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1840 和泉要助墓(台東区谷中5-10-10・長明寺)

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ちょっと出かけてしまう為、早めの更新です。



夕方の更新は何時も通りです、宜しく御願い致します。




和泉要助 ( いずみ - ようすけ、文政 12年 11月 25日 ( 1829年 12月 20日 ) - 明治 33年 ( 1900年 ) 9月 30日 ) は明治時代の発明家。姓は「長谷川」とも表した。


人物
筑前国鞍手郡平泉村生まれ。


筑前福岡藩の藩士・出水要の養子となり、のち和泉要助と名を改めた。


明治 3年 ( 1870年 ) に鈴木徳次郎、高山幸助と人力車の製作を行い、同年に東京府より製造と営業の許可を得た。


人力車総行司となったが、人力車普及につれ特許制度の不備も重なり専売としての権利を維持することはできず特権を失ったとされる。


明治 6年 ( 1873年 ) には下賜金が付与されたとの記録があることから ( 出典:国立公文書館デジタルアーカイブ明治 6年 12月 5日文書 ) 免許剥奪の代価として与えられた可能性がある。


また、明治 16年 ( 1883年 ) には再び金 200円の下賜金が下されている。


その文書によると

「明治 2、3年の交、和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎と共同して一種軽便なる乗車を按出し之を人力車と名け、東京府に請ふて允許を得、其製作及輓走の業を創むるも、人怪んて之に駕する者なかりしに、種々の工夫を以て其効用を世に知らしめ、細民業を転して之に従ふ者漸く多く、尋て 3人に総行事を命せられ車数の調査、車税の徴収に鞅掌すること数年已にして流行遠邇に普及し、今や貴賤を論せす都鄙を問はす皆其沢を享けさるはなく啻に交通に益し世用を資くるのみならす斯業に頼て以て衣食する者実に尠とせす且つ海外に輸出の盛んなるを見るに至りしは輙ち其率先起業の効に職由せすんはあらす洵に奇特とす因て明治 16年第 1号布告及金銀木杯金円賜与手続に拠り和泉要助は本人へ故高山幸助故鈴木徳次郎は其相続人へ各金 200円下賜相成可然と認定候条此段上申」( 引用:国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵「和泉要助以下三名ヘ金円下賜ノ件」( 明治 33年 3月 20日作成 ) より。強調及び句読点を追加している )


と明治時代において、「産業の創設」「雇用の創出」「税源の創出」「貿易への貢献」と、起業家としての功績を大いに認められている。


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10929859635.html
592 秋葉大助墓(台東区谷中1-5-2・本光寺)


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1841 松平治郷墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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松平 治郷 ( まつだいら - はるさと ) は、出雲松江藩の第 7代藩主。直政系越前松平家宗家 7代。また、江戸時代の代表的茶人の一人で、号は不昧 ( ふまい )。


生涯
寛延 4年 2月 14日 ( 1751年 3月 11日 )[1]、第 6代藩主・松平宗衍の次男[2]として生まれる。


明和 4年 ( 1767年 )、父の隠居により家督を継いだ。


将軍徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の 1字とにより治郷 ( はるさと ) と名乗る。


この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様 ( 松江藩の藩主 ) は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。


そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。


しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。


これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永 7年 ( 1778年 ) に井上恵助による防砂林事業が完成、天明 5年 ( 1785年 ) の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。


これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。


ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から

2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。


このため、藩の財政は再び一気に悪化した ( 改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる )。


文化 3年 3月 11日 ( 1806年 4月 29日 )、家督を長男の斉恒に譲って隠居し、文政元年 4月 24日 ( 1818年 5月 28日 ) に死去した。享年 68。墓所は松江市の月照寺。


松江市殿町鎮座の松江神社に主祭神として祀られている。


弟の衍親 ( のぶちか ) は、俳諧などをよくする趣味人の松平雪川として知られる。


人物・逸話
政治家としての治郷の評価は低いが、一説には財政を再建して裕福になったのを幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者を演じていたという説もある ( 越前松平家系統は親藩の雄として尊重されると共に、過去の経緯から幕府からは常に警戒されていた )。


茶人としての才能は一流であり、石州流を学んだ後に自ら不昧流を建てた。


さらには「古今名物類従」や「瀬戸陶器濫觴」など、多くの茶器に関する著書を残している。


ちなみに治郷によって築かれた茶室は菅田菴 ( 寛政 2年 ( 1790年 ) 築、国の重要文化財 ) や塩見縄手の明々庵 ( 安永 8年 ( 1779年 ) 築 ) に現存する。


この他に茶の湯につきものの和菓子についても、治郷が茶人として活躍するに伴い、松江城下では銘品と呼ばれるようになるものが数多く生まれた。


このため、松江地方では煎茶道が発達して、今でも湯のみがお猪口状の湯呑で飲む風習が残っている。


上記のように治郷の収集した茶器の銘品・銘菓 ( 山川・若草など ) は「不昧公御好み」として現在にも伝えられ、松江市が今もって文化の街として評される礎となったことは、現代までに至る治郷の功績である。

武芸にも堪能で、松江藩の御流儀である不伝流居相 ( 居合 ) を極め、不伝流に新たな工夫を加えた。


金魚を愛し、部屋の天井に硝子を張って肱枕で金魚を眺めた、金魚の色変わりについて藩士を他国に派遣してその秘法を会得させた、などとも伝えられる。


また、松江藩で開発され、さかんな金魚出雲なんきんがこの金魚と思われるが、現在島根県の天然記念物に指定されている。


官歴
明和元年閏 12月 21日 ( 1765年 2月 10日 )、従四位下侍従兼佐渡守

明和 4年 11月 27日 ( 1768年 1月 16日 )、家督相続し、12月 7日 ( 1月 26日 )、出羽守に遷任。侍従如元。


寛政 6年 12月 16日 ( 1795年 2月 5日 )、左近衛権少将に転任。出羽守如元。


文化 3年 3月 11日 ( 1806年 4月 29日 )、隠居し、不昧を号す。


脚注
1. a b 百目木 1918, p. 2
2. 百目木 1918, p. 5.


参考文献

百目木, 智璉 (1918). 松平不昧言行録. 修養史伝. 東亜堂書房.

関連文献[編集]
内藤正中、島田成矩『松平不昧』増補版 松江今井書店 1998年(1966年)
松平家編輯部編纂『松平不昧傳』増補復刊 原書房 1999年(1917年)
長尾遼『真説松平不昧 江戸中期を生きた見事な大名の生涯』原書房 2001年
不昧流大円会事務局編『松平不昧と茶の湯』不昧公生誕二百五十周年記念出版実行委員会 2002年
(wikiより)


1841 松平治郷 松平治郷
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作曲家の松岡直也さん死去

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ジャズ・ピアニストで作曲家の松岡直也(まつおか・なおや)さんが29日午前10時22分、亡くなった。公式サイトで発表された。


76歳。神奈川県出身。


通夜、葬儀・告別式は親族、ミュージシャン、業界関係者で執り行う。


公式サイトによると、2001年に病気が見つかった。


「本人にとっての日常生活はつらい日々だったと思いますが、ファンの方々やミュージシャンおよび関係スタッフ、家族に支えられながら大好きな音楽を続けてこれたことは、エネルギーをいっぱい頂き、充実した音楽ライフが過ごせたことでしょう」。


今年3月末に体調が急変、入院したという。


日本を代表するラテン・フュージョン音楽の第一人者。


15歳の時「パン猪狩とマーキス・トリオ」のピアニストとしてプロデビュー。


1979年「松岡直也 & Wesing」を結成。フュージョン・ブームを巻き起こした。


日本テレビのドラマ「飛び出せ!青春」の主題歌になった青い三角定規「太陽がくれた季節」を編曲。


いしだあゆみ(66)「小さな愛の歴史」の作曲者として古賀賞を受賞した。


日本レコード大賞を受賞した中森明菜(48)「ミ・アモーレ」の作・編曲、テレビ朝日「ニュースステーション」の初代テーマ曲などで知られた。


● 松岡直也
松岡 直也 ( まつおか - なおや、1937年 5月 9日 - 2014年 4月 29日[1]) は、神奈川県横浜市中区本牧生まれの日本のジャズ・ピアニスト、ラテンフュージョンミュージシャン、作曲家、編曲家である。


