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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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1825 伊東祐命墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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明日は早く出かけてしまうので、明日午後の記事は本日中に更新させていただきます。


茅ヶ崎に行こうと思っているのですが 天気持つかなぁ・・・


昨年は雨になったんですよ。


まぁ駄目なら、老郷スーラータンメンでぶそばで、半チャン半シュウ半ラーメン ( 渥美清さんの好物 ) が食べたいなぁ。


可能性は老郷が高いです (笑)



伊東祐命 ( いとう - すけのぶ 天保 5年 ( 1834 ) ~ 明治 22年 ( 1889 ) 10月 〔享年〕 56才 ) 国学者。


明治維新後、宮内省御歌所に勤め、その首座となった。
 
若くして和歌の志厚く、はじめ郷戸久敬の門に入って和歌を学ぶ。


ついで前田夏蔭・加藤千浪に就いて歌を学び、井上文雄らと交わった。


所長の高崎正風も一目を置いていたという。


専ら歌のことに心を懸けて怠りなく、門人たちも多かった。


歿後、遺稿『柳の一葉』が刊行された。


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1826 木子清敬墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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明日早く出かけてしまう為、早いですが昼の記事を更新します。





木子 清敬 ( きこ - きよよし、弘化元年 12月 24日 ( 1845年 1月 31日 ) - 明治 40年 ( 1907年 ) 6月 25日 ) は、皇室関係の造営工事で活躍した建築家。


工科大学講師として、大学において初めて日本建築史の講義を行ったことでも知られる。


経歴
1845年 ( 弘化元年 ) 山城国上京区中立売通宝町 ( 現在の京都市上京区 ) に生まれる。


なお、木子家は、先祖代々、宮中の修理職棟梁の家柄であった。


明治維新前から宮中に奉仕し、東京遷都後に宮内省に入る。


1881年 ( 明治 14年 ) に皇居造営掛、1887年 ( 明治 20年 ) に宮内省一等匠手、1890年 ( 明治 23年 ) に内匠寮技師、土木課長となる。


また、1889年 ( 明治 22年 ) から 1901年 ( 明治 34年 ) まで工科大学造家学科において日本で初めて大学における日本建築史の授業を受けもった。


また、顧問として、日光東照宮や東大寺大仏殿の修復工事にも携わった。


1904年 ( 明治 37年 ) に脳溢血に倒れ、1906年 ( 明治 39年 ) に依願免官となる。


1907年 ( 明治 40年 ) 2月に勲四等に叙せられ、旭日小綬章を受けた。


同年 6月に逝去。享年 64。正五位に叙せられた。
 
子息に、建築家の木子幸三郎、木子七郎がいる。


参考文献
「建築人物群像 追悼編/資料編」土崎紀子・沢良子編、1995年、住まいの図書館出版局 発行


外部リンク

特別文庫室「木子文庫」(東京都立中央図書館)


関連項目
木子棟斎(1827年 - 1893年)
木子棟躬
(wikiより)


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1827 藤井較一墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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藤井 較一 ( ふじい - こういち、1858年 9月 24日 ( 安政 5年 8月 18日 ) - 1926年 ( 大正 15年 ) 7月 9日 ) は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。


経歴
岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。


私立遺芳館、電信学校を経て、明治 13年 ( 1880年 ) 12月、海軍兵学校 ( 7期生 ) を卒業し少尉補、同 16年 ( 1883年 ) 11月に少尉任官。


明治 30年 ( 1897年 ) 11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。


その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第 2課長、軍令部第 2局長を歴任し、明治 36年 ( 1903年 ) 10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。


その後、連合艦隊及び第一艦隊参謀長に転任した加藤友三郎に替り第二艦隊参謀長となり吾妻艦長を村上格一に引き継ぎ艦隊旗艦出雲へ。


日本海海戦前、バルチック艦隊の最終航路について問題となった際、藤井は連合艦隊司令部に対してバルチック艦隊の対馬海峡来航を主張。


翌日に行われた連合艦隊の幹部会議で鎮海残留を強く主張、遅れて到着した島村速雄第 2戦隊司令官が同じ意見を述べたことによって艦隊の津軽海峡への北上が延期された。


日本海海戦ではバルチック艦隊はロジェストヴェンスキー長官が負傷し、艦隊旗艦スワロフが一時コントロールを失い大きく針路変更した際に、これを追尾しようとして大きく針路変更を指示した連合艦隊に対し、舵の故障と判断した上村彦之丞第二艦隊司令長官は藤井や参謀佐藤鉄太郎の具申もあり独断で直進し乙字戦を継続し連合艦隊の判断ミスをフォロー、バルチック艦隊の逃走を防いだ。


また、霧中の航海時に艦船間で行われた汽笛や号砲に換えて、艦尾からワイヤーにつけた小型標的を曳航し、その飛沫を目印に航海できる「霧中曳的」を考案、敵軍から自軍の存在を秘匿することに貢献した。


明治 38年 ( 1905年 ) 11月、海軍少将に進級、その後、第 1艦隊参謀長、横須賀鎮守府参謀長、第 1艦隊司令官、佐世保工廠長、軍令部次長、佐世保鎮守府長官、第 1艦隊長官、横須賀鎮守府長官を歴任。


大正 5年 ( 1916年 ) 12月に海軍大将、軍事参議官となり、同 8年 ( 1919年 ) 11月に待命、翌年 8月、予備役に編入された。


人物
常に合理的で冷静な思考によって判断した。また、創意工夫に富んでいた。


処世訓「四勿三省」
一、金銭ノ貸借ヲナスナカレ。
一、業務ヲ怠ル勿レ。
一、酒杯ト婦女子ヲ近ヅクナカレ。
一、悪友ニ交ハルナカレ。過去将来ヲ省ミ日々三省セヨ。


参考文献

半藤一利他『歴代海軍大将全覧』中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、 2005年。
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
(wikiより)


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1828 小泉親彦墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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小泉 親彦 ( こいずみ - ちかひこ、1884年 9月 9日 - 1945年 9月 13日 ) は、日本の政治家、陸軍軍医中将。


略歴
福井県出身。


東京開成中学、旧制第六高等学校 ( 岡山県 ) を経て、東京帝国大学医学部卒業。


1932年、近衛師団軍医部長に就任。


1934年、陸軍軍医総監 ( 陸軍中将相当官 ) となり陸軍省医務局長に就任。


1937年、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。


ちなみに、軍医中将は軍医としては最高位である。


1940年、勲一等旭日大綬章受章。


1941年、第 3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。


1945年、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。


陸軍省医務局長在任中、大日本帝国陸軍で初めてBCG接種を実施し、結核予防に効果を挙げるなど、先駆的な人物として知られた。


また、厚生省の設置にも尽力した。


関連項目
橋田邦彦
(wikiより)


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1829 小沢武雄墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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小沢 武雄 ( おざわ - たけお、1844年 12月 19日 ( 天保 15年 11月 10日 ) - 1926年 1月 29日 ) は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・直之丞。


経歴

小倉藩士・小沢義房の長男として生まれる。


1866年、第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。


1868年、戊辰戦争に出征し越後・会津へ転戦した。


明治政府の若松民生局に出仕し、軍務官筆生、兵部少録、兵部権大録、兵部大録、兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、1871年、陸軍少佐に任官。


