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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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1719 櫻井忠温墓(松山市祝谷東町442・道後鷺谷墓地)

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櫻井 忠温 ( さくらい - ただよし、1879年 ( 明治 12年 ) 6月 11日 - 1965年 ( 昭和 40年 ) 9月 17日 ) は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。


木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。


経歴 1879年 ( 明治 12年年 6月 11日、愛媛県松山城下の小唐人町 ( 現・松山市大街道 1丁目 ) に士族の 3男として生まれる。


1899年 ( 明治 32年 )、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。


1901年 ( 明治 34年 ) 11月、陸軍士官学校卒業 ( 13期 )。


松山の歩兵第 22連隊旗手として日露戦争に出征。


乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に 8発の弾丸と無数の刀傷を受け ( 全身蜂巣銃創 )、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。


余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという。


帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を 1906年 ( 明治 39年 ) に刊行。


戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など 15カ国に翻訳紹介される。


1924年 ( 大正 13年 ) 以降、陸軍省新聞班長を務め、1930年 ( 昭和 5年 )、陸軍少将で退役。


著作には『銃後』『草に祈る』『黒煉瓦の家』『大将白川』『将軍乃木』『煙幕』などのほか、晩年の自伝『哀しきものの記録』がある。


また少年時代に画家を志し、四条派の絵師に学んだほど画技にも秀で、画集も出版している。


太平洋戦争時の活動から、1947年 ( 昭和 22年 ) 公職追放に遭い、1952年| ( 昭和 27年 ) 解除。


長く東京で暮らしたが、1959年 ( 昭和 34年 ) に帰郷。


1965年 ( 昭和 40年 ) 9月 17日、松山市内の病院で死去。86歳没。

著書『肉弾』詳細は「肉弾 」を参照


難攻不落の要塞といわれた旅順口。ここに乃木希典大将率いる大日本帝国陸軍第三軍は、ステッセル司令官率いる強大国ロシア軍と壮烈な攻防戦を繰り広げた。


本書は、旅順要塞をめぐる日露両軍の激戦の模様を克明に伝えるほか、惨劇を極める戦場の極限状態にあって、なお部下や戦友の安否を気づかい、家族を想う兵士達の姿を感動的に描く。


日露戦争後、櫻井は明治天皇から破格の特別拝謁の栄誉に授かり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム 2世は本書をドイツ全軍の将兵に必読書として奨励した。


また日露戦争終結に尽力したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、櫻井宛に「予はこの書の数節を我が二児に読み聞かせたが、英雄的行為を学ぶことは一朝有事の時に際して、一般青年の精神を鼓舞すべきもの」という賞賛の書簡を寄せた。


英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・中国など、世界 15カ国で翻訳出版され、近代戦記文学の先駆けとして世界的ベストセラーとなる。
(wikiより)


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1720 臥牛洞狂平の仮名詩碑(松山市道後湯月町4・円満寺)

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芭蕉十哲の各務支考 ( かがみ - しこう ) の門人・臥牛洞狂平 ( がぎょうどう - きょうへい ) らが、京都双林寺に建立の仮名詩碑にならい、支考の二五回忌宝暦五年 ( 1755 ) に建てた仮名詩碑 ( 俳体詩 ) で、全国に三基しかない珍しいものである。


 我師この世にいます比 ( ころ ) しもは
ひとへに其師の道をになひて


 雪に氷に身をこらしつつ
夏野は脚を草にこがして


 道には秋の露いとはずも
門は葎 ( むぐら ) のとぢも閉てん

 

 萩には風の音の有しを
二見の浦の貝の数々


( 下略 ) ですが、下文は


  人をめぐみの深ければこそ
     世の捨て人のなみにもあらずも


 この日のもとの国のすゑ~
     蝦夷か千島もそとのはま辺も


 春のながめの心のとけく
     岩のはさまも住うからねば


 咲ちる事も風にまかして
     心の花は常に咲しを


 はるの嵐のさはつれなくて
     寝屋にやどせる月も荒しよ


 そよ村雲のたちかくしにし
     其きさらぎの宵の間の夢
 
 覚にし魂をここにうつして
     今も花咲くかげぞ尊ふとき

〔 碑陰 〕

維石不言 ( これいしいわず )
 謎文以伝 ( なぞぶみもってつたう )
 

蕉下獅子菴門人 臥牛洞狂平
 宝暦五乙亥稔二月七日
(案内板より)


臥牛洞 狂平 ( がぎゅうどう - きょうへい 生没年不詳、江戸時代) )

 

俳人。


松山 ( 現松山市 ) を中心に活動した人。


美濃派の各務支考の門で俳諧を学ぶ。


支考の 25回忌に追善仮名詩を作り、道後円満寺に碑を建立した。


『きさらき』を刊行し、松山・風早 ( 旧北条市 ) 近辺の俳人の句を集めている。


略歴 生年不詳
宝暦 5 ( 1755 ) 年 支考 25回忌を機に道後円満寺に仮名詩碑を建立。


宝暦 13 ( 1763 ) 年 二六庵竹阿を交えて碑前で追善供養。


『きさらき』を編集し、刊行。

没年不詳


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1721 奥平鶯居墓(松山市道後湯月町4・円満寺)

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実は笑い話しなんですが、この場所を撮影した時の事 


直ぐ隣に「良い感じ」の旅館が有るのですが


その旅館に、ちょくちょくブログを覗かせていただいている『日本ボロ宿紀行』のもんすけさんが宿泊されていて、ニアミスしました ( 笑 )。


日本中の「ボロ宿 ( 良い意味で )」を御紹介されています。『日本ボロ宿紀行』
http://boroyado.doorblog.jp/


では本題に入ります。


「 散と見し


  幻消て花に月 」


奥平鶯居 ( おうきょ ) 1809 - 1890 文化六年 - 明治二三年


鶯居は貞臣 ( さだおみ )、通称は弾正、山城ともいい、梅滴とも号した。


松山藩の家老で藩政の首班に列した。


はじめ松山の塩見黙 ( しおみもく ) 翁について俳諧の指導を受けたが、後に田川鳳朗 ( ほうろう ) の俳風を慕って一家をなし、明治前期・大原基戎 ( きじゅう ) と地方俳壇の双璧といわれて中央俳壇にもその名はけんでんされた。墓碑句。
(案内板より)


● 奥平鶯居
奥平 貞臣 ( おくだいら - さだおみ、寛政 5年 3月 17日 ( 1809年 5月 1日 ) - 明治 23年 ( 1890年 8月 25日 )) は、伊予松山藩筆頭家老、奥平藤左衛門家 8代当主。俳人。