経歴

生家は本牧・小港のチャブ屋街にあった「東亜ホテル」。


7歳の頃から独学で学んだピアノを弾き始める。


15歳の時、「パン猪狩とマーキス・トリオ」のピアニストとしてプロデビュ-。


翌年には自己のバンド「松岡直也カルテット」を率いてライブを中心に活動を開始する。


また、「浜口庫之助とアフロ・クバーノ・ジュニア」にピアニスト、アレンジャーとして参加し、ヒット曲「黄色いサクランボ」を編曲する。


この頃からラテン音楽の虜になり、「キューバン・スペシオーサ」、「松岡直也ピアノ・トリオ」、「ラテン・スペシオーサ」、「松岡直也ラテン・ピアノ・トリオ」、「松岡直也ハバナ・ビーツ」( 後に「松岡直也ハバナ・ビーツ・オーケストラ」に改名 ) などのラテンバンドで活躍する。


1961年には「アーティストリー・サウンド」を結成し、ショーの音楽プロデュースと編曲を手掛けるようになる。


その後、いずみたくが主宰する「オール・スタッフ」に所属。


映画・テレビ・CM音楽等の作・編曲を手掛ける傍ら、スタジオ・ミュージシャンとして活動を始める。


1972年にはテレビドラマの主題歌として使われた「太陽がくれた季節」( 歌・青い三角定規 ) を編曲し、青い三角定規はこの曲で第 14回日本レコード大賞・新人賞を受賞した。


また翌年、いしだあゆみの「小さな愛の歴史」で作曲家として古賀賞を受賞した。


更に「松岡直也オールスターズ」を結成しライブ活動を再開する。


1977年、初のリーダーアルバム『JOYFUL FEET』を発表。


1979年にはホーン・セクションを加えた大規模編成による「松岡直也&ウィシング」を結成。


また「ラテン・ジャズ・アンサンブル」の日本公演にピアニストとして参加した。


1981年には神戸市で開催された「ポートピア'81」のダイエー館 ( オムニマックス・シアター ) の音楽を担当。


そこでの使用楽曲は同年のアルバム『THE SHOW』に収録されている。


また同じ 1981年には、ロックプロジェクト・MASH ( マッシュ ) を立ち上げるものの、衣装の派手さや音量の大きさが仇となってしまい短命に終わる。


1982年、音楽活動 30周年を記念したアルバム『九月の風』を発表。


オリコンチャート第 2位、半年間 30位以内にチャートインするなど、インストゥルメンタル・ミュージック界において驚異的な記録を作った。


またアルバム・タイトル曲が三菱・ミラージュのCMに使用されたこともあり、一気に松岡の名前が知れ渡るようになる。


その後 1~ 2年は三菱の各車種のCMに松岡の楽曲が使用されていた ( 中にはCMオリジナルでアルバムには収録されていない楽曲もある )。


しかし人気が高まるにつれ、大規模編成であるウィシングのライブ活動がままならなくなりやむなく解散。


小規模編成による「松岡直也グループ」を結成。この中からは和田アキラ、高橋ゲタ夫、菅野真吾 ( 現・カルロス菅野 )、大橋勇 ( 現・勇武 ) といった人気ミュージシャンを生み出している。


日本国外では 1980年と 1983年の 2回にわたって、スイス「モントルー・ジャズ・フェスティバル」に出演。


特に 1983年は大成功を収め、そこで演奏された楽曲は同年のアルバム『WELCOME』にも収録されている。


1985年にはその年にANN系列で放送を開始した「ニュースステーション」をはじめとするニュース番組のテーマ曲を作曲。


また中森明菜に提供した「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」の作・編曲を手掛け、同曲は第 27回日本レコード大賞を受賞し、また松岡は日本作曲家大賞・優秀作曲家賞を受賞した。


翌 1986年にはわたせせいぞう作で日本テレビ系列で放送された『ハートカクテル』の音楽を担当。


楽曲は「ハートカクテルVol. 1・Vol. 2」として 1986年 11月と 1987年 2月に発売された。


一方でプロレスラー・藤波辰巳 ( 現・辰爾 ) の入退場テーマ曲を作曲するユニークな面も見せた ( 1987年 1月に 12インチ・シングルとして発売された )。


1990年にはNHK教育テレビで放送された「ベストサウンドIV」の講師を担当。


1993年には再びホーン・セクションを交えた大規模編成によるバンド「松岡直也バンダ・グランデ」を結成、


更に 1997年にはTBS系列のドラマ「智子と知子」の劇中音楽を担当。


2005年にはニューアルバム『Sincerely』を発表し、ライヴ活動も盛んに行うなど、70歳を過ぎても精力的に活動を続けていた。


楽曲提供

清野由美 『リオの魔法使い』(作曲)
久保田利伸 『The Latin Man』(作曲・編曲)- 1984年に発売された松岡のアルバム「LONG FOR THE EAST」にも収録されている。
土田誠子 『世界を結ぼう』(作曲)
中森明菜 『ミ・アモーレ』『赤い鳥逃げた』『月夜のヴィーナス』(作曲・編曲)
長山洋子 『真夜中のオンディーヌ』(作曲・編曲)
畠田理恵 『ターミナル』(作曲・編曲)
ペドロ&カプリシャス 『カーニバル・ラブ』『GAFIEIRA NIGHT』(作曲・編曲)
マルシア 『灼熱…サウダージ ~AMOR…SAUDADE~』『熱風エリア』『紅い蓮~Chove Chuva~』『逆光線』(作曲・編曲)


参考

1987年発表のアルバム『日曜島へ』及び1992年発表の音楽生活40周年記念アルバム『松岡直也ベスト・セレクション』の各ライナー・ノーツを参考に記載


脚注・出典

1. “松岡直也オフィシャルサイト”. 2014年4月30日閲覧。


外部リンク

公式サイト

(wikiより)


松岡直也 合掌









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1842 吉田 貢墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)

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吉田 貢 ( よしだ - みつぐ ) 明治 32年 ~ 昭和 18年 4月 3日 ( 1899 - 1943 )


東京帝国大学助教。父、伊予田実 ( 三男 )。


吉田義輝の養子。埼玉県出身。


文部省技師。


建築家勤務兼東大営繕課勤務を経て、東京帝国大学助教。


正五位勲五等。45歳。


「謙徳院殿文堂宗貢居士」。


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今回の旅は

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○ 1日目
羽田空港からボーイング787ドリームライナーで、 - 宮崎空港 - 青島神社・鬼の洗濯板 - 鵜戸神宮 ( 山幸彦・海幸彦伝説の舞台 ) - 城下町飫肥 ( おび ) 散策 - 霧島神宮温泉 ( 泊 )。


○ 2日目
霧島神宮温泉 - 霧島神宮 - 桜島展望所 - 桜島港 ( フェリーにて ) 鹿児島港 - 屋久杉工房 - 長崎鼻 ( 薩摩半島南端の地 ) - 指宿温泉 ( 泊 )。


○ 3日目
指宿温泉 - 開聞岳 ( 車窓 ) - 池田湖 ( 九州最大のカルデラ湖 ) - 知覧 ( 薩摩の小京都 / 特攻平和会館 ) - お土産関連のお店数件に立ち寄り - 鹿児島空港 - 羽田空港。


というルートでした。


ちょこちょこ休憩も取って良い感じでしたが、なんだか宿で熟睡出来なかったせいか いまでも疲れが「抜け」ません ( 笑 )。


城下町飫肥散策では、小村寿太郎の生家や国際交流センター・小村記念館、旧伊東伝左衛門家、旧山本猪平家、小村寿太郎侯誕生之地等々の見所が多い場所でした。


また飫肥 ( おび ) 城観光駐車場から、10数分程度の場所には「西公園・西南戦争戦没者墓地」、「五百禩神社 ( 旧報恩時庭園 )」、「小林寿太郎侯墓、伊東家累代墓地」が有りました。


が今回は時間が足りなかった為、墓地散策は断念 ( 泣 )。


この駐車場の近くにある「おび天本舗 ( 薩摩揚げ )」は、美味しかったです


さつま揚げは通常「甘い」のですが、おび天は紅ショウガを食べた為か「さつま揚げほどは、甘くなかった」ので良かったです。


桜島展望所では、桜島が小噴火していて火山灰が目に入って難儀しました。


あと指宿の「砂蒸し温泉」は、とても気持ち良かったです けっこう熱かったので 10分が限界でしたが、人によっては 30分以上入った人もちらほら・・・


なんといっても今回メインだったのが、『ホタル館 富屋食堂』は、特攻の母と慕われた「鳥浜トメ」さんが食堂を営んでいた場所で、映画 『俺は、君のためにこそ死ににいく』の舞台になった場所でも有ります。