第二副官、陸軍省官房長、アメリカ出張、陸軍省第 1局長代理などを歴任。


1877年 2月から 10月まで西南戦争に征討総督本営参謀として出征。


1878年 11月、陸軍少将に進級。


陸軍省第 3局長、同第 1局長、同総務局長、兼陸軍士官学校長、陸軍少輔などを経て、1885年 5月、陸軍中将となった。


陸士校長、参謀本部次長、陸軍参謀本部長、欧州出張などを経て、1890年 10月、予備役に編入された。


1887年 5月、男爵を叙爵し華族となり、1890年 9月から 1926年 1月まで貴族院勅撰議員に在任した。


1891年 12月 17日、舌禍事件により陸軍中将を諭旨免官となった


谷干城提出の建議案の賛成演説で、軍機遺漏があったとの理由であった[1][2]。


貴族院内では谷と同一行動をとった[3]。


1893年、近衛篤麿・曾我祐準とともに北海道協会の設立発起人となった[4]。


日本赤十字社副社長、上野鉄道 ( 上信電鉄 ) 初代社長を勤めた。


脚注

1. 東京朝日新聞1891年12月18日1面。
2. 山形自由新聞、東京日日新聞 明治24年12月18日『新聞集成明治編年史第8巻』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
3. 東京朝日新聞1894年3月15日1面「谷子爵一派の会合」。
4. 東京朝日新聞1893年3月28日1面「北海道協会発起人会」。


参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

(wikiより)


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1830 河野敏鎌墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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河野 敏鎌 ( こうの - とがま、1844年 11月 29日 ( 天保 15年 10月 20日 ) - 1895年 4月 20日 ) は明治時代前期の日本の政治家。子爵。


経歴
天保 15年 ( 1844年 ) 10月、土佐国高知城下に山内家家臣河野通好の長男として生まれる。幼名、万寿弥。


安政 5年 ( 1858年 ) 3月、江戸に遊学し、安井息軒の門下となる。


文久元年 ( 1861年 )、土佐に帰国して武市瑞山の土佐勤王党に入る。


坂本龍馬らと交友関係を持つ。


文久 2年 ( 1862年 )、五十人組に参加し、京都と江戸の間を往来し、国事に奔走した。


文久 3年 ( 1863年 )、土佐藩論が佐幕派に転換したため投獄される。


以後、6年間の長きに渡り獄中生活を送り、厳しい拷問にも耐え、同志を守り通したと伝えられる。


その後永牢の宣告を受ける。河野はこのことを非常に誇りにしていたという。


明治維新後、罪を免ぜられ出獄。


同じ土佐藩出身の後藤象二郎の手引きで大阪に上る。


後藤の紹介により、江藤新平の知遇を得る。


明治 2年 ( 1869年 ) 4月、侍詔局出仕となる。


その後、広島県大参事に転じた。ついで司法大丞兼大検事となる。


明治 7年 ( 1874年 )、佐賀の乱では大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。


裁判ではかつての上司であった江藤新平に対し、峻厳極まりない取り調べを行い、答弁の機会も十分に与えないまま、死刑にした。江藤はこれに憤激したという。


明治 8年 ( 1875年 )、元老院議官、明治 11年 ( 1878年 ) に元老院副議長となる。


明治 13年 ( 1880年 )、文部卿に就任。教育令改正の推進者となった。


明治 14年 ( 1881年 ) 、農商務省設立に伴い初代農商務卿に就任。


しかし、10月のいわゆる「明治 14年の政変」によって、大隈重信らと下野した。


明治 15年 ( 1882年 ) 4月、大隈らとともに立憲改進党結成。


副総理 ( 副党首 ) になる。


自由党の解党の影響を受け、改進党解党を主張するが、反対にあい、大隈と脱党する。


そのため立憲改進党は崩壊寸前まで陥った。


明治 21年 ( 1888年 )、枢密顧問官となり、憲法の審議にあたった。


明治 24年 ( 1891年 )、第一次松方正義内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を、第二次伊藤博文内閣で文部大臣をそれぞれ歴任した。


明治 26年 ( 1893年 )、功労をもって子爵を授けられて華族に列せられる。


明治 28年 ( 1895年 ) 4月 20日、死去。享年 52。東京都港区の青山墓地に眠る。


登場する作品
ドラマ

NHK大河ドラマ『獅子の時代』


関連項目
元老院
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10694826710.html
369 安井息軒墓(文京区千駄木5・養源寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11020283522.html
674 武市半平太・富墓(高知市仁井田3021)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10642411633.html
317 後藤象二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10662431593.html
333 坂本龍馬・中岡慎太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11434469214.html
1248 大久保利通墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11364240812.html
1192 松方正義墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


1830 河野敏鎌 河野敏鎌
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1831 園田孝吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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園田 孝吉 ( そのだ - こうきち、弘化 5年 1月 19日 ( 1848年 2月 23日 ) - 大正 12年 ( 1923年 ) 9月 1日 ) は、日本の官僚、実業家。男爵。


略歴

1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村 ( 現・鹿児島県大口市 ) に生まれる。


のち、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。


維新後は大学南校に学んだ後、1871年 10月に外務省に出仕。


翌 1874年から約 15年もの間、外交官としてイギリスに派遣され、1880年 12月にはロンドン総領事をつとめた。


1889年 11月に帰朝し、翌 1890年 3月、松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取をつとめた。


1897年 4月、同頭取を辞任。


1899年には十五銀行頭取となる。


1915年、持病悪化により職を辞して、神奈川県中郡吾妻村 ( 現・二宮町 ) 中里の別荘に隠退した。


その後も東京倶楽部理事や帝国運輸倉庫社長など数多の会社役員として、1918年には実業界発展の功により男爵を授けられた。


1923年 9月の関東大震災の罹災によって死去する。享年 76。


外部リンク

神奈川県立歴史博物館 横浜正金銀行歴代頭取より

(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11364240812.html
1192 松方正義墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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老郷(ラオシャン)本店(神奈川県平塚市紅谷町17-23・老郷)

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TVで見て一度は食べてみたいと思いながら数年経ってしまいました。


今回は茅ヶ崎に行ったので、一駅隣の平塚駅へ向う 


お店には、西口北側からが近いです。


御店が新しくなったようで、いまは食券を購入して席へと向かいます。


購入したのは、湯麺 550円、餃子 500円 味噌が無かったのは、残念でした。


店内は、カウンターと4人、2人のテーブル席が有り良い感じです。


鶏ガラ野菜の油が少ないスープに、米酢がスッキリしています。


具は、刻んだ玉ねぎ・わかめ、メンマで、麺は軟らかく、まるでソーメンを食べているような感じですが、ちゃんと「コシ」は有ります。


食べながらラー油を投入して、味を変えるのも御約束の様です。


また酸っぱいとは言っても、むせるほどではなく本当にサッパリとした「酸っぱさ」でした。


また餃子は皮は薄いのですが、もっちりとして美味しいです。


どちらもハマってしまいそうです ( 笑 )。


こんどは、御土産で湯麺を購入 ( 2食 1,100円 ) しようかな。


老郷 本店(食べログ)
http://tabelog.com/kanagawa/A1404/A140407/14004774/


お店ホームページ
http://raosyan.net/index.html


134c 店外観
134a 湯麺 550円
134b 餃子 500円
1 味を変える為の、酢とラー油

( こちらの画像は、ネット上の借り物です。)









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1832 名村泰蔵墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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名村泰蔵 ( なむら - たいぞう ) 天保 11年 11月 1日 ~ 明治 40年 9月 6日 ( 1840 ~ 1907 )長崎生まれ。司法官。


オランダ通詞・名村八右衛門の養子となり、蘭、英、独、仏語を習得する。


慶応 2年 ( 1866 ) 万国博覧会御用掛を命じられ、徳川昭武に随行し渡仏。


維新後は、長崎県上等通弁、仏学局助教などを経て、明治 5年 ( 1872 ) 司法省に出仕。


同年、司法卿・江藤新平に従い渡欧。


各国の法律を調査し、法学者ボアソナードの招聘につとめた。


7年 ( 1874 ) に、台湾出兵問題で大久保利通に随行して清国に派遣された後は、司法官として刑法・治罪法の立案に尽力。


大審院検事長として民権派の激化事件の司法的処理にもあたった。


25年 ( 1892 ) 大審院長心得。


27年 ( 1894 ) 貴族院議員。


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11434469214.html
1248 大久保利通墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


