方政の子孫という。

田口卯吉 - 一斎の曾孫 ( 長男・慎左衛門の孫 )。

木村鐙子 - 曾孫で一斎が命名した。後に明治女学校 の取締になるが病没。


参考文献

・『佐藤一斎全集』(全14巻) 明徳出版社 (1991年-2003年、※第10巻のみ2010年に刊)

・『言志四録(一)言志録』川上正光 全訳注、講談社 講談社学術文庫 274〉、1979年1月、ISBN 4-06-158274-7

・『言志四録(二)言志後録』川上正光 全訳注、講談社 講談社学術文庫 275〉、1979年3月、ISBN 4-06-158275-5

・『言志四録(三)言志晩録』川上正光 全訳注、講談社 講談社学術文庫 276〉、1980年1月、ISBN 4-06-158276-3

・『言志四録(四)言志耋録』川上正光 全訳注、講談社 講談社学術文庫 277〉、1981年12月、ISBN 4-06-158277-1

西郷隆盛  『西郷南洲遺訓  附 手抄言志録 及遺文』山田済斎 編、岩波書店 〈岩波文庫〉、初刊1939年2月、ISBN 4-00-331011-X 。〈ワイド版〉岩波文庫、2006年1月、ISBN 4-00-007265-X

   ・『言志四録 』から西郷隆盛が101条を選んだ「手抄言志録 」を収録。69頁に佐藤一齋略傳を収録。


外部リンク


誠之館人物誌 「佐藤一斎」 儒家

言志録・言志後録・言志晩録・言志耋録 / 佐藤一斎著,文魁堂,明31年10月 近代デジタルライブラリー

佐藤 一斎:作家別作品リスト 青空文庫

佐藤一齋 : 傳習錄欄外書 (3冊)

NPO法人佐いわむら一斎塾

(wikiより)


2468 佐藤一斎 佐藤 一斎
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2469 松本良甫墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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松本 良甫 ( まつもと - りょうほ、文化 3年 ( 1806年 ) - 明治 10年 ( 1877年 ) 2月 6日 ) は、幕末 から明治 初期の蘭方医師


祖父は幕府奥医師の松本善甫、父は町医師の松本良甫。松本良順 の養父。


生涯

幕府奥医師であった祖父・善甫が天明 6年 ( 1786年 ) 改易され、以来民間にあったが、弘化 3年 ( 1846年 ) 8月 3日、再び幕府に召出され 60年ぶり松本家 再興、家禄 100俵を与えられ小普請医師となる。


嘉永 2年 ( 1849年 ) 12月 16日、寄合医師に進む。


安政 5年 ( 1858年 ) 大槻俊斎ら江戸在住の有力蘭方医 83名による、お玉が池種痘 所設立に醵金・参画する。


同年 10月 16日、伊東玄朴 の上申により、吉田収庵とともに奥詰医師に進み製薬所掛となる。


同日、転科を許され本道 ( 内科 ) となる。( 松本家は代々口科 ( 歯科 ) を業としていた )。


文久 3年 ( 1863年 ) 11月 9日、奥医師に進む。


文久 4年 ( 1864年 ) 2月 18日、法眼に叙せられる。松本家の墓所は芝伊皿子・大円寺であったが、谷中霊園に移されている。

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10558920454.html
207 今戸焼と沖田総司終焉の地碑(松本良順邸跡)〔台東区今戸・今戸神社〕


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11004541077.html
657 佐藤尚中墓(台東区・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11295396503.html
1058 二代目・松本善甫墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11299678390.html
1071 三代目・松本善甫墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11301222000.html
1086 二代目・松本良甫墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10555239527.html
200 佐藤泰然墓(台東区・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10537062596.html
158 お玉ヶ池種痘所跡(千代田区岩本町2-7-11加島ビル横)


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2470 新田俊純墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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新田 俊純 ( にった - としずみ、明治維新 以前は岩松 俊純 ( いわまつ - としずみ )、文政 12年 6月 8日 ( 1829年 7月 8日 ) - 明治 27年 ( 1894年 ) 3月 15日 ) は、江戸時代 交代寄合 旗本 岩松氏 の当主。