現在の建物は、映画ホタルのセットです。


近くには、知覧武家屋敷庭園、知覧城跡、島津墓地が有りました。


知覧特攻平和会館は、関内撮影禁止の為 画像は無しです。


また道路脇には、一式戦闘機「隼」III型甲 - 復元複製機 ( 「俺は、君のためにこそ死ににいく」の実寸大精巧レプリカ )、等々が有り見所満載ですね。


最後は、仙巌園 ( 磯庭園 ) 島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた庭園だそうです。


一番驚いたのが、この仙巌園の隣に有る「鶴嶺神社 ( つるがねじんじゃ)」に、源頼朝の墓が有ったのはビックリでした。


流石に日差しが強いです。
2 小村寿太郎の生家
3 旧伊東伝左衛門家

4 映画:石井十次の生涯で使用された家
5 小村寿太郎侯誕生之地
6 おび天本舗
7 紅ショウガ、ゴボウが御勧めです。
8 桜島が噴火しています。
9 湯之平展望所からの桜島
10 池田湖のイッシー像
11 ホタル館 富屋食堂
12 ホタル碑
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17 T-3 初等練習機
18 一式戦闘機「隼」III型甲 - 復元複製機

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21 映画 : 「俺は、君のためにこそ死ににいく」


22 「俺は、君のためにこそ死ににいく」のスチール写真


23 鶴嶺神社内に有った源頼朝の墓
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1843 南部利剛墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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南部 利剛 ( なんぶ - としひさ ) は、陸奥国盛岡藩の 14代藩主。12代盛岡藩主・南部利済の三男。


経歴

藩主・南部利済の三男として盛岡に生まれる。


七戸藩主南部信誉の養嗣子となるが病により本家へ戻る (『補遺参考諸家系図』)。


嘉永 2年 ( 1849年 )、父の強制により兄・利義が隠居に追い込まれ、代わって 13代藩主に就任した。


その後、安政元年 ( 1854年 ) の蟄居まで父の院政が敷かれる。


この家督相続に対しては反対が根強く、嘉永 6年 ( 1853年 ) の第 2次三閉伊一揆では利義の復帰及び帰国が一揆側の要求の一つであった。


この要求は退けられ、その後も藩主は利剛のままであった。


父が幕府の命により江戸で蟄居を命じられて以降に親政を開始したが、藩政再建に関して家老で母方の従弟の楢山佐渡と、同じく家老で極端な改革を進める東政図 ( 中務 ) が対立するなど、藩政は迷走する。


安政 2年 ( 1855年 ) の安政大地震に遭遇して負傷する。


慶応 4年 ( 1868年 )、夏に九条道孝率いる官軍の進駐を受けてこれに対し饗応するが、布告には恭順しなかった。


しかし秋田藩が官軍側へ恭順すると、これを攻撃するために奥羽越列藩同盟の盟約に従って出兵し、官軍と戦うも敗れ、降伏する。


このため、明治新政府から隠居と領地召し上げを命じられたが、長男・利恭に陸奥国白石 13万石に減転封が許された。


また、家老・楢山佐渡ら 3人が切腹となった。


人物
温厚な性格で、争いを好まず、政務の決定は重臣に委ねて干渉しなかったが、かえって楢山と東の暗闘が続き、施策が一定しない結果を招いた。


文武奨励に積極的で、藩校作人館 ( 現盛岡市立仁王小学校 ) の拡張と学田を設けた。


官職位階履歴
嘉永 2年 ( 1849年 ) 12月:四品に叙任。
嘉永 4年 ( 1851年 ) :従四位侍従に叙任。
文久元年 ( 1861年 )
12月:従四位少将に叙任される。


主要家臣

嘉永 7年 ( 安政元年・1854年 ) 及び慶応 2年 ( 1866年 ) の武鑑で見られる主要家臣は以下のとおり。


【嘉永 7年】
《 世襲家老 》南部弥六郎、南部土佐、南部吉兵衛


《 その他家老 》毛馬内典膳、楢山帯刀、向井大和、下田舎、桜庭陽之輔、楢山五左衛門、南部主計、三戸駿河


《 北地大番頭 》藤枝宮内


《 近習頭 》花輪徳之助、原直記 ( 原敬祖父 )、田鎖左膳


《 番頭 》桜庭十郎右衛門、内堀若狭、奥瀬内蔵、野田舎人、下田将監、奥瀬治太輔


《 側用人 》中野要人 ( 南部謹詳附家老兼務 )、川島杢左衛門 ( 南部剛弘附家老兼務 )、石原汀、田鎖茂左衛門、高屋長門


《 用人 》井上弥学、楢山宇八郎、戸来又兵衛、栃内与兵衛、下田右学、米田武兵、戸来官左衛門、嶋川融機、吉兼大進、木村与一、菊池金吾、千種平角


《 城使 》加島七五郎 ( 定府 )、小野寺傳八、新渡戸十次郎 ( 新渡戸傳の子 )


《 添役 》加島加録


【慶応 2年】
世襲家老南部弥六郎、南部監物、南部吉兵衛その他の家老など向井外記、楢山佐渡、花輪図書、三戸式部、南部主水、南部啓之助、南部左近、南部廉次郎北地大番頭桜庭裕橋近習頭米田武兵、戸来又兵衛番頭桜庭十左衛門、内堀若狭、八戸内記、下田将監、黒澤内膳、漆戸瀧口側用人栃内与兵衛、毛馬内九左衛門、江刺邊、葛巻善左衛門用人奥瀬衛門、奥寺八左衛門、野々村眞澄、小野寺傳八、新渡戸十次郎、中野三五郎城使加嶋加禄、横田隼之助添役寺澤純一郎 ( 定府 )


参考文献

「日本人名大辞典」(講談社)
「岩手県史 第5巻」
「三百藩家臣人名事典 1」(新人物往来社)
橋本博「改訂増補・大武鑑・中巻」(1965年、名著刊行会)
「系図纂要」


外部リンク

盛岡市役所 盛岡市ガイド › もりおかの歴史 › 盛岡の先人たち › 第123回:南部利剛

(wikiより)


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1844 南部利恭墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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南部 利恭 ( なんぶ - としゆき、安政 2年 10月 9日 ( 1855年 11月 18日 ) - 明治 36年 ( 1903年 ) 10月 19日 ) は、陸奥国盛岡藩 15代で最後の藩主。


14代盛岡藩主・南部利剛の長男。官位は従二位、甲斐守。伯爵。


明治元年 ( 1868年 )、父が明治新政府から隠居を命じられたため、家督を相続。


戊辰戦争で官軍と交戦したため、陸奥国白石 13万石に減転封された。


正室は伊達宗城の娘、継室は溝口直溥の娘、浅野懋昭の娘。子は、長男・南部利祥 ( 南部家第 42代当主 )、次男・南部利淳 ( 南部家第 43代当主 )。


外部リンク

盛岡市役所 盛岡市ガイド › もりおかの歴史 › 盛岡の先人たち › 第25回:南部利恭
(wikiより)



関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11757628042.html
1843 南部利剛墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)


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1845 山縣有朋墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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山縣 有朋[1]( やまがた - ありとも、天保 9年閏 4月 22日 ( 1838年 6月 14日 ) - 大正 11年 ( 1922年 ) 2月 1日 ) は、日本の武士 ( 長州藩士 )、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は公爵。


内務大臣 ( 初・第 2・第 3代 )、内閣総理大臣 ( 第 3・9代 )、元老、司法大臣 ( 第 7代 )、枢密院議長 ( 第 5・9・11代 )、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長 ( 第 5代 ) などを歴任した。


長州藩領内の蔵元仲間[2]三郎有稔 ( ありとし ) の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。


高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。


明治政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。


官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成[3]。


山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。


晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」[4]として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。


自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。各国でも大英帝国のメリット勲章等勲章を多数受章している。

生涯

幕末

天保 9年 ( 1838年 )、萩城下近郊の阿武郡川島村 ( 現在の山口県萩市川島 ) に、長州藩の中間・山縣有稔 ( ありとし ) の長男として生まれる。


足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。


このころ友人・杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[5]。


安政 5年 ( 1858年 ) 7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した 6人のうちの一人として、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京し、尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化を受け 9月に帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。


松蔭門下となったことは出自の低い山縣が世に出る一助となったと考えられる。


山縣が入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。


文久 3年 ( 1863年 )、高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し頭角を現す。


高杉は身分に囚われずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山縣などが世に出るきっかけを与えた。


松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山縣のように足軽以下の身分の志士が多く出ている[6]。


同年 12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管・赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任し、赤根が出奔した後は事実上実権を握った。


慶応元年 ( 1866年 ) に四代目総管に就任し、長州征討で高杉と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。


