Quantcast
Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
Viewing all 3950 articles
Browse latest View live

2440 新井忠雄墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

新井 忠雄 ( あらい - ただお )

天保 6年 2月 7日 ( 1835年 3月 5日 ) - 明治 24年 ( 1891年 ) 2月 15日 ) は、新選組 隊士。諸士調役兼監察、撃剣師範。


人物

陸奥国 磐城平藩 出身。


母方の新井家を継ぐ。


18歳より江戸 で生活し、元治 元年 ( 1864年 )、31歳で新選組に入隊。


大酒飲みだったといわれ、慶応 2年 ( 1866年 ) 9月の三条制札事件 の際にも、大量の酒を飲んだ後で、泥酔状態のまま現場へ向かって戦闘に及んだという。


慶応 3年 ( 1867年 )、伊東甲子太郎 らと共に新選組を離脱して御陵衛士 を結成。


油小路事件 で御陵衛士が崩壊すると、薩摩藩 邸に逃げ込んで、戊辰戦争 では新政府軍に所属した。


維新後、司法省 官吏として明治政府 に出仕した。


明治 24年 ( 1891年 )、死去。享年 57歳。

(wikiより)


墓標は「従六位勲五等 新井一業 妻小静之墓 正5位 安藤信勇書」。酒好きだったので、墓の前は杯と徳利になっている。


2440a
2440b







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。


2441 相馬大作招魂碑(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

相馬大作 / 下斗米大作

( 寛政元年 ~ 文政 5年 8月 29日 ( 1789 - 1822 )

津軽藩の転覆を計った南部藩士。


盛岡藩二戸郡福岡村 ( 二戸市 ) 出身。


本名、下斗米秀之進 ( しもどまい - ひでのしん )。別名、下斗米大作 ( しもとまい - だいさく )。


文化 3年 ( 1806 ) 18歳で江戸に出て武術を夏目長右衛門に師事、兵法武術を紀州藩士・平山行蔵に師事し四傑の一人となった。


その後、郷里福岡で講武場兵聖閣を設立し、武術指導を始めた。


盛岡藩主・利敬 ( としたか ) が早死にし 14歳の利用 ( としもち ) が継いだが地位が無冠。


一方、家臣筋の津軽寧親 ( つがる - やすちか ) は従四位下 ( じゅしいのげ ) となったのに不満を持ち、文政 4年 ( 1821 ) 相馬大作が秋田藩白沢 ( 大館市 ) で津軽寧親に隠居勧告文を突きつけ、矢立峠で襲撃しようと計画したが、事前に発覚するという狙撃未遂事件 ( 相馬大作事件 ) を起こした。


江戸に逃げ、実用流剣術指南相馬大作の名で武術指導をしていたが、津軽藩の追っ手に捕らえられ、小塚原において死罪となった。34歳。


これが芝居になり評判をとった歌舞伎の初代・市川右団次 ( 1843 - 1916 ) が、明治 15年 ( 1882 ) 2月魂碑建立。


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10508933204.html
107 相馬大作供養碑(小塚原回向院・南千住)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11611294325.html
1568 相馬大作の首塚(墨田区吾妻橋 2-2-10・妙縁寺)


2441a
2441b
2441c 同時に処刑された関良助の名もある。







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。


2442 塚田正夫碑(文京区小石川4-13-19・善仁寺)

$
0
0

塚田正夫氏来歴

将棋棋士。


1914 ( 大正 3 ) 年、小石川の地に生まれる。


1947年、戦前から無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得。


翌年は大山康晴の挑戦を退けて防衛したが 1949年に木村に敗れて失冠。


九段戦 ( 現在の竜王戦 ) では 4連覇。初の「永世九段」となる。


1975年紫綬褒章。


1977年勲四等旭日小綬章 ( 追贈 ) 1977 ( 昭和 52 ) 年 享年 62歳 当寺に眠る。



● 塚田正夫

塚田 正夫 ( つかだ - まさお、1914年 ( 大正 3年 ) 8月 2日 - 1977年 ( 昭和 52年 ) 12月 30日 ) は、将棋棋士 。名誉十段。日本将棋連盟 会長 ( 1974年 - 1976年 )。勲四等 旭日小綬章 受章 ( 追贈、1978年 )。紫綬褒章 受章 ( 1975年 )。花田長太郎 九段門下。棋士番号 は11。東京都 文京区 出身。


人物

1947年 、戦前から無敵を誇っていた木村義雄 名人 を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。


翌年は大山康晴 の挑戦を退けて防衛したが 1949年 に木村に敗れて失冠。この名人戦 の最終第五局 ( この年だけ五番勝負だった ) は「済寧館 の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い投了 が話題となった。


一方、九段戦 ( のちの十段戦 、現在の竜王戦 ) では 3連覇 ( その後 4連覇まで記録を伸ばす ) した功績により初の「永世九段」となる。


なお、1973年に「名人 1期、その他のタイトル 3期で九段」と規約が改正された際にまだ現役であったにもかかわらず九段に昇段した記録がなく、段位としては八段のままである ( ただし、岩波新書 の大山康晴「昭和将棋史」など、永世九段時代の塚田との棋譜の肩書を「九段 塚田正夫」と表記している例が将棋棋士の著書にも見られる )。


1960年の第 1期王位戦、1962年の第 1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。晩年には順位戦 でB級 1組に陥落していたが、塚田はB 1に陥落して現役を続けた最初の名人経験者である ( 後に加藤一二三 中原誠 佐藤康光 丸山忠久 が記録 )。


1974年 に将棋連盟会長に就任、名人戦 問題で揺れる将棋界 の舵取りに尽力した。


詰将棋 作家としても有名であり、プロ棋士による詰将棋作品集の草分け的存在でもあった。また、氏の名前を冠した「塚田賞」という賞があり、毎年優れた詰将棋作品を『近代将棋 』誌で表彰していた (『近代将棋』は 2008年に休刊 )。


無口な人物で、 を愛し、後輩の棋士が話しかけたところ「やあ君も一杯どうだい」とワンカップ をすすめられたなどの逸話が残る。升田幸三 は大の親友であった。


1977年 12月、現役のまま死去。享年 63歳。

没後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、1989年 には実力制第二代名人を追贈される ( 升田幸三 に贈るために「実力制第○代名人」の称号がこの年制定されたため )。


河口俊彦 は「純粋培養型の新人類 棋士のはしりだった」と評している (「人生の棋譜 この一局」新潮文庫 、P142 )。河口は同書で、「将棋界では上位者が飲み代を持つのが普通だが、塚田は二十代の四段と飲むときでも割り勘 だった」と書いている。


昇段・称号履歴

1927年 入門

1932年 四段

1933年 五段

1935年 六段

1938年 七段

1940年 八段


以下、タイトル称号

1954年 11月 27日 永世九段 ( 九段のタイトル 3期 )

1978年 1月 16日 名誉十段 ( 追贈 )

1989年 実力制第二代名人 ( 追贈 )


成績


獲得タイトル

名人 2期 ( 第 6期 - 第 7期 )

   順位戦 A級以上 28期

九段 4期 ( 第 3期 - 第 6期 ) - 永世九段

 獲得合計 6期

タイトル戦全成績
年度タイトル勝敗相手備考
1947名人 ●●持○○○○木村義雄 奪取
1948名人●○○●千○○大山康晴 防衛
1949名人○●○●●木村義雄防衛失敗
1952九段 ○●○千●○大山康晴奪取
1953九段○○○花村元司 防衛
1954九段○○○松田茂役 3連覇、永世九段
1955九段●●○○○花村元司4連覇
1956九段○●●●●升田幸三 防衛失敗
1960王位 ●千●●○●大山康晴(第1期王位戦)
1962棋聖 ・後●○●●大山康晴(第1期棋聖戦)

一般棋戦優勝

NHK杯戦  1回 ( 1953年度 = 第 3回 )

王座戦  1回 ( 1958年度 = 第 6回 )