父は奥平貞熈。養父は奥平昌蔭。子は奥平貞操。幼名は隼人。諱は貞臣、昌壽。通称弾正、山城。号鶯居(おうきょ)。


生涯

伊予松山藩筆頭家老・奥平弾正として

文化 6年 ( 1809年 ) 3月 17日伊予松山藩家老・奥平貞熈の長男として松山に生まれる。


文政 9年 ( 1826年 ) 大名分となり擬米 200俵。


文政 12年 ( 1829年 ) 家老となり擬米 300俵。


文政 13年 ( 1830年 ) 家老・奥平昌蔭の養子となる。


天保 9年 ( 1837年 ) 江戸城西丸炎上の際に、江戸藩邸の藩士を率いて江戸城内紅葉山の警備に当たる。


天保 14年 ( 1843年 ) 家老を免じられる。


弘化 5年 ( 1848年 ) 養父の死去により家督と知行 3300石を相続。


大名分、組頭として与力を預かる。


嘉永 3年 ( 1850年 ) 家老に復帰。


安政 3年 ( 1856年 ) 藩主・松平勝成家督相続御礼言上の際に、将軍徳川家定に拝謁。


同年家老を免じられる。


文久元年 ( 1861年 ) 家老に復帰。


元治元年 ( 1864年 ) 禁門の変の際、御所警護の為に、松山より藩兵を率いて出陣。


7月 16日に京に到着し、紙屋川警備に就く。


19日長州軍が間道から下立売門に向かった知らせを受け、兵を下立売門に向けるも戦闘の終了した後であった。


明治元年 ( 1868年 ) 隠居して家督を嫡男・貞操に譲る。


俳人奥平鶯居として

貞臣は、俳人奥平鶯居としても知られる。


地元松山の塩見黙翁、江戸の田川鳳朗の門人となり俳諧を学ぶ。


後に俳諧宗匠として、大原其戎とともに伊予俳壇の中心人物となり、中央俳壇にもその名を知られた。


句集に「梅鶯集」を残す。


明治 14年 ( 1881年 ) 6月「愛比売新報」の別冊俳誌「俳諧花の曙」を創刊しその選者となる。


明治 23年 ( 1890年 ) 8月 25日死去。享年 82。


代表的な句
・風雲をずんずとぬけて冬の月


・時鳥花のまほろし消えにけり


参考文献
『松山叢談』
『愛媛県史』
『愛媛県誌稿』
(wikiより)


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1722 松尾芭蕉句碑(松山市道後姫塚114・義安寺)

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このほたる

    田ごとの月と

         くらべ見ん

           はせを ( ばしょう )


松尾芭蕉 1644 - 1694 正保一年 - 元禄七年


この句は、郷里に帰っていた芭蕉が、元禄一 ( 1688 ) 年「田毎の月」で有名な長野県更科の月見を思い立ち、旅の途中、大津に留っている頃、まず、瀬田川のホタルを見に行って詠んだ句である。


この義安寺付近は蛍の名所なので明治十六年 大原基戎 ( きじゅう ) らがこの句碑を建てた。
(案内板より)


● 松尾芭蕉
松尾 芭蕉 ( まつお - ばしょう、寛永 21年 ( 1644年 ) - 元禄 7年 10月 12日 ( 1694年 11月 28日 )[1]) は、江戸時代前期の俳諧師。


現在の三重県伊賀市出身。


幼名は金作[2]。通称は甚七郎、甚四郎[2]。名は忠右衛門宗房[2]。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉 ( はせを ) と改めた。北村季吟門下。


蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[3]を確立し、後世では俳聖[4]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。


芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄 2年 3月 27日 ( 1689年 5月 16日 ) に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』がある。


詳しい事は『松尾芭蕉ウイキペデディア』を御覧下さいませ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89


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1723 高橋丈雄墓(松山市御幸1-281・長建寺)

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みんな雑草 みんな花 みんな雲
               

丈雄


高橋丈雄 劇作家 ( 1906 - 1986 )


代表作 
明治零年 ( 文部大臣賞受賞 )

死なす

祈りと怒り

鉄砲紀

鳥と詩人

人間釈尊
ラジオドラマなど多数

劇団かもめ座結成
文芸誌 アミーゴ創刊

愛媛の演劇文学振興に功績を残す。
(碑文より)


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1724 正岡子規・夏目漱石句碑(松山市道後公園)

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ふゆ枯や 鏡にうつる 雲の影


正岡子規 ( 1867 ~ 1902 ) (慶応 3年 ~ 明治 35年 )


明治二十八年冬の句。


子規句集『寒山落木』及び『病餘漫吟 ( びょうよまんぎん )』に見える。


明治二十八年秋、愚陀仏庵 ( ぐだぶつあん ) で子規が森円月に書き与えたもの。


子規「雲百句」の一つ。


半鐘と 並んで高き 冬木哉 


夏目漱石 ( 1867 ~ 1916 ) 慶応 3年 ~ 大正 5年 )


明治 29年 1月 3日午後子規庵に内藤鳴雪、森鴎外、五百木飄亭、夏目漱石、高浜虚子、河東可全 ( かぜん )、河東碧梧桐 ( かわひがしへきごとう ) と子規の八名が会しての初句会での句。


国際ロータリークラブ第 267地区年次大会を記念して建立。
(案内板より)


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1725 永井ふさ子墓(松山市御幸1-281・長建寺)

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ありし日の如くに杏花さけり

  み魂かえらむ この春の雨


                    ふさ


ふさ子は戦前、親子ほど年齢の違う歌人あり病院院長の、斉藤茂吉と道ならぬ関係になっていました。 


後、破局を迎えるが茂吉が没してから 10年後 ( 昭和 38年 ) 茂吉との関係を世間に公表してしまいました。


● 斉藤茂吉
斎藤 茂吉 ( さいとう - もきち、1882年 ( 明治 15年 ) 5月 14日[1] - 1953年 ( 昭和 28年 ) 2月 25日 ) は、日本の歌人、精神科医である。


伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。


概要
1882年 ( 明治 15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、山形県南村山郡金瓶 ( かなかめ ) 村 ( 現在の上山市金瓶 ) に生まれた。


守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。


上京したのは 15歳のときで、途中の仙台の旅館では菓子、もなかを生まれて初めて食べ、「こんなうまいものがあるのか」と思い、夜に到着した東京・上野駅では、「こんなに明るい夜があるものだろうか」と驚いたという[2]。


医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の婿養子となった。


しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。


守谷家は近所の時宗 ( のち浄土宗 ) 宝泉寺の檀家であり、茂吉も住職・佐原窿応の薫陶を受けた。


第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。


また時宗大本山 ( のち浄土宗本山 ) 蓮華寺 49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。


養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。


創作活動
中学時代、佐々木信綱の『歌の栞』を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始する。


高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。


精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。


また、文才に優れ、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『ドナウ源流行』『念珠集』『童馬山房夜話』などのすぐれた随筆も残しており、その才能は宇野浩二、芥川龍之介に高く評価された。


芥川が一番小説を書かせたいのは誰かと聞かれた際に、即座に茂吉の名を出したという。


太平洋戦争中の創作活動は積極的に戦争協力していたために、戦後になってからは批判にさらされた。


生涯に全 17冊の歌集を発表し、全 17,907首の歌を詠んだ。


ただし、あくまでも精神科医を本来の生業とする姿勢は崩さず、「歌は業余のすさび」と称していた。


息子の北杜夫は「心の九割は歌に、文学に打ち込んでいたと思う。」とし、茂吉の性格上、臨床医は合わず口説療法を主とする診察は苦手であったと評している。


「年譜 」、「代表歌」、「著書」、「参考文献」、「伝記文献」については、『斉藤茂吉ウィキペディア』を御覧下さいませ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%90%89


私生活
1914年 ( 大正 3年 ) 4月、養父・斎藤紀一の長女で 13歳年下で当時 19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の婿養子となった。


結婚 2年後の 1916年 ( 大正 5年 ) には、長男・茂太が誕生している。


養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘・輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。


しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった[4]。


輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。


欧州留学中の 1924年 ( 大正 13年 ) 7月には現地に輝子を迎え、共にヨーロッパ各地を旅行 (「歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ」)、滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記している。