1832 名村泰蔵 名村 泰蔵
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1833 西郷寅太郎・糸子墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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西郷 寅太郎 ( さいごう - とらたろう、1866年 8月 21日 ( 慶応 2年 7月 12日 ) - 1919年 1月 1日 ) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。


経歴・人物

薩摩国鹿児島城下上之園通町で出生。


東京俘虜収容所長・習志野俘虜収容所長・貴族院議員等を務める。


階級位階勲等功級爵位は陸軍歩兵大佐従三位勲二等功五級侯爵。


陸軍大将西郷隆盛の嫡男で、母は糸子。妻は園田実徳の子・信子。元帥海軍大将・西郷従道侯爵は叔父にあたる。


庶兄の菊次郎は宜蘭支庁郡守、京都市長等を務める。


1877年(明治10年)に父隆盛が戦死する。隆盛は西南戦争の首魁 ( しゅかい ) として官位を褫奪され、一族は鹿児島で密かに暮らしていた。


1884年 ( 明治 17年 ) に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。


帰国後陸軍戸山学校射撃科を経て 1892年 ( 明治 25年 ) 陸軍少尉に任じられる。


1902年 ( 明治 35年 ) 6月 3日父・隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員 ( 侯爵議員 ) に就任する。


隆盛は大日本帝国憲法発布の大赦で赦され、隆盛に正三位が贈られた。


第一次世界大戦中の 1914年 ( 大正 3年 ) 11月 11日東京俘虜収容所長に就任、1915年 ( 大正 4年 ) 9月 7日習志野俘虜収容所長に移る。


1919年 ( 大正 8年 ) 1 月1日スペイン風邪による肺炎が元で在職中に薨去。


同年 1月 5日特旨により従三位に叙せられる。墓所は東京都・青山霊園。


家督は次男の隆輝が継ぐが、隆輝に継嗣がいなかったため、その後を寅太郎の三男・吉之助が継ぐ。


吉之助は貴族院議員・参議院議員となり法務大臣を務める。


ちなみに、妻・ノブ ( 信子・隆輝、吉之助の母 ) の父・園田実徳は武豊・武幸四郎の曾祖父・武彦七の兄にあたるため、彼らは遠縁関係となる。


関連項目
武邦彦

(wikiより)


また、糸子さんの言葉に「うちの人はこげな人じゃなか」という言葉が有ります(明治33年、高村光雲作の上野公園の銅像の除幕式での発言とされる)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10826219703.html
497 西郷隆盛像(台東区上野公園7-47)


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お知らせ

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今週 25日 ~ 27日まで、すいませんがお休みさせて頂きます。


前から行ってみたかった「知覧特攻平和会館」と「知覧武家屋敷」に行ってきます。


28日からは通常に記事を更新していきますので、宜しく御願い致します。



酔いどれJohnny




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1834 上原勇作墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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上原 勇作 ( うえはら - ゆうさく、安政 3年 11月 9日 ( 1856年 12月 6日 ) - 1933年 ( 昭和 8年 ) 11月 8日 ) は、明治 ~ 昭和期の陸軍軍人。


元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス ( GCMG )。


陸軍大臣、教育総監、参謀総長。


日向国都城 ( 現宮崎県都城市 ) 出身。


妻は野津道貫の娘、槙子。


山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥 ( 上原閥 ) を築き上げた。


上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。


陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥の「陸軍三長官」を歴任したのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の 2名のみである。


人物

安政 3年 ( 1856年 )、薩摩藩島津氏一門都城島津家重臣、龍岡資弦の次男として生まれる[1]。


1875年 ( 明治 8年 )、上原家の養子となる。


陸軍幼年学校を経て、1879年 ( 明治 12年 )、陸軍士官学校卒業 ( 同期に秋山好古など )。


1881年 ( 明治 14年 ) に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。


日清戦争においては岳父・野津道貫が司令官を務める第 1軍の参謀、日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第 4軍の参謀長など数々の戦争に従軍して参謀職を務め、1907年 ( 明治 40年 ) に軍功により男爵を授けられた。


1912年 ( 明治 45年 )、石本新六の死後、第 2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。


陸軍提出の 2個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、帷幄上奏権を行使して辞任。


陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。


1921年 ( 大正 10年 ) に子爵、元帥。


1933年 ( 昭和 8年 )、胃潰瘍と心臓病のため、東京・大井鹿島谷町の本邸にて死去した。享年 77。


年譜

※日付は明治 5年までは旧暦
明治 2年 ( 1869年 ) 7月 - 造士館入学
明治 5年 ( 1872年 ) 12月 - 上京、野津道貫の書生となる。
1873年 ( 明治6年 ) 6月 - 大学南校入学
1875年 ( 明治8年 ) 6月 - 陸軍幼年学校生徒
1877年 ( 明治10年 ) 5月 - 陸軍士官学校 ( 旧 3期 ) 入学
1879年 ( 明治12年 ) 12月22日 - 工兵少尉任官
1880年 ( 明治13年 ) 12月 - 陸士工兵科卒業
1881年 ( 明治14年 ) 2月 - 工兵第1大隊付
 ・6月 - フランス留学 ( - 1885年 12月 )

1882年 ( 明治 15年) ) 8月 - フォンテンブロー砲工校学生 ( - 1884年 8月 )
 ・9月29日 - 工兵中尉

1885年 ( 明治 18年 ) 6月 13日 - 工兵大尉
1889年 ( 明治 22年) ) 2月 - 陸士教官
 ・12月 - 臨時砲台建築部本務官

1890年 ( 明治 23年 ) 3月 - 欧州出張 ( - 1891年 1月 )

 ・5月 9日 - 工兵少佐
 ・10月 - 工兵第 5大隊長

1892年 ( 明治 25年 ) 8月 - 参謀本部副官
1893年 ( 明治 26年 ) 7月 - 安南・シャム出張 ( - 11月 )

 ・11月 - 参謀本部第 2局員

1894年 ( 明治 27年) ) 6月 - 朝鮮国公使館付心得
 ・7月 - 日清戦争出征(- 1895年5月)
 ・8月 - 第1軍参謀
 ・9月 25日 - 工兵中佐

1895年 ( 明治 28年 ) 3月 - 第 1軍参謀副長
 ・5月 参謀本部第 2局員

1896年 ( 明治 29年 ) 3月 - ロシア出張 ( 伏見宮貞愛親王随行、- 8月 )
 ・5月 - 参謀本部第 4部長

1897年 ( 明治 30年 ) 10月 11日 - 工兵大佐
1899年 ( 明治 32年 ) 1月 - 参謀本部第 3部長 ( - 1901年 7月 )・兼参謀本部第 5部長 ( - 4月 )
 ・4月 - 欧州出張 ( - 10月 )

1900年 ( 明治 33年 ) 7月 11日 - 陸軍少将・兼陸軍砲工学校長
1901年 ( 明治 34年 ) 7月 - 工兵監
1903年 ( 明治 36年 ) 8月 - 欧州出張 ( - 1904年 2月)

1904年 ( 明治 37年 ) 6月 - 第4軍参謀長
1906年 ( 明治 39年 ) 2月 - 工兵監
 ・7月 6日 - 陸軍中将

1907年 ( 明治 40年 ) 9月 - 男爵
1908年 ( 明治 41年 ) 12月 - 第 7師団長
1911年 ( 明治 44年 ) 9月 - 第 14師団長
1912年 ( 明治 45年 / 大正元年 ) 4月 5日 - 陸軍大臣
 ・12月 - 待命

1913年 ( 大正 2年 ) 3月 - 第 3師団長
 ・6月 - 待命

1914年 ( 大正 3年 ) 4月 - 教育総監
1915年 ( 大正 4年 ) 2月 15日 - 陸軍大将・兼軍事参議官
12月 - 参謀総長 ( - 1923年 3月 )