概要

上野国 新田郡 下田嶋領主・岩松道純 の長男 ( 正室腹 )。母は中山主馬信泰 の二女。 正室は関千代子 ( 関播磨守盛泰 の娘 )、子は新田忠純 ( 次男 ) ら。


幼名は智丸、通称は満次郎または兵部、主税。字を三俊、号を養山、また積翠、信天翁。官位は従四位 ( 新政府 ) 男爵


経歴

天保 14年 11月 15日 ( 1844年 1月 4日 )、元服。


安政 元年 12月 27日 ( 1855年 2月 13日 )、家督相続 (「紹襲侯班」とある )。


幕府瓦解時には王臣として朝廷に恭順し、慶応 4年 5月 8日 ( 1868年 6月 27日 )、朝臣となり、同年 10月 9日 ( 11月 22日 )、中大夫拝命。


明治 4年 ( 1871年 )、他の旧高家衆・旧交代寄合 ( 一部高禄の領主は立藩し華族 となる ) と共に士族 ( 新田家は岩鼻県 貫属士族を経て群馬県士族 ) となる。


明治 16年 ( 1883年 ) 8月 13日 、華族に列し、同年 9月 14日 、従五位。明治 17年 ( 1884年 ) 7月 7日 、男爵となる。


新田氏嫡流争い

当初よりそうであったが、明治維新の後、更に新政府に対して自らが新田義貞 の嫡流であることを強く主張。


幕府高家衆であった由良家 とその分家の横瀬家 ( 横瀬は由良の旧姓 ) の当主・新田貞靖 ( 由良貞靖 )、新田貞時 ( 由良貞時 )、横瀬貞固 横瀬貞篤 と反目。


しかし維新以後は共に新田氏の顕彰に努めたことが、群馬県社新田神社 、別格官幣社藤島神社 の創建につながり、記録に残っている。幕府の手前、江戸時代も本姓を「岩松」としながらも新田姓への執着があり、しばしば「新田満次郎」を名乗ったり書状に署名した。


明治元年 ( 1868年 )、新政府に届けて正式に「新田姓」を称した。男爵となったのは長女・武子が維新の功労者・井上馨 の室となったからだという世評がある。


たしかに、新田氏 正嫡論は甲乙つけがたく、当岩松系新田家と由良系新田氏とは共に家系が判然としないこともあって難航した。


一般士族が旧幕時代の官位を返上させられた後も、当初貞靖・貞時父子が維新以後それぞれ従四位 ( 元は従四位上侍従兼播磨守 )、従五位 ( 元は従五位下侍従兼信濃守 ) を保持し優勢だったのに比べて、俊純は無位無官であった。


由良系新田氏の当主がその後も新田貞善 新田貞觀 と四代にわたって早世したこともあり、当初不利だった岩松系新田家が優勢となり、受爵に結びついた。


明治 27年 ( 1894年 ) 3月 15日逝去。享年 66没。葬儀は東京で執り行われ谷中・天王寺に埋葬、「慈光院殿無染因浄俊純大居士」と諡号された。


後継者は次男の忠純となり、男爵 を賜った ( 旧岩松誠丸 )。


縁切り駆け込み

拝領屋敷地の近くにある縁切寺 として有名な満徳寺 と同様、岩松家でも縁切りを願う女の駆け込みを ( 非公式にだが ) 受け付けていた。


夫との離縁を願う女が屋敷に駆け込んだ時は、その女を留め置いて家来を女の国元へ派遣する。幕府交代寄合旗本である家柄の威光もあって、そうすることで夫との間に早期に内済で離縁を成立させることができた。 離縁が成立すると女方の実家から「土産金」という謝礼金を受理していた。


岩松家当主の日記と、離縁の取り決めがなされた際に書かれた証文により、安政 2年 ( 1855年 ) より 14件の縁切り駆け込みがあった事が確認される。


この証文には、女を留置したのはやむを得ない仕儀であった事、離縁の成立は夫婦の間の取り決めであって岩松家には一切関わりがないという事等をしたためさせた。


縁切りを願う女の駆け込みは以前からあったが、その時は女の親類や村役人を屋敷に呼び出し連れ戻させるという処置を取っていた。縁切りの斡旋を行うようになったのは、残されている記録によれば俊純の代からである。