その他優勝 2回

優勝合計 4回


栄典

1975年 11月3日  紫綬褒章

1978年  勲四等 旭日小綬章 ( 追贈 )


関連項目

将棋棋士一覧

棋戦 (将棋)

将棋のタイトル在位者一覧 (1)

(wikiより)


2442a
2442b
2442c
2442d







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2443 石坂周造墓(台東区谷中5-4-7・全生庵)

$
0
0

石坂 周造 ( いしざか - しゅうぞう )

天保 3年 1月 1日 ( 1832年 2月 2日 ) - 明治 36年 ( 1903年
5月 22日 ) は、幕末 彦根藩


尊皇攘夷 論者。明治期には石油 産業の祖として知られる。幼名は宗順 ( そうじゅん )。


近江国 に生まれる。


江戸 清河八郎 と共に尊皇攘夷運動に荷担し、「虎尾の会 」に参加する。


幕府 を欺いて浪士組 を結成。


浪士組 ( 後、新選組 新徴組 に分離 ) 頭取の一人に就任して文久 3年 ( 1863年 ) 3月、京都 に入った。


京都に入ってからも清河八郎らと尊皇活動を続けて、水戸藩 出身の芹沢鴨 佐幕派 近藤勇 らに反感を買う。石坂自身も上洛道中より近藤達に良い感情を抱いていなかったらしい。


やがて京都から江戸へ帰還するよう命令が下ると、大半の浪士達を率いて江戸へ戻るが、幕府を欺いた罪により同年 4月 13日、幕臣 佐々木只三郎 らに清河八郎は斬殺され ( この時石坂は八郎の首と攘夷党への連盟状を奪い返している )、石坂もまた翌 14日に幕吏に包囲されて 5年間投獄された。預かり先を転々としながら幕府瓦解を獄中で過ごし、慶応 4年 ( 1868年 ) 3月 15日に山岡鉄舟 預かりの身となる。 妻の桂子は高橋泥舟 の妹であり、桂子の姉・英子は鉄舟の妻である。


その後赦免されて民間事業に取り組み、石油産業で成功した[1] [2]


1871年 ( 明治 4年 ) 東京に長野石炭油会社 を設立[3]


アメリカから輸入した綱掘り式掘削機械で相良油田 から石油を採集した。


明治 36年 ( 1903年 )、死去。享年 72歳。鉄舟が建てた全生庵 ( 東京都 台東区 谷中 ) に眠る。


関連項目

日本石油

相良油田


外部リンク

~回天の魁士 清河八郎~ - 山形県 庄内町 のサイト。清河八郎関係人物録に石坂周造についての説明がある。

1.http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/sagarayuden/sagarayuden.htm

2.http://www.cosmo-oil.co.jp/dagian/38/h4.html

3.http://www.eneos.co.jp/binran/table/history01.html

(wikiより)


2443a
2443b







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2444 蒲生君平墓(台東区谷中1-4-13・臨江寺)

$
0
0

蒲生 君平 ( がもう - くんぺい )

明和 5年〈 1768年 〉 - 文化 10年 7月 5日〈 1813年 7月 31日 〉) は、江戸時代 後期の儒学者 尊王論 者、海防論


同時代の仙台藩 林子平 上野国 郷士高山彦九郎 と共に、「寛政の三奇人 」の一人に数えられる。


生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明 8年 ( 17歳 ) に祖先が会津藩 主・蒲生氏郷 であるという家伝 ( 氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮 から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから 4代目が父の正栄という ) に倣い改めた。君平は で、 は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。


生涯

幼年期

下野国 宇都宮新石町 ( 栃木県 宇都宮市 小幡一丁目 ) の生まれ。父は町人・福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営む。祖母から祖先が立派な武士 ( 蒲生氏郷 ) だと聞かされた時「幼い胸は高鳴り感激で夜も眠れないほどだった、しかし今は町人の子でどうにもならない、学問で身を立て立派な祖先に恥じない人になる決意をした」。6歳の頃から近所の泉町にある延命院 で、時の住職・良快和尚の下で読書・習字・四書五経 の素読を学び、この折筆写した蒲生氏 の「移封記」が今も伝えられる。君平の読書好きは、近所の火事の明かりの元、屋根に上って読書をしたという逸話にも伝えられる。良快和尚は君平 9歳の折に死去するが、その後も延命院で修学したとされる。


儒学者・鈴木石橋に学ぶ

昌平黌 で学んだ鹿沼の儒学者・鈴木石橋 ( 29歳 ) の麗澤舎に入塾 ( 15歳 )。毎日鹿沼まで三里の道を往復する。黒川 の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて狂人と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した。


塾では『太平記 』を愛読し、楠木正成 新田義貞 らの帝への忠勤に感化され、勤皇思想に傾斜した。このころ黒羽藩 士・鈴木為蝶軒にも学ぶ。


藤田幽谷との出会い、水戸学の影響

水戸藩 の勤王の志士・藤田幽谷 の影響を受ける。


曲亭馬琴 本居宣長 ら多くの人物の知己となる。23歳の時、高山彦九郎 を慕い陸奥 を旅し、帰路に林子平 ( 53歳 ) を訪ねた ( 会えたという説と会えなかったという説がある )。その際、子平は君平の名を知っていたが、君平の余りに粗末な身なりを見、銭でも乞いに来たと思い「落ちぶれ儒者、その無様さは何だ」と言って笑った。そこで君平は憤然とし、「この山師じじいめ礼儀も知らず尊大ぶるな」と怒鳴って引き返したという、寛政の奇人同士の出会いとして有名な逸話がある。


海防調査の旅

ロシア 軍艦の出現を聞き、寛政 7年 ( 1795年 )、再び陸奥への旅に出る ( 帰路、会津で先祖・蒲生氏郷 蒲生帯刀 の墓に額づいている )。


文化 4年 ( 1807年 )、北辺防備を唱えた『不恤緯 ( ふじゅつい )』を著して幕閣 ( 若年寄水野忠成 ) に献上するが、幕府の警戒するところとなり喚問を受けて閑居させられる。


天皇陵の調査

京都では歌人・小沢蘆庵 の邸に滞在して、天皇陵 ( 古墳 ) を研究する。父・正栄の喪が明けた 32歳の時、すべての天皇陵を実際に調べあげる旅に出る ( 寛政 11年 11月 28日 - 寛政 12年 5月 24日 )。


佐渡島 順徳天皇 陵までの歴代天皇陵を旅する。伊勢 松阪 本居宣長 を訪れ、大いに激励を受ける。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて天橋立 に行き、日本海に散骨したという話は有名である。帰途、師の鈴木石橋にあいさつに行ったが、身なりは粗末でくたくたに疲れ切っていたという。


調査の旅から帰郷した後は、江戸駒込 に塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら、享和 元年 ( 1801年 )『山陵志 』を完成する。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳 の語ができた。


その後は江戸 に住み、大学頭・林述斎 に文教振興を建議している。構想していた 9志のうち借金で『山陵志』『職官志』まで出版したが、文化 10年 ( 1813年 ) 6月病に伏し赤痢 を併発して46歳で病没。著書は、他に「不恤緯 ( ふじゅつい )」等がある。


明治 2年 ( 1869年 ) 12月、その功績を賞され、明治天皇 の勅命の下で宇都宮藩 知事・戸田忠友 により勅旌碑が建てられた ( 宇都宮市 花房 3丁目と東京谷中臨江寺 )。


さらに明治 14年 ( 1881年 ) 5月には正四位 が贈位されている。その他、宇都宮市の蒲生神社 ( 1925年 創建 ) に祭神として祀られている。『蒲生君平全集』( 東京出版社 ) が 1911年に出版ている。


参考文献

蒲生重章 「蒲生君平傳」:『近世偉人傳・初編』(1877年 (明治10年))より


外部リンク

蒲生神社ホームページ

(wikiより)


2444 蒲生君平 蒲生 君平
2444a
2444b
2444c
2444d 此方が、蒲生君平墓です。
2444e
2444f
2444g
2444h
2444i







