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1733 島村速雄墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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島村 速雄 ( しまむら - はやお、安政 5年 9月 20日 ( 1858年 10月 26日 ) - 大正 12年 ( 1923年 ) 1月 8日 ) は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将・正二位・勲一等・功二級・男爵。高知県出身。海南学校出身。二男は立花和雄 ( 立花伯爵家を継承 )。


「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物。」などと評される。


来歴
生い立ち
安政 5年 ( 1858年 )、土佐藩の郷士である島村左五平とその妻・鹿子の間に生まれる。


幼名は午吉で、四人兄弟の次男であった。


幼い頃から秀才ぶりを発揮していた彼は、しかし 9歳の時に父を亡くし、家計が厳しかったため、学費が不要な海軍兵学寮への進学を希望し、勉学に励んだ。


16歳のとき、彼の才気を耳にした司法省の役人から養子の誘いがあったが、「男子たるもの、他人の力で出世するのは意気地の無いことだ」として断っている ( このとき、彼の代わりとして末弟が養子入りした )。


17歳のときに上京、海軍兵学寮を受験して合格した ( 島村の在学中に「海軍兵学校」に改称 )。


兵学校から士官へ
海軍兵学寮でも、相変わらずの秀才であった彼は、本科では常に首席であり、「兵学校 7期に島村あり」と言われるほど名を知られるようになった。


この兵学校時代では、イギリス式の海軍規律に初めて触れるとともに、吉松茂太郎や加藤友三郎らとの親交を持った。


23歳で兵学校を卒業して海軍少尉補となった彼は、軍艦扶桑の乗組員に任ぜられる。


当時甲板掛士官であった、兵学校の 1期先輩である斎藤実は、転任の際、後任として誰を推薦するかと問われ、島村と即答している。


その後島村は少尉に昇り、軍艦・浅間乗務に転任する。


当時、日本の隣国清の海軍は、二大戦艦定遠・鎮遠を備え、生まれたばかりの日本海軍にとって多大な脅威であった。


これに早くから危機感を抱いていた島村は、独学で砲術を学ぶようになる。


戦術の専門家が軍内に育っていなかった当時のこと、島村は浅間乗務のまま砲術教授となり、その働きが認められて中尉に昇任する。


島村は戦術をまとめた論文 ( アメリカ海軍軍人の著作の抄訳であったが ) を発表したり、戦術の実地演習の演習法を考案したりと、海軍の戦術の進歩に貢献していく。それらの功績から大尉に昇った島村は、明治 22年 ( 1889年 ) からイギリスに 3年間出張し、イギリス海軍のノウハウを学び、自らの戦術立案能力に磨きをかけることになる。


常備艦隊参謀
イギリスから帰国した島村は、巡洋艦「高雄」の分隊長兼砲術長を経て、明治 26年 ( 1893年 ) 3月 13日、常備艦隊の参謀に任命される。


当時の島村の大尉という階級から考えて、これは異例の大抜擢であった。


同年 5月に常備艦隊司令長官に着任した伊東祐亨中将のもと、彼はイギリス仕込みの訓練法を徹底するなど辣腕をふるった ( 当時の常備艦隊には参謀は島村一人しか置かれておらず、また伊東司令長官の磊落かつ悠揚な性格もあって、彼の意見はそのまま採用されることが多かった )。


翌年に常備艦隊が改組されて連合艦隊となり、伊東が司令長官に就任すると、島村もまた連合艦隊参謀となった。


同年新たに鮫島員規中将が参謀長に就任し、島村の直接の上官となったが、鮫島は職務を部下任せにする気質があったため、島村の意見が持つ影響力には変化はあまり無かったようである。


また同年少佐に昇任している。


日清戦争
日清戦争においては、島村は参謀として、連合艦隊旗艦松島に乗り組んで参加した。


途中で上役である参謀長が出羽重遠大佐 ( 当時 ) に交代した。


鮫島とは異なり、謹厳かつ豪胆な性格の出羽であったが、島村とは気が合い、関係は良好であった。


日清戦争における島村のはたらきとしては、作戦立案面では坪井航三が主張していた単縦陣戦法を支持して黄海海戦を勝利に導いたほか、艦隊首脳部の間を取り持つ調停役としての活躍もある。


敗戦の責任をとって清国の提督・丁汝昌が自害した際、清から没収した艦船の中から商船「康済号」を返し、丁の亡骸を送らせるという伊東の行動は世界各国から賞賛を受けたが、これにも島村の助言があったと言われる。


結婚
日清戦争終結後、島村は軍令部局員として働く傍ら、海軍大学校で教鞭を執ったり、イタリアへ駐在武官として派遣されたりと忙しい毎日を送っていたが、同居している母の鹿子が高齢になっていることもあり、身を固める意味で結婚を決意した。