呪術師としての役割

岩松家では、岩松義寄 の代からネズミ除けに効果があるという猫の絵を何枚も描き、それを求める人々に下付した。他にも「疫神除札」( えきじんよけ ふだ ) と呼ばれる疫病除けの札を大量に発行したり、狐憑き 封じの効能があるという草履を下付したりしており、また顔を面拝すると狂人の気が直る効能があるとも言われた。


狐憑き封じでは、岩松徳純 の時代では草履の下付が主であったが、俊純の代では四足退散の札を発行しており、衣服の切れの貰い下げも行っている。


さらに、疱瘡 封じのまじないとして俊純は小児を踏むという呪術も行っていた。


参考文献

落合延孝 『猫絵の殿様―領主のフォークロア』吉川弘文館 、1996年。ISBN 4-642074-88-0

高木侃 『三くだり半と縁切寺―江戸の離婚を読みなおす』講談社現代新書 、1992年。ISBN 4-061490-92-3

高木侃『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』平凡社ライブラリー 、1999年。ISBN 4-582762-96-4

深谷克己 『江戸時代の身分願望―身上りと上下無し』吉川弘文館、2006年。ISBN 4-642056-20-3

(wikiより)


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三笑亭夢丸さん中いん頭がんのため死去、69歳

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落語家、三笑亭夢丸(本名・坂田宏=さかた・ひろし)さんが7日午前5時40分、中いん頭がんのため東京都内の病院で死去したことが分かった。69歳だった。


落語芸術協会がファクスで発表した。


2010年に発症した中いん頭がんの治療を行い寛解し復帰したが、14年3月、のどの不調から再度治療を受け療養中だった。


● 三笑亭夢丸
三笑亭 夢丸 ( さんしょうてい - ゆめまる )

1945年 ( 昭和 20年〉10月 4日 - 2015年 3月 7日 ) は、落語芸術協会所属の落語家。同協会理事。本名、坂田 宏 ( さかた - ひろし )。


神奈川県横浜市出身。横浜市立金沢高等学校卒業。身長172cm。血液型はA型。出囃子は『元禄花見踊』。


芸歴
1964年 ( 昭和 39年 ) 4月 - 三笑亭夢楽に入門。夢八を名乗る。


1967年 ( 昭和 42年 ) 8月 - 二ツ目に昇進。夢丸と改名。


1969年 ( 昭和 44年) 11月 9日 - 日本テレビ『笑点』の座布団運びを翌年 6月 14日まで務める。


この時期の『笑点』はチーム対抗制で、夢丸は 2代目三遊亭歌奴 ( 現:3代目三遊亭圓歌 ) チームの担当だった。ちなみに、4代目三遊亭金馬チームの担当は三遊亭笑遊 ( 現:5代目三遊亭圓遊 ) だった。1


978年 ( 昭和 53年 ) 4月 - 真打昇進。夢丸と改名。


2010年 ( 平成 22年 ) 春 - 右の鼻に違和感を覚え病院の検査で中咽頭癌であることが判明、以降再発・転移を繰り返し、体調に考慮しながら高座に専念していた[1]。

2015年 ( 平成 27年 ) 春 - 弟子の三笑亭夢吉の真打昇進に伴い、夢吉に夢丸の名前を譲ることを発表[2]。


笑福亭鶴光のTwitterによると、自身は再び夢八を名乗るそうである[3]。


2015年 ( 平成 27年 ) 3月 7日、中咽頭癌のため逝去[4]。69歳没。


人物

『ルックルックこんにちは』(日本テレビ)のリポーターを29年間務め、同番組では国内外を問わず3,000か所以上を取材した。


自主的にテレビ出演を控えるようになってからは、江戸を舞台にした古典題材の落語台本を一般公募し、優秀作を「夢丸新江戸噺」として高座にかけている。台本の公募は2001年から2011年まで続けられ、懸賞金は夢丸自身が用意していた。