明治 2年 ( 1869年 )、維新の功によって賞典禄 600石を賜っている。


明治維新後

明治 2年 ( 1869年 ) に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。


翌年アメリカ経由で帰国。


その後は競争相手を押しのけて、大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた ( 徴兵令 )。


明治 5年 ( 1872年 )、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。


山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治 6年 ( 1873年 ) 4月に陸軍大輔を辞任。


然し山縣に代わりうる人材がなく、同年6 月に陸軍卿で復職した。


参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。


明治 10年 ( 1877年 ) に勃発した西南戦争では、参軍として官軍の事実上の総指揮を執った。


錬度や士気で優る薩軍に対し、物量で対抗して鎮圧した。


9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った[7]。


明治 16年 ( 1883年 ) には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。


明治 21年 ( 1888年 ) 12月 2日より、ヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。


その為、翌 明治 22年 ( 1889年 ) 2月 11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には臨んでいない。


伊藤博文も学び、当時「シュタイン詣で」とさえいわれるほど日本政府の要人らがウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問。ほかルドルフ・フォン・グナイスト、ヨハン・クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム 2世らのもとを訪問。


10月 2日に帰国[8]。


明治 22年 ( 1889年 )、内閣総理大臣に就任 ( 第 1次山縣内閣 ) し、日本最初の帝国議会に臨んだ。


超然主義をとり軍備拡張を進める。


第 1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」( 国境 ) のみならず「利益線」( 朝鮮半島 ) の確保の為に軍事予算の拡大が必要であると説いた。


明治 23年 ( 1890年 ) 10月 30日に教育勅語を発布。


明治 24年 ( 1891年 ) に辞任[9]し、元老となる。


日清戦争では、56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとった。


「敵国は極めて残忍の性を有す。生摛となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。


配下の第 5師団が平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自身は体調を崩し、明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返されている[10]。


明治 31年 ( 1898年 )、第 2次山縣内閣発足。


明治 32年 ( 1899年 )、文官任用令を改正[11]。 文官懲戒令、文官分限令を公布。


明治 33年 ( 1900年 ) 3月 10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業 ( ストライキ ) の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。


続いて 3月 29日には、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税 15円以上から 10円以上に緩和 ( さらに、国税は過去 3年間から 2年間に緩和。地租は 1年間で変化無し ) すると共に、小選挙区制 ( 一部完全連記制の中選挙区制 ) から大選挙区制 ( 一部小選挙区 ) に改めた。


市制を執行している自治体は、それぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ 1選挙区とした。


このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数 1の小選挙区となった。


また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。


山縣は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した ( 超然主義 )。


小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。


また、政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。


もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。


同年 10月辞任[12]。


陸軍・官僚の大御所

以後、陸軍・内務省・宮内省・枢密院等にまたがる「山縣系官僚閥」を形成して、陸軍出身では桂太郎や寺内正毅、官僚出身では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。


日露戦争で参謀総長として日本を勝利に導いたこと、伊藤博文が暗殺された事も加わり、明治末期から大正初期にかけて山縣の発言力は増大したが同時に反感反発も大きくなった。


山縣は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正 4年 ( 1915年 ) の対華 21ヶ条要求を批判した。


山縣が政党を嫌った理由として、対外硬派が政党に多く存在したことが挙げられる。軍部大臣現役武官制の制定も、政党政治家が無謀な戦争に走ることを避けるためと考えられている。


だが、桂の自立 ( 大正政変 を参照 )、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第 1次世界大戦等、山縣は次第に時代の変化についていけなくなり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。


そのような中で政党内閣の時代を迎え、やがて宮中某重大事件を巡る対応の拙さから山縣の政治的な権威は大きく失墜した。


この頃までに日本は著しい経済成長を遂げており、国内総生産は 1885年から 1920年までに 3倍に成長し、日本の国際的地位も上昇したが、山縣はむしろ日本の急成長によって欧米人が黄禍論をどんどん強めていることに不安に感じていた。


第一次世界大戦中には「黄色人種に対して白色人種が同盟を組んで対抗してくるような事態を防ぐため、何か手段を講じることは非常に大切である」と書いている[13]。


宮中某重大事件と原敬暗殺の後ほどなくして、失意のうちに小田原の別邸で逝去する。83歳没。


山縣の葬儀は国葬となったが、参列したのは陸軍や警察・内務省の関係官僚ら義務的に参加した者が殆どで、一般の参列者はほとんどいなかった。


山縣の直前に病没した大隈重信の葬儀は国葬ではなく「国民葬」とされ、その実多数の民衆が集まったのとは好対照であり山縣の国葬は正に「民抜きの国葬」と揶揄された (「国民葬」から「民」を抜くと「国葬」となる )。


陽性な大隈が国民に慕われたのと反対に陰湿な印象を与えた山縣の死を悼む者は少なかった。当時新聞記者だった石橋湛山が山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評したほどである。


山縣の死とともに薩長藩閥支配はほぼ終焉となった。元老は軍歴のない松方正義 ( 2年余り後に病没 ) と西園寺公望のみとなり、政府と軍を調停する機能を大きく失った。


人物
逸話

明治 30年代 ( 1897年 - 1906年)、社会主義が勃興しつつあり、「社会」という言葉に対してさえも政府が敏感であった頃の話である。


第 2次山縣内閣の時、ある政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいかんと言った。


すると山縣は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。


それに対して、それは東京の文科大学で、建部という教授が担当してやっていますと答えると、山縣は「建部がやっているのか。それならいいじゃないか」と言ったので、その結果ようやく社会学というものが潰れてしまう危機を脱することが出来た[14]。


山縣は軍政家であり、兵を率いて前線に立ち軍功を上げるということはそれほど多くはなかったが、維新後は「自分は一介の武辺」というのが口癖だった。


日清戦争で元首相でありながら第一線に立ったほか、日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望していた ( 結局大山巌が就任 )。


日本史上、軍人として前線に立った首相経験者は山縣だけである。

ドイツ帝国宰相ビスマルク侯爵と参謀総長大モルトケ元帥を深く尊敬していた。椿山荘の居室の暖炉の上にはビスマルクとモルトケの銅像を飾っていたという[15]。


風雅の道と普請道楽
和歌を詠み、また漢詩、仕舞、書を好んだ。


茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。


東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や 7代目・小川治兵衛をして築かせたものである[16]。


これらは山縣の好みに従った自然を生かした構成で、近代主義的・自然主義的日本庭園とも言えるもので[17]、伝統的な日本庭園とは一線を画していた。


主な邸宅と庭

・無鄰菴 ( 初代 ) 長州


・椿山荘 東京・小石川目白台の本邸 明治 10年 ( 1977年 ) - 11年 ( 1878年 ) にこの地を購入し造営。作庭は岩本勝五郎。大正 7年 ( 1918年 ) に藤田平太郎に譲渡。


・山縣農場 栃木県・矢板 明治 19年 ( 1886年 )、那須に広大な第三種官有地の払下げを受け移住農家を招致して開墾をすすめたもの[18][19][20]。古希庵の伊東忠太設計による木造洋館は大正 12年 ( 1923年 )、関東大震災被災のあと養嗣子・伊三郎によりこの農場に移築されて、現在は財団法人山縣有朋記念館となっている。


・小淘庵 ( おゆるぎあん[21][22]) 大磯別邸 明治 20年 ( 1887年 ) 頃からの約 5,000坪の別邸。のち、山縣はこれを三井家に譲渡して古稀庵を構えた。


・無鄰菴 ( 第二 ) 京都別邸 明治 24年 ( 1891年 )。旧角倉邸。鴨川と高瀬川の分岐点、二条大橋のたもとに位置していた。[23]


・無鄰菴 ( 第三 ) 京都別邸 明治 29年 ( 1896年 ) 完成[24]。数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館からなる。洋館の設計は新家孝正で明治 31年 ( 1898年 ) に竣工。この洋館 2階の間は日露開戦直前には「無鄰菴会議」の舞台ともなった。作庭は七代目小川治兵衛。


・新々亭 ( さらさらてい ) 東京小石川水道町別邸 明治 40年 ( 1907年 ) 。この庭にも流れと池が配置された。「新々亭」という名は山縣の詠じた「さら/\と木がくれつたひゆく水の流れの末に魚のとぶみゆ」という歌にちなんだものである。500坪。


・古希庵 ( こきあん ) 小田原別邸[25]。 山縣が明治 40年 ( 1907年) )、古稀の折りに造営し晩年を過ごした邸宅。平屋建の和風木造の母屋、木造二階建の洋館 ( 伊東忠太設計、1909年竣工 )、レンガ造平屋建の洋館 ( ジョサイア・コンドル設計 ) があった。岩本勝五郎による広大な庭園は相模湾と箱根山を借景としていた[26]。「小田原の大御所」の異名はここに由来する。


・新椿山荘 東京・麹町 大正 6年 ( 1917年 ) 山縣三名園椿山荘庭園 1万 8千坪。富士山、筑波山、房総の山々を見渡す広大な庭。
無鄰菴庭園 3100平方メートル ( 約 940坪 )[27]
古希庵庭園 1万坪