しかしそれまで結婚には一切興味が無かった島村には想う相手などおらず、親戚に紹介された 20歳以上年下の女性に、写真すら見ないまま決めてしまった。実際に二人が顔を合わせたのは結納の日が初めてであった。


結婚は明治 31年 ( 1898年 )、島村 41歳のときで、花嫁の近藤菅尾は当時 19歳。


結果的に結婚生活は上手くいき、夫婦仲は生涯円満であった。


義和団の乱
明治 32年 ( 1899年 )、大佐にまで昇っていた島村は、防護巡洋艦「須磨」の艦長に任じられる。


下士官まで懇ろに労り、しばしばポケットマネーで催しを開いたり、士官を食事に誘ったりして、艦内の空気を良くすることに尽力する彼の勤務態度は高い評価を受けた。


翌年義和団の乱が勃発すると、澎湖島の馬公にいた須磨は直ちに大沽に派遣されて警備についた。


島村は当時の海軍大臣山本権兵衛から、大沽に派遣された日本海軍の司令官役として推され、指揮を執った。


迅速かつ的確な判断で指示を出す一方で、自ら哨兵として立つなど率先して働き、その目覚しい活躍から、英国海軍中将シーモアから感謝のメッセージを貰っている。


日露戦争
義和団の乱が終結すると、日本とロシアの対立がいよいよ鮮明となった。


明治 36年 ( 1903年 )、来るべきロシアとの戦争に備えて連合艦隊が再び組織され、東郷平八郎中将が司令長官に任命されたが、島村は幕僚のトップである参謀長となった。


これには日清戦争での経験から伊東祐亨が強く推挙したことも大きい。


日露戦争には旗艦「三笠」に乗り組み、旅順港封鎖に参加。


連合艦隊は機雷によってロシア海軍の名将ステパン・マカロフを戦死させたが、このときに機雷敷設の指揮をとった小田喜代蔵に対し、作戦の訓令を起草したのは島村であった ( 他にも東郷名義の報告書を代筆するなど、文章力についても評価されていたようである )。


この間に少将に昇任している。


秋山真之や有馬良橘ら幕僚たちをまとめ、東郷をよく補佐する島村の働きぶりは目覚しく、東京朝日新聞や読売新聞に彼を称賛する記事が大きく取り上げられるなど海軍外にもその活躍は知れ渡ったが、彼は旅順封鎖作戦終了後に参謀長の座を降り、第二艦隊第二戦隊司令官に転任となっている。


理由としては、旅順口閉塞作戦の失敗や、駆逐隊司令の一斉交代 ( 黄海海戦での駆逐艦隊の働きが悪かったので、人心の一新が図られたため。島村もこれに賛同していた ) などの責任を被る形で自ら辞職したと言われている。


後任の参謀長として、海軍兵学校時代からの旧友である加藤友三郎を指名した。


また秋山真之の能力を早くから高く買っていたようで、「作戦は彼に任せておけば問題ない」と太鼓判を捺しているが、秋山の功績とされているものの中には、島村の発案を継承したものも少なくなかったことが最近の研究で明らかになってきている。


このように、島村は自分の周囲の不始末については自ら責任をとりつつ、業績については他に譲ることを常としていた。


転任後は第二戦隊旗艦「磐手」に坐乗して指揮を執ったが、連合艦隊における発言力は変わらなかったようで、バルチック艦隊をどこで迎え撃つかについて、当初作戦会議ではバルチック艦隊が津軽海峡もしくは宗谷海峡を通るものと踏んで、連合艦隊を北上させるべきであるとの意見が大勢を占めていたが、最終的には島村が賛同していた対馬海峡での迎撃案が採用され、日本海海戦での大勝への第一歩となった。


日本海海戦においては、自ら常に艦橋に立って戦況を具に眺めていた。


戦闘終了後に妻に宛てた手紙には、「拙者儀はこのたびは別して閑にて何の御用もなく、ただ空前の大海戦の光景と大勝利を拝見いたし候のみにて、生来これくらい愉快を覚え候事はこれなく候」と認めている。


後進の育成
日露戦争終結直後の明治 38年 ( 1905年 ) 12月 19日に、日本に初めて練習艦隊が組織され、島村は初代司令官となった。


また翌年には海軍兵学校の校長に、明治 41年 ( 1908年 ) には中将に昇るとともに海軍大学校の校長に補されている。


数年のうちに海軍士官の育成に関わる重職を三つ歴任したことになり、彼の手腕が評価されていたことが窺われる ( 大正 3年 ( 1914年 ) には海軍教育本部長にもなっている )。


また、この間に第二回万国平和会議に、日本海軍の代表として列席するためハーグへ出張している。


軍令部長
明治 42年 ( 1909年 ) に第二艦隊司令長官に就任、明治 44年 ( 1911年 ) に佐世保鎮守府司令長官に就任、と転勤を繰り返した後、大正 3年 ( 1914年 ) に東京に戻って海軍教育本部長となったが、シーメンス事件のあおりを受けて伊集院五郎が軍令部長を辞職、その後任となった。