CD
『えんぜる~夢丸新江戸噺』(ワザオギ)
全5枚セット(WZCR-77001)1枚目 「えんぜる」「夢の破片」2枚目 「小桜」「椿の喧嘩」3枚目 「太公望」「こころもち」4枚目 「昼神様」「ちぎり」5枚目 「いろがたき」「蛙の子」


書籍

『えんぜる―夢丸新江戸噺』(水曜社)
同名のCDと同じ演目を収録著:三笑亭夢丸、編集:大友浩

主な出演番組

テレビ番組
連想ゲーム(NHK)
笑点(日本テレビ)
ルックルックこんにちは(日本テレビ)
11PM(読売テレビ)
3時のあなた(フジテレビ)
ザ・ガマン(フジテレビ)
がまかつ 日本列島釣りある記(テレビ朝日)
アフタヌーンショー(テレビ朝日)
フィッシング・ナウ(独立UHF局などのローカル局)


ラジオ番組マット安川のスーパーフライデー(2010年2月12日、ラジオ日本) - ゲスト


弟子

真打

三笑亭夢花
3代目東生亭世楽


二ツ目
三笑亭朝夢
三笑亭夢吉


関連項目
落語芸術協会
三笑亭夢楽


外部リンク
三笑亭夢丸ホームページ

(社)落語芸術協会によるプロフィールページ


脚注

1. 何度がんになっても諦めない 探せば必ず出会いがある | がんサポート
2. 一月一日(木)|【垂れ流し日常報告】
3. 鶴光でおま(@turuturu04)さん | Twitter
4. 落語家の三笑亭夢丸さん死去 「ルックルック」など出演 朝日新聞 2015年3月7日閲覧
(wikiより)


yumemaru 合掌。
1 生前墓記事だったのに・・・

2471 木村敬弘墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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木村敬弘は明治 5年 ( 1872 ) に没。


総三義兄。てる之兄。


右から、木村敬弘墓。


相楽総三の墓。


左真ん中が、木村家の墓。


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2472 安藤庄太郎君之碑(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)

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安藤 庄太郎 ( あんどう - しょうたろう )

安政 4年 10月 ~ 明治 44年 3月 23日 ( 1857 - 1911)


土木請負業「安藤組」創業者。


父、惣六 ( 長男 )。母、佐藤氏。岐阜県稲葉郡長良村出身。


家業は農業であったが、少年に時期に東京神田で瓦業をしていた叔父を頼って上京。


叔父の元で働くが、煉瓦建築の時代が到来すると見越して、明治 6年 ( 1873 ) 16歳で独立し神田松枝町に煉瓦建築業「安藤方」を創業。


明治 44年 ( 1911 )1月合名会社安藤組に改組。


直後に没する。


没後の大正 7年 ( 1918 ) 株式会社に改組。55歳没。


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2473 井上毅墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)

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井上 毅 ( いのうえ - こわし )

天保 14年 12月 18日 1844年 2月 6日 〉 - 明治 28年〈 1895年 3月 15日 ) は、日本の武士 官僚 政治家 である。子爵 法制局長官 文部大臣 などを歴任する。


概説

肥後国 熊本藩 家老長岡監物 の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎 の養子になる。必由堂 時習館 で学び、江戸 や長崎へ遊学。


明治維新後には開成学校 で学ぶ。翌年に明治政府の司法省 に仕官、西欧視察におもむく ( 1872 - 73年 )。帰国後に大久保利通 に登用され、その死後は岩倉具視 に重用される。明治十四年の政変 では岩倉具視、伊藤博文 派に属する。


安定政権を作れる政府党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制 を導入することの不可を説いて、ドイツ 式の国家体制樹立を説き、国学 等にも通じ、伊藤とともに大日本帝国憲法 皇室典範 教育勅語 軍人勅諭 などの起草に参加した。

枢密顧問官 第 2次伊藤内閣 文部大臣 を歴任。


生涯

肥後国 本藩 家老 長岡監物 の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。熊本藩家老である米田家の家塾・必由堂 、ついで熊本藩の藩校 時習館 で学び、江戸 や長崎へ遊学し、明治 3年 ( 1870年 ) には貢進生 として開成学校 で学ぶ。