「評価」、「栄典」、「系譜」、「脚注」、「関連文献」、「参考文献」、「登場作品・演じた人物」、「関連項目」については、『山県有朋ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B


外部リンク

山県有朋 | 近代日本人の肖像

山縣有朋記念館

山縣 有朋略歴

山県 有朋:作家別作品リスト 青空文庫

国立国会図書館 憲政資料室 山県有朋関係文書(MF:個人蔵)

国立国会図書館 憲政資料室 山県有朋伝記編纂資料(写本)

(wikiより)


1845 山縣有朋 山縣有朋
1845a
1845b









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1846 ジョサイア・コンドル墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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ジョサイア・コンドル ( Josiah Conder、1852年 9月 28日 - 1920年 6月 21日 ) はイギリスのロンドン出身の建築家。


お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校 ( 現・東京大学工学部建築学科 ) の教授として辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。


のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。河鍋暁斎に師事して日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。


「コンドル」はオランダ風の読み方で、コンダーの方が英語に近い。


著書『造家必携』( 1886年 ) には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在しているが、一般には「コンドル先生」で通っている。( コンデルとも呼ばれた )


経歴
1852年 ロンドン、ケニントン二区に生まれる、父は銀行員
父の急逝後、ベドフォード商業学校に通ったが建築家を志し、ロジャー・スミス(父の従兄でロンドン大学教授)の建築事務所で働きながら、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学で建築を学ぶ


1873年 ウイリアム・バージェス事務所に入所


1875年 バージェスの事務所を辞す


1876年「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞。日本政府と契約 ( 5年間 )。


1877年 ( 明治 10年 ) 来日、工部大学校 ( 現・東大工学部建築学科 ) 造家学教師および工部省営繕局顧問


1884年 ( 明治 17年 ) 辰野金吾の教授就任により工部大学校を解雇


1886年 ( 明治 19年 ) 帝国大学工科大学講師 ( 4月 )、官庁集中計画の一環で学生を引率しドイツへ出張 ( 10月 ~ )、ロンドンにも立ち寄り、翌年帰国


1888年 ( 明治 21年 ) 講師辞任、建築事務所を開設


1893年 ( 明治 26年 ) 花柳流の舞踊家、前波くめと結婚


1894年 ( 明治 27年 ) 勲三等瑞宝章


1914年 ( 大正 3年 ) 工学博士号取得


1920年 ( 大正 9年 ) 東京で逝去。67歳。妻と共に護国寺に埋葬された。


主な作品
1879年 訓盲院 - 1923年関東大震災により大破。現存せず。


1882年 旧東京帝室博物館本館 - 1923年関東大震災により大破。現存せず。


1882年 旧宮内省本館 - 1931年取壊し


1883年 鹿鳴館 ( 華族会館 ) - 1940年取壊し


1884年 有栖川宮邸洋館 現存せず。


1884年 東京大学法文科教室 -関東大震災により倒壊。


1884年 北白川宮邸洋館 現存せず。


1889年 岩崎弥之助深川邸洋館 -現・清澄公園内、1923年関東地震により焼失。現存せず。


1891年 ニコライ堂 ( 重要文化財 )


1894年 旧海軍省本館 ( 現在の霞が関の中央合同庁舎第 1号館の位置にあった ) - 1945年東京大空襲により焼失。現存せず。


1894年 三菱一号館 - 1968年取壊し、2009年復元。現・三菱一号館美術館。


1895年 三菱二号館 - 1932年取壊し、跡地は明治生命館。


1896年 三菱三号館 - 現存せず。


1896年 岩崎久弥茅町本邸 ( 現・旧岩崎邸庭園洋館および撞球室、重要文化財 )


1897年 ドイツ公使館 ( 現在の国立国会図書館東京本館の位置にあった 9 - 1945年東京大空襲により焼失。現存せず。


1905年 松方正義邸 - 現存せず。


1908年 岩崎弥之助高輪邸 ( 現・三菱開東閣 )


1908年 ウェスト像台座 ( 東京大学本郷キャンパス構内 )


1910年 岩崎弥之助家廟


1912年 岩永省一邸 ( 一部が現・目黒雅叙園旬遊紀 )


1913年 三井家倶楽部 ( 現・綱町三井倶楽部 )


1913年 旧諸戸清六邸 ( 現・桑名市六華苑、重要文化財 )


1915年 島津家袖ヶ崎邸 ( 現・清泉女子大学本館 )


1917年 古河虎之助邸 ( 現・旧古河庭園大谷美術館 )


参考
1878年 妙法寺鉄門 ( 重要文化財 ) - 工部省の制作であり、当時工部省顧問だったコンドルが関与したとの説あり ( 妙法寺の説明ではコンドル設計となっているが未確認 )


著書

「造家必携」
「河鍋暁斎」岩波書店
「庭造法」マール社
「The Flowers of Japan And The Art of Floral Arrangement」
「Landscape Gardening in Japan」
「Supplement to Landscape Gardening in Japan」
「Painting and Studies by Kawanabe Kyosai」


師弟関係
師匠

ロジャー・スミス ( Thomas Roger Smith 1830 - 1903 ) - ロンドン大学教授、王立建築家協会正会員。コンドルの叔父。
ウィリアム・バージェス ( William Burges 1827 - 1881 ) - ゴシック・リヴァイヴァルの先駆者。


生徒 ( 工部大学校 )

片山東熊 - 第 1期生
辰野金吾 - 第 1期生
曽禰達蔵 - 第 1期生
佐立七次郎 - 第 1期生
渡辺譲- 第 2期生
久留正道 - 第 3期生
河合浩蔵 - 第 4期生
新家孝正 - 第 4期生
滝大吉- 第 5期生
妻木頼黄 - 第 6期生 ( 中退 )


弟子

桜井小太郎


その他
・日本文化に傾倒。画家 ( 浮世絵師 ) の河鍋暁斎に就いて学び、「暁英」という号を与えられた。河鍋暁斎がコンドルに教えたのは、狩野派の画法であると考えられている。

・大磯の吉田茂邸隣地に別荘を保有していた。


脚注
1. 鈴木博之・初田亨編『図面でみる都市建築の明治』柏書房、1990年、17頁。


関連文献
コンドル博士遺作集(1931)
日本の建築 明治大正昭和2 (三省堂、1979)
ジョサイア・コンドル建築図面集(全3巻、中央公論美術出版、1980-1986)
鹿鳴館の夢 建築家コンドルと絵師暁英(藤森照信ほか、INAX、1991)
ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊(鈴木博之、中央公論美術出版、1996)
鹿鳴館の建築家 ジョサイア・コンドル展.図録
(鈴木博之監修、東日本鉄道文化財団、1997/補訂版、建築画報社、2010)鹿鳴館を創った男 お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯(畠山けんじ、河出書房新社、1998)
物語ジョサイア・コンドル 丸の内赤レンガ街をつくった男(永野芳宣 中央公論新社 2006)
河鍋暁斎 (山口静一訳、岩波文庫 2006)
美しい日本のいけばな(工藤恭子訳 講談社 1999) 同インターナショナルで英文原著『日本のいけばな』、『日本庭園入門』 


外部リンク

三菱人物伝 ジョサイア・コンドル(上)

三菱人物伝 ジョサイア・コンドル(下)

「桑名市」ジョサイアコンドル

「目黒雅叙園」内レストラン「旬遊紀」(旧岩永邸の一部を改修した個室がある)

東京大学展・学問のアルケオロジー 日本近代建築教育の曙
(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10511370937.html
114 神田ニコライ堂(千代田区駿河台4-1-3)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10617133621.html
287 河鍋暁斎墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11149456295.html
853 妻木頼黄墓(台東区谷中・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11502480680.html
1457 片山東熊墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11758110932.html
1845 山縣有朋墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)


1846 ジョサイア・コンドル ジョサイア・コンドル
1846a

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  • 1847 野間清治墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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    野間 清治 ( のま - せいじ、1878年 12月 17日 - 1938年 10月 16日 ) は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。