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

坂東三津五郎さん死去

$
0
0

歌舞伎俳優の坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名・守田寿=もりた・ひさし)さんが21日にすい臓がんのため都内の病院で死去していたことが、22日わかった。59歳だった。


2013年9月にすい臓がんの摘出手術を受けたが、療養後の昨年4月に舞台復帰。だが、9月には12月に控えていた主演舞台の降板を発表。復帰を目指し、闘病を続けていたが、再び舞台に立つことはかなわなかった。


● 十代目・坂東 三津五郎
十代目 坂東 三津五郎 ( じゅうだいめ ばんどう みつごろう、1956年 ( 昭和 31年 ) 1月 23日 - 2015年 ( 平成 27年 ) 2月 21日 )は、日本の俳優、歌舞伎役者。日本舞踊坂東流家元。前名の五代目坂東八十助 ( ごだいめ ばんどう やそすけ ) でも知られる。


屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は守田寿 ( もりた ひさし )。歌舞伎名跡「坂東三津五郎」の当代。


青山学院大学文学部中退。

長女に女優の守田菜生、長男に二代目坂東巳之助。また女優の池上季実子は従妹にあたる。


来歴・人物
坂東三津五郎家は江戸三座のひとつ守田座座元の守田勘彌家と家系が近く、十二代目守田勘彌の長男が養子に入って七代目坂東三津五郎となったことから本名が守田姓となっている。その七代目三津五郎の養子・八代目坂東三津五郎の長女・喜子を母に、婿養子・四代目坂東八十助(後の九代目坂東三津五郎)を父に、守田寿は生まれた。守田家では七代目三
津五郎以来の男児だったので、七代目の本名「壽作」(じゅさく)にあやかって「寿」(ひさし)と命名された。


近年では十一代目市川海老蔵襲名披露興行において、白血病を発症した十二代目市川團十郎の代役として出演する活躍を見せた。


2013年8月、すい臓に腫瘍が判明し手術・治療のため入院。これにより「九月大歌舞伎」並びに「歌舞伎座特別舞踊会」を休演することになった[1]。


2015年2月21日、すい臓癌の治療を続けていたが亡くなった。享年59。


年譜
・1956年/昭和31年1月23日、東京都中央区に生まれる。

・1957年/昭和32年3月明治座『傀儡師』(かいらいし)の唐子で曾祖父・七代目三津五郎に抱かれて初お目見得。


・1962年/昭和37年9月歌舞伎座『黎明鞍馬山』(れいめい くらまやま)の牛若丸で初舞台、五代目坂東八十助を襲名。同時に、祖父が八代目坂東三津五郎を、父が七代目坂東蓑助を襲名し、大和屋三代の襲名披露興行となった。


・1988年/昭和63年度芸術選奨新人賞受賞。


・1999年/平成11年父・九代目三津五郎が死去。


・2001年/平成13年1月歌舞伎座『寿曽我対面』(ことぶき そがの たいめん)の曾我五郎、『六歌仙容彩』「喜撰」(ろっかせん すがたの いろどり、きせん)の喜撰法師で十代目坂東三津五郎を襲名。


・2006年/平成18年度日本芸術院賞受賞。


・2009年/平成21年度紫綬褒章受章。第30回松尾芸能賞大賞受賞。


・2013年/平成25年第54回毎日芸術賞受賞[2]。


・2014年/平成26年第21回読売演劇大賞最優秀男優賞受賞。


・2015年/平成27年2月21日、膵臓(すいぞう)ガンのため都内の病院で死去[3]。


人物・逸話
私生活では二度の結婚・離婚を経て現在独身。 初婚は1983年に元宝塚歌劇団で雪組・花組
で男役準トップスターを務めた寿ひずるを迎え菜生を含む女児ふたりと、二代目巳之助を授かるが後に離婚した(当時、三津五郎の実家の家族らと寿との結婚以来の諸々の確執や、近藤サトほか三津五郎に複数の女性関係等の噂などが取沙汰された)。


また三人の子の親権は三津五郎が、養育権は寿がもったエピソードもあるがこれは寿が離婚で子の姓が変わるといじめなど不利益にならないかという心配や、寿が若くして実父と死別(宝塚在団中)したつらい経験から子を手放したくない旨三津五郎に申し入れていたといわれる。


寿と離婚成立後近藤サトと1998年に再婚したが、2000年に離婚。近藤との間には子はない。


生まれは日本橋小伝馬町だが、育ちは青山で、少年時代は近所の根津美術館や青山の都電車庫(現在その跡地にこどもの城が建っている)などでよく遊んでいたと自著で記している。


また、同い年で幼馴染の十八代目中村勘三郎との交友ぶりはよく知られ、勘三郎の企画に名を連ねることが多かった。2012年12月5日の勘三郎の訃報を聞き、無言の帰宅をした勘三郎宅に駆けつけ、盟友の死に「人生の半分をもぎ取られたようだ」というコメントを残している。


自他共に認める大の城郭建築好きで知られ、三津五郎も「日本国内で行ったことのない城は、ひとつかふたつだけ」とコメントしているほどである。(『NHK大河ドラマ・ストーリー功名が辻 前編』NHK出版、2006年、101ページより)


出演作品
当たり役
『六歌仙容彩』の喜撰法師
『倭仮名在業系図』(蘭平物狂)(やまとかな ありわら けいず、通称:らんぺい ものぐるい)の奴蘭平
『新皿屋舗月雨暈』(魚屋
宗五郎)(しんさらやしき つきの あまがさ、通称:さかなや そうごろう)の宗五郎
『勧進帳』の武蔵坊弁慶


近代劇
近松心中物語(蜷川幸雄演出、1995~99年)
砂利(劇団ダンダンブエノ、2007年)

晩秋(マキノノゾミ 作・演出、2009年11月、明治座)
グレンギャリー・グレン・ロス(デヴィッド・マメット 作、青山真治 演出、2011年6月、天王洲銀河劇場)


テレビドラマ

鞍馬天狗(1969年 - 1970年、NHK) - 杉作 役
快傑黒頭巾(1976年、NHK少年ドラマシリーズ) - 天命堂・黒頭巾 役
新五捕物帳 第8話「蛇の道は蛇」(1977年、日本テレビ) - 岡部新十郎 役
おていちゃん(1978年、NHK連続テレビ小説) - 大沢幸太郎 役
風の隼人(1979年 - 1980年、NHK) - 百城月丸 役
御宿かわせみ 第24話「人は見かけに」(1981年、NHK)
水戸黄門 第14部 第37話「野望を断った天下の名刀・高松」(1987年、TBS・C.A.L) - 松平頼常 役
武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ) - 諏訪頼重 役
鬼平犯科帳 第1シリーズ 第8話「さむらい松五郎」(1989年、フジテレビ系) - 同心・山口平吉、さむらい松五郎 役(二役)
警部補古畑任三郎 第5話「汚れた王将」(1994年、フジテレビ系) - 米沢八段 役
徳川慶喜(1998年、NHK大河ドラマ) - 勝海舟 役
月曜ミステリー劇場「湯の町コンサルタントシリーズ」(2002年、TBS系)
功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ) - 明智光秀 役
うぬぼれ刑事(2010年、TBS) - 栗橋誠 役
猫弁と透明人間(2013年、TBS) - 秦野秀一 役
ルーズヴェルト・ゲーム(2014年、TBS) - 尾藤辰五郎 役


映画

Mishima(1985年、日本未公開)三島の作品金閣寺の主人公
利休(1989年) - 石田三成 役
写楽(1995年) - 松平定信 役
阿修羅のごとく(2003年) - 枡川貞治 役
武士の一分(2006年) - 島田藤弥 役
母べえ(2008年) - 野上滋 役
雷桜(2010年) - 徳川家斉 役
聯合艦隊司令長官 山本五十六(2011年) - 堀悌吉 役