当時の海軍大臣は島村の親友・加藤友三郎であり、海軍省との連携は非常に円滑であった。


軍令部長在任時、日本は第一次世界大戦に参戦し勝利、また彼自身大将に昇任となった。


大正 9年 ( 1920年 )、八八艦隊の予算案が通過したのを見届けて軍令部長を退くことを決意、山下源太郎を後任に推薦して自らは軍事参議官となった。


晩年
参議官は閑職であり、以降は穏やかな晩年を送った。


次第に脳血栓の症状が出るようになり、大正 12年 ( 1923年 ) 1月 8日、脳梗塞により死去。享年 66。


葬儀委員長は旧友の吉松茂太郎が務めた。死後元帥位が追贈され、土佐出身者として初の元帥となった。


エピソード
同郷の吉松茂太郎大将とは生涯を通じた友人だった。


漢学者の家系である吉松は文系が得意で、島村は逆に理系に強かったが、海軍兵学校時代の試験で数学の問題を解き終えた島村が歌舞伎役者の落書きを書いて吉松に見せつけ、吹き出した吉松が教官から叱責された。


吉松はその悪戯を本気で根に持っていたという。


大尉時代には、仁礼景範中将の令嬢・春子との縁談があった。


しかし島村はイギリス留学中に落馬事故を起こし、耳鳴りの後遺症が残った。


このことが大げさに日本へ報告されたため、結婚の話は沙汰止みとなった。


ちなみに春子はのちに斎藤実大将に嫁いでいる。


春子は二・二六事件で夫を失い、自らも夫をかばって銃弾を受けたが、98歳の長寿を全うした。


この落馬事故の際に見舞った有馬良橘 ( のち海軍大将 ) を島村は終生かわいがった。


この時には有馬が研究していた和文手旗信号の完成を大いに賞賛している。


のちに日露戦争で有馬が陣頭指揮を執った旅順口閉塞作戦がことごとく失敗したため、有馬を連合艦隊参謀から更迭せざるを得なくなったが、島村も自ら連合艦隊参謀長の座から退いている。これは有馬を慮った行動ではないかと言われる。


艦長職としては唯一、戦艦「初瀬」を担当している。


操艦術は得意ではなく、石橋甫副長や千坂智次郎航海長ら現場経験の長いスタッフ任せだったと言われている。


元山港入港時に石橋副長に無断で操艦し、係留ロープをスクリューに巻き込んでしまい、一晩かけてほどく羽目になったこともある。


同期の藤井較一大将とは正反対の性格ながら馬が合った。


日本海海戦直前の作戦会議では、対馬海峡残留を説く藤井に賛同する者はまったくなかったが、遅れて登場した島村が藤井と同意見を述べるや、会議の流れは一挙に対馬残留に変化したという。