翌年に明治政府の司法省 に仕官し、フランス語 ができたため司法省の西欧使節団 ( 8人 ) の一員として明治 5年 ( 1872年 ) に渡欧、フランス 中心に司法制度の調査研究を行った。


翌年の帰国後に大久保利通 に登用される。大久保の死後は岩倉具視 のブレーンとして活躍、太政官 大書記官 を務める。


明治 9年 ( 1876年 ) に記した『憲法意見控』では、これから制定する憲法は聖徳太子 十七条憲法 とは異なるものとし、欧米諸国の法制度だけを問題視していたが、のちに小野梓 の『国憲汎論 』に触発され、政治のための国典研究の必要性に目覚め、国文学者 小中村清矩 落合直文 増田于信 らと交わり、小中村義象 を助手として、『古事記 』、『日本書紀 』以下の六国史 、『令義解 』、『古語拾遺 』、『万葉集 』、『類聚国史 』、『延喜式 』、『職原鈔 』、『大日本史 』、『新論 』などを研究する。


明治 14年 ( 1881年 )、有栖川宮熾仁親王 の求めに応じ大隈重信 矢野文雄 が憲法意見書を提出した際、岩倉から意見を求められるやいなや、福澤諭吉 の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、英国に範をとる憲法制度に反対した。


同年 6月に外務省雇の法律顧問、ロエスレル の協力を得て、『欽定憲法考』、『憲法意見第一』、『憲法綱領』などの調査書類を提出。漸進主義とプロイセン 型国家構想を主張した。


6月 30日、伊藤博文 を訪ね大隈排斥を提案するが説得できず、その後も書を送って憲法草案の大任にあたるよう懇請、伊藤の決心を促すため、この大事が他人の手に渡るならば自分は熊本に帰るまで、と述べる。その後、大隈排斥の多数派工作のため、宮島 で療養中の井上馨 を訪ね、彼を大隈排斥とプロイセン型憲法の早期制定論者へと豹変させ、伊藤への説得を依頼する。


続いて薩摩閥 松方正義 の説得に成功、黒田清隆 西郷従道 ら薩摩派への工作を依頼する。この間、7月 5日には岩倉の名で井上の憲法意見書が上奏されている。


開拓使官有物払い下げ事件 が報道されると、大隈・福澤らを政府内から排撃するため、大隈陰謀説の流布に加担し、結果として大隈と彼に属する官僚の罷免につながる ( 明治十四年の政変 )。


9月には伊藤博文から内閣制度改革案の起草され関係を修復した。

その後、伊藤博文のブレーンとして活躍し、明治 15年 ( 1882年 ) に発布されることになる軍人勅諭 の起草に関わる。さらに伊藤博文のもとで、伊東巳代治 金子堅太郎 らと大日本帝国憲法 の起草に参加、また皇室典範 の起草にも関わる。


明治 19年 ( 1886年 ) 末から明治 20年 ( 1887年 ) 初めにかけて、小中村義象を随伴して相模 房総 を訪ねた際、鹿野山 登山中に小中村の示唆から『古事記』における「シラス」と「ウシハク」の区別に着目、のちに「シラス」の統治理念を研究する。


ボアソナード との会見で、外務大臣 ・井上馨の不平等条約改正 が、治外法権 撤廃の代わりに外国人被告の裁判には外国人裁判官を半数以上任用することを条件としていると知り、これが日本の立法権・司法権の独立を侵すものであるとして反発を覚える。条約改正外交への国民の反発から民情不安が醸成され、明治 20年 ( 1887年 ) 12月に山縣有朋 の提案で伊藤が保安条例 による強権発動におよび、憲法制定のため努力したとしても政府と国会の衝突が不可避であり、憲法が空文化するとして辞表を提出する。これは憲法草案作成中の第 1次伊藤内閣を危機にさらすこととなったため、伊藤は慰留に努めたこの条約改正問題は井上馨が辞職することで決着となる。