ドキュメンタリー・情報番組[編集]
ワーズワースの庭で(1993年 - 1994年、フジテレビ系)
ワーズワースの冒険(1994年 - 1997年、フジテレビ系)
世界の街道をゆく(2009年 - 、テレビ朝日) - ナレーション
坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行(2010年 - 、BS朝日)


CM

加美乃素本舗(1990年代半ば、加美乃素シリーズ全般、5代目坂東八十助として)
ネスレ日本「ネスカフェゴールドブレンド」(1992年)
大日本除虫菊「虫よけキンチョール」


著書
あばれ熨斗(三月書房、2001年)
粋にいなせに三津五郎(ぴあ、2005年)
坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ(長谷部浩編、岩波書店、2008年7月)
坂東三津五郎 踊りの愉しみ(長谷部浩編、岩波書店、2010年9月)
三津五郎城めぐり(三月書房、2010年11月)


脚注

1. “坂東三津五郎が会見を行いました”. 歌舞伎 on the web. (2013年10月3日) 2013年10月3日閲覧。
2. “毎日芸術賞の人々:/上 テレビマンユニオン/坂東三津五郎さん”. 毎日新聞. (2013年1月7日) 2013年1月23日閲覧。
3. “坂東三津五郎さん死去 59歳 踊りの名手、ドラマも”. 朝日新聞. (2015年2月22日) 2015年2月22日閲覧。


外部リンク
公式サイト

歌舞伎俳優名鑑 現在の俳優篇 / 坂東三津五郎(十代目) - (歌舞伎 on the web)

(wikiより)


坂東三津五郎 合掌。

2445 狩野芳崖墓(台東区谷中5-2-22・長安寺)

$
0
0

狩野 芳崖 ( かのう - ほうがい )

文政 11年 1月 13日 ( 1828年 2月 27日 ) - 明治 21年 ( 1888年 ) 11月 5日 ) は、幕末 から明治期の日本画家 近代日本画の父


幼名 は幸太郎。名は延信 ( ながのぶ )、雅道 ( ただみち )。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦 [1] と共に、日本画において江戸時代 明治時代 を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎 菊池容斎 らと狩野派の最後を飾った。


伝記
生い立ち

1828年 下関 長府 印内で、長府藩 狩野派 の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代 狩野松栄 から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代・洞晴 ( どうせい ) のとき長府藩御用絵師となり、5代・察信 ( さつしん ) の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその 8代目に当たる。


芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。


少年時代の作品は 10点近く現存しており、早熟の才能を示している。


弘化 3年 ( 1846年 ) 19歳で、父も学んだ木挽町狩野家に入門、勝川院雅信 ( しょうせんいん - ただのぶ ) に学ぶ。


嘉永 3年 ( 1850年 ) には弟子頭となり、同年同日入門[2] し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山 の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山 と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。


芳崖として

その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。


安政 4年 ( 1857年 ) 近郷の医師の娘よしと結婚。幕末の動乱期には、戦勝祈願の絵馬「武内宿禰 投珠図」( 忌宮神社 蔵 ) や、「馬関海峡 測量図」( 下関市立長府図書館 蔵 ) を描くなど、当時の社会と密接した芳崖の活動がうかがえる。この頃、自ら旧套を脱し一頭地を出る意味を持つ雅号を探り、 の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた伝えられる。


明治維新 後、いわゆる「武士の商法」で養蚕 業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画 風の作品や、近所の豪農 庄屋 の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。


明治 10年 ( 1877年 ) 惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給 30銭で陶磁器 の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。


明治 12年 ( 1879年 ) 芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽 の紹介で、島津家 雇となり、月給 20円を支給されて 3年かけて「犬追物 図」( 尚古集成館 蔵 ) を制作する。


フェロノサとの出会い

同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一 が、日本 近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマン との出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサ との出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた[3] 「仁王捉鬼図 ( におうそうきず )」は鑑画会 大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となった[4]


フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文 に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校 ( 後の東京藝術大学 ) 設立の契機とした。


フェノロサと知り合った明治 15年 ( 1882年 )、肺を病み、すでに 54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。


芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた 4日後の 1888年
11月 5日 、同校の開学を待たずに死去した。墓所は東京谷中 長安寺 。芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。


弟子に岡倉天心 の甥・岡倉秋水 岡不崩 など。芳崖死後、明治 29年の『太陽』( 二巻二号 ) には、河鍋暁斎 菊池容斎 と共に「近世の三大画家」と紹介されているが、芳崖本人は彼らの画に不満だったらしく、「北斎 や暁斎は腕が余り達者過ぎて下品なものになったのだ。容斎や是真 なども器用が過ぎたのである」と弟子の岡不崩に漏らしている[5]


代表作

・「伏竜羅漢 」(福井県立美術館 )一幅 紙本著色 1885年

・「谿間雄飛図 」(ボストン美術館 ) 紙本墨画淡彩 1885年

・「江流百里図 」 (ボストン美術館) 紙本墨画 1885年

・「仁王捉鬼」(東京国立近代美術館 )一幅 紙本著色 1886年

・「不動明王 」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)1887年 原図はフリーア美術館 が所蔵している

・「悲母観音 」(東京藝術大学大学美術館 重要文化財 )一面 絹本著色 1888年


脚注

1. 鑑画会 に参加した頃、芳崖・雅邦・狩野友信 の三人が酒を飲んでいると、 についての話が始まった。その時芳崖は、「オイ雅邦さん、俺とお前は天狗 ではないが、世間の奴の様に禅学の力で画は描かないぜ。なぜならば、これから二人でこれから二人で西洋各国の人々に頭を下げさせる様な神品 を描こうと思って居るぢゃないか。全体世間の奴は禅学でもやるとね、河童 の屁のような画を描いて禅味だの何のなのと云って喜んで居るが、それは茶人 の玩具になるのさ ( 後略 )」と言い、手を叩いて二人して大笑いしたという ( 狩野友信「雅邦翁瑣談」『日本美術』 109号、明治4 1年 ( 1908年 ) 3月 )。こうした逸話から、両者を芸術の上でも同士であり、日本画の革新運動を進めた二人の姿を見て取ることが出来る (『重要文化財 白雲紅樹 橋本雅邦筆』展図録、東京藝術大学藝術資料館、1992年、46頁 )。


2. 狩野養信 「公用日記」 4月 18日


3. 狩野芳崖筆「仁王捉鬼」の蛍光X 線分析による顔料調査報告 東京学芸大学紀要 芸術・スポーツ科学系 59 pp.43 ~ 57, 2007


4. 『日本の画家-近代日本画-Color books deluxe』 第42巻  細野正信、保育社, 1974


5. 岡不崩「志のぶ草」日英社、明治 43年 ( 1910年 ) 12月 (『没後百二十年 菊池容斎と明治の美術』 練馬区立美術館 、1999年、19頁 )

参考資料

・『没後一○○年記念 狩野芳崖 ─近代日本画の先駆─京都国立博物館 、1989年

日本美術院 百年史編集室編 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、1989年

・古田亮 『狩野芳崖・高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一の処ミネルヴァ書房 <ミネルヴァ日本評伝選>、2006年 ISBN 978-4-623-04561-7

佐藤康宏 『日本美術史('08)』 放送大学教育振興会 、2008年 ISBN 978-4-595-30822-2


外部リンク

狩野芳崖の後期作品とフェノロサ 石田智子、関西大学

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10617133621.html
287 河鍋暁斎墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10856901980.html
523 菊池容斎墓(台東区・谷中霊園)


2445 狩野芳崖 狩野 芳崖
2445c
2445a
2445b






にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2446 下村観山墓(台東区谷中5-3-17・安立寺)

$
0
0

下村 観山 ( しもむら - かんざん )

1873年 ( 明治 6年 ) 4月 10日 - 1930年 ( 昭和 5年 ) 5月 10日 ) は、明治 - 昭和初期の日本画の大家。本名・晴三郎。


1873年 ( 明治 6年 )、和歌山県 和歌山市 に生まれる。


8歳のとき東京へ移住。


最初狩野芳崖 に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦 に師事する。


東京美術学校 ( 現・東京藝術大学 ) を第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に岡倉天心 が野に下ったときに行動を共にし横山大観 菱田春草 とともに日本美術院 の創設に参加した。