また私生活でも、借家の賃貸期限が切れそうになって途方に暮れる島村に、藤井が長らく住んでいた旧宅を提供している。


ただし、実は藤井の旧宅も借家だった ( 藤井本人は戸建と信じて疑わなかった ) ため、家主に乗り込まれた島村は大いに困惑したという。


加藤友三郎元帥とは無二の親友である。


総理大臣就任については、加藤の健康状態を慮って頑強に反対している。


しかし自らが先に脳梗塞で倒れ、病床のうわ言で加藤を案じながら逝去した。


島村が厄年の頃に「若い女性と婚約した」と報道された際、加藤が新聞の切抜きを手に「この報道は事実か?」と尋ねたことがある。


生涯家庭に恵まれなかった加藤に何か思うところがあったのではないかと島村は述懐している。


家庭人としては温厚な家長であった。


早くに父を亡くし、母との暮らしが長かった。姑との仲がよくやり繰り上手な妻を持ち、子供の教育にもおおらかであった。


一方、客人を必要以上にもてなすために家計は苦しく、清貧生活を貫いた。


千葉県一宮町に別荘を所有した。


近隣には斎藤実、加藤友三郎や仁礼景範など海軍出身者の別荘が建ち並んでいた。


海軍大学校校長時代、博文館の雑誌『太陽』が企画した「次代の適任者は誰か」という読者投票企画で、「次代の連合艦隊司令長官」部門で第一位となった。


しかし島村は「日露戦争での戦勝はひとえに東郷司令長官と名参謀たちによるもので、自分は特段の働きをしておりません。


もし将来自分が連合艦隊司令長官を拝命し、業績を残して職務を全うしたなら、そのときに初めてお受けします」と言って表彰を固辞したという。


年譜

安政 5年 ( 1858年 ) 10月 26日 - 土佐国 ( 現・高知県 ) で出生。幼名は午吉。


明治 13年 ( 1880年 ) 12月 17日 - 海軍兵学校卒業 ( 7期 )。

 ・任海軍少尉補。


明治 16年 ( 1883年 ) 11月 2日 - 任海軍少尉。


明治 18年 ( 1885年 ) 6月 20日 - 任海軍中尉。
 ・12月 25日 - 軍艦「浅間」分隊長。


明治 19年 ( 1886年 ) 7月 13日 - 任海軍大尉。


明治 22年 ( 1889年 ) 8月 2日 - イギリス出張。


明治 25年 ( 1892年 ) 5月 23日 - 巡洋艦「高雄」分隊長兼砲術長。


明治 27年 ( 1894年 ) 12月 9日 - 任海軍少佐。


明治 29年 ( 1896年 ) 1月 13日 - 海軍大学校教官。


明治 30年 ( 1897年) ) 4月 30日 - 在イタリア公使館付武官 ( ~ 12月 15日 )。

 ・12月 1日 - 任海軍中佐。


明治 32年 ( 1899年 ) 9月 29日 - 任海軍大佐。
 ・10月 7日 - 防護巡洋艦「須磨」艦長。


明治 35年 ( 1902年 ) 7月 18日 - 戦艦「初瀬」艦長。


明治 36年 ( 1903年 ) 10月 27日 - 常備艦隊参謀長。
 ・12月 28日 - 第一艦隊参謀長。連合艦隊参謀長 ( 兼任 )。


明治 37年 ( 1904年 ) 6月 6日 - 任海軍少将。


明治 38年 ( 1905年 ) 1月 12日 - 第二艦隊第二戦隊司令官。
 ・12月 12日 - 第四艦隊司令官。


明治 39年 ( 1906年 ) 4月 1日 - 功二級。
 ・11月 19日 - 海軍兵学校校長。


明治 41年 ( 1908年 ) 8月 28日 - 任海軍中将。海軍大学校校長。


明治 42年 ( 1909年 ) 12月 1日 - 第二艦隊司令長官。


明治 44年 ( 1911年 ) 12月 1日 - 佐世保鎮守府司令長官。


大正 3年 ( 1914年 ) 3月 25日 - 海軍教育本部長。
 ・4月 22日 - 軍令部長。


大正 4年 ( 1915年 ) 8月 28日 - 任海軍大将。
 ・11月 7日 - 勲一等。


大正 5年 ( 1916年 ) 7月 14日 - 男爵。


大正 12年 ( 1923年 ) 1月 8日 - 死去。元帥。正二位。


島村速雄を演じた俳優

丹波哲郎:『明治天皇と日露大戦争』
稲葉義男:『日本海大海戦』
舘ひろし:『坂の上の雲』


参考文献
中村彰彦『海将伝』(角川書店、1996年)

(wikiより)


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1734 安藤太郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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安藤太郎 ( あんどう - たろう、1910年 ( 明治 43年 ) 1月 3日 - 2010年 5月 9日 ) は、日本の実業家。住友銀行副頭取、住友不動産社長、会長、相談役を務めた。


来歴

安藤太郎は、1910年 1月 3日、安藤源治郎の長男として宮城県刈田郡七ヶ宿町にて出生。


仙台二中、旧制水戸高校を経て、1934年 ( 昭和 9年 ) 東京帝国大学法科を卒業して、住友銀行へ入行。


住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任。


1959年 ( 昭和 34 ) 年 6月には東京事務所長、同 11月取締役に就任する。


1962年 ( 昭和 37年 ) 4月に常務へ昇格、1967年 ( 昭和 42年 ) 5月には専務、1972年 ( 昭和 47年 ) 5月副頭取に就任する。


副頭取は 1974年 ( 昭和 49年 ) 5月まで 2年 1期務め、その後住友不動産へ転じて社長、会長を務めた。


2008年 ( 平成 20年 ) 6月 27日付で健康上の理由で取締役を退き、相談役となった。


2010年 5月 9日、老衰の為、東京都内の自邸にて逝去[1]。100歳没。


都銀懇話会の三羽烏

安藤太郎が、金融界で注目されるようになったのは、東京事務所所長時代である。


当時住友銀行は大阪が本店所在地であり、銀行のみならず、住友系企業グループの経営基盤は関西が多かった。


その意味において住友銀行の東京事務所は、東京を中心とする政財界の動きはもとより、各方面のさまざまな情報を収集する「東京探題」として重要な役割を担っていた。


いわば東京事務所は、秘書室と広報室と総務部をいっしょにしたような機能を持っていたわけである。


安藤は常務時代、「都銀懇話会」での活躍が特筆される。


当時、都市銀行がしょって立つ経営基盤の戦略は、すべて「都銀懇話会」で生み出されたものといっても過言でなく、都銀の経営ビジョンづくりのタスクフォースとして注目された。