明治 23年 ( 1890年 ) には枢密顧問官 となり、明治 26年 ( 1893年 ) 発足の第 2次伊藤内閣 においては文部大臣 を務める。


評価

保守的で中央集権国家の確立に尽力して政党政治 に強く反対した井上ではあったが、法治国家 立憲主義 の原則を重んじて、その原則で保障された国民の権利は国家といえども正当な法的根拠がない限り奪うことが出来ないと考えていた。そのため、これらを否定するような反動的な主張に対しては毅然とした態度で立ち向かったという。また、超然主義 に対しても行き過ぎた議会軽視であると批判的であり、法制局長官としては議会に有利な判断を下すことも多かったとされている。


中江兆民 は遺著「一年有半」の中で井上と白根専一 を「真面目で横着ではなく、ずうずうしいところのない」と評して敵対者ながらその人物を高く評価している。


伊藤博文と井上毅

伊藤博文は徳大寺実則 あての書簡で井上を「忠実無二の者」と評し、宮中保守派との対決のために自ら宮内卿 を兼ねた際にも自分の側近から井上だけを図書頭 として宮内省入りさせるなど能力を高く買い信頼もしていた。


だが一方で自分の信念に忠実な余り過激な振る舞いに出ることがあり、明治十四年の政変の際には井上が勝手に岩倉具視に対してドイツ式の国家建設を説いてこれを政府の方針として決定させようとした事を知った伊藤は井上に向かって「書記官輩之関係不可然」と罵倒 ( 1881年 7月 5日付岩倉具視宛井上書簡 ) している。


また後年、井上馨 条約改正 案に反対していた井上がボアソナード による反対意見書を各方面の反対派に伝えて条約改正反対運動を煽ったために第 1次伊藤内閣 そのものが危機に晒されるなど、伊藤は井上によるスタンドプレーに悩まされることもあった。


教育勅語への関与

1890年 ( 明治 23年 ) 10月 30日に発表された教育勅語は、山縣内閣のもとで起草された。その直接の契機は、山縣有朋・内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年 2月 26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。


また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚・文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦した。


これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。


この中村原案について、山県が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。


井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。


一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年 ( 明治 12年 ) には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。


元田は熊本藩の藩校時習館の同窓 ( 先輩 ) である。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。


1890年 ( 明治 23年 ) 10月 30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。


来歴

・参事院議官 任官

・内閣書記官長 兼任

1883年 ( 明治 16年 ) 7月 16日 - 内閣書記官長 免官[1]

・図書頭 任官

1885年 ( 明治 18年 ) 12月 28日 - 臨時官制審査委員長 仰付[2]

1888年 ( 明治 21年 ) 2月 7日 - 法制局長官 ( 勅任官 一等 ) 任官、賜下級俸[3]

・枢密院書記官長 兼任

1889年 ( 明治 22年 ) 5月 10日 - 枢密院書記官長 免官[4]

・1889年 ( 明治 22年 ) 10月 14日 - 臨時帝国議会事務局総裁(勅任官一等) 兼任[5]

1890年 ( 明治 23年 ) 1月 28日 - 賜上級俸[6]

・1890年 ( 明治 23年 ) 7月 19日 - 枢密顧問官 兼任[7]

・臨時帝国議会事務局総裁 免官

・1890年 ( 明治 23年 ) 12月 2日 - 文事秘書官長 ( 勅任官一等 ) 兼任[8]

1891年 ( 明治 24年 ) 5月 8日 - 法制局長官 依願免官[9]

・1891年 ( 明治 24年 ) 6月 1日 - 文事秘書官長(勅任官一等) 兼任[10]

1893年 ( 明治 26年 ) 3月 7日 - 文部大臣 任官、文事秘書官長 免官[11]

1894年 ( 明治 27年 ) 8月 29日 - 文部大臣 依願免官[12]


「栄典」、「系譜」、「著作」、単著」、訳書」、「脚注」、「関連文献」、「関連項目」、「外部リンク」については、『井上毅ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AF%85

(wikiより)


2473 井上毅 井上 毅
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2474 大久保主水墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)