1905年に、師に同行し茨城県北部の五浦海岸 の別荘「六角堂 」へ移住し画業を深めた。


1917年 6月 11日、帝室技芸員 となる[1]


代表作品

・「光明皇后」 ( 1897 )( 宮内庁 三の丸尚蔵館 )

・「修羅道」( 1900 )( 東京国立博物館 )

・「鵜鴎図」( 1901 )( 滋賀県立近代美術館 )

・「ダイオゼニス」( 1903 )( 東京国立近代美術館 )

・「木の間の秋」 ( 1907 )( 東京国立近代美術館 )

・「大原御幸」( 1908 )( 東京国立近代美術館 )

・「鵜図屏風」( 1912 )( 東京国立博物館 )

・「白狐」( びゃっこ )( 1914 )( 東京国立博物館 )

・「弱法師」 ( よろぼうし )( 1915 )( 東京国立博物館 )( 重要文化財 )

・「春雨」( 1916 )( 東京国立博物館 )

・「楠公」( 1921 )( 東京国立博物館 )

・「景雲餘彩」( 1922 )( 宮内庁三の丸尚蔵館 )


主な文献

・「観山画集 下村観山1」 大日本絵画、1981年

・「下村観山伝 下村観山2」 同上  各大著

・「横山大観 下村観山」 現代の水墨画2:講談社 1983年

・「下村観山 菱田春草」 現代日本絵巻全集4:小学館 1982年

・図録 「大観と観山展」 横浜美術館、日本経済新聞社、1990年

・図録 「下村観山展―生誕120年記念」 朝日新聞社、1993年

・図録 「生誕140年記念 下村観山展」 横浜美術館、2014年


脚注

1. 『官報』第1458号、大正6年6月12日。

(wikiより)


2446 下村観山 下村 観山
2446a
2446b
2446c


にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。


2447 眉山川上宗寿墓(台東区谷中5-3-17・安立寺)

$
0
0

川上宗寿 ( かわかみ - そうじゅ )

( 1779 ‐ 1844 )


江戸時代後期の茶人。


安永 8年生まれ。


川上宗什 ( そうじゅう ) に学び、師の跡をついで筑後 ( ちくご) )( 福岡県 ) 久留米 ( くるめ ) 藩主・有馬家に茶頭として仕える。


その道統は江戸千家流の川上宗順家に伝わった。


天保 ( てんぽう ) 15年 8月死去。66歳。号は眉山、一指亭。


表千家不白流 ( 浜町川上家 ) 三世・眉山宗寿


3世・川上宗寿は眉山と号し、父と同じく有馬家の茶頭として 9代藩主・有馬頼徳公に仕えました。


頼徳公は月船と号し、歴代藩主の中でも最も風流を好み茶の湯のみならず能、歌、書、絵等に親しみ、中でも各地より陶工を集め柳原焼を開きました。


天保 3年この開窯に際し宗寿を西下させ茶陶の指導にあたらせました。


また宗寿は大徳寺 404世・鉄舟禅師に参禅し、一指亭の号を受け文化文政期の江戸に於いて第一の茶人と称せられました。

2447a
2447b







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2448 江南哲夫墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

江南 哲夫 ( えなみ - てつお )

1853年 ( 嘉永 6年 ) - 1916年 ( 大正 5年 ) 11月 21日 ) は、会津藩 士、白虎隊 士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等 瑞宝章


経歴

文久元年 ( 1861年 ) に会津藩 の「南学館友善社」に入り漢学 を修めると、大学試験に及第し藩校「日新館 」に入る。


戊辰戦争 で、15歳で白虎隊 士として越後口に転戦し、戦後高田に謹慎となる。


謹慎の間、南摩羽峯 に学び、明治 3年 ( 1870年 ) に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。


のち淀藩 主・稲葉正邦 公の給費生となり、淀に赴き同藩校に入り、転じて同年大阪開成所 に入り英学を修める。次いで、各地を転々とし、斗南藩 の洋学塾および「東奥義塾 」に学ぶ。


明治 7年 ( 1874年 ) に慶應義塾 に入学し、卒業後の明治 10年 ( 1877年 ) 三菱合資会社 に入り社長・岩崎弥太郎 に随行し神戸・長崎支店に赴き、明治 11年 ( 1878年 ) に上海支店勤務。


のち北海道での農業を志し職を辞し、岩崎弥之助 の側近として興亜会 などに関係した。


明治 17年 ( 1884年 ) 第二十国立銀行 に入り、函館支店支配人。


明治 21年 ( 1888年 ) 第一銀行 に入り韓国に渡り、明治 24年 ( 1891年 ) に帰国。


明治 30年 ( 1897年 ) 東京火災保険会社 に入社。


明治 33年 ( 1900年 ) 南山合資会社を設立し三菱から独立。


これを売却し明治 35年 ( 1902年 ) に京釜鉄道 に入社し、京城支店長となり重役を代理。


明治 37年 ( 1904年 ) の速成令 のため休職となり、明治 38年 ( 1905年 ) 免職となる。


明治 41年 ( 1908年 ) 日露戦争 の功により勲六等瑞宝章を受章。


作詩や書道を好み『瓦礫集』を出版した。


著作

・『朝鮮財政論』

・『當五銭低落管見』


参考文献

・『慶應義塾出身名流列伝 』 三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月。近代デジタルライブラリー

谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 江南哲夫

東洋文庫 WEB DB search result

(wikiより)


2448a
2448b
2448c







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2449 渋沢栄一墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

渋沢 栄一 ( しぶさわ - えいいち )

天保 11年 2月 13日 ( 1840年 3月 16日 ) - 昭和 6年 ( 1931年 ) 11月 11日 ) は、江戸時代 末期 ( 幕末 ) から大正 初期にかけての日本 武士 ( 幕臣 )、官僚 実業家 第一国立銀行 東京証券取引所 などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所 の創設者でもある。正二位 勲一等 子爵 雅号 に青淵 ( せいえん )。


経歴

生い立ち

天保 11年 ( 1840年 ) 2月 13日、武蔵国 榛沢郡 血洗島村 ( 現埼玉県 深谷市 血洗島 ) に父・市郎右衛門 、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎[1] 。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎 は従兄。


渋沢家は藍玉 の製造販売と養蚕 を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。


14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。


徳川慶喜の家臣・幕臣として

一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠 の許に通い、四書五経 や『日本外史 』を学ぶ。剣術 は、大川平兵衛 より神道無念流 を学んだ。


19歳の時 ( 1858年 ) には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久 元年 ( 1861年 ) に江戸に出て海保漁村 の門下生となる。また北辰一刀流 千葉栄次郎 の道場 ( お玉が池の千葉道場 ) に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久 3年 ( 1863年 ) に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城 を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。


親族に累が及ばぬよう父より勘当 を受けた体裁を取って京都 に上るが、八月十八日の政変 直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎 の推挙により一橋慶喜 に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。


主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣 となり、パリ で行われる万国博覧会 に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武 の随員として御勘定 陸軍 付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博 を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルト の長男で通訳として同行していたアレクサンダー である。


帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のハインリッヒ と共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社 設立など度々協力をするようになる。なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行 支配調役となり、その後開成所 奉行支配調役に転じている。[2]


パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還 に伴い、慶応 4年 ( 1868年 ) 5月には新政府から帰国を命じられ、9月 4日 ( 1868年 10月 19日 ) にマルセイユ から帰国の途につき、同年 11月 3日 ( 12月 16日 ) に横浜港 に帰国した。


大蔵省出仕~実業家時代

帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩 より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社 制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治 2年 ( 1869年 ) 1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信 に説得され、10月に大蔵省 に入省する。


大蔵官僚 として民部省 改正掛 ( 当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた ) を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡 の制定や国立銀行条例 制定に携わる。しかし、予算 編成を巡って、大久保利通 や大隈重信と対立し、明治 6年 ( 1873年 ) に井上馨 と共に退官した。