帰国後の 1925年 ( 大正 14年 ) 2月には長女・百子、1929年 ( 昭和 4年 ) 10月には次女・昌子が誕生した。


1933年 ( 昭和 8年 )、ダンス教師が華族や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとするスキャンダル、「ダンスホール事件」が発生した。


この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが大新聞をはじめとするメディアに報じられ[5]、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。


この事件の結果、夫婦は以後約 10年ほどに渡って別居することになった。


輝子は、母の生家がある秩父や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・上山の旅館 「山城館」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた[6]。


この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。


その後、大東亜戦争中に輝子が茂吉の故郷・山形に疎開することになったのを機に 1945年 ( 昭和 20年 ) から同居を再開、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。


輝子自身は、80歳を超えても世界中を旅行し、エベレスト登山にまで挑むような活発な女性であった。


家族
父方の祖父の金沢治右衛門は和歌を嗜んだ。


長女は百合子、次女は晶子。長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香がいる。また、妻の弟・齋藤西洋の妻の兄は堀内敬三。


性格
・かなりの食いしん坊であった。


中でも鰻が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の缶詰を食べていた[7]。


味噌汁の具にも口うるさく注文し、家人からネギもあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほどこだわった。


・非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。


その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった[8]。


茂吉が風邪で寝ていた時、ぜひともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。


あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産のカステラを食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。


・癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。


だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。


・根に持つタイプで、「病雁論争」では自身の作品をこき下ろした太田水穂に対し「水穂征伐」なる反論を書き「僕にかりそめにも刃向かうごとき者がゐたなら必ず死ぬ。水穂もそろそろ要心せよ。」「そんな低級魯鈍者流ではもはや僕の論敵にはなれぬ。」などと云ったかなりどぎつい表現を用いて相手に挑んだことがあった。


入院患者に頬を平手打ちされたとき、どのようにして仕返ししてやろうか一人妄想にふけっていたと随筆「瞬間」に記している。


留学時代ミュンヘンでエミール・クレペリンに握手を求めて拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。


・粘着性気質で、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。


・子供のころ質素倹約を旨とした農村社会の生活をしていたので、物を大事にする傾向が強かった。


妻との旅行中、ドイツの山間の駅で絵葉書を物色中に、汽車が妻を乗せたまま出発、慌てた茂吉は猛スピードで追いかけ辛うじて飛び乗った。


この時もきちんと金を払って絵葉書を買ってから汽車を追いかけたという。

逸話
・終戦後、戦意高揚の和歌を多く作成し非難を浴びたが、茂吉自身は狂信的な国粋主義者でもなく、戦争や皇室に関しては平均的な日本人の感情を持っていた。


それでも昭和天皇とマッカーサー元帥との有名な会見の写真が新聞に掲載された時は、憤慨し「ウヌ、マッカーサーの野郎」と日記に書きしるしている。


・「もきち」という名前は当時としても古臭いイメージがあったため、養父の勧めにより「しげよし」と読ませていた時期がある。


・医者としても、かなりの腕を持ち、患者にはやさしく接して評判が良かった。


ドイツ留学時代から膨大な精神医学書を購入し、論文を著述する計画であったが、これらの既に日本に送り届けてあった書籍を留学からの帰朝直前に青山脳病院の火災で焼いてしまった。


この火災の原因は茂吉の帰朝を祝う餅つきの残り火が原因だった。


・文学関係者では永井荷風や芥川龍之介、宇野浩二も診察を受けた。


とくに芥川の神経衰弱から来る不眠症には真剣に接し、さまざまな療養法を手紙でアドバイスしたり、臭素加里やアヘンチンキ、ドイツバイエル社製のべロナール ( バルビタール ) などの睡眠薬を施した。


それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。


・夜尿症で中学時まで寝小便が治らなかった。


息子の斎藤茂太やその孫にまで遺伝していた。


普段も頻繁な便意に悩まされ、疎開中には、バケツを借りて用を足していた。


バケツには「極楽」と名付けていたが、使用後、「洗えばいい。」とそのバケツに野菜などを入れて周囲を驚かせた。


・学生時代の北杜夫が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。


だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた。[9]

関連項目
短歌
茂吉記念館前駅
赤光
歌人一覧

脚注
1. 戸籍では明治15年7月27日生
2. 斎藤茂太 「赤いレンガ」 『医学芸術』 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年 坪井医院(千代田区神田和泉町1)のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧
3. a b c d e f 「斉藤茂吉略年譜」 財団法人 斎藤茂吉記念館
4. このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている
5. この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日
6. 山上次郎 文芸春秋 p359
7. 齋藤茂吉全集第三十一巻P540およびP681(岩波書店)
8. 北杜夫『どくどるマンボウ青春記』
9. 北杜夫「マンボウ最後の大バクチ」新潮社
(wikiより)


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詩人まど・みちおさん死去

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童謡「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」などで知られ、やさしく深い言葉で命の貴さをうたいあげた詩人のまど・みちお(本名石田道雄〈いしだ・みちお〉)さんが、28日午前9時9分、老衰で亡くなった。104歳だった。葬儀は未定。喪主は長男石田京(たかし)さん。


● まど・みちお ( 本名:石田 道雄〈 いしだ みちお 〉、1909年〈 明治4 2年 〉11月16日 - 2014年〈 平成 26年 〉 2月 28日 ) は、日本の詩人である。


25歳のときに北原白秋に認められ、33歳のときに召集される。


詩作りは 20代から始め、以来詩を作り続けた。


創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である[1]。


『ぞうさん』や『やぎさんゆうびん』などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。


経歴

現在の山口県周南市に生まれる。


幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにみちおが 5歳の時に母が彼の兄と妹を連れて同地に移住したため 4年ほどの間、祖父と 2人での生活を送っている。


その後、彼も祖父のもとを離れて台湾へ渡った。


台北工業学校土木科に在学中、数人で同人誌『あゆみ』を創刊し詩を発表。


卒業後は台湾総督府の道路港湾課で働いていたが 1934年、雑誌『コドモノクニ』の童謡募集に応じて 5篇を投稿、そのうちの 2篇が特選に選ばれたのをきっかけに詩や童謡の投稿を本格的に行うようになる。