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名は忠行、または藤五郎と称す。


三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。


一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以後、家康に菓子を献じたという。


天正十八年 ( 1590 ) 家康は江戸に入り町づくりを始める。


用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。


これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。


この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。


以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めた。


なお、墓の近くにある八角形の井戸は、天保六年 ( 1835 ) 十代目・忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。


元和三年(1617)没。
(案内板より)


● 大久保主水

大久保 忠行 ( おおくぼ - ただゆき )

生年不詳 - 元和 3年 7月 6日 ( 1617年
8月 7日 )) は戦国時代 から江戸時代 の武士、治水 家。


宇津忠茂 の五男。大久保忠俊 大久保忠員 の弟。妻は遠山氏 の娘・伊可。通称は藤五郎、主水 ( もんと )。


三河国 上和田の武士。徳川家康 に仕え、永禄 3年 ( 1560年 ) に三河国宝飯郡 赤坂郷で領地 300石を与えられる[1]


永禄 6年 ( 1563年 )、三河一向一揆 に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。


これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に住んだ。


何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子類の制作ができ、この技術により家康の陣営に茶菓 ( 餅 ) を献上する役目、いわゆる菓子司となった。


忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた、また家康は毒殺を恐れて餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信じて食べていた[2] 、などの話が残る。


三方ヶ原の戦い の際には従軍する代わりに、出陣に際し六種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった[3]


天正 18年 ( 1590年 ) 7月 12日、江戸城下の上水工事の命を受ける[4]


その後、約 3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の神田上水 の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた[5]


元和 3年 ( 1617年 ) 7月 6日死去。墓所は東京都台東区 谷中 瑞輪寺 、戒名は清浄院蓮来日富。実子は無く、甥の忠元 ( 兄の忠員の子 ) を養子とした[6]


主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。


幕末の大久保主水は徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を旧幕臣の重鎮で同族の大久保一翁 の子息の嫁としている。


大正 13年 ( 1924年 ) 2月、贈従五位 [7]


脚注

1. 阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 316頁

2. 『大日本人名辭書』経済雑誌社、1896年 443-444頁

3. 『下谷区史』下谷区、1935年 1202頁

4. 「天正日記」

5. 朝日日本歴史人物事典

6. 阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 318頁

7. 『贈位諸賢伝』第1巻 国友社、1927年 199頁



参考文献

河原芳嗣『江戸の旗本たち -墓碑銘をたずねて-』 アグネ技術センター、1997年 2-7頁


外部リンク

大久保藤五郎と三河餅 虎屋 ホームページ内)

(wikiより)


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2475 瑞光石(荒川区南千住6-60-1・素盞雄神社)

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● 瑞光石 ( ずいこうせき )

御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を「瑞光石」と言います。
 
文政 12年 ( 1829 ) 編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川 ( 現隅田川 ) まで延びていた為に橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 
この小塚から「小塚原」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をも窺うことができます。
 
尚、現在の周辺小学校の名称に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因むものです。
 
元治元年 ( 1864 ) には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。

(案内板より)


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2476 徳川慶喜墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

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徳川 慶喜 ( とくがわ - よしのぶ ) は、江戸幕府 第 15代征夷大将軍 ( 在職:慶応 3年 ( 1867年 ) ‐ 慶応 4年 ( 1868年 ))。江戸幕府最後の将軍であり、歴史上征夷大将軍に任じられた最後の人物。


御三卿 一橋徳川家 の第 9代当主として将軍後見職 禁裏御守衛総督 など要職を務めた後に徳川宗家 を相続、第1 5代将軍に就任。政奉還 新政府軍 への江戸開城 を行なった。明治維新 後に従一位 勲一等 公爵 貴族院議員


生涯


幼年期

天保 8年 ( 1837年 ) 9月 29日 江戸 ・小石川の水戸藩 邸にて第 9代藩主・徳川斉昭 の七男として生まれた[1] 。 母は正室・吉子女王 [2] 。幼名は七郎麻呂 ( しちろうまろ )[3]


慶喜は、2代目藩主・光圀に感化され、嫡子以外の男子は国許 ( 水戸 ) で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保 9年( 1838年 ) 4月 ( 生後 7ヶ月 ) に江戸から水戸に移り、弘化 4年 ( 1847年 ) 8月幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。