退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行 ( 第一銀 第一勧業銀行 を経て、現:みずほ銀行 ) の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行 など多くの地方銀行 設立を指導した。


第一国立銀行ほか、東京瓦斯 東京海上火災保険 王子製紙 ( 現王子製紙 日本製紙 )、田園都市 ( 現東京急行電鉄 )、秩父セメント ( 現太平洋セメント )、帝国ホテル 秩父鉄道 京阪電気鉄道 東京証券取引所 キリンビール サッポロビール 東洋紡績 など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は 500以上といわれている。


若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法 」 ( 1912年 ) に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社 共同通信社 の起源となった。


渋沢が三井高福 岩崎弥太郎 安田善次郎 住友友純 古河市兵衛 大倉喜八郎 などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥 」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三 にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵 どまりなのに対し、渋沢一人は子爵 を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。


なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社 化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。


人物

社会活動

渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会 日本赤十字社 予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院 初代理事長 、財団法人滝乃川学園 初代理事長、YMCA 環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。


日露戦争 開戦の前年にあたる明治 36年 ( 1903年 )、対印貿易の重要性を認識していた渋沢は、大隈重信 らとともに日印協会 の設立に携わり[3] 、第 3代会長をつとめた。


関東大震災 後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。


当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼 と共に商法講習所 ( 現一橋大学 )、大倉喜八郎 と大倉商業学校 ( 現東京経済大学 ) の設立に協力したほか、二松學舍 ( 現二松學舍大学 ) の第 3代舎長に就任した。


学校法人国士舘 ( 創立者・柴田徳次郎 ) の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学 ( 創立者・新島襄 ) への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文 勝海舟 らと共に女子教育奨励会 を設立、日本女子大学校 東京女学館 の設立に携わった。


また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形 ( 青い目の人形 ) を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。


1931年 には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金 を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお渋沢は 1926年 と 1927年 ノーベル平和賞 の候補にもなっている。


「栄典」、「系譜」、「脚注」、「参考文献」については、『渋沢栄一ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80


関連項目

古牧温泉 - 渋沢公園内に旧三田綱町邸が移築保存されている。

渋沢財閥

渋沢史料館 - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。

南湖神社 - 松平定信 公が祭神。建てられる際に渋沢も支援している。

本山白雲 - 戦前建てられていた渋沢栄一の銅像 の作者。


外部リンク

渋沢栄一 | 近代日本人の肖像

渋沢 栄一:作家別作品リスト - 青空文庫

小早川洋一渋沢栄一[リンク切れ ] - Yahoo!百科事典

朝日日本歴史人物事典『渋沢栄一 』 - コトバンク

渋沢栄一記念財団

渋沢栄一ミュージアム(深谷市サイト内)

北辰一刀流兵法 虎韜館 http://kotoukai.jimdo.com

(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11933347863.html
2435 渋沢栄一像(千代田区大手町2-7-2・常盤橋公園内)


2435 渋沢栄一 渋沢 栄一
2449a  







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2450 沢井廉墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

沢井 廉 ( さわい - れん )

( 1865 ‐ 1894 )


明治時代の電気工学者。


元治 ( げんじ ) 2年 1月 16日生まれ。


明治 20年アメリカに留学し、電話機と電話事業を研究。


21年、エジソンの助手となって蓄音器の発明に貢献した。


24年、東京電話交換所に入る。のち東京電話交換局長などを務め、帝国大学講師を兼ねた。


明治 27年 11月 28日死去。30歳。


京都出身。東京大学卒。

2450a
2450b







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2451 小野田元熈墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

小野田 元熈 ( おのだ - もとひろ )

1848年 3月 15日 ( 弘化 5年 2月 11日 ) - 1919年 6月 12日 ) は、幕末 館林 藩士 明治 から大正 期の警察 内務 官僚 政治家 。官選県知事 貴族院議員 錦鶏間祗候 。旧姓・藤野、幼名・貞治。


経歴

館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。


館林藩では、徒士格大納戸役、家老 付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。


明治 4年 11月 ( 1871年 末頃 )、東京府 取締組羅卒小頭となり、さらに司法省 少警部となり 1873年 2月に退官。


1874年 1月、警視庁 少警部として再度、警察官となる。


1877年 2月、内務省 警視局 三等大警部兼陸軍 歩兵 中尉 として、別働第 3旅団 第1大隊 副官 として西南戦争 に従軍した。


1879年 2月から翌年 8月まで川路利良 大警視 に随行し欧米 の警察制度を視察。


1881年 1月、警視庁四等警視・第三課長兼任となり、以後、警視庁書記局次長、同会計局長、兼内務少書記官、警視庁書記局長、東京府小笠原島司、長野県 書記官 兵庫県 書記官などを経て、1893年 3月に内務省警保局 長に就任。


1896年 11月に辞職した。


1897年 4月、茨城県 知事 に任命され、さらに山梨県 知事、静岡県 知事、宮城県 知事、香川県 知事を歴任し、1910年 6月に辞職。


同年 7月 16日、貴族院勅選議員 に任命され[1] 1919年 6月まで在任。


1911年 7月 28日、錦鶏間祗候に任じられた[2]


1911年 4月から 1915年 4月まで上毛モスリン 社長を務めた。


著作・伝記

・『小笠原島巡回略記』警視庁、1885年。

・『泰西監獄問答録』警視庁、1889年。

・『北海道紀行』小野田元熈、1896年。

・編著『官祭館林招魂社略記』小野田元熈、1917年。

伝記
・小野田元一著『小野田元熈』小野田元熈五十年祭記念出版、私家版、1969年。
参考文献

秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会 、2002年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
脚注
1. 『官報』第8121号、明治43年7月18日。
2. 『官報』第8431号、明治44年7月29日。


外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 小野田元熈関係文書(所蔵)
国立国会図書館 憲政資料室 小野田元熈関係文書(MF)
(wikiより)

関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11499123746.html
1413 川路利良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


2451 小野田元熈 小野田 元熈
2451a
2451b






にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2452 初代・保々誠次郎墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

初代・保々誠次郎 ( ほぼ - せいじろう )

( 慶応元年 ~ 大正 6年 1月 20日 ( 1865 - 1917 ))

「玉の肌石鹸」創業者・石鹸界の先覚者。


父、保々鎮郎 ( 長男 )。


岐阜県出身。


青年期に上京し石鹸職人となる。


明治 25年( ( 1892 )「芳誠舎」を江戸本所 ( 墨田区緑 )に創業、化粧石鹸の製造を開始。


石鹸製造における立志伝中の人物。


現在では「ミツワ石鹸」の商標権を持つ。53歳没。


初代「誠光院実相良温居士」。


● 玉の肌石鹸

玉の肌石鹸 ( たまのはだせっけん ) は、日本石鹸 製造業者。本社は東京都 墨田区 に所在する。


概要

石鹸類の専業メーカー。OEM による他社製品の請負生産も行っている。2003年よりオリジナルブランド「TAMANOHADA」を展開している。


2007年、倒産により消失した「ミツワ石鹸 」ブランドを買い取り、子会社として33年ぶりに同社製品を復活させた。


沿革

1892年 ( 明治 25年 ) :「芳誠舎」設立、石鹸の製造を開始。


2003年 ( 平成 15年 ) :オリジナルブランド「TAMANOHADA」を展開


2007年 ( 平成 19年 ) :『ミツワ石鹸』の商標権をプロクター・アンド・ギャンブル ( P&G ) から取得。


2008年 ( 平成 20年 ) :4月 1日付で、100%子会社のミツワ石鹸株式会社を設立・業務開始。33年ぶりに『ミツワ石鹸』の商品が復活した。


関連会社

ミツワ石鹸 株式会社

ミヨシ石鹸 株式会社


主な商品

TAMANOHADA シリーズ

WELCOME SOAP

FLOWER シリーズ


備考

東京モノレール浜松町駅 付近にネオンサインがある。広告料は 40数年前から変わらず年間 30万円である[1]