1936年には山口保治によって童謡『ふたあつ』が作曲された。


その翌年には同人誌『昆虫列車』の創刊に参加し、1939年の廃刊まで活動する。


1943年、召集によって台湾の船舶工兵隊に入る。マニラを皮切りに各地を転戦し、シンガポールで終戦を迎える。


日本に戻り、1948年には出版社に入社。


雑誌『チャイルドブック』の創刊にたずさわり詩や童謡の発表をしながら子供のための雑誌、書籍の編集やカットに関わった。


1959年に出版社を退社した後は、詩・童謡・絵画に専念する。


1963年にはそれまでに作った童謡を『ぞうさん まど・みちお子どもの歌一〇〇曲集』としてまとめる。


その 5年後、はじめての詩集となる『てんぷらぴりぴり』を出版し第 6回野間児童文芸賞を受賞


。1976年、『まど・みちお詩集』( 全 6巻 ) によって第 23回サンケイ児童出版文化賞を受賞。


第 1巻『植物のうた』は、日本児童文学者協会賞にも選ばれた。同年、川崎市文化賞を受賞。


その後の賞歴を箇条書きする。
1979年 『風景詩集』により第 22回厚生省児童福祉文化奨励賞。


1980年 第 23回日本児童文芸家協会児童文化功労賞。


1981年 第 4回巌谷小波文芸賞。


1986年 『しゃっくりうた』により第 35回小学館文学賞。


1992年 まどの生誕地である山口県徳山市 ( 当時 ) から、市民文化栄誉賞。


1993-1994年 『まど・みちお全詩集』により第 43回芸術選奨文部大臣賞および第 40回産経児童出版文化賞大賞、第 16回路傍の石文学賞特別賞。


1994年 国際アンデルセン賞 ( Hans Christian Andersen Award ) 作家賞。


1998年 第 47回神奈川文化賞。


1999年 1998年度朝日賞。


2001年 『うめぼしリモコン』により第 11回丸山豊記念現代詩賞。


2003年 第 59回日本芸術院賞。


1992年には、皇后美智子の選・英訳による『どうぶつたち』( The Animals ) が日本およびアメリカで出版された。


満 90歳 ( 1999年 11月 ) を過ぎた頃からは、自らの「老い」を見つめた詩も増えているとされる[2]。


2008年末、腰を痛めたのを機に入院したが[3]、創作活動は続ける[2][3]。


2009年、満 100歳を迎えるにあたり、新作詩集 2冊 ( 『のぼりくだりの…』『100歳詩集 逃げの一手』 ) が 11月に刊行された[4]ほか、出身地の周南市ではさまざまな記念イベントが開催された[5][6]。


2014年 2月 28日、老衰で東京都内の病院で死去した[7]。享年 104。


作品

『やぎさんゆうびん』

1939年、「昆虫列車」に初出、1953年にNHKラジオで放送された(作曲:團伊玖磨)。白ヤギと黒ヤギの間で終わりなく繰り返される手紙のやりとりがユーモラスな作品である。


『ぞうさん』
1948年に書かれたもので、1953年に團伊玖磨が曲をつけてNHKラジオで放送された。その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている[8]。周南市徳山動物園には『ぞうさん』の歌碑がある[9]。


みちおは『ぞうさん』について次のように語っている。


「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴しい」[1]


『ふしぎなポケット』

1954年発表。たたくたびに中のビスケットが増える魔法のポケットがほしいと歌う作品。作曲は渡辺茂。


おもな著作・関連作品一覧

詩集

『てんぷらぴりぴり』(大日本図書、1968年)
『まめつぶうた』(理論社、1973年)
『まど・みちお詩集』(全6巻 銀河社、1974-1975年)
『風景詩集』(銀河社、1979年)
『つけもののおもし』(ポプラ社、1979年)
『いいけしき』(理論社、1981年)
『しゃっくりうた』(理論社、1985年)
『くまさん』(童話屋、1989年)
伊藤英治編『まど・みちお全詩集』(理論社、1992年初版、1994年増補新装版、2001年新訂版。右のISBNコードは新訂版。 ISBN 9784652042311)
『それから…』(童話屋、1993年)
『メロンのじかん』(理論社、1999年)
『おなかの大きい小母さん』(大日本図書、2000年)
『きょうも天気』(至光社、2000年)
『そのへんを』(未知谷、2006年、写真:みやこうせい)
市河紀子編『のぼりくだりの…』(理論社、2009年)
水内喜久雄『100歳詩集 逃げの一手』(小学館、2009年)


エッセー

『すべての時間を花束にして』(聞き書き:柏原怜子、佼成出版社、2002年 ISBN 9784333019717)
『いわずにおれない』(集英社、2005年 ISBN 9784086501019)

詩画集[編集]
『とおいところ』(新潮社、2003年 ISBN 9784104641017)


翻訳絵本
皇后美智子選・英訳『どうぶつたち(The Animals)』(絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年 ISBN 9784915777066)
皇后美智子選・英訳『ふしぎなポケット(The Magic Pocket)』(絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年 ISBN 9784915777219)


童謡
『ぞうさん』(作曲:團伊玖磨)
『やぎさんゆうびん』(作曲:團伊玖磨)
『おにぎりころりん』(作曲:小森昭宏)
『いちねんせいになったら』(作曲:山本直純)
『ふしぎなポケット』(作曲:渡辺茂)
『ドロップスのうた』(作曲:大中恩)
『みずあそび』(作曲:滝廉太郎)
『あわてんぼうの歌』(外国曲)


合唱曲
児童(女声)のための合唱組曲『虫の絵本』(作曲:吉岡弘行) テントウムシ
チョウチョウ
ガガンボ
セミ

混声合唱組曲『宇宙のうた』(作曲:近藤春恵)
女声(児童)合唱曲『花と木の歌』(作曲:今井邦男)
『こんなにたしかに』(作曲:山本純ノ介)
混声合唱組曲『詩の歌』(作曲:三善晃) コスモスのうた

いちばんぼし
かいだん I
やどかりさん
サザンカ

かいがらさん

『うたをうたうとき』(作曲:信長貴富、木下牧子)


同人誌
昆虫列車
詩人の水上不二と発行資料 水上不二さんの詩(ポエム・ライブラリー夢ぽけっと 2005年)


校歌

安曇野市立豊科南小学校(長野県安曇野市)
川崎市立白幡台小学校付属幼稚園(2003年閉園)(神奈川県川崎市)
立川市立立川第九中学校(東京都立川市)
川崎市立稗原小学校(神奈川県川崎市)
川崎市立南菅小学校(神奈川県川崎市)
私立丸山幼稚園(神奈川県川崎市)
練馬区立大泉第二小学校(東京都練馬区)
練馬区立旭町小学校(東京都練馬区) 
町田市立忠生第四小学校(2001年閉校)(東京都町田市)
長野市立篠ノ井西小学校(長野県長野市)
長野市立篠ノ井西中学校(長野県長野市)
世田谷区立希望丘小学校 (東京都世田谷区)
千曲市立治田小学校(長野県千曲市)
三浦市立南下浦小学校(神奈川県三浦市)


1. a b 井上圭子「100歳迎え新作詩集 まど・みちおさん」、『東京新聞』2009年(平成21年)10月28日 水曜日【暮らし】、 10面。
2. a b 『NHKスペシャル』(2010年1月3日放送済み)「ふしぎがり~まど・みちお 百歳の詩~」番組紹介 日本放送協会 2010年1月6日閲覧。
3. a b 佐々波幸子 (2009年11月16日). “詩人まど・みちおさん100歳「何か新しいことできる」”. asahi.com. 朝日新聞社. 2009年11月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年1月6日閲覧。
4. “特集「詩人 まど・みちお 100歳での新作詩集を語る」”. 『週刊ブックレビュー』2009年11月21日の放送内容. 日本放送協会 (2009年11月21日). 2010年1月6日閲覧。
5. “まどさん100歳祝う 周南、2カ所でイベント”. 山口新聞. 山口新聞社 (2009年10月26日). 2010年1月6日閲覧。
6. “まど・みちおさん100歳 地元の周南、祝福ムード”. 山口新聞. 山口新聞社 (2009年11月17日). 2010年1月6日閲覧。
7. 詩人まど・みちおさん死去 104歳、「ぞうさん」など 朝日新聞 2014年2月28日閲覧。
8. MSN毎日インタラクティブ「この国はどこへ行こうとしているのか まど・みちおさん」(毎日新聞、2007年7月6日)
9. 周南市徳山動物園「史跡めぐり」・「歌碑「ぞうさん」」