1921年 ( 大正 10年 ) 4月 27日 - 子爵・元帥
1924年 ( 大正 13年 ) 5月 - 議定官


逸話
郷里から上京した後、野津道貫邸で書生をやっていた。


その縁で野津の娘をめとることになったが、彼女は上原が書生をやっていた時代に生まれた子であり、18歳差、結婚時上原は 36歳であり、当時としては相当な晩婚であった。


岳父の野津が日清戦争時に第 1軍司令官を務めた際は、同軍の参謀、参謀副長として仕え、日露戦争時に第 4軍司令官を野津が務めるとその参謀長を務めるという関係になった。


これは人脈人事の一つであり、一説には野津が非常な気難し屋であったため、その幕僚を務められるのは娘婿である上原しかいなかったからと言われている。


日本における工兵技術の育成に熱心に取り組み、ポケットマネーを払って大工や鳶職を自宅に招き、実演させながら基礎作業教範を書いたという逸話がある。


そのため、工兵監になってからも演習へ出向いては兵卒の作業まで自分でやって見せ、工兵将校たちは戦々恐々としていたという。


一方で、自分が酷評したある工兵将校が「兵監の言うことは間違っておられる」と反論した際、他の将校は上原が激怒するのではないかと心配したが、しばらく考えた上原は「ただいまの講評、勇作の誤り」と述べて自分の誤りを受け入れるなど正しい意見はきちんと聴くところもあった。


陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて経験した。その後の例としては杉山元のみ。


日露戦争時の旅順攻囲戦で、日本軍 ( 乃木希典大将指揮 ) が大苦戦したことを受け、上原は「私は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、工兵による要塞攻略、特に坑道掘削作戦の戦術研究と訓練を怠ったことだ。これをやっておれば旅順であんなに苦戦しなかった」と語り、日露戦争が終わった後、上原の指導の下に直ちに要塞攻略戦の研究が始まり、1906年 ( 明治 39年 ) に小倉練兵場に於いて第一回要塞攻略演習を行った。


副官をつとめた今村均によれば、軍事書を中心に大変な読書を好み、フランス語原書を読み、軍事以外にも幅広く理解があったという。


口やかましく周囲から疎ましがられたが、それは広大な知識から発せられたものであり、感服すべきものだったと述べ、副官時代を詳しく語っている。


また、1931年 ( 昭和 6年 ) ごろには、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたと伝えている。


今村によれば上原は谷寿夫の作成した機密日露戦史の内容に関して「( 第三軍と乃木の評価 ) 客観性に欠け事実に反する。旅順を落としたのは乃木であり児玉では無い」と述べ批難したという


シベリア出兵では、国際協定によって撤兵が決定されていたものの、当時参謀総長であった上原は「統帥権干犯」を理由に拒絶する。


原内閣が陸相田中義一の同意を得て撤兵を閣議決定するや、撤退協定締結の前夜にロシア側を総攻撃してウラジオストクを占領する。


結果、日本だけがシベリアに駐留することとなって国際的非難を受け、また、これにより尼港事件の遠因ともなった。


原敬首相は「参謀本部の陰謀」と断じて上原を非難し、激怒した田中が上原を更迭しようとすると、上原は元老山縣有朋に懇願して更迭策を阻止している。


陸軍部内では、九州出身者を中心に「上原閥」を形成して長州閥に対抗した。元帥として影響を持ち続け、長州閥の田中義一と対立した。


田中を後継した宇垣一成による宇垣軍縮に対抗してその反対派を支援し、後の皇道派結成の温床となった。派閥抗争・確執の遠因となったとの意見もある。


その他
本邸を構えた大井鹿島谷町の総称である大森は、陸軍関係者の間では暗に上原を指した ( 田中隆吉 )。


千葉県一宮町に別荘を所有した。


長女の愛子は徳島県警察部長の大塚惟精と結婚。大塚はのち中国地方総監在任中に原爆投下により死去した。


俳優上原謙 ( 本名の姓は「池端」) の祖父、加山雄三の曾祖父であるとの噂がある ( 柘植久慶『日露戦争名将伝―人物で読む「激闘の軌跡」』( PHP研究所 ISBN 978-4-56-966153-7 ) 等 )。


上原謙の記事中には「父親は鹿児島出身の陸軍大佐だが、上原が中学生の時に死亡する。母方の祖父は、陸軍元帥の上原勇作である。」との記載があるが、上原家の正式な家系図において上原謙との血縁関係は一切認められず、これは同書の誤記に端を発する誤った噂が流布したものと思われる。


栄典

  • JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg 大勲位菊花大綬章 (没後叙勲)
  • JPN Kinshi-kunsho 2Class BAR.svg 功二級金鵄勲章
  • JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg 勲一等瑞宝章
  • UK Order St-Michael St-George ribbon.svg 聖マイケル・聖ジョージ勲章 ナイト・グランド・クロス
  • Legion Honneur GC ribbon.svg レジオンドヌール勲章 グランクロワ
  • 1等文虎勲章
  • 1等嘉禾勲章
  • Star of Romania Ribbon.PNG ルーマニア星勲章 剣附グランドクロス(en
  • POL Order Orła Białego BAR.svg 白鷲勲章en
  • PRU Roter Adlerorden BAR.svg 2等赤鷲勲章 剣附(en
  • POL Krzyz Komandorski z Gwiazda Orderu Sw Stanislawa BAR.png 2等聖スタニスラウス勲章en
  • Ord.CoronaFerrea - COM.png 2等鉄冠勲章en
  • Order of Saint Anne Ribbon.png 3等聖アンナ勲章en
  • PER Order of the Sun of Peru - Knight BAR.png 第三等第一品御賜双龍宝星zh
  • Ordre du Dragon d'Annam (par le Gouvernement Francais) Commandeur ribbon.svg 大南龍星院勲章 コマンドゥール(en
  • Distinguished Service Medal ribbon.svg 陸軍殊勲章en
  • 戦功十字章 (白) (en

    参考文献
    今村均『私記・一軍人六十年の哀歓』芙蓉書房、1970年。
    秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
    陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治45年7月1日調


    脚注

    1. 龍岡氏は都城島津家の分家にあたるため、上原は薩摩藩では陪臣の出ながら血統の上では門閥に属した。
    (wikiより)


    1834 上原勇作 上原勇作
    1834a  
    1834b  










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  • 1835 富岡定恭墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    富岡 定恭 ( とみおか - さだやす、1854年 12月 24日 ( 嘉永 7年 11月 5日 ) - 1917年 ( 大正 6年 ) 7月 1日 ) は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。


    経歴
    長野県出身。


    松代藩士・富岡宗三郎定知の長男として生まれる。


    1876年 ( 明治 9年 ) 9月、海軍兵学寮 ( 5期 ) を卒業。


    1878年 ( 明治 11年 ) までイギリス海軍戦艦「オーディシャス」( HMS Audacious ) に乗組。


    海兵教授、艦政局兵器課、英仏派遣、造兵監督官 ( イギリス )、海軍大学校教官などを歴任。


    日清戦争では「厳島」副長として参戦。


    さらに、「龍田」艦長、海軍兵学校教頭、「八雲」艦長、「敷島」艦長、軍令部第 1局長を経て、1903年 ( 明治 36年 ) 7月、海軍少将に進級。]


    日露戦争時は海軍兵学校長であった。


    の後、練習艦隊司令官を勤め、1907年 ( 明治 40年 ) 3月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、旅順鎮守府長官を勤め、1911年 ( 明治 44年 ) 12月、予備役に編入された。


    1914年 ( 大正 3年 ) から 1917年 ( 大正 6年 ) まで帝国在郷軍人会副会長を務める。


    1907年 ( 明治 40年 ) 9月、男爵を叙爵し華族となる。


    親族

    長男 : 富岡定俊 ( 海軍少将 )
    娘婿 : 丸山寿美太郎 ( 海軍大佐 )・津留雄三 ( 海軍大佐 )
    弟 : 富岡延治郎 ( 海軍機関少将 )