    経歴

    1878年 - 群馬県山田郡新宿村 ( 現在の桐生市 ) の新宿小学校 ( 現在の桐生市立南小学校 ) 教員住宅で生まれる


    1895年 - 木崎尋常小学校 ( 現在の太田市立木崎小学校 ) の代用教員となる


    1896年 - 群馬県尋常師範学校 ( 現在の群馬大学教育学部 ) 入学


    1902年 - 東京帝国大学文科大学 ( 現在の東京大学文学部 ) 第一臨時教員養成所国語漢文科入学


    1905年 - 沖縄県立中学校 ( 現在の沖縄県立首里高等学校 ) 教諭となる


    1906年 - 沖縄県視学 ( 地方教育行政官 ) となる


    1907年 - 東京帝国大学法科大学の首席書記に就任


    1909年 - 大日本雄辯會 ( 大日本雄弁会 ) を創設


    1910年 - 弁論雑誌「雄辯 ( 雄弁 )」を創刊


    1911年 - 講談社創業。雑誌「講談倶楽部」を創刊


    1925年 - 雑誌「キング」を創刊。爆発的大ヒットとなる


    1930年 - 報知社 ( 1932年より報知新聞社 ) を買収


    1938年 - 10月 16日午後 1時 30分、急性狭心症で死去。法名:威徳院殿文誉義道清秀居士


    2005年 - 全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰される


    人物

    父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪・森要蔵の高弟で、母・ふゆは森要蔵の長女である。


    清治も剣道に励んだが、1912年 ( 明治 45年 )、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂するけがを負い、修行を断念。


    その後は剣道家のパトロンとして活動する。


    屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。


    息子の野間恒には尋常小学校卒業後は進学させず、帝王学ともいえる独自の教育を施した。


    恒は 1934年 ( 昭和 9年 ) 開催の剣道天覧試合で優勝し、「昭和の大剣士」と謳われた。


    ただし、恒を勝たせるため、東京予選決勝の対戦相手である甥の森寅雄に養育した恩をたてに詰め寄り、わざと負けさせたと当時から噂があった。


    現在でも、森寅雄の伝記ではそのように描かれ、日本テレビのテレビ番組『知ってるつもり?!』でもそのような非人格的な人物として紹介されたことがある。


    ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」( 精神をみがき人格を高めること ) を積むことの大切さを説いた。


    公共心の旺盛な人物で社会貢献に積極的であった。


    奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。


    その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館という美術館は低料金 ( 一般: 500円 ) で入館可能で、横山大観や鏑木清方の日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを目にすることができる。


    主な刊行雑誌

    「雄弁」(1910年)
    「講談倶楽部」(1911年)
    「少年倶楽部」(1914年)
    「面白倶楽部」(1916年)
    「現代」(1920年)
    「婦人倶楽部」(1920年)
    「少女倶楽部」(1921年)
    「キング」(1925年)
    「幼年倶楽部」(1926年)


    著書

    『處世の道』 大日本雄辯會講談社(1930年) NDLJP:1037184
    『體驗を語る』 大日本雄辯會講談社(1930年) NDLJP:1443936
    『修養雑話』 大日本雄辯會講談社(1931年) NDLJP:1026740
    『出世之礎』 大日本雄辯會講談社(1931年) NDLJP:1023835
    『喜劇全集』 大日本雄辯會講談社(1931年)
    『榮えゆく道』 大日本雄辯會講談社(1932年) NDLJP:1279475
    『野間清治短話集』 大日本雄辯會講談社(1933年)
    『世間雑話』 大日本雄辯會講談社(1935年) NDLJP:1275017
    『私の半生』 千倉書房(1936年)
    『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年)


    編書

    『少年少女教育講談全集』 大日本雄辯會講談社(1930年)
    『武道寶鑑』 大日本雄辯會講談社(1934年)

    関連文献[編集]
    荒木武行『人物評伝 野間清治論』 全線社書房(1931年)
    高木義賢編『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年)
    辻平一『人間野間清治』 講談社(1960年)
    笛木悌治『私の見た野間清治―講談社創始者・その人と語録』 富士見書房(1979年)
    堂本昭彦『中山博道有信館』 島津書房(1993年) ISBN 4882180480
    出川沙美雄『奇蹟の出版王―野間清治とヘンリー・ルース』 河出書房新社(2000年) ISBN 4309904084
    渡部昇一『仕事の達人の哲学―野間清治に学ぶ運命好転の法則』 致知出版社(2003年) ISBN 4884746678


    関連項目
    野間文芸賞
    大宅壮一
    木暮剛平


    外部リンク

    野間清治顕彰会

    (wikiより)


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10605755243.html

    272 講談社発祥の地(文京区・千駄木)


    1847 野間清治 野間清治
    1847a
    1847b









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    1848 大倉喜八郎墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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    大倉 喜八郎 ( おおくら - きはちろう、天保 8年 9月 24日 ( 1837年 10月 23日 ) - 昭和 3年 ( 1928年 ) 4月 22日 ) は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家、中堅財閥である大倉財閥の設立者。


    渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。


    生涯
    生い立ち
    天保 8年 ( 1837年 ) 9月 24日、越後国北蒲原郡新発田町 ( 現新潟県新発田市 ) の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。


    幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。


    大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎 ( 初代・定七 ) の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。


    祖父・卯一郎 ( 2代目・定七 ) の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。


    この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。


    父・千之助 ( 4代目・定七 ) は天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から藩主から検断役を命じられ、途次武士に会った際に下駄を脱いで土下座しなくてもよい土下座御免という家柄であったとされる。


    喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。


    この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。


    嘉永 4年 ( 1854年 )、丹羽塾同学の白勢三之助の父が、侍に会った際、足駄を履いたまま土下座をしたことを咎められ、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。


    同年中に江戸日本橋長谷川町 ( 現日本橋堀留町 ) の狂歌の師・檜園梅明 ( ひのきえん・うめあき ) を訪ね、檜垣 ( ひがき ) の社中に入る。


    鰹節商・乾物商時代

    江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝い経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。


    丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。


    安政 4年 ( 1857年 ) には奉公中に貯めた 100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。


    横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応 2年 ( 1866年 ) に廃業し、同年 10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。


    約 4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応 3年 ( 1867年 ) に独立し、鉄砲店大倉屋を開業[1]。


    鉄砲商時代
    神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出した[2]。


    店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入した。


    不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多いかったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博した。


    そののち官軍御用達となり、明治元年 ( 1868年 ) には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。


    明治 4年 ( 1871年 ) 7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。


    御用達商人としての活躍

    大倉は明治元年 ( 1868年 ) に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。


    これ以後、明治 7年 ( 1874年 ) の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、明治 10年 ( 1877年 ) の西南戦争で征討軍御用達、明治 27年 ( 1894年 ) の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立した。


    実業家として
    明治 4年 ( 1871年 ) 3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工[3]。


    同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになる。欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設した[4]。


    明治 5年 ( 1872年 ) 3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、同 8年 ( 1875年 ) に東京会議所の肝煎となる。


    この時、東京府知事・楠木正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後 50年に及ぶ親交を持つ。


    明治 9年 ( 1876年 ) には大久保利通とロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所である内務省所管羅紗製造所 ( 千住製絨所と改称 ) を設立 ( 払い下げは遅れた )。


    明治 10年 ( 1877年 ) の東京商法会議所 ( 現、東京商工会議所 )、横浜洋銀取引所 ( 横浜株式取引所 ) を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。


    明治 14年 ( 1881年 ) に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立した。


    明治 15年 ( 1882年 ) 3月には日本初の電力会社・東京電燈を矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに設立し、宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけた。


    明治 20年 ( 1887年 ) には藤田らと共同して日本土木会社、内外用達会社を設立し大倉組商会の事業を継承した。同年に帝国ホテルも設立した。


    この他に東京瓦斯、京都織物会社、日本製茶、東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ねるなど、日本の近代化に尽力した。


    明治 26年 ( 1893年 ) に大倉土木組を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大倉財閥の片鱗を窺わせ始める。


    日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、日本国外では台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道など日本国内外で数多くの鉄道企業への参加、出資などを行なった。


    大倉は教育機関の創設にも熱を入れ、明治 32年 ( 1899年 ) に韓国善隣商業高等学校 ( 韓国・現善隣インターネット高等学校 )、明治 40年 ( 1907年 ) 9月に大阪大倉商業学校 ( 現関西大倉中学校・高等学校 ) を創設した。


    特に明治 33年 ( 1900年 )、還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財 50万円を投じて創設した大倉商業学校 ( 現東京経済大学 ) はロンドンタイムズなどで美挙と報じられた。


    明治 39年 ( 1906年 ) に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌 40年 ( 1907年 ) には日清豆粕製造 ( 現日清オイリオ )、日本皮革 ( 現ニッピ )、日本化学工業、帝国製麻 ( 現帝国繊維 )、東海紙料 ( 現東海パルプ ) を設立。


    明治 44年 ( 1911年 ) に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立するも 17年に大倉工業株式会社、大倉土木組 ( 現大成建設 ) と分離し、大正 7年 ( 1918年 ) には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行った。


    昭和 2年 ( 1927年 ) に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険 ( 現あいおいニッセイ同和損害保険 ) とするなど晩年まで精力的に活動した。