関連項目
童話
水上不二
阪田寛夫

外部リンク

  • まど・みちお - 「どの詩に誰が作曲したか」など。
  • まど・みちお100の世界 (周南市美術博物館) - まど・みちおの絵画作品を収蔵している。
  • (wikiより)


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    1726 小林一茶句碑(松山市道後公園)

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    寝ころんで 蝶泊まらせる 外湯哉


    一茶は その師、竹阿 ( ちくあ ) の旅日記『其日ぐさ』の跡をたどり、寛政七年 ( 1795 ) 讃岐から松山に入り、師の友人 栗田樗堂 ( ちょどう ) の二畳庵を訪ね、二月一日に道後を訪れて この句を詠んだ。


    江戸時代古図 ( 1813年 ) によると、本湯の西の外れに長円形の池があり「乞食牛込入込 ( いりごみ )」とある。


    いいお湯ではなかったらしい。
    (案内板より)


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    1727 新田長次郎翁蔵髪碑(松山市御幸町1・来迎寺)

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    新田 長次郎 ( にった - ちょうじろう、安政 4年 5月 29日 ( 1857年 6月 20日 ) - 昭和 11年 ( 1936年 ) 7月 17日 ) は、明治時代から昭和前期の実業家。号は温山。愛媛県出身。


    新田帯革製造所 ( 現 ニッタ ) の創業者として知られる。


    経歴
    安政 4年 ( 1857年 )、伊予国温泉郡味生村字山西 ( 現在の愛媛県松山市山西町 ) に農家の新田喜惣次の次男として生まれる。


    明治 10年 ( 1877年 )、21歳の時に大阪に出て、藤田組製革所に入り、製革技術を習得した。


    明治 13年 ( 1880年 ) に、藤田組製革所の経営不振から解雇されが、2年後の明治 15年 ( 1882年 ) に大倉組製革所に入所、明治 17年に工場の仕込部主任となり、なめしの準備工程一切の指揮を任された。


    明治 18年 ( 1885年 ) に新田組として独立し、大阪市西成郡難波村久保吉 ( 現在の大阪市浪速区久保吉 2丁目 ) に空家を借り、製革工場を起こした。


    当初は、製靴用の薄物油革を製造していたが、知人の出資を得て工場を拡張し、明治 21年 ( 1888年 ) には大阪紡績 ( 現在の東洋紡 ) の依頼で動力伝動用革ベルトの国産化に日本で初めて成功、新田製地球印帯革として、その後、全国で設立された紡績会社に販路を広げていく。


    明治 26年 ( 1893年 ) にシカゴで開催された世界大博覧会出品のため渡米し、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークを回った後、ロンドン、パリを訪れ、多くの製革所を視察するとともに、製革機械を買い入れ、工場の改善に大いに役立てた。


    明治 30年 ( 1897年 ) には、長次郎の単独経営となる。


    明治 33年 ( 1900年 ) には、パリ万国博覧会への製品の出品に合わせて、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、アメリカと海外視察を行った。


    明治 34年 ( 1901年 ) に、東京出張店を開設し、その後各地に出張店を設置した。


    明治 35年 ( 1902年 ) には、実業功績者として、緑綬褒章を授与された。


    明治 37年 ( 1904年 ) には、革ベルト接合法で最初の特許を取得し、これにより、かなり耐久性に優れた製品化が可能となった。


    明治 42年 ( 1909年 ) には、個人企業から合資会社となり、合資会社新田帯革製造所として発足し、長次郎は無限責任代表社員となった。

    明治 44年 ( 1911年 ) には、革をなめすためのタンニンを製造するため、良質のタンニンを含む檞 ( かしわ ) の林野が広がる北海道幕別町止若 ( やむわっか ) に、タンニン固形エキス製造工場の操業を開始した。


    大正 9年 ( 1920年 ) に政府の臨時産業調査委員に選ばれ、大正 10年 ( 1921年 ) に帝国発明協会から発明功績者として表彰された。


    昭和 11年 ( 1936年 ) に脳出血で倒れ、2日後に逝去した。享年 80。四天王寺において社葬が執り行われた。


    篤志家として
    有隣尋常小学校 ( 現在の大阪市立栄小学校 ) の設立


    明治 44年 ( 1911年 )、長次郎は当時の難波警察署長から貧困子弟のための教育機関設立の相談に賛同し、浪速区栄町 ( 現在の浪速区浪速西 ) に 3件の家を借りて、私立夜学校である有隣尋常小学校を設立した。


    学校運営経費だけでなく、生徒の学用品、衣服、履物にいたるまで支給した。


    翌年、学校の旧建物の一部を移築し、昼間・夜間の二部授業に拡張、12年間経営した後、大正 11年 ( 1923年 ) に大阪市に施設・基金を付けて寄贈した。


    松山高等商業学校 ( 現在の松山大学 ) の創立


    大正 12年 ( 1923年 )、故郷の松山に、教育を通じても社会に貢献したい、との考えから、松山高等商業学校の創立にあたり、創立費と経営費を出資した。


    同校の卒業生同窓会は、長次郎の雅号 ( 温山 ) をとり、温山会と名づけられている。


    参考文献
    ニッタ株式会社百年史」 1985年、ニッタ株式会社百年史編纂委員会


    発行
    「大阪現代人名辞書」第1巻 2003年、日本図書センター
    青山淳平「明治の空 ― 至誠の人 新田長次郎」 2009年、燃焼社

    関連項目
    ニッタ
    松山大学
    温山荘園
    (wikiより)


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    1728 足立重信頌功之碑(松山市御幸町1・来迎寺)

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    足立重信 ( あだち - しげのぶ、? - 寛永 2年 11月 17日 ( 1625年 12月 16日 )) は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は半助、半右衛門。名は兼清、元清とも。


    経歴
    美濃国の生まれで、若い頃より加藤嘉明に小姓として仕えた。


    嘉明の転封に伴い、伊予国正木 ( 松前 ) 城に入った後、文禄・慶長の役に従軍し功を立て、さらに関ヶ原の戦いの際には、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢を撃退する。


    これら戦功によって家老に任ぜられ、5000石の所領を与えられた。


    四国攻め#毛利輝元の四国出兵 」も参照


    その後は主に領内開発に奉行として従事し、中でも暴れ川として有名だった伊予川の灌漑工事は下流に新たな流路 12キロに渡って開削し堤防を築いて大改修を行い、流域に広大な耕作地を生み出した。


    さらに松山城の南麓を流れる湯山川 ( 現在の石手川 ) の流路を変更して伊予川と合流させ、城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せた。


    この重信の工事により、領内では水害がなくなり、収穫も潤ったという。


    それ以来伊予川は「重信川」と呼ばれ、国内でも珍しい「個人の業績を名に残す」川となった。


    その後も松山城の城郭や堀割などの構築に尽力し、伊予松山藩の初期土木行政に活躍したが、松山城の完成を待たず死去。生前望んだ松山城下を見渡せる愛媛県松山市の山越来迎寺に葬られた。
    (wikiより)


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    1729 芳澤謙吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    芳澤 謙吉 ( よしざわ - けんきち、1874年 ( 明治 7年 ) 1月 24日 - 1965年 ( 昭和 40年 ) 1月 5日 ) は、新潟県高田 ( のち上越市 ) 出身の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。