この間、天保 12年弘道館 が開館し、会沢正志斎 らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤 の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。


一橋家相続

弘化 4年 ( 1847年 ) 8月 1日 、老中・阿部正弘 から水戸藩に七郎麻呂 ( 当時は松平昭致 ) を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第 12代将軍・徳川家慶 の思召 ( 意向 ) が伝えられる。これを受けて七郎麻呂は 8月 15日に水戸を発ち、9月 1日に一橋家を相続。12月 1日 に家慶から偏諱 を賜わり慶喜と名乗る。

家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘の諫言を受けて断念している。


将軍継嗣問題

嘉永 6年 ( 1853年 )、黒船来航 の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第 13代将軍・徳川家定 は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題 が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩 主・島津斉彬 一橋派 と、紀州藩 徳川慶福 を推す彦根藩 主・井伊直弼 や家定の生母・本寿院 を初めとする大奥 南紀派 が対立した。


一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政 5年 ( 1858年 ) に大老 となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福 ( 家茂 ) と決した。


同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約 を調印。慶喜は斉昭、福井藩 主・松平慶永 らと共に登城し直弼を詰問するが、翌・安政 6年 ( 1859年 ) に隠居謹慎処分となる ( 安政の大獄 )。この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や慶永と違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。


なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている[4]


将軍後見職


安政 7年 ( 1860年 ) 3月 3日 桜田門外の変 における井伊直弼の死を受け、万延 元年 ( 1860年 ) 9月 4日 に謹慎を解除された。


文久 2年 ( 1862年 )、島津久光 と勅使・大原重徳 が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月 6日、慶喜を軍後見職 に、松平春嶽 政事総裁職 に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革 と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職 の設置、参勤交代 の緩和などを行った。


文久 3年 ( 1863年 )、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂 が将軍としては 230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛、将軍の名代として朝廷 との交渉にあたった。


慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。


春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、孝明天皇が石清水八幡宮 へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から節刀 を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」( 仮病 ) と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。



江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港 の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変 長州藩 を中心とする尊皇攘夷派 が排斥されたのち、公武合体 派諸候・幕閣による参預会議 に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。


薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王 らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城 、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。


禁裏御守衛総督


参預会議解体後の元治元年 ( 1864年 ) 3月 25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ
禁裏御守衛総督 に就任した。


以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎 ら水戸藩執行部や池田慶徳 池田茂政 ( 鳥取藩 主・岡山藩 主。いずれも水戸家出身で、慶喜とは兄弟 ) らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克 ( 川越藩 主 ) と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱 への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する[5]


同年 7月に起こった禁門の変 においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した ( 歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ )。


これを画期として慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩 桑名藩 らとの提携が本格化することとなる ( 一会桑体制 ) [6] 。また老中 本庄宗秀 阿部正外 が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。


それに続く第一次長州征伐 が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約 の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功した ( ただし、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された )。


将軍職


慶応 2年 ( 1866年 ) の第二次長州征伐 では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟 を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月 20日 、将軍・家茂が大坂城 で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。



家茂の後継として、老中の板倉勝静 小笠原長行 は江戸の異論[7] を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月 20日 徳川宗家 は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月 5日 に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[8] 。 この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった[9]



慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した[10] 。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順 ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革 を推進した。


慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュ を通じてフランスから 240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所 や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネ を始めとする軍事顧問 団を招いて軍制改革を行った。


老中の月番制を廃止し、陸軍総裁 海軍総裁 ・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武をパリ万国博覧会 に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議 を解散に追い込んだ。


薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応 3年 ( 1867年 ) 10月 14日 、政権返上を明治天皇 に上奏し、翌日勅許された ( 大政奉還 )。


従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており[11] 、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。


詳細は「大政奉還 」を参照


「戊辰戦争」、「余生」、「年譜」、「人物」、「逸話」、「家庭・親族」、「慶喜を主題とした作品」、「脚注」、「参考文献」、「関連項目」については、『徳川慶喜ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

(wikiより)


2476 徳川慶喜 徳川 慶喜
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