    脚注

    1. 『官報』第680号、大正3年11月6日。


    関連事項
    下瀬火薬 - 下瀬火薬#歴史 参照のこと。


    参考文献秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
    外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
    福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
    (wikiより)


    1835 富岡定恭 富岡定恭
    1835a
    1835b










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    1836 長岡治三郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    長岡治三郎は、幕末大村藩血盟勤皇三十七士の一人として、主命を受けて京都の情勢を探り、戊辰の役では官軍先鋒の軍監となり、江戸、会津で功を立てた後、選ばれて明治政府に仕え、岩倉具視に従って欧米視察にも行っていた。


    「大村騒動」とは、慶応三年に「勤皇三十七士同盟」といわれた尊攘派の要人藩士が、 佐幕派藩士たちに襲撃された事件で、”元治の政変”とも呼ばれるが、藩政のクーデターを成功させた尊攘派の生き残りは、後にこの騒動に関わった多くの佐幕派藩士や親戚縁者までを捕らえ、斬首、獄門,遠島など弾圧した。


    ○ 勤皇三十七士同盟
    年齢は大村騒動が起こった慶応 3年 ( 1867 ) の時点


    ○ 浅田千葉之助 413石余。城代浅田大学の子。


    ○ 針尾九左衛門 406石余。44歳。家老・左脇備侍大将。慶応 3年正月に刺客に襲われ大けがをする。


    ○ 原 三嘉喜 305石余。28歳。


    ○ 稲田 東馬 250石余。別名、又左衛門。34歳。家老。明治後、権大参事、第十一大区区長。


    ○ 大村太左衛門 198石余。46歳。側用人兼質素方用掛。家老。


    ○ 松田 要三郎 159石余。34歳。


    ○ 山川宗右衛門 156石余。37歳。


    ○ 大村 歓十郎 153石余。のち松浦熈。格外の家老。


    ○ 福田 弘人 133石余。40歳。


    ○ 土屋善右衛門 110石余。42歳。旗本長柄奉行・脇備者頭・明治元年東征軍総督として出陣。


    ○ 野沢 門衛 101石余。


    ○ 根岸 主馬 100石余。40歳。


    ○ 加藤 勇 80石。


    ○ 中村 平八 80石。41歳。


    ○ 沢井六郎太夫 61石余。39歳。


    ○ 小佐々健三郎 61石余。


    ○ 松林 飯山 60石。


    ○ 楠本 正隆 60石。30歳。


    ○ 梅沢 武平 60石。29歳。


    ○ 中尾 静摩 50石。俊輔。46歳。元締役


    ○ 常井 邦衛 50石。36歳。


    ○ 戸田 圭二郎 46石。29歳。


    ○ 渡辺 清 40石。33歳。


    ○ 渡辺 昇 40石。30歳。


    ○ 長岡 治三郎 40石。29歳。江戸・京都に遊学。京都で探索方を兼ねる。長岡半太郎の父


    ○ 長岡 新次郎 40石。34歳。


    ○ 十九 貞衛 40石。


    ○ 山川 清助 33石。


    ○ 村山与右衛門 30石。


    ○ 朝長 熊平 30石。


    ○ 柴江 運八郎 30石。34歳。渡辺昇と並び剣の達人。


    ○ 藤田 小八郎 30石。


    ○ 久松 源五郎 25石。


    ○ 北野 道春 20石。46歳。医師。藩主の療養掛を務める。


    ○ 浜田 弥兵衛 13石余。42歳。浜田謹吾の父。


    ○ 中村 鉄弥 知行高未詳。公知。同盟成立当初から加盟。


    ○ 根岸(喜多)陳平 知行高未詳。


    1836a
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    1837 田中光顕墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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    では明日から月曜日まで、お休みさせて頂きます。




    田中 光顕 ( たなか - みつあき、天保 14年閏 9月 25日 ( 1843年 11月 16日 ) - 昭和 14年 ( 1939年 ) 3月 28日 ) は、日本の武士・土佐藩家老・深尾氏家臣、官僚、政治家。


    従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。フリーカメラマンの田中光常は孫。


    生涯
    天保 14年 ( 1843年 ) 閏 9月 25日、土佐藩の家老・深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村 ( 現・高知県高岡郡佐川町 ) に生まれた。


    土佐藩士・武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。


    叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。


    しかし文久 3年 ( 1863年 )、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年 ( 1864年 ) には同志を集めて脱藩。


    のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。


    第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。


    薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。


    第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。


    慶応 3年 ( 1867年 )、中岡が坂本龍馬と共に暗殺 ( 近江屋事件 ) されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。


    中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。


    維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。


    西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年 ( 明治 12年 ) に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。


    また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。


    1887年 ( 明治 20年 )、子爵を授けられて華族に列する。


    1898年 ( 明治 31年 )、宮内大臣。


    約 11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。


    1907年 ( 明治 40年 ) 9月 23日、伯爵に陞爵。


    1909年 ( 明治 42年 )、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。


    政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。


    また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館 ( 現在は幕末と明治の博物館 )、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。


    その他、1901年 ( 明治 34年 ) に日本漆工會の 2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。


    晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」( 現野間農園 )、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」( 後に青山荘と改称 )、神奈川県小田原市に南欧風の別荘 ( 現在の小田原文学館 ) 等を建てて隠棲した。


    昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。


    その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。


    また、昭和 11年 ( 1936年 ) の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。


    1939年 ( 昭和 14年 ) 3月 28日、静岡県蒲原町の別荘にて 97歳で没した。


    口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』( 新版が大和書房のち河出文庫 ) がある。


    他に『維新夜話』と『憂国遺言』が遺されている。


    関連施設
    蕉雨園 - 椿山荘、野間記念館に隣接する 6000坪の敷地に建つ自邸 ( 1897年築、東京都文京区関口 2-11-17 )。
    現在は講談社の所有。


    非公開だが、茶会やドラマ ( 華麗なる一族、鹿男あをによし、どんど晴れ、富豪刑事など多数 ) の撮影などに使用されている。命名は、邸宅を訪れた諸橋轍次が詠んだ「芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵」から[1]。


    佐川町立青山文庫 ( 田中の肉声が公開されている )


    脚注
    1. Let's Enjoy Tokyo


    関連文献
    安岡昭男・長井純市「田中光顕関係文書紹介」。2006年以降、法政大学文学部紀要に連載


    内部リンク

    四ツ塚様


    外部リンク


  • 田中光顕 経歴 - 高知市立自由民権記念館
  • 国立国会図書館 憲政資料室 田中光顕関係文書(所蔵)
  • 国立国会図書館 憲政資料室 田中光顕関係文書(MF:佐川町立青山文庫蔵)
  • 大洗町幕末と明治の博物館 - 平成22年度第1回企画展「坂本龍馬・中岡慎太郎らと活躍した歴史の証人 田中光顕と常陽明治記念館」
  • 田中光顕関係文献目録 - 明治史研究のための情報ブログ

    (wikiより)


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11020283522.html
    674 武市半平太・富墓(高知市仁井田3021)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11008380918.html
    661 吉田東洋墓(高知市塩屋崎町2周辺)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10662431593.html
    333 坂本龍馬・中岡慎太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)

    1837 田中光顕 田中光顕
    1837a  
    1837b  
    1837c  










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    1838 柳生一族累代之墓所(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)

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    近鉄奈良駅前のバス停 ( 4番 )より 1時間ほどで到着しました。