    死後
    昭和 3年 ( 1928年 ) 4月 22日死去、没年 92歳。
    戒名は大倉喜七郎が選定し、大成院殿礼本超邁鶴翁大居士となる。


    4月2 8日に赤坂本邸で葬儀が行われ 1,000個に及ぶ花環・弔旗が贈られた。墓所は護国寺。


    政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎、浜口雄幸、床次竹次郎、清浦奎吾、関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟、岩崎小弥太、安田善三郎、馬越恭平、浅野総一郎ら、国外からは張作霖、陳宝琛、段祺瑞、蒋介石などであった。


    午前 9時から行われた告別式では午後 3時までに 1万 1,989名が参列した。朝日新聞や読売新聞内で渋沢栄一、益田孝、武者小路実篤らが大倉について言及した。


    人物
    日本企業初の海外進出と 3度に渡る欧米渡航
    明治 5年 ( 1872年 ) 7月 4日に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発。サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、パリ、ロンドン、ローマ、ウィーンなどを訪れた。欧州滞在中に岩倉使節団と交流し、翌年 8月頃帰国した。


    帰国後の 10月に大倉組商会を設立し、自らは頭取となる。その後すぐにロンドンに日本企業初の海外支店・大倉組商会倫敦支店を設置する。日朝修好条規締結後、いち早く朝鮮貿易も始め釜山浦支店も設置。


    明治 17年 ( 1884年 ) 5月 29日から翌 18年 ( 1885年 ) 1月 7日までの二回目の欧米旅行では、欧米の他、インドにも訪れ、茶箱輸出の展望を得た。


    三度目は明治 33年 ( 1900年 ) 5月 4日から 9月 24日の欧米商業視察では妻の徳子、嗣子の喜七郎も同行した。


    パリ万国博覧会への参加や革命記念祭、ロスチャイルド家からの招待を受けるなどした。 その後上海、天津、ニューヨーク、台北、メルボルン、シドニーなどにも大倉組商会の支店・出張所を設置した。


    趣味
    大倉は狂歌振興の同好会・面白会の結成への参加、「大倉鶴彦」名義で狂歌集を刊行するなど、狂歌の創作に熱心だった。


    少年の頃より戯れ歌に興味を持った大倉は、父に連れられ 14歳の時に大極園柱の門に入り狂歌を学ぶ。


    和歌廼門鶴彦 ( わかのと - つるひこ ) を称し、江戸に狂歌を投稿し『狂歌甲乙録』に数葉掲載された。


    その後もことある事に狂歌を詠み、没する 14日前の感涙会までその活動は続いた。


    その数は数万首にも及ぶとされるが、関東大震災で大部分は焼失してしまった。


    小池藤五郎は「日本文学史上、これほど長期に渡り、作者として立った人物は、他に見当たらない」と、幸田露伴は「まことに心からすきたる水晶の璧にいつわりなく、あとからつけたる付焼刃の地金あやしき風流にはあらず」と評価した。


    美術品収集家としても知られる大倉は明治 11年 ( 1878年 ) ごろから趣味として美術品収集を始め、大正 6年 ( 1917年 ) には邸宅内に日本初の私立美術館大倉集古館開設した。


    狂歌以外にも一中節を趣味とした大倉は「都一鶴」という芸名をもち、「感涙会」では歌われないことはなかったとされる。


    また蒐集した本阿弥光悦を気に入り、60歳にして本阿弥光悦流の書の手習いを始め、朝 4時に起床し 7,80枚書くなど練習を重ね、晩年は全国書道大会の委員長を務めた。


    大正 15年 ( 1926年 ) 8月に秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激し、90歳で南アルプス赤石岳登山するなど公私共に豪快な日々を送った。


    評価

    大倉の評価は驚くほどに二分される。「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」「すべてを超越した人」「木に例えれば三千四千年を経た大樹」などと絶賛される。


    一方で、大久保利通や井上馨らとの親交から「政商」、「死の商人」、「グロテスクな鯰」と酷評された。


    毎日新聞で連載された木下尚江の反戦小説『火の柱』で大倉をモデルとした悪徳商人が「戦地に送られた牛肉の缶詰に石が詰まっていた事件」の犯人として描かれたことにより、それが事実として大倉の仕業と人々に信じられてしまった。


    実際は名古屋丸搭載の軍用缶詰に石ころが混入していた事件は、大連湾での積み下ろしの際に発覚したもので東京の山陽堂の荷物であったという。


    「栄典」、「エピソード」、「設立に関与した主な企業・建築」、「家族・親族」につていは、『大倉喜八郎ウィキペディア』をご覧くださいませ。 
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E


    脚注

    1. 大倉屋では鉄砲だけではなく羅紗類も販売していた。
    2. 武器販売は砲術師・皸志摩の門人になっていたことですぐに許可された。
    3. これが日本初の近代水道であった。
    4. これが日本での洋服店の開祖とも言われる。
    5. 海防費献金と多彩な事業活動を通じ国家に尽くした功績
    6. 海防事業費献金の功
    7. 実業奨励と日清戦役の功績
    8. 大倉商業学校創設の功
    9. 日露戦争に関する勲功
    10. 日本政府から允許、韓国皇帝より贈られる
    11. 大倉商業学校、大阪大倉商業学校、善隣商業学校の設立などの功
    12. 日本政府から允許、清国皇帝より贈られる
    13. 中国における経済開発の功績により袁世凱から贈られる
    14. 実業家としての長年の勲功
    15. 『官報』第1001号、大正4年12月2日。
    16. 1918年1月に日本政府から允許、中国政府より贈られる
    17. 日本政府から允許
    18. 日本政府から允許、中国政府より贈られる
    19. 日本政府より允許、ベルギーのアルベール1世より贈られる
    20. 実業界における多年の功労、満蒙・中国開発に尽力した勲功
    21. 危篤の折、多年の実業界並びに日中親善に尽くした功


    参考文献

    史料

    『大倉鶴彦翁』(鶴友会編、民友社、1924年)
    『鶴翁余影』(鶴友会編、1929年)
    『東京経済大学八十年史』(東京経済大学、1980年)
    『大倉財閥の研究』(大倉財閥研究会編、近藤出版社、1982年)
    『東京経済大学の100年』(東京経済大学100年史編纂委員会、2005年)
    『稿本 大倉喜八郎年譜』(東京経済大学資料委員会、2010年)


    伝記・評伝研究
    『致富の鍵』(大倉喜八郎述、丸山舎書籍部、1911年)
    『鶴彦翁回顧録 生誕百年記念』(大倉高等商業学校編、三昌堂、1940年)
    『鯰 元祖"成り金"大倉喜八郎の混沌たる一生』(大倉雄二著、文藝春秋、1990年)
    『大倉喜八郎 豪快なる生涯』(砂川幸雄著、草思社、1996年) 『大倉喜八郎の豪快なる生涯』 (砂川幸雄著、草思社文庫、2012年)

    『東京経済大学創立110周年記念 大倉喜八郎撰 心学先哲叢集』(東京経済大学資料委員会、2010年)


    関連項目
    大倉財閥:大倉が一代で作り上げた財閥。
    岸田吟香:日本最初の従軍記者。当初は新聞記者として従軍を願い出るも却下され、東京日日新聞の出資者の一人であった大倉のもとで大倉組手代として同行し、「台湾信報」を掲載した。
    溝口直正:最後の藩主で伯爵。長女が大倉喜七郎夫人となり、次男を喜八郎の妹・道の養子として強い縁戚関係になった。
    太陽:「太陽名誉賛成員」として名が掲載された。
    トーマス・エジソン:電気王。大倉と書簡のやり取りがあり、エジソン招致も企図したが実現はされなかった。
    ルーサー・バーバンク:植物王。エジソンと同じく交信があった。
    喜翁閣:向島別邸の一部
    村上勝彦:東京経済大学元学長・前理事長。大倉財閥・大倉喜八郎研究の第一人者。


    外部リンク

    東京経済大学 東京経済大学について 創立者 大倉喜八郎

    大倉喜八郎|近代日本人の肖像

    大倉集古館|大倉喜八郎の紹介

    (wikiより)


    関連情報
    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11149716982.html
    863 井上省三君碑(荒川区南千住6・荒川総合スポーツセンター前)


    1848 大倉喜八郎 大倉喜八郎
    1848a
    1848b









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    1849 久邇邦久墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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    久邇 邦久 ( くに - くにひさ、1902年 ( 明治 35年 ) 3月 10日 - 1935年 ( 昭和 10年 ) 3月 4日 ) は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第 2王子。


    来歴・人物
    学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の 1918年 4月の 17歳のとき、東京府立一中 2年次に入学。