当時「都銀懇話会」で「三羽烏」と呼ばれていたのは、富士銀行の松沢卓治常務、三菱銀行の黒川久専務、それに安藤であった。


松沢は後に、富士銀行の会長、黒川は副頭取から三菱油化社長に転出した。


家族

安藤太郎の妻・満寿子は、山口県旧家の二代目・百合本安太郎の二女。満


寿子の姉・香代子は元福岡県弁護士会長の白川慎一に、妹の直子はダイワ精工顧問秋庭正義に嫁いでいる。


秋庭正義の叔父にあたる、秋庭義衛の妻・千重子は、旧子爵、第一銀行頭取・渋沢栄一の孫娘で旧子爵、大蔵大臣や貴族院議員、東京市長を歴任した阪谷芳郎の四女。


したがって阪谷芳郎の孫娘らを娶っている大島寛一 ( 元農中金副総裁 ) や経団連会長・植村甲午郎の長男・植村泰恵 ( 東大理学部教授 ) らは甥にあたる。


安藤太郎の長姉・みゆきの女婿、安藤秀夫は、日本出版販売相談役相田岩夫の実弟である。


相田岩夫の妻・静は、元内閣総理大臣濱口雄幸の二女。


濱口雄幸の長男・濱口雄彦 ( 元国際電々会長 ) の二女・淑は、皇后美智子の兄である正田厳に嫁いでいる。


賞詞
勲一等瑞宝章 ( 1990年 )



関連項目
住友家評議員会


脚註

1. 住友不動産の安藤元社長死去 時事通信 2010年 5月 12日閲覧
(wikiより)


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“人間風車”ビル・ロビンソンさん死去

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“人間風車”こと往年の名プロレスラー、ビル・ロビンソンさんが米国・アーカンソー州で死去した。75歳。新日本プロレスが4日、発表した。


 英国出身のロビンソンさんは19歳でプロレスデビュー。


必殺のダブルアーム・スープレックスを武器に欧州で活躍。


また、1968年に初来日し国際プロレスに参戦すると、その後は新日本プロレスや全日本プロレスのリングにも上がり、アントニオ猪木やジャイアント馬場らと対戦した。


 引退後は、東京・高円寺のUWFスネークピットジャパンのコーチとして来日。2008年まで同地に定住し後進の指導にあたった。


● ビル・ロビンソン
ビル・ロビンソン ( Bill Robinson、1938年 9月 18日 - 2014年 3月 3日 ) は、イギリス・マンチェスター出身の元プロレスラー。


ウィガンのビリー・ライレー・ジムでキャッチ・レスリングを習得し、欧州マットを経て日本やアメリカで活躍した[2]。


ダブルアーム・スープレックスを日本で初公開したことから[3]、「人間風車」の異名を持つ。


アメリカではバーン・ガニアが主宰していたAWAを主戦場に、"ブリット" ビリー・ロビンソン ( "Brit" Billy Robinson ) のリングネームで活動。


戴冠は果たせなかったものの、次期AWA世界ヘビー級王者の最有力候補とされていた[2][4]。


来歴
欧米での活動
初期
父親のウィリアム・ジェームズ・ロビンソンは、ハリー・ロビンソンのリングネームで活動したプロボクサー[5]。


父に憧れ 12歳でボクシングを始めるが、13歳のときに友人の投げたブリキの看板が目をかすめ、眼球を損傷しボクサーの道を断念[6]。


その後、プロレスラーだった叔父のアルフ・ロビンソンの勧めでレスリングに転向[7]、YMCAのレスリング・クラブを経て、1954年に 15歳でビリー・ライレー・ジムに入門した[8]。


ジムの師範代である兄弟子のビリー・ジョイスのコーチのもとトレーニングを積んだ後、ヨーロピアン・トーナメント優勝を経て 1959年に 19歳でプロデビュー[9]。


以後、イギリスのジョイント・プロモーションズを活動拠点に、1960年代は欧州各国からインドや中東、さらには南米まで、世界中のリングに上がった[10]。


1965年 6月 12日にはヨーロピアン・ヘビー級王座、1967年 1月 18日にはブリティッシュ・ヘビー級王座を、それぞれ地元のマンチェスターにて兄弟子のビリー・ジョイスから奪取[11][12]。


翌 1968年 4月、国際プロレスに初来日を果たし、以降同団体の外国人エースとなった ( 後述 )。


1969年からは北米マットにも進出し、カナダのカルガリーにてスチュ・ハートが主宰していたスタンピード・レスリングに参戦。


同年 6月 26日、前王者アーチー・ゴルディーの欠場に伴いフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得している[13]。


翌年には、後に全日本プロレスでも抗争を展開することになるアブドーラ・ザ・ブッチャーを相手に同王座を争った[13]。


並行して南半球のオーストラリア ( ジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング ) にも遠征、1969年 10月 31日にキラー・カール・コックスからIWA世界ヘビー級王座を奪取した[14]。