    ちなみに料金は 950円。


    この街には食事処が 3箇所有りましたが、開いていたのは 1軒だけでしたので、立ち寄られた際の御食事は要注意かもしれません・・・


    芳徳寺は、臨済宗の寺院で「柳生宗矩」が父「石舟斎」の菩提を弔うために建立したものだそうです。


    その後、柳生家の菩提寺となり本堂裏手には宗矩の墓石を中心に「石舟斎・十兵衛」など柳生一族の墓石が 80基あまり整然と並んでおり圧巻でした


    ● 柳生氏
    柳生氏 ( やぎゅうし ) は日本の氏族。


    概要
    出自
    新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』( または後世の『寛政重修諸家譜』) によると、柳生氏の姓は菅原姓とされ、菅原道真が祖先とも言われている。使用の家紋は、「地楡に雀」、替紋に「柳生笠」。


    実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、南北期の播磨守永珍 ( 別名:宗珍、大膳亮永家の子とされる ) の頃からで、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、元弘 3年 ( 1331年 ) に、南朝方として、六波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、後醍醐帝から賜った大和国小楊生 ( 大楊生とも ) 庄の領主となり、柳生氏と名乗ったことから始まるとされる ( ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという )。


    柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷 ( 現奈良市柳生地区 ) で、大和国北部にある。


    また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。


    戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳 ( 石舟斎 ) は、永珍 ( 宗珍 ) から 8代目の子孫に当たる人物である。


    大名への出世街道
    宗厳は戦国時代に、松永久秀に仕えたが、その久秀が織田信長と争って滅亡し、代わって大和を守護した筒井順慶にも従わず、縁の深い十市遠長と結託した ( 多聞院日記 )。


    さらに豊臣秀吉の太閤検地によって隠田の罪で 2,000石の所領を没収されるなど、次第に落ちぶれていった。


    しかし、黒田長政の仲介により当時秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康と出会った宗厳は、家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えたいと申し出を受ける。


    宗厳は当時、すでに 66歳という老齢だったため、これを辞退し代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として推挙したのである。


    これは文禄 3年 ( 1594年 ) 5月 3日のことである。そのことが、『玉栄拾遺』にも詳細に記されている。


    「文禄甲午の年、聚楽紫竹村にて宗厳公の剣術始て神君 ( 徳川家康 ) 上覧。木刀を持玉ひ。宗厳是を執るべしと上意あり。即ち公無刀にて執り給ふ。其時神君後ろへ倒れ玉はんとし、上手なり向後師たるべしとの上意の上、景則の刀を賜ひて誓詞を辱くす。時に 5月 3日也。且俸禄 200石を賜ふ」


    なにはともあれ、信長・秀吉時代に落ちぶれた柳生氏は、家康時代に再び世に出ることとなったのである。


    宗矩の台頭
    宗矩は宗厳の五男である。


    徳川氏に仕えることとなったのは、長男の柳生厳勝は久秀配下として筒井順慶と戦ったとき、鉄砲により戦傷を負い、次男の柳生久斎と三男の柳生徳斎は僧侶となり、四男の柳生五郎右衛門は中村一氏に仕官していたからである。


    家康に仕えた宗矩は、大いに活躍した。


    慶長 5年 ( 1600年 ) の関ヶ原の戦いでは家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。


    翌年、その功績により旧領 2,000石に加えて新たに 1,000石を加増され、徳川秀忠の兵法指南役となる。


    宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。


    慶長 19年 ( 1614年 ) の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務め、敵兵 7名を斬殺した。


    元和 7年 ( 1621年 ) からは徳川家光の兵法指南役となり、寛永 6年 ( 1629年 ) には従五位下但馬守を叙任する。


    寛永 9年 ( 1632年 ) には井上政重らと共に総目付 ( 後の大目付 ) に任じられ、3,000石を加増された。


    寛永 13年 ( 1636年 ) には 4,000石を加増され、合計 1万石の大名となる ( 柳生藩 )。


    寛永 19年 ( 1639年 ) にも 2,000石、翌年にも 500石を加増され、合計して 1万 2,500石を領する大名となった。


    宗矩と同時期に徳川氏に仕えていた小野派一刀流の開祖・小野忠明 ( 御子神典膳 ) の所領はわずか 600石ほどに過ぎなかった。


    一方の宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進したのだから、相当の信任を受けていたことがうかがえる。


    その後
    詳細は「柳生藩」を参照 ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E8%97%A9
    )


    宗矩の死後、遺領は 3人の息子 ( 三厳、宗冬、列堂義仙 ) によって分知されたため、柳生氏は一代で旗本に戻るが、三厳の死後に家督を相続した宗冬の代に再び大名に復帰する。


    以後、明治維新まで柳生藩を領し、維新後に子爵の位を授けられた。


    宗家の他に尾張藩に仕えた宗矩の甥・柳生利厳 ( 兵庫助 ) の系統 ( 尾張柳生 ) がある。


    「柳生宗家」について
    現在、利厳の子孫である尾張柳生家は、正しい柳生宗家 ( 本家 ) は嫡流の自家であり、宗矩の家 ( 江戸柳生家 ) は分家であると主張している[1]。その一方、この主張に対して以下の問題点が指摘される。


    1.戦国時代において、宗家を継ぐ嫡男は必ずしも長男のことを指すとは限らず、当主の決定によって変えられることが多々あった。


    柳生家においても、関が原の戦いの後、代々の所領である柳生庄を取り戻した宗厳は、その全てを宗矩一人に継がせている。


    これについて尾張柳生家の子孫である柳生厳長は、自著『正傳新陰流』において、「宗厳の長男である厳勝 ( 新次郎 ) は宗厳から惣領分の所領を貰った」と主張しているが、慶長 6年、宗矩の石高は自分の 1000石に取り戻した柳生庄 2000石が加わり、計 3000石となっている。


    また、受け継いだ所領があるにもかかわらず、厳勝の嫡男である利厳は加藤清正に仕官するために家を出ている。


    2.『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』などの江戸時代の記録において、柳生宗家とされているのは一貫して宗矩の江戸柳生家である。


    これに対し、柳生厳長は自著『正傳新陰流』にて、これは事実が歪曲されたものだと主張している。


    3.この尾張柳生家が柳生宗家であるとする主張は、当の尾張柳生家の史料でも確認できず、資料上に登場し始めるのは、第 20世当主・柳生厳長による著作 (『柳生流兵法と道統』『正傳新陰流』など ) 以降である。


    「系譜」については、『柳生氏ウィキペディア』を御覧下さいませ。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E6%B0%8F


    注釈
    1. 柳生新陰流公式ホームページ「柳生新陰流道統」


    関連項目
    菅原氏
    新陰流
    尾張柳生家
    大和柳生宗家=柳生氏:柳生藩
    江戸柳生家
    柳生博:俳優
    柳生真吾:園芸家

    外部リンク
    柳生ドットコム(奈良柳生街道・柳生の里)( http://www.yagyu.com/ )


    ● 芳徳寺
    芳徳寺 ( ほうとくじ ) は、奈良県奈良市にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は神護山 ( じんごさん ) で、本尊は釈迦如来三尊。芳徳禅寺とも称される。


    概要

    柳生藩主・柳生氏の菩提寺。


    柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える。


    柳生家の墓地は元々は中宮寺 ( 現・奈良市柳生下町 ) にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が 80基あまりが並ぶ。


    北から寺へ登る坂が霊源坂、その登り口の橋は古楓橋であり、東南の小高い台地である山王台 ( 清風台 ) とともに柳生十景に挙げられている。


    また、霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳 ( 石舟斎 ) の居住地とされる。


    歴史

    寛永 15年 ( 1638年 ) 大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。


    宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。


    宗矩の子・列堂義仙が第一世住持となり、宗矩の遺領 1万 2500石のうち 200石が芳徳寺に寺領として分与された。


    宝永 8年 ( 1711年 ) の火災により全焼したが、正徳 4年 ( 1714年 ) に再建された。


    廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正 11年 ( 1922年 ) に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義が資金を遺贈し、本堂が再建された。


    その後、大正 15年 ( 1926年 ) 6月に副住職として赴任した橋本定芳 ( 昭和 5年 ( 1930年 ) には住職に就任 ) は、芳徳寺の再興に奔走。


    橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和 3年 ( 1928年 ) には境内に大和青少年道場 ( 現在の成美学寮 ) を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた[1]。