脚注

1. テレビ東京「空から日本を見てみよう」 2009年10月22日放送 第2回「まぁ~るい緑の山手線!」


外部リンク

TAMANOHADA

(wikiより)

1 玉の肌石鹸 ( ネオンサイン )

2452a
2452b







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2453 藤岡市助墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

藤岡 市助 ( ふじおか - いちすけ )

安政 4年 3月 14日 ( 1857年 4月 8日 ) - 大正 7年 ( 1918年 ) 3月 5日 ) は、日本 工学者 実業家


日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン 」、「電力の父」と評される。東京電気株式会社 ( 後の東芝 の弱電部門 ) 創業者。


来歴

周防国 岩国 ( 現在の山口県 岩国市 ) に岩国藩 藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。慶応 元年 ( 1865年 )、藩校 の養老館に入る。


1875年 旧藩主吉川経健 から奨学金を得て工部寮 電信科 入学。合格者は 6名であった。


在学中にウィリアム・エドワード・エアトン 教授に学び、学生として 1878年 3月 25日 の銀座木挽町での日本初のアーク灯 点灯実験に参加している。この日は電気記念日 となっている。


1880年 電信技術の教科書「電信初歩」を書く。


1881年 名称が変わった工部大学校 を首席で卒業。卒業論文は「測定器ガルバノメートルに就いて」。工部大学校の助手に就任する。この頃、芝浦製作所(現在の東芝の強電部門)創業者の田中久重 に会う。


1882年 銀座大倉前で 2000個のアーク灯を点灯する。


1883年 アーク灯用の発電機を設計製作。


1884年 工部大学校教授に就任。物理学 電信学 を教える。フィラデルフィア 万国電気博覧会 を視察し、ニューヨーク に立ち寄りトーマス・エジソン に会う。


1886年
帝国大学 工科助教授に就任。同年に辞職し、山尾庸三 の尽力で東京電燈 を設立する。


東京電燈の設立には矢島作郎 三野村利助 大倉喜八郎 原六郎 柏村信 蜂須賀茂韶 が参加し、設立されようとしていた「日本電灯」も合流している。合流には渋沢栄一 が関わっている。


発電機の交流直流論争 において、岩垂邦彦 が親交の深かったエジソンに逆らってもニコラ・テスラ 交流 に賛意を示したのに比べ、東京電燈の技師長であった藤岡がエジソンの直流 側についたのも有名である(但し、藤岡の説得で財界シンジケートが組まれて資本投下をされていた為、後戻りできなかった事情も窺える)。


1890年
三吉正一 と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。電車 を発表、浅草 凌雲閣 にエレベーターを作る。


1891年 工学博士を授与[1]

日本電気協会 会長、東京電気社長、岩国電気軌道 社長などを歴任。

同郷の先輩に江木千之 がおり電球製造の後援者となる。


脚注

1. 「博士授与式」東京日日新聞明治24年8月25日『新聞集成明治編年史. 第八卷』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)


外部リンク

工学博士藤岡市助伝 肖像(国会図書館近代デジタルライブラリー)

藤岡市助ものがたり - 東芝未来科学館ホームページ

(wikiより)


2453 藤岡市助 藤岡 市助
2453a
2453b








にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。


2454 平尾賛平墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

● 初代・平尾賛平 ( ひらお - さんぺい )

( 弘化 3年 ~ 明治 30年 1月 31日 ( 1846 - 1897 )


東京に存在した有名化粧品メーカー「岳陽堂」創業者。ミュージシャン平尾昌晃の曽祖父。静岡出身。


明治 11年 ( 1878 ) 東京日本橋馬喰町に化粧品店「平尾賛平」商店を開業し、化粧水「小町水」を発売。翌年屋号を「岳陽堂」に改名。


明治 24年 ( 1891 ) ヒット商品「ダイヤモンド歯磨」を発売。


一方、彫刻家の高村光雲・後藤貞行と交流、高村光雲の東京美術学校教員時代には資金援助している。52歳没。


● 平尾賛平商店

平尾賛平商店 ( ひらおさんぺいしょうてん、1878年 開業 - 1954年 廃業 ) は、かつて東京に存在した日本の化粧品 メーカーである。レート ( 仏語 LAIT ) ブランドで知られる。「乳」を意味する語「lait」は、フランス語の発音では「レ」であり、そのつづりは英語読みであるものの、フランス語を化粧品名にした日本初の企業である[1]


略歴・概要
初代賛平と小町水

1878年 ( 明治 11年 )、静岡 出身の初代・平尾賛平 東京市 日本橋区 馬喰町 1丁目 6番地 ( 現東京都 中央区 日本橋馬喰町 1丁目 ) で化粧品店を開業、これが平尾賛平商店の創業である[2] 。同年、化粧水「小町水 」を発売し[3] 、翌年 1879年 ( 明治 12年 ) 2月、屋号を「岳陽堂」とする[2]


1891年 ( 明治 24年 )、慶應義塾 在学中の二代目・平尾賛平の命名により、「ダイヤモンド歯磨」を発売する[2]


このころ初代・賛平は、彫刻家の後藤貞行 高村光雲 との交流があり、とくに東京美術学校 ( 現東京藝術大学 ) 教員時代の高村には大いに資金援助し、谷中 に持ち家を持たせもしたが、高村は律儀に返済をしている[4]


二代目・賛平とレート化粧料
1898年 ( 明治 31年 ) 1月、初代・平尾賛平が死去、二代目が社長に就任[2] 、同年 6月、東京市日本橋区の明治座 での新狂言 公演『児雷也豪傑譚語』で、児雷也 役の市川團十郎 (9代目) の背景に商品名「日本美人」の看板のある錦絵 広告を出した[1]


1908年 ( 明治 41年 ) には大阪に支店を出して関西進出、同年、「ダイヤモンド歯磨」を「金剛石牙粉」と称して中国大陸にも進出、北京 天津 香港 にも「広告隊」を出した[5]


二代目は、広告に工夫をこらし、1918年 ( 大正 7年 )、クリームと白粉をセットした画期的商品「レートメリー」を発売した。明治から大正にかけて、同社の「レート化粧料」 ( LAIT TOILET ) は、大阪 中山太陽堂 の「クラブ化粧品 」と人気を競い、「東のレート、西のクラブ」と称された[1]


1874年 ( 明治 7年 ) 深川 生まれ、慶應義塾正科を 1891年 ( 明治 26年 ) に卒業した二代目・平尾賛平[2] こと平尾聚泉 古銭 収集で知られ、新聞に広告を打って募集し古銭を買い集めた。


1929年 ( 昭和 4年 ) 3月には、「平尾太郎」名義で著書『平尾賛平商店五十年史』( 平尾賛平商店 ) を出版、1932年 ( 昭和 7年 )、聚泉は『昭和泉譜 』を著し、1937年 ( 昭和 12年 ) には「平尾賛平」名義で『初代平尾賛平小伝』を著し、出版する。


1938年 ( 昭和 13年 )、同社の創業 60周年を記念し、寛永通寳 のような古銭を模した記念コインを発行する。聚泉の古銭を所蔵する邸宅は「平尾麗悳莊」として知られ、多くの和綴の古銭拓本を制作した。


このころ、京城 ( 現在のソウル特別市 ) にも進出し、現地紙『東亜日報 』に広告を打ち、京城三越百貨店 ( 現・新世界百貨店 ) のある中心街の忠武路 に「レートクレーム」と大書した巨大な広告塔を建てた。


第二次世界大戦 後の 1949年 ( 昭和 24年 )、同社は「レート」に商号変更したが、 1954年 ( 昭和 29年 )、会社更生法 の申請が認められず、創業 76年にして廃業した。