1970年代
1970年のハワイ滞在中、同じ英国出身のロード・ブレアースの紹介でバーン・ガニアと邂逅[15]。


当時日本での主戦場としていた国際プロレスが、同年にガニア主宰のAWAと提携したこともあり、翌 1971年よりロビンソンもAWAに登場、アメリカ合衆国本土での活動を本格的に開始する。


1972年からは国際プロレスと同様にAWAにおいてもレスリング・キャンプのコーチとなり、リック・フレアー、コシロ・バジリ、ケン・パテラ、ジム・ブランゼル、グレッグ・ガニア、ボブ・リーマスなどを指導した[16]。


なお、ハワイでは 1973年 1月 17日、ホノルルにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦して引き分けている[17]。


AWAではベビーフェイス陣営の主力となって活躍し、1972年 12月 30日には帝王バーン・ガニアとのコンビでニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスからAWA世界タッグ王座を奪取[18]。


1974年 7月 21日にもクラッシャー・リソワスキーと組んで同王座を獲得した[18]。なお、同年はガニアがエドワード・アズナーと製作した映画 "The Wrestler" [19]に主役プロレスラーとして出演している[20]。


ガニアはロビンソンをシューターとして高く評価し、AWAを道場破りなどの外敵から守るポリスマン ( 用心棒 ) の役割も委ねていたという[16]。


日本で国際プロレスから新日本プロレス、さらには全日本プロレスへと移籍した 1975年から 1976年にかけては、アメリカでもAWAを一時離れ他団体に進出。


新日本参戦直前の1975年11月17日にはWWWFに出場し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジョニー・ロッズを下している[21]。


NWAの南部テリトリーも転戦し、同年 12月 20日にフロリダでキラー・コワルスキーから南部ヘビー級王座を奪取[22]。


1976年にはオクラホマのトライステート地区にてビル・ワットと組み、USタッグ王座を獲得している[23]。


全日本プロレスのレギュラー外国人選手となっていた 1977年はNWAの総本山だったセントルイス地区にも登場、キール・オーディトリアムにてブルドッグ・ブラウンやイワン・コロフと対戦した[24]。


アメリカでの主戦場だったAWAでは世界ヘビー級王座戴冠は実現しなかったものの、大英帝国ヘビー級王者に認定されている。


同王座は英連邦のカナダで単発的に防衛戦が行われ、1978年 3月にアンジェロ・モスカ、1979年 10月にスーパー・デストロイヤー・マークIIにタイトルを奪われたが、いずれも短期間で奪還している[25]。


1980年代
1980年、AWAの提携団体だったテネシー州メンフィスのCWAに参戦。


4月 28日にマスクド・スーパースターを下し、前王者ジェリー・ローラーの返上で空位となっていたCWA世界ヘビー級王座を獲得している[26]。以降もビル・ダンディー、オースチン・アイドル、ボビー・イートンを破り同王座を再三獲得、1980年 9月 9日にはメンフィスのミッドサウス・コロシアムでルー・テーズをチャレンジャーに防衛戦を行い[27]、1981年 2月までCWA世界王者として活躍した[26]。


1981年は 3月から 5月にかけてメキシコのUWAにも出場しており、5月 1日のエル・トレオでのイベントでは、1975年の新日本プロレス参戦以来となるストロング小林とも 6人タッグマッチで久々に対戦[24]。


5月18日にはアレナ・プエブラにて、初代タイガーマスクともタッグを組んだ ( ロビンソン、タイガーマスク、エル・ソリタリオ対カネック、ビジャノ3号、スコルピオ )[28]。


デビュー以来ベビーフェイスのポジションで活動していたが、1982年、カナダのモントリオールにてヒールターンを決行。口髭を生やし、同じイギリス人のロード・アル・ヘイズをマネージャーに従え[29]、嫌味な英国紳士のヒールを演じた。


11月にはリック・マーテルを破りモントリオール版のインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、以降もザ・デストロイヤーやディノ・ブラボーと同王座を争った[30]。


1983年 5月 23日には現地ヒールのピエール・ルフェーブルをパートナーに、ジノ・ブリット&トニー・パリシから同タッグ王座も奪取[31]、これが彼のキャリアにおける最後のタイトル戴冠となっている。


その後はベビーフェイスに戻ってAWAに復帰し、1984年にはAWA世界王者となってアメリカに乗り込んできたジャンボ鶴田にも挑戦したが、現役最後の年となった 1985年に再びヒールターン。


ガニアがNWAのジム・クロケット・ジュニアらと共同で立ち上げたWWFの対抗組織「プロレスリングUSA」にも参加し、2月 24日に行われたビッグイベント "Star Wars" ではボブ・バックランドと対戦[32]。