    寺宝
    本堂には本尊の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。


    また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている[2]。


    木造但馬守宗矩坐像は慶安 4年 ( 1651年 ) に宗矩の 7回忌にあたり、柳生宗冬が京都の大仏師康看に彫らせたもの。


    また、木造沢庵和尚坐像は明暦 3年 ( 1657年 ) に、列堂が京都の大仏師康春に彫らせたものであり、ともに前述の火災を免れ、今に伝えられている[3]。


    指定文化財

    本堂 - 江戸時代建立、市指定文化財建造物
    柳生家墓所附列堂和尚墓所 - 室町時代~江戸時代、市指定文化財史蹟


    正木坂剣禅道場

    昭和 38年 ( 1963年 ) に当時の住職・橋本定芳により開設された剣道と座禅の道場。


    柳生三厳の正木坂道場に習って命名された。


    橋本が手がけた中でも、40年以上にわたり開設にまで力を尽くした一大事業であり、宇垣一成、徳富蘇峰、犬養毅、長谷川伸、吉川英治ら数多くの政治家や文化人、経済人の賛同の元、全国から資金を集めて行われた。


    奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一条院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移された。


    座禅と剣道を一体とした指導が行われており、全日本剣道連盟による全国指導者講習会や、県下の剣道大会の会場に利用されている[4]。


    交通アクセス
    JR奈良駅または近鉄奈良駅から柳生・邑地中村行バスで 50分「柳生」下車、徒歩 15分


    周辺

    天石立神社
    旧柳生藩家老屋敷
    柳生陣屋跡
    小山田家分家


    脚注

    1. 柳生観光協会編『新版・柳生の里』、柳生観光協会刊、86、94-97頁、2000年
    2. 同上、26頁
    3. 同上、94頁
    4. 同上、25、102-117頁


    参考文献

    日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年-2002年 を基にしたデータベース)


    関連項目

    柳生藩
    木村友重


    外部リンク
    芳徳寺 - 柳生ドットコム
    (wikiより)


    1838a 芳徳寺全景
    1838b 芳徳寺の左側から周り込みます。
    1838c 六地蔵
    1838d 柳生一族累代之墓所入口
    1838e
    1838f 大小 80基の墓石が有るそうです
    1838g 壮観です。
    1838h 柳眼塔 ( 上泉伊勢守秀綱の供養塔 )
    1838i 柳生俊順墓
    1838j 柳生俊章墓
    1838k 柳生俊能墓
    1838l 柳生俊豊墓
    1838m 柳生俊則墓
    1838n 柳生俊平墓
    1838o 柳生宗在墓
    1838p 柳生三巌墓
    1838q 柳生宗冬墓
    1838r 柳生俊方墓
    1838s 柳生俊峯墓
    1838t 柳生宗矩墓
    1838u 柳生友矩墓
    1838v 柳生宗春墓
    1838w 柳生宗巌墓
    1838x 柳生家巌墓
    1838y 柳生巌勝墓
    1838z 柳生俊睦墓
    1838z2 土塀が壊れています。
    1838z4 振り返ってみました。
    1838z3










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    1839 大隈重信墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)

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    大隈 重信 ( おおくま - しげのぶ、天保 9年 2月 16日 ( 1838年 3月 11日 ) - 大正 11年 ( 1922年 ) 1月 10日 ) は、日本の武士 ( 佐賀藩士 )、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。


    政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣 ( 第 3・4・11・14・29代 )、農商務大臣 ( 第 13代 )、内閣総理大臣 ( 第 8・17代 )、内務大臣 ( 第 30・32代 )、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。


    生涯
    生い立ち
    佐賀城下会所小路 ( 現:佐賀市水ヶ江 ) に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。


    大隈家は、知行 300石を食み石火矢頭人 ( 砲術長) ) を務める上士の家柄であった。


    重信は 7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年 ( 1854年 ) に同志とともに藩校の改革を訴えた。


    安政 2年 ( 1855年 ) に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学 ( 後に復学を許されたが戻らず )


    この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟にも参加した。


    安政 3年 ( 1856年 )、佐賀藩蘭学寮に転じた。


    のち文久元年 ( 1861年 )、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。


    大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。


    そして慶応元年 ( 1865年 )、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」( 校長:宣教師グイド・フルベッキ ) にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。


    このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。


    また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。


    慶応 3年 ( 1867年 )、副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。


    明治維新
    大隈財政 」も参照


    明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年 ( 1868年 )、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。


    キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治 2年 ( 1869年 ) からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。


    明治 3年 ( 1870年 ) に参議に補され、1873年 ( 明治 6年 ) 5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。


    大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。


    当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。


    民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。


    征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治 8年 ( 1875年 ) 10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。


    また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。


    大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治 13年 ( 1880年 ) 3月に設立された。


    自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治 14年 ( 1881年 ) 10月 12日、参議を免官となった。


    いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月 15日付で辞表を提出した。


    下野後

    野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治 15年 ( 1882年 ) 3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄 ( 龍渓 ) らが馳せ参じた。


    また 10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校 ( 現早稲田大学 ) を、東京郊外 ( 当時 ) の早稲田に開設した。


    ただ、明治 17年 ( 1884年 ) の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。


    明治 20年 ( 1887年 )、伯爵に叙された。


    外務大臣から総理大臣へ
    大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治 21年 ( 1888年 ) 2月より大隈は外務大臣に就任した。


    同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治 22年 ( 1889年 ) には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃 ( 大隈重信遭難事件 ) を受け、右脚を切断するとともに辞職した[1]。


    明治 29年 ( 1896年 )、 第 2次松方内閣 (「松隈内閣」( しょうわいないかく ) と呼ばれる ) で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。


    明治 31年 ( 1898年 ) 6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年 6月 30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」( わいはんないかく ) である。


    しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。


    後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。


    結局、組閣からわずか 4か月後の 11月 8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。


    政界引退

    明治 40年 ( 1907年 )、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。


    明治 41年 ( 1908年 ) 11月 22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。


    大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の 1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。


    これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[2]。


    政界に復帰、首相へ

    第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。


    大正 3年 ( 1914年 ) にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織 ( 第 2次大隈内閣 )。


    与党は立憲同志会、大隈伯後援会 → 無所属団 → 公友倶楽部、および中正会である。


    7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月 23日に対独宣戦布告をおこない、翌年 1月には外相・加藤高明と共に対華 21ヶ条要求を提出した。


    ただし、その後日本側は、第五号の 7項目を除外した[3]。


    内相・大浦兼武の汚職事件 ( 大浦事件 ) が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。


    改造の際に「いったん辞表を提出し天皇の慰留により留任」というこれまでの藩閥政治家と同様の型をとったことやそれに対する弁明も批判された[4]。


    さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正 5年 ( 1916年 ) 10月、遂に内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した[5]。


    退任時の年齢は満 78歳 6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの 16年というブランクは歴代最長記録である。


    この間、大正 5年 ( 1916年 ) 7月 14日に侯爵に陞爵され貴族院侯爵議員となる[6]。


    死後
    大正 11年 ( 1922年 ) 1月 10日に胆石症のため早稲田で死去、1月 17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。


    その名が示すように、式には約 30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。


    この 3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。


    墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にある。


    人物

    人物像
    身長 180cmと言われている。
    日本の暦を現在でも使われているグレゴリオ暦に変えた。


    「あるんである」、若しくは、「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[7]。


    現在残されている大隈の関連文書は全て口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。


    これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版する時も口述筆記ですませ、死ぬ時まで文字を書かなくなったためと言われている。


    人間関係
    伊藤博文はライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。


    明治 30年 ( 1897年 ) に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか 60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。


    様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治 40年 ( 1907年 ) には別邸を新たに国府津に構え、わずか 10年で引き払われた。