    家族・親類
    妻の操は内閣総理大臣等を務めた犬養毅の長女。


    孫に国際協力機構理事長や国際連合難民高等弁務官事務所弁務官等を歴任した国際政治学者の緒方貞子、国際法学者で元ニュージーランド大使の井口武夫、元外務省事務次官や侍従長を務めた川島裕、数学者の芳沢光雄等がいる。


    略歴
    1874年 1月 24日 - 新潟県中頚城郡諏訪村生

     ・旧制新潟県立高田中学校、東京英語学校、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科卒業


    1899年 - 外務省に入省。

     ・人事課長、政務局長、欧米局長を歴任


    1920年 - 外務省亜細亜局長、その後欧米局長を務める


    1923年 - 任 中華民国公使


    1925年 1月 20日 - ロシア代表カラハンとの間に日ソ基本条約を締結 日ソ間の国交回復


    1929年 - 免 中華民国公使


    1930年 - 任 駐仏大使


    1932年 1月 14日犬養内閣外務大臣就任
     ・6月 - 貴族院議員に勅選、立憲政友会に入党


    1939年 - 政友会分裂に伴い、久原房之助、三土忠造とともに政友会正統派の総裁代行委員に就任 ( その後、久原が総裁に就任 )


    1940年 11月 26日 - 任 蘭印経済交渉全権


    1941年 - 任 駐フランス領インドシナ大使


    1945年 8月 7日 - 枢密顧問官


    1946年1月4日 - 公職追放 枢密顧問官諭示免官


    1951年 8月 - 公職追放解除


    1952年 8月 25日 - 任 駐中華民国初代大使


    1956年 12月 - 退官


    1965年 1月 5日 - 死去 享年 92 ( 満 90歳没 )



    「系譜」については、『芳澤謙吉ウイキペディア』を御覧下さいませ。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%BE%A4%E8%AC%99%E5%90%89


    文献
    芳沢謙吉自伝 (中野敬止編、時事通信社 1964年)
    外交六十年 (中公文庫、1990年) ISBN 412201767X、なお初版は自由アジア社


    関連項目
    第二次世界大戦前の日本の政治家一覧
    新潟県出身の人物一覧
    東京大学の人物一覧


    外部リンク
    芳沢謙吉 ( http://burari2161.fc2web.com/yoshizawakenkichi.htm )
    芳沢謙吉/クリック20世紀 ( http://www.c20.jp/p/ykenkici.html )
    (wikiより)


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    1730 大井松隣墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)

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    大井松隣 ( おおい - しょうりん 1676 - 1733 )


    江戸時代中期の儒者。


    延宝 4年生まれ。


    京都で伊藤仁斎にまなび 大串雪瀾 ( せつらん ) の推薦により常陸 ( ひたち ) 水戸藩につかえる。


    宝永 4年彰考館総裁。


    藩主徳川綱条 ( つなえだ ) の命で「大日本史」の序文をかいた。


    享保 ( きょうほう ) 18年 10月 9日死去。58歳。京都出身。


    本姓は小森。名は貞広。字 ( あざな ) は彦輔。通称は介衛門。別号に南塘。


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    1731 星 新一墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    星 新一 ( ほし - しんいち、本名・星 親一、1926年 9月 6日 - 1997年 12月 30日 ) は日本の小説家、SF作家。


    父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。


    森鴎外は大伯父にあたる。


    本名の親一は一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。


    イラストレーターのほししんいちとは特に関係がない。


    父の死後短期間 星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二 ( 西友社長 ) と並んで稀有な一部上場企業 ( 当時 ) 社長経験者である。


    ショートショート ( 掌編小説 ) を数多く残し、多作さと作品の質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショートの神様」と呼ばれ、生涯で 1001編以上の作品を残す。


    『ボッコちゃん』、『悪魔のいる天国』、『おせっかいな神々』、『ノックの音が』など多くの短編集がある。


    また『明治・父・アメリカ』、父親を書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。


    小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称され、日本を代表するSF作家として知られている。


    略歴
    1926年 ( 大正 15年 )、東京府東京市本郷区曙町 ( 現・東京都文京区本駒込 ) に生まれる。


    母方の祖父の家がある本郷で 1945年 ( 昭和 20年 ) まで育つ。


    東京女子高等師範学校附属小学校 ( 現・お茶の水女子大学附属小学校 ) を経て、東京高等師範学校附属中学校 ( 現・筑波大学附属中学校・高等学校 ) に進む。


    附属中在学中に対米開戦。


    これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修 ( 飛び級 ) で旧制の官立東京高等学校 ( 現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承 ) に入学。


    このため秀才と呼ばれたが戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。


    高等学校在学中、満 16歳の時に 1年間の寮生活を経験。


    当時の寮生活について、後年「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」[1]、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」[2]と回想した。


    1948年 ( 昭和 23年 )、東京大学農学部農芸化学科を卒業。


    高級官吏採用試験である高等文官試験 ( 現在の国家公務員I種試験 ) に合格したが内定を取ることに失敗。


    なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。


    東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究。


    1950年 ( 昭和 25年 ) に大学院の前期を終了する。


    卒業論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であった[3]。


    1949年 ( 昭和 24年 )、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第 1作『狐のためいき』を発表する。おそらく、星の初めての作品である。


    1951年 ( 昭和 26年 )、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐも当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻。


    会社を他人に譲るまでその処理に追われたという。


    星製薬倒産の経緯は『人民は弱し 官吏は強し』にも少なからず触れられている。


    この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。


    のちに星自身は「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。


    会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記』を読んで感銘を受ける。


    この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。


    星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な空飛ぶ円盤に興味を持つようになる。


    たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。


    星製薬退社後は作家デビューまでは浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月十万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。


    1957年 ( 昭和 32年 )、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊。


    第 2号に発表した『セキストラ』が当時江戸川乱歩の担当編集だった大下宇陀児に注目され[4]、「宝石」に転載されてデビューした。


    1958年 ( 昭和 33年 ) には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加。


    1960年 ( 昭和 35年 ) には「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。


    1961年 ( 昭和 36年 )、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。


    1963年 ( 昭和 38年 )、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加。


    同年、日本SF作家クラブの一員として、ウルトラシリーズ第 1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。


    会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。


    また、この年に福島正実と二人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はまったくタッチしていない。


    以降、40代 ~ 50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。


    1976年 ( 昭和 51年 ) ~ 1977年 ( 昭和 52年 ) には「日本SF作家クラブ」の初代会長。


    1979年 ( 昭和 54年 )、「星新一ショートショート・コンクール」の選考開始。


    1980年 ( 昭和 55年 )、日本推理作家協会賞の選考委員を務める。昭和 56年 ( 1981年 ) まで。


    1983年 ( 昭和 58年 ) 秋に「ショート・ショート 1001編」を達成。


    ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため「1001編目」の作品はない。


    それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版されるつど「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。


    1997年 ( 平成 9年 ) 12月 30日 18時 23分、東京都の病院で間質性肺炎のために死去、71歳没。


    2007年 ( 平成 19年 )、死後 10年目に星が残していた大量のメモ類と、関係者への大量のインタビューによる最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』( 新潮社 ) が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウな存在として遇され、安部公房のライバル心をかきたてるほどであったが、のち大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価のほうがともなわなくなってきた変遷も描き出されている。