    1920年 12月 1日の府立一中 4年次であった 19歳のとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第 4連隊に入隊し、1921年 10月 1日の 20歳のとき、陸軍士官学校に入学。


    1923年 7月、陸軍士官学校 ( 35期 ) を卒業する。


    同期には、松谷誠陸軍大佐・荒尾興功陸軍大佐・石川晋陸軍大佐らがいる。


    同年 10月 25日、臣籍降下し侯爵を授爵、久邇の家名を賜る。


    1935年、浴室において脳出血で死去した。


    血縁
    初め公爵島津忠済の女量子と結婚、後に離婚し子爵松浦靖の二女董子と再婚した。


    妻の董子は邦久との間に子がなかった事から邦久逝去の後久邇家を離れる。


    久邇家は、伯爵三条西公正の二男実英 ( 実栄と改名 ) が跡を継いだ。


    実栄はその後田口茂の長女操と結婚した。


    父:久邇宮邦彦王
    母:島津俔子
    兄弟:朝融王 - 邦久王 - 良子女王 - 信子女王 - 智子女王 - 邦英王
    妻:島津量子 - 松浦董子
    子:無し ( 後継は久邇実栄 )


    外部リンク

    久邇宮家御家族の写真アルバム

    (wikiより)


    1849a
    1849b










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    1850 宇都宮徳蔵墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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    出かけてしまう為、早めの更新です。


    夕方の更新は、何時も通りですので宜しく御願い致します。



    ● 宇徳
    株式会社 宇徳 ( うとく ) は、神奈川県横浜市中区に本社を置く港湾運輸事業の大手。


    沿革
    1890年 宇都宮徳蔵が「宇都宮徳蔵回漕店」を創業。


    1915年 株式会社に改組。


    1949年 宇徳運輸株式会社に改称。


    1980年 東京証券取引所1部に上場。


    2006年 株式会社商船三井の連結子会社となる。


    2007年 株式会社宇徳に改称。


    外部リンク

    株式会社宇徳 公式サイト
    (wikiより)


    1850 宇都宮徳蔵 宇都宮徳蔵
    1850a
    1850b










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    1851 森鴎外住居跡(墨田区向島3-37-38)

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    明治の文豪・森鴎外は、文久二年 ( 1862 ) 津和野に生まれ、明治五年 ( 1872 ) 十一歳の時に父・静男に伴われて向島小梅村の津和野藩・亀井家の屋敷内に上京しました。


    その後、屋敷近くの小梅村八十七番に暮らすようになり、翌年家族全員も上京し、現在地である小梅村二百三十七番の質商の隠居所で庭のこった茅葦の家を購入して移り住みました。


    弟・篤次郎、妹・きみ ( 小金井喜美子 ) も当時隅田川辺にあった「牛嶋学校」に学び、父も亀井家の侍医 ( じい ) のほか、自宅で患者も診ました。


    明治十二年 ( 1879 ) 千住に転居するまで、鴎外も多感な少・青年期の一時をここで過ごしていました。


    また、鴎外の号も隅田川に飛び交う都鳥 ( ユリカモメ ) に因んだものと考えられます。


    なお、鴎外の最初の墓所は、亀井家の菩提寺でもあった向島弘福寺にありました。
    (案内板より)


    252 森鴎外 森鴎外
    1851a  
    1851b  










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    1852 足軽長屋跡(文京区本郷4-13付近)

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    春日通りと白山通りが交差する春日交差点の東北側一帯約 20,000坪 ( 本郷 3丁目に向かう真砂坂の左手 ) は、幕末の頃、高崎藩主・松平右京亮の中屋敷だったところ。


    この敷地の南端には昭和 40年代まで足軽長屋と通称される建物が見事に軒を連ねていました。


    それが、少しずつ姿を消して、いまは見ることができません。


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    1853 東龍斉清寿墓(荒川区南千住5-4-4・真養寺)

    直木賞作家、渡辺淳一氏死去

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    「遠き落日」「失楽園」など医療から伝記、歴史、恋愛小説と幅広い分野の作品で知られる直木賞作家の渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)氏が4月30日午後11時42分、前立腺がんのため、東京都内の自宅で亡くなった。80歳だった。


    葬儀・告別式は親族で行った。喪主は妻、敏子(としこ)さん。


     昭和8年、北海道生まれ。札幌医科大学を卒業。40年、「死化粧」で新潮同人雑誌賞を受賞。


    母校で行われた日本初の心臓移植手術を描いた「小説 心臓移植」などで計4度、芥川賞・直木賞候補となった後、45年に「光と影」で直木賞を受賞した。


     44年、札幌医科大講師を辞職。その後上京し、しばらくはアルバイト医師としてメスを握りながら執筆を続けた。産経新聞では49~50年の朝刊に「まひる野」を、54~55年の夕刊で「愛のごとく」を、また平成18~19年の朝刊で「あじさい日記」を連載した。


     55年に野口英世の生涯を描いた「遠き落日」などで吉川英治文学賞を受賞。日本経済新聞で連載し、ダブル不倫を描いた「失楽園」は大きな話題を呼び、平成9年に「失楽園(する)」が新語・流行語大賞を受賞している。


     15年には菊池寛賞を受賞、紫綬褒章も受章した。70歳を過ぎても「愛の流刑地」「鈍感力」「欲情の作法」などヒット作を連発し、晩年まで衰えない創作意欲をみせていた。


    ● 渡辺淳一
    渡辺 淳一 ( わたなべ - じゅんいち、1933年 ( 昭和 8年 ) 10月 24日 - 2014年 ( 平成 26年 ) 4月 4月30日)は、日本の作家。


    北海道上砂川町朝陽台出身。


    1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。


    来歴

    1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。


    医業と並行して、北海道の同人誌に執筆を続ける。


    同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』( 1969年 3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫 ) を発表し、大学を去る。


    1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第 63回直木賞を受賞し、本格的に作家活動を開始した。


    直木賞、吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。


    2014年 4月 30日、前立腺癌のため死去。


    作風とその変化

    主題は、伝記 (『花埋み』『女優』『遠き落日』など )、医療 (『白い宴』『麻酔』など )、恋愛 (『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など ) の三つに大別されるが、各ジャンルを融合したものも少なくない。


    初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多い。


    伝記は時期を問わず書き続けられている他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセイも多く手がけている。


    評価

    デビュー以来 40年以上に亘り第一線で執筆を続け、ミリオン・セラーも複数ある。


    特筆すべきは近年の中国における評価であり、「言情大師 ( 叙情の巨匠 )」という異名で知られる人気作家となっている[1]。


    中国人留学生の王海藍らの調査によれば、1990年代末以降、中国で最も翻訳されている日本の作家は村上春樹と渡辺であるという[2]。


    中国の女流人気作家で恋愛・結婚生活を描いた小説で話題を呼んでいる王海鴒など、渡辺の恋愛小説の影響を強く受けた作家も登場している。


    都市化による家族の紐帯の希薄化により、精神的支柱としての家庭が崩壊しつつあることが背景にあると言われる(『朝日新聞』2006年5月7日)。

    中国での過熱する人気は訴訟沙汰も引き起こしている。著作 6冊を無断で出版されたことによる著作権侵害を理由に、2008年夏に渡辺は中国の出版社を相手取り、上海市法院に提訴したが、2009年 12月、両者の和解が成立した[3]。


    詳しい事は、「渡辺淳一ウィキペディア」を御覧下さいませ。 
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B7%B3%E4%B8%80
    (wikiより)


    渡辺淳一 合掌









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    1854 真養寺の宝塔(荒川区南千住5-4-4・真養寺)

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    吉田勘兵衛が建立した宝塔だそうです。


    吉田 勘兵衛 ( よしだ - かんべえ、慶長 16年 ( 1611年 ) - 貞享 3年 7月 26日 ( 1686年 9月 13日 )) は江戸時代前期の材木商。


    吉田新田を開墾したことで知られている。諱は良信。


    略歴
    慶長 16年 ( 1611年 ) に摂津国能勢で百姓の子供として生まれる。


    江戸での商売に憧れ、日本橋本材木町に木材と石材の店をはじめる。


    火事が多い江戸では商売が繁盛し、やがては江戸城の修理も行った。


    埋め立てに適した入海に目をつけ、明暦 2年 ( 1656年 ) に幕府の許可を得て新田の開発に着手。


    数々の苦労があったが完成し、彼の功績を称えて吉田新田と名付けられた。


    4代将軍・徳川家綱から苗字帯刀を許された。


    彼の子孫は代々この新田に住み続けることとなる。


    貞享 3年 ( 1686年 ) 7月 26日、病気のため自宅で死去。
    (wikiより)


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