    大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集[8]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである[9]。


    西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治 4年 ( 1871年 ) の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切り捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと ( 西郷も大久保もこれには反対したために却下された ) によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[10]。


    政治家嫌いの福澤諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。


    福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。


    ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席を設けた。


    いったいどうなるかと、周囲は面白がっていたが、直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福澤先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福澤が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという[11]。 その後、両者は互いの自宅を訪れるほどに親密となった。


    大隈は、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅と言った慶應義塾出身者を会計検査院に起用していたが、「大隈は福澤一派と結託して政権を奪い取ろうとしている」との流言が生じた。


    そのため、明治十四年の政変によって大隈および矢野、尾崎、犬養等の大隈支持者が下野する羽目に陥った。


    しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式では、福澤の姿があった。


    また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った[12]。


    1906年頃、当時園芸家を目指していた後の衆議院議員・山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。


    同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。


    新島は同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで、両者の親交は深まった。


    大隈は、新島亡き後も徴兵制の改正に端を発した同志社紛争の調停に尽力したほか、京都に行った時は必ず同志社に立ち寄り演説していたと言う。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている。


    逸話
    浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。


    その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。


    しかし当時大隈はまだ 31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。


    しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。


    パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。


    さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民 3,384人は 20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように説得や拷問を受ることになった[13]。


    あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。


    これは大隈が政治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。


    日本最初の鉄道が新橋 ~ 横浜間に建設された際、そのゲージ ( 軌間 ) を 1067mm ( 狭軌。現在のJR在来線の軌間 ) に決めたのは大隈である。


    イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという ( 池田邦彦「鉄道史の分岐点」イカロス出版、2005年 )。なお、「日本の改軌論争 」も参照。


    日本初の地方遊説を行った首相でもある。


    大正 8年 ( 1919年 )、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った[14]。


    大隈はメロンが大好物で、外国から持ち帰り日本で初めてメロンを栽培したと言われている。


    人間は 25年を 5回生きる能力を有している、いわゆる人生 125歳説を唱えた。大隈自身は 83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって 125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは 125尺 ( 約 37.9メートル ) であるほか、創立 125周年にあたる平成 19年 ( 2007年 ) には記念式典を行っている。


    お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金 ( 硬貨 ) は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。


    後世
    昭和 44年 ( 1969年 ) から同 45年 ( 1970年 ) にかけて、早稲田大学出版部で「大隈伯昔日譚」などが入った木村毅監修『大隈重信叢書』全5巻が出された。


    大正 4年 ( 1915年 ) に蝋管 ( 蓄音機の初期型 ) に録音された総選挙応援演説の肉声が、平成 19年 ( 2007年 ) に東大先端科学技術センターにより公開された。


    栄典
    明治 20年 ( 1887年 ) 5月 9日 - 伯爵を叙爵
    大正 5年 ( 1916年 ) 7月 14日 - 大勲位菊花大綬章
    大正 5年 ( 1916年 ) 7月 14日 - 侯爵に陛爵
    大正 11年 ( 1922年 ) 1月 10日 - 没後大勲位菊花章頸飾受勲


    「系譜」、「関連作品」については、『大隈重信ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1


    養嗣子・信常は伯爵・松浦詮の五男。侯爵。貴族院議員、衆議院議員を務めた。


    彫像

    大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、主に大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。


    大隈重信像早稲田大学早稲田大学早稲田キャンパスには 2体の大隈像があり、有名なガウン姿の立像は昭和 7年 ( 1932年 ) 10月 17日、早稲田大学創設 50周年と大隈重信 10回忌を兼ねて作られた。


    右足を失った後の姿のものであるため、杖をついているのが特徴である。製作者である彫刻家の朝倉文夫は大隈像を 3回制作しているが、この立像は 2回目のもの。高さは 298cmあり、大隈講堂の方向を向く形で設置されている。


    受験期には受験生により賽銭が供えられることも少なくない。


    また、あまり知られていない大礼服姿の大隈像は大隈講堂内にあり、制作者は同じく朝倉文夫で 1回目に制作した大隈像である。元々は現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、大隈講堂内に移設された。


    1907年に大学創立 25周年と大隈の数え年 70歳を記念して建てられた[17]。


    1916年に綾子夫人像の建設が計画されると、若手教授や学生達の反対運動が起こり、大隈銅像前に 400名が集まり反対演説をした[17]。


    綾子夫人像の建設は一旦中止されたが、10年後に大熊会館に設置され、現在は大熊庭園にある[17]。


    これら以外にも、他のキャンパスに大隈の胸像が設置されている。国会議事堂国会議事堂にある大隈像は、中央広間 1階に日本初の政党内閣を樹立した功績を称え、板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。


    昭和 13年 ( 1938年 ) 2月に明治憲法発布 50周年を記念して作られた。


    大隈記念館佐賀県佐賀市にある大隈記念館内にある大隈像は昭和 63年 ( 1988年 ) 4月に大隈重信の生家跡地に建てられた。大礼服姿の立像で、高さは 180cmあり、実際の大隈重信の身長と同じとされている。


    この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。大隈重信旧宅佐賀県佐賀市にある大隈重信の旧宅は、武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されている。庭園には、波多野敬直の筆による「大隈重信侯の生誕地」の記念碑が建っている。


    脚注

    1. 大隈の右脚切断手術は佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。
    2. 幸運社 『意外と知らないもののはじまり』 PHP文庫、2002年、p.249。ISBN 4-569-57841-1。
    3. 有馬学 『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本 1905-1924』 中央公論新社、1999年、111-113頁。
    4. 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた。岡義武「近代日本の政治家」岩波現代文庫、文庫初版2001年、P109
    5. ただし、大隈が元老に加えられたとする文献がまれにあるほか、元老同様に次期首相について天皇の下問を受けたこともある。百瀬孝著・伊藤隆監修「事典昭和戦前期の日本 制度と実態」吉川弘文館、1990年、P13~14。また、死去するまで貴族院侯爵議員であった。
    6. 『官報』第1188号、大正5年7月17日。
    7. 岡崎久彦「陸奥宗光」上巻、PHP文庫、初出1987年、P195に「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある。
    8. 織田萬 『法と人』 春秋社教養叢書、1943年
    9. 大隈をめぐる人々 早稲田大学公式サイトより
    10. 木村時夫 『知られざる大隈重信』113頁
    11. 『知ってるつもり?!』「大隈重信」(日本テレビ放送網/1998年2月15日放送)
    12. 大隈をめぐる人々 早稲田大学公式サイトより
    13. カトリック長崎大司教区 Home 教区の歴史 大浦天主堂の建立 信徒発見 浦上四番崩れ
    14. 木村時夫 『知られざる大隈重信』 集英社 2000年、237頁
    15. 国民リーダー大隈重信 - Google ブックス
    16. 大園隆二郎 『大隈重信』 西日本新聞社 2005年、178頁
    17. a b c 平瀬礼太、「夫人像の建設巡り紛糾「大隈重信像」」(銅像はつらいよ十選 5)、日本経済新聞、2013年12月19日


    関連項目
    小栗忠順 -小栗家と親族であり、[1]、[2]財政家として高く評価。藤姓毛利氏の矢野竜渓の弟に小栗家を継がせ、再興に尽力。
    早稲田奉仕園 (早稲田奉仕園について | 財団法人 早稲田奉仕園)
    佐賀の七賢人
    憲政会


    外部リンク

    大隈重信 | 近代日本人の肖像


    早稲田大学サイト 「創設者 大隈重信」

    第2次大隈重信内閣成立|史料にみる近代日本

    歴代総理の写真と経歴 第8・17代 首相官邸サイト

    国立国会図書館 憲政資料室 大隈重信関係文書(MF:早稲田大学蔵)

    (wikiより)


    1839 大隈重信 大隈重信
    1839a

    1839b
    1839c










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