    受賞 ( 受賞候補 ) 歴
    ・1961年 ( 昭和 36年 ) 2月、ショートショート6編(『弱点』、『生活維持省』、『雨』、『誘拐』(『その子を殺すな!』)、『信用ある製品』、『食事前の授業』)で直木賞の候補作に選ばれる。

    ・1962年 ( 昭和 37年 )、ショートショート集『人造美人』、ショートショート集『ようこそ地球さん』( 旧バージョン )、ショートショート集『悪魔のいる天国』で第 15回日本推理作家協会賞候補。


    ・1965年 ( 昭和 40年 )、長編小説『夢魔の標的』で第 18回日本推理作家協会賞候補。


    ・1968年 ( 昭和 43年 )、ショートショート集『妄想銀行』で第 21回日本推理作家協会賞を受賞[5]。


    ・1981年 ( 昭和 56年 )、「マンボウ・マブゼ共和国」( 北杜夫の小説に登場する架空の国 ) から文華勲章が授与される。「日本の勲章ならみっともなくて下げておられぬが、外国の勲章なら……」と語った。

    ・1998年 ( 平成 10年 ) - 第 19回日本SF大賞特別賞を受賞[6]。
    なお、SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞を星は一度も授賞していない。


    通常の小説部門が「長編部門」と「短編部門」しかないとはいえあまりの低評価であり、筒井康隆 ( ちなみに、筒井は小松左京とならぶ、7回の最多受賞者である ) は自身の編纂する『日本SFベスト集成』の解説で、それを嘆いている。


    さらに、手塚治虫、矢野徹、米澤嘉博、野田昌宏は死去した際に「星雲賞・特別部門」を受賞したが、星は「半引退状態」であったせいか、死去しても授賞されなかった。


    親族
    サーファーで反戦団体「ワールドマップ ( World MAP: Mothers Acting for Peace )」代表の星マリナは次女。


    母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精と森鴎外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫[13]。


    作品の特徴
    星の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった固有名詞が出てこない。


    例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を 2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。


    さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直し (「電子頭脳」を「コンピュータ」に、「ダイヤルを回す」を「電話をかける」に直すなど ) がされていて、星は晩年までこの作業を続けていた。


    激しい暴力や殺人シーン、性行為の描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。


    加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない等の制約を自らに課していた。


    ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」「エフ氏」の名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。


    「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。


    しばしば未来を予見しているかのような作品が見受けられるが、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは誰にも ( あるいは本人ですら ) 分からなかった。以下にその例を挙げる。


    声の網 ( 1970年 ) 電話線を経由する情報 ( 血圧や体温なども感知する ) をコンピュータに管理させている。


    コンピュータはいたるところに設置され、すべてネットワークでつながっている。


    人間たちは好きな時に好きな場所で必要な情報を取り出している ( インターネットの普及、ユビキタス社会の実現 )。


    おーい でてこーい ( 1958年 ) ある日突然出来た深い底なしの穴に、生産することだけ考えていて、その後始末は誰も考えていなかった人間たちは、これ幸いとばかりに都会のゴミや工場の排水や放射性廃棄物など、物を生産することで発生した不用なものをどんどん捨てていく ( 公害、生態系の破壊、大量消費社会 )。


    白い服の男 ( 1977年 ) 戦争に関する事物、事象などあらゆるものを封印してねじ曲げて管理された世界を描く ( 表現の自由、言論の自由などに踏み込んだ監視社会。有害情報規制、児ポ法改正などに含まれる単純所持規制問題など )。


    作品は20言語以上に翻訳され[14]、世界中で読まれている。


    寓話的な内容の作品が多く、星も自らを「現代のイソップ」と称していた。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書 ( 光村図書出版『国語 小学5年』に掲載された「おみやげ」、東京書籍『NEW HORIZON』に掲載された「おーいでてこーい ( 英語の教科書であるため、英訳され『Can Anyone Hear Me?』のタイトルで収録 )」など ) やテレビ番組『週刊ストーリーランド』(「殺し屋ですのよ」など)・『世にも奇妙な物語』 (「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など ) の題材に採用されている。


    評論家の浅羽通明は自身の評論内で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。


    また、筒井康隆は星の作品について、ストイシズムによる自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。


    その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をされることになったと指摘している。


    また、星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はそのことにも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・プロット・ギャグ・ナンセンスのアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している[15]。


    挿絵の多くは真鍋博や和田誠が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。


    アメリカの一コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』( 全 2巻、文庫は 3巻 ) という本も刊行している。


    さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。


    人物
    容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。


    SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。


    同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。


    特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる[16]。


    SF作家仲間たちと西新宿の台湾料理店 ( 山珍居 ) に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文等で神話的に語られている。


    その一部は『SF作家オモロ大放談』( いんなあとりっぷ社、1977年。のちに『おもろ放談』( 1981年 ) と改題され角川文庫に収録 ) で読むことができる。


    平井和正は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙 ( インナースペース )」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。


    しかし、文庫解説等では ( 育ちがいいこともあり ) しばしば紳士的な人物と書かれた。


    世代・生育環境が近いこともあり北杜夫とも親交が深かった。


    また、礼節を欠いて接してくる人間には距離を置いて接していた。


    星製薬が人手に渡った後も永らく、星薬科大学評議員という肩書きがあった。


    なお、手塚治虫の漫画『ワンダースリー』の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。


    星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた[17]。


    『三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。


    一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と、的外れな応答をした。


    星はあきれて、「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。


    ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。


    SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。


    作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第 1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の……』を強力にプッシュし ( 結果は佳作入選 )、作家として活躍していくきっかけを作った[18]。


    ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール ( のちにショートショート・コンテストと名称変更 ) からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。


    とはいえ、星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており理解が及ばず、お手上げの状態だったという[19]。


    生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さず、アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックスの武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。


    小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作の作品のテレビアニメ化『小松左京アニメ劇場』を快諾したという[20]。


    例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして在命中に製作されている ( #星新一作品の映像化参照 )。


    なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちだが、星は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。


    また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた[21]。


    別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「不渡り手形をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。


    ドイツ文学系の作家たちやドイツ留学経験者ほど明確なものではないが、ドイツびいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。


    同じくエッセイ「名前」では長女の名前を誕生月のドイツ語 ( ユーリ ) から発想した経緯を綴っている ( ともに『気まぐれ星のメモ』所収 )。


    また、星作品には国籍は明確な外国人がほとんど登場しないが、『ほら男爵現代の冒険』の主人公や『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。


    青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にもクラシック音楽を愛聴していた。クラシックの中で最も好きな曲に、ベートーヴェン『大公三重奏曲』を挙げ、コルトー、ティボー、カザルスの演奏盤を愛聴していた[22]。


    小松左京によると、星には少年愛の傾向があり、ひところはピーター ( 池畑慎之介☆ ) に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という[23]。


    その後、郷ひろみに入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している[24]。


    ウイスキーが好きで特にサントリーの角瓶を愛飲していた。


    エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。


    角が置かれていなかったことをひじょうに残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している[25]。


    「星新一ショートショート・コンテスト」、「作品」、「星新一に関する作品」については、『星新一ウイキペディア』を御覧下さいませ。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E6%96%B0%E4%B8%80


    エピソード
    未来における鶴の進化型、ホシヅルを生み出し、サイン代わりに描いていたことでも知られる。


    星新一の逝去後、彼の誕生日 9月 6日は「ホシヅルの日」とされ、友人のSF作家たちが集って彼を偲ぶ会が催される。


    きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ

    きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよは、公立はこだて未来大学が2012年9月6日に開始を発表したプロジェクト。