同日に行われたタッグチーム・バトルロイヤルにはカマラとの異色コンビで出場し、サージェント・スローターと決勝を争った[32]。


4月 21日にAWAがセントポールで開催した "StarCage 1985" にもボビー・ダンカンとのタッグで出場するなどヒールでの活動を続けたが[24]、腰や膝など身体の故障に加え、WWFの全米侵攻でアメリカ・マット界のテリトリー制が崩壊しつつあったこともあり、同年に現役を引退した[33]。


日本での活動
国際プロレス
初来日は 1968年 4月、日本レスリング協会の会長で国際プロレスの発起人でもあった八田一朗が、当時のロビンソンの活動拠点だった英国のジョイント・プロモーションズとのコネクションを持っていたため、八田の仲介で国際プロレスの『日英チャンピオン・シリーズ』に参戦[34]。


当時の国際プロレスはブッカーのグレート東郷と決別し、八田を窓口にヨーロッパを外国人選手の新しい招聘ルートとして再出発していたが、日本プロレスのアメリカン・プロレス路線を見慣れていた日本のファンや関係者にとって、欧州の選手は地味な印象を持たれがちだった[34]。


しかし、未知の技ダブルアーム・スープレックスを日本で初公開したロビンソンは日本でも強烈なインパクトを残し、一躍注目の存在となる[3][34]。


同年 11月に行われた『第1回IWAワールド・シリーズ』では優勝を果たし、IWA世界ヘビー級王座の初代チャンピオンに認定された[35]。


なお、同シリーズでは英マットでの盟友ジョージ・ゴーディエンコやピーター・メイビアともリーグ戦で対戦した ( メイビアとはリング外のストリートファイトでも一戦交えている )[36]。


シリーズ終了後も国際プロレスに残留し、翌 1969年上期まで、外国人でありながら日本人陣営のエースとなって活躍。


それまで外人レスラーは敵役という図式が支配的だった日本のプロレス界において、日本人選手と共闘する初の外国人ヒーローとなった[3]。


また、国際プロレスでは若手選手のトレーナーも兼任し、寺西勇、マイティ井上、アニマル浜口らを指導している。


IWA世界ヘビー級王座は、1969年 1月から 5月にかけて、グレート草津、チーフ・ホワイト・ウルフ、スタン・ステイジャック、ラッシャー木村を相手に防衛[37]。


同時期に保持していたヨーロピアン・ヘビー級王座の防衛戦も、アルバート・ウォールらを挑戦者に迎えて行われた。


IWAワールド・シリーズでは、1970年 3月の第 2回大会でも決勝でストロング小林を下して2連覇を果たす[38]。


1971年 3月の第 3回大会では、ビリー・ライレー・ジムでもスパーリングを行ったことのあるカール・ゴッチ、そしてモンスター・ロシモフと名乗っていた頃のアンドレ・ザ・ジャイアントとの 3者で優勝戦を争った[34]。


1970年からのアメリカ進出に伴い、同年 5月にIWA世界ヘビー級王座をサンダー杉山に明け渡すも、AWAのスター選手となってからも国際プロレスには度々来日。


1974年には、前王者ストロング小林の離脱で空位となっていた同王座に返り咲いている ( 6月 3日の王座決定戦でグレート草津を破って戴冠し、タイトルをアメリカに持ち去ったが、8月 16日にコロラド州デンバーでスーパースター・ビリー・グラハムに敗れ陥落 )[35]。


最後の参戦となった同年11月の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』では、蔵前国技館にてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座に挑戦した[39]。


新日本プロレス
最後の国際プロレス参戦から 1年後の 1975年 12月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第 2弾』に登場 ( この移籍は当時の新日本のブッカーだったカール・ゴッチのオファーを受けてのものだったが、ゴッチは新日本が旗揚げされた 1972年からロビンソンに移籍を打診していたという )[40]。


来日第 1戦となる 12月 4日の大阪府立体育会館では、国際時代からの因縁の相手であるストロング小林に勝利。


そしてシリーズ最終戦の 12月 11日、蔵前国技館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。3本勝負でそれぞれが 1本ずつ取った後、60分時間切れ引き分けとなったこの試合は、プロレス史に残る不朽の名勝負とされている[38][41]。


新日本からは長期契約が提示され、以降も参戦が予定されていたが、報酬額の低減を要求されるなど条件面の不信感から、新日本参戦はこの一度だけに終わった[42]。


しかし、ロビンソンは猪木の実力を高く評価し、それ以前も以後も含め、自分が闘った日本人選手の中ではナンバーワンだったとしている[43]。


なお、新日本プロレスには引退後の 1990年 9月、アントニオ猪木のレスラー生活 30周年記念のメモリアル・イベントに、ジョニー・バレンタイン、ジョニー・パワーズ、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンなど、猪木の往年のライバル選手と共にスペシャル・ゲストとして招かれている。