現代音楽 の作曲家・平尾貴四男 は二代目・平尾賛平の四男、作曲家・歌手の平尾昌晃 ( 出生名・勇 ) は二代目・平尾賛平の孫、ともに慶應義塾出身である。


聚泉の著書『昭和泉譜』は、のちの 1974年 ( 昭和 49年 ) に『古貨幣図録・昭和泉譜』( 歴史図書社 ) として復刊した。


参考書籍
村田孝子 『近代の女性美 - ハイカラモダン・化粧・髪型』、ポーラ文化研究所、2003年 12月 ISBN 4938547716


関連事項

クラブコスメチックス - 「クラブ洗粉 」の中山太陽堂の後身


脚注

1. a b c #外部リンク にあるアド・ミュージアム東京 公式サイトリンク先内の記事「01 看板」「02 錦絵」等の記述を参照。二重リンクを省く。同サイトはトップページ以外のリンクを禁じている。
2. a b c d e 三田商業研究会編『慶應義塾出身名流列傳』(実業之世界社 、1909年6月15日)所収の「ダイヤモンド歯磨製造本舗主 平尾賛平氏」の項の記述を参照。

3. #参考書籍 欄の『近代の女性美 - ハイカラモダン・化粧・髪型』の記述を参照。

4. 高村光雲 『幕末維新懐古談 - 初めて家持ちとなったはなし』(『光雲懐古談』、万里閣書房、1929年1月、のちに『幕末維新懐古談』、岩波文庫、1995年1月17日 ISBN 4003346718 に所収)等、高村の著作の記述を参照。青空文庫 でも閲覧可能。

5. 平尾太郎『平尾賛平商店五十年史』(平尾賛平商店、1929年3月)の記述を参照。


外部リンク
アド・ミュージアム東京 - 明治の錦絵、大正の油絵看板が閲覧できる(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10825293703.html
496 高村光雲・光太郎・智恵子墓(豊島区駒込5-5-1・染井霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10828094616.html
499 高村光雲・豊周遺宅(文京区千駄木5-20-6)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10829459651.html
500 高村光太郎旧居跡(文京区千駄木5-22-8)


2454a
2454b







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2455 増田教之助墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

明日は早く出かけてしまう為、更新させて頂きます。


夕方の更新は何時も通りですので、宜しく御願い致します。




増田 教之助

( ますだ - きょうのすけ ) ? ~ 明治 12年 9月 7日 ( ? -1879 )


浅草花川戸の大砲製造家。


武蔵国忍藩第 3代藩主の松平忠国 ( 1815 - 1868 ) は、砲術奉行高島秋帆・大砲製造家増田教之助の協力で、日本で初めての鋼鉄の艦船をうち砕く 80ポンドの巨砲を造らせ、また着弾すると同時に爆発する砲裂弾をも開発した。


個人歴らしい情報は、NETにも見つからないが、川口の鋳物師として名を知られていた増田安次郎が、嘉永 5年から安政 5年 ( 1852 - 1858 ) の間に 213門の大砲を作ったという資料もあることから、何らかの家系関係があるものと推察される。


勝海舟は、軍監奉行など軍事関係であったことから、大砲製造家の墓碑銘を書くという間柄も不思議ではない。


墓石の文字は、勝海舟筆。


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10803893819.html
476 高島秋帆墓(文京区向丘1・大円寺)


2455a







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2456 於萬の方火葬跡(横浜市戸塚区戸塚町4907・清源院)

$
0
0

「於萬の方火葬跡」という案内板が有りますが、「於萬の方」は、この場所で荼毘に付されました。


正面は「當山開基清源院殿尊骸火葬之霊迹也」、右側面には「以霊勅而著往事之碑矣」、左側面には「寛永三丙寅年正月廿日遷化乃安政五戌午當二百三十三回上酬霊恩造之焉」と刻されています。


2456a
2456b
2456c
2456d
2456e
2456f







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2457 井上正鉄墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

$
0
0

井上 正鉄 ( 井上 正鐵、いのうえ - まさかね )

寛政 2年 8月 4日 ( 1790年 9月 12日 ) - 嘉永 2年 2月 18日 ( 1849年 3月 12日 )) は幕末 国学者 神道家


経歴

1790年 - 上野国 館林藩 安藤真鉄 ( あんどう - まかね ) の子として出生。母方の縁者の養子に入り井上姓となる。


1840年 - 足立郡 梅田神明宮 の神職となり、江戸で独自の神道を唱える。


1842年 - 江戸幕府 の滅亡を予言する言動を理由に三宅島 に流される。


1849年 - 三宅島で没す。


明治維新後、門人の坂田安治 らによってその思想が纏められ『禊教 』となる。


備考

独自の呼吸法で大音声を発することができたといわれる。

三宅島では釣り を楽しんだといわれ、釣りにまつわる歌を幾つか残している。

   ・轟ろ打つ波もこさじな大海の沖の小島に釣りをたれつつ

   ・荒磯の沖の小島に釣りたれて神代のままの秋の夕暮れ

教団関係者は、「井上正鐵」の表記を用いている(例えば、[1] )。


参考文献

禊教経典研究所編『井上正鐵神御文書』禊教本院、1982


関連事項

水野南北

伯家神道

身曾岐神社

松平宗秀


外部リンク

梅田神明宮(公式サイト)

(wikiより)


2457a







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

2458 石出掃部亮吉胤墓(足立区千住仲町4-1・源長寺)

$
0
0

石出掃部亮吉胤 ( いしでかもんのすけ - よしたね ) は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤 ( かもんづつみ ) 築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。


その実績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。


これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国 ( とおとうみのくに 静岡県 ) 石出の出身とされる。


のち下総国千葉 ( 千葉県千葉市 ) を経て文禄年間 ( 一五九二 ~ 九六 ) 本木に移って土地開発をし、慶長三年 ( 一五九八 ) には掃部宿に移住して開拓に当たったという。


元和 ( げんな ) 二年( ( 一六一六 )、鷹狩に来訪した徳川家康にこの地に延長二キロの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。


また『南安達郡誌』( 大正五年版 ) には、大永二年 ( 一五二二 ) に千葉日向守幸胤 ( ちばひゅうがのかみゆきたね ) の長子として小田原に生まれたとある。


北条氏家臣であったが、天正十八年 ( 一五九〇 ) の同氏滅亡後は家臣・原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。


文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和四年六月二十二日に九十七歳 ( 数え年 ) で没したと記述している。


大正五年 ( 一九一六 )、従五位 ( じゅごい ) を追贈された。


石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長十五年に創建したが、伊奈備前守忠次 ( いなびぜんのかみただつぐ ) に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。


現在の墓石は後年子孫が建立したものである。


昭和五十八年十二月、足立区指定文化財記念物 ( 史跡 ) とした。
(案内板より)


● 石出 吉胤

石出 吉胤 ( いしで - よしたね )

天文元年 ( 1532年 ) または天文 11年 ( 1542年 ) - 元和 4年 6月 22日 ( 1618年 8月 12日 )) は、足立区千住掃部宿 ( 現・仲町 ) の開発者。通称は掃部介 ( かもんのすけ )。


吉胤の出身地は確定していないが,『新編武蔵風土記』によれば千葉市一族で遠江国の出身とされており,


また『南足立郡誌』( 大正 5年版 ) によれば、千葉日向守幸胤の長子として相模国小田原に生まれたとある。


ちなみに石出という家名そのものは、千葉常胤のひ孫で下総国香取郡石出 ( 千葉県東庄町石出 ) を領した石出次郎胤朝に由来する。


下総国を経て足立郡本木村に土着し、のちに千住へ移り住んで千住源長寺に葬られた。子孫は永く掃部宿の名主を務めた。


文禄元年、弟の覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事に参加した。


掃部堤 ( かもんづつみ ) と呼ばれる堤防を築き、千住宿を水害から守った功により、大正時代に五位を追贈された。(以上出典:『足立風土記』)


官制上は「掃部助」と書くのが正しいが、戦国時代の濫称であろう。


伝馬町牢屋敷の長を世襲した石出帯刀との関係は解明されていない。

(wikiより)


2458a
2458b
2458c







にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。

Viewing all 3950 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>