    松原仁 ( はこだて未来大学 )、中島秀之 ( はこだて未来大学学長 )、角薫 ( はこだて未来大学 )、迎山和司 ( はこだて未来大学 )、佐藤理史 ( 名古屋大学 )、赤石美奈 ( 法政大学 ) の 6人でプロジェクトチームを結成した。


    星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成アルゴリズムの検討と共にトライアンドエラーを繰り返し、2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを人工知能によって自動生成することを目指している[27]。


    瀬名秀明が小説の評価方法の検討を行うなど顧問を務める。


    脚注
    1. 北杜夫との対談「わが習作時代とSF文学と」では、北杜夫から好きな外国作家を聞かれ「シェクレー、ブラッドベリー、ハインライン、フレドリック・ブラウンもうまいし」と答えている(北杜夫『マンボウ談話室』p.183、講談社、1977年)。
    2. 星新一『きまぐれ読書メモ』p.20(有楽出版社、1981年(昭和56年))
    3. 『きまぐれ暦』p.225(新潮文庫、1979年(昭和54年))
    4. 『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)P.108
    5. ただし、星自身は「先日、東大の大学院の女性の会(妙なのがあるな)に呼ばれ、話をした。修士課程を二つ出て、博士課程に在籍の人もいた。まいったね。それから私は、自分の略歴から、大学院に行ったことを削るようにしている。学歴で作品が書けるわけじゃない」と述べている。『気まぐれスターダスト』p.75(2000年、出版芸術社)を参照。
    6. 「星新一年譜」(『別冊新評 「星新一の世界」 76 AUTUMN』、新評社、1976年(昭和51年))、p202。
    7. その後、1970年の『日本紳士録』第58版にも「星薬科大理事」との肩書が記載されている。
    8. ただし最相葉月は『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007年(平成19年))のpp.208-217で「矢野からしきりに『セキストラ』を読むよう勧められた乱歩は、一読してこれは傑作だと思い『宝石』に掲載することを考えたが、自分が責任編集をしている雑誌に自分が推薦するのではどうも具合が悪い。そこで乱歩が大下宇陀児に『提灯もち』(『矢野徹・SFの翻訳』)を依頼し、九月末発行の十一月号でデビューさせることになった」「大下が推賞したのは事実であるとしても、大下が『発掘』したというのは宣伝用の惹句で、矢野が書き残している通り、乱歩から依頼された大下の『提灯もち』が、いつのまにか大下の『発掘』という定説になってしまった」と述べている。その根拠として当事者だった矢野の証言の他、肝心の大下本人の推賞文が短い一文しか存在しないこと、それに比して乱歩が『宝石』の『セキストラ』末尾に記したルーブリックは約800字と長く、作品の具体的内容にまで言及して絶賛していることなどを挙げている。
    9. 星新一『きまぐれ遊歩道』p.90-92(新潮文庫、1996年)。星は「高級住宅地なのだろうが、高級さをひけらかさないところがいい」「戦前の本郷の屋敷町にも、そういうムードのとこがあった」と述べている。
    10. 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』上、新潮社〈新潮文庫〉、2010年、11-18頁。
    11. 1968年 第21回 日本推理作家協会賞
    12. 日本SF大賞
    13. 『きまぐれ読書メモ』p.219(有楽出版社、昭和56年(1981年))
    14. 1985年時点で英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・中国語・ロシア語・朝鮮語・ルーマニア語・ポーランド語・チェコ語・インドネシア語・ウクライナ語・ノルウェー語・ラトビア語・リトアニア語・ベンガル語・セルビア・クロアチア語・マジャール語・アゼルバイジャン語・エスペラントの20言語(深見弾「星新一―億の読者をもつ作家」(新潮文庫「たくさんのタブー」巻末)より)。
    15. 『ボッコちゃん』解説(新潮社)
    16. 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人(下)』新潮文庫P.161~163
    17. 星新一「文句を言い忘れた『W3』の主人公名」『朝日ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年。
    18. http://moto-ken.cool.ne.jp/profile/senko.html
    19. 『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)P.178
    20. 武田康廣『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを創った男たち』ワニブックス、2002年、p120-p121。
    21. 『きまぐれ遊歩道』(新潮文庫)P.111~112他
    22. 星新一『きまぐれ遊歩道』p.76(新潮文庫、1990年)
    23. 北杜夫『怪人とマンボウ』p.118(講談社、1977年)
    24. 北杜夫『怪人とマンボウ』p.119(講談社、1977年)
    25. 佐々木清隆『さよならバーバリー 2』(1998年)http://www.asahi-net.or.jp/~jg3k-ssk/hoshi2.html
    26. 最相葉月『星新一(下)』(新潮文庫)P.267
    27. 5年以内にショートショートの公募に匿名で応募して入賞することを目指すとしている。


    関連項目
    星新一ショートショート
    ホシヅル
    出澤三太 - 異母兄
    常盤新平
    死者を笞打て - 鮎川哲也の推理小説で、執筆当時の推理文壇関係者が多少名前を変えて登場しており、星も星野新一として登場。また登場人物のひとりが酒豪のため、男にもかかわらず「ボッコちゃん」と呼ばれている。


    外部リンク
    公式サイト ( http://hoshishinichi.com/ )
    (wikiより)


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    1732 伊集院彦吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    伊集院 彦吉 ( いじゅういん - ひこきち、1864年 7月 22日 ( 元治元年 6月 19日 ) - 1924年 4月 26日 ) は、明治、大正時代の外交官。外務大臣。男爵。


    経歴
    薩摩藩出身。


    1890年 7月 東京帝国大学法科大学政治科卒業。

     ・同年外務省入省。

     ・同期に石井菊次郎がいる。


    1893年 芝罘 ( のち山東省煙台 ) 副領事。

     ・その後英国公使館書記官、釜山領事、仁川領事を歴任。


    1901年 天津領事 ( 後に総領事 )


    1904年 7月 牛荘領事 ( 兼任) )


    1908年 英国大使館に参事官として勤務


    1908年 6月 清国公使


    1916年 2月 イタリア特命全権大使を拝命


    1919年 1月 パリ講和会議全権委員


    1920年 9月 男爵


    1921年 8月 外務省情報部部長


    1922年 9月 関東長官


    1923年 9月 第 2次山本内閣外務大臣就任


    1924年 勲一等旭日桐花大綬章受章


    妻の芳子は大久保利通の長女、娘に岩崎藤子がいる。


    脚注

    1. a b c d 松村正義 2010, pp. 85.
    2. 松村正義 2010, pp. 85-86.
    3. a b 松村正義 2010, pp. 86.
    4. 官制上の設立は1921年8月15日
    5. 松村正義 2010, pp. 87.


    参考文献
    松村正義「決断の時・知られざる外交官の舞台(第4回)中国勤務を望んだ気概ある外交官 伊集院彦吉 駐清国(中国)公使」、『外交』第4巻、外務省、210、 84-87頁、 NAID 40018927697。
    伊集院彦吉 - コトバンク(項目執筆者:季武嘉也)


    外部リンク
    国立国会図書館 憲政資料室 伊集院彦吉関係文書(その1)( http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ijuuinnhikokichi1.php )
    国立国会図書館 憲政資料室 伊集院彦吉関係文書(その2)( http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ijuuinnhikokichi2.php )
    (wikiより)


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