全日本プロレス
1976年、ドリー・ファンク・ジュニアの仲介のもと全日本プロレスと契約。初登場となる 7月の『サマー・アクション・シリーズ』において、前年の猪木戦と同じ蔵前国技館にてジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦したが、2-1のスコアで敗退している[44]。


以降も全日本の常連外国人選手となるも、馬場との連戦は組まれず、ジャンボ鶴田のライバルとして活動。


1977年 3月 5日には鶴田を破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を獲得した[45]。


1977年 12月の『世界オープンタッグ選手権』には西ドイツのホースト・ホフマンとのヨーロッパ代表コンビで出場、実力者同士のタッグチームとしてザ・ファンクスとも好勝負を展開したが、チームワークに難があり戦績は芳しくなかった。


その後もエース外国人の一人となって活躍し、1978年 6月 12日にはキラー・トーア・カマタからPWFヘビー級王座を奪取[46]、10月 18日にアブドーラ・ザ・ブッチャーに敗れてタイトルを失うも、ブッチャーとの抗争ではラフファイトの強さも見せた。オープンタッグ選手権の改称版である『世界最強タッグ決定リーグ戦』には、1978年にワイルド・アンガス、1980年にレス・ソントンと、同じ英国出身の選手をパートナーに出場している。


1980年代に入るとコンディションの低下もあって徐々にエース外国人のポジションを追われるようになり、来日頻度も減少。


1982年 3月には全日本参戦 6年目にして『チャンピオン・カーニバル 』に初出場したが、テッド・デビアス、ブルーザー・ブロディ、天龍源一郎など新しい世代の選手の後塵を拝し、優勝争いに加わることはなかった。


その後は 1984年 5月と 1985年 10月に来日し、最後の参戦となった 1985年に現役を引退した[33]。


引退後
現役を引退し、ラスベガスにてホテルのガードマンの職に就いていた 1992年、ルー・テーズのオファーによりUWFインターナショナルに来日。


5月 8日の横浜アリーナ大会にてニック・ボックウィンクルとエキシビション・マッチを行った。


その後はUWFインターナショナルのトレーナーとなり、テネシー州ナッシュビルにあった同団体のアメリカ・オフィスのジムにて選手のコーチを担当[47]。タイトルマッチのウィットネスとして度々来日することもあった。


UWFインターナショナル解散後は再びレスリング・ビジネスから離れていたが、同団体の取締役だった宮戸優光の招きで、1999年よりUWFスネークピットジャパンのヘッドコーチに就任[48]。以降 2008年まで[49]、東京の高円寺に定住して後進の指導・育成に携わった[48]。


帰米後はアーカンソー州リトルロックに居住していた[2]。2014年 3月 3日、死去[50]。


参考文献
ビル・ロビンソン 『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝』 エンターブレイン、2004年。ISBN 4757720823。


得意技
ダブルアーム・スープレックス ( 人間風車 ) リバース・フルネルソンからのスープレックスで、「人間風車」と称され、そのままロビンソンの異名にもなった。全盛期はドリー・ファンク・ジュニアらのアメリカ式の投げ方よりも低空でスピードを重視するヨーロッパ式の投げ方であったが、腰を痛めてからはアメリカ式のものに変え、ワンハンド・バックブリーカーを切り札とした。


ワンハンド・バックブリーカーバックドロップの要領で肩まで抱え上げ、自らの膝に片手で相手を背中から落とすバックブリーカー。


ジャイアント馬場やアブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・トーア・カマタのような巨漢にもこの技をかけてみせたが、それが膝を痛める一因にもなった。


なお、ロビンソン自身も語っているようにワンハンド ( 片腕 ) で持ち上げるわけではない。


ヨーロピアン・アッパー・カットフロント・スープレックスサイド・スープレックスツームストーン・パイルドライバーキャリア中盤では秘密兵器としてここ一番で繰り出した。馬場との初対決となった 3本勝負の 2本目はこの技で馬場からピンフォールを奪っている。


ジャパニーズ・レッグロール・クラッチこの技でジャンボ鶴田から 3カウントを奪ったこともある。


ショルダー式ネックブリーカーいわゆるヨーロッパ式ネックブリーカー。


若き日のロビンソンは相手の首を掴んでからジャンプするような感じでこの技を仕掛けていた。


獲得タイトル
ジョイント・プロモーションズヨーロピアン・ヘビー級王座:1回[11]
ブリティッシュ・ヘビー級王座:1回[12]
国際プロレスIWA世界ヘビー級王座:2回[35]
全日本プロレスUNヘビー級王座:1回[45]
PWFヘビー級王座:1回[46]
スタンピード・レスリング北米ヘビー級王座(カルガリー版):2回[13]
WCWIWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回[14]
AWAAWA世界タッグ王座:2回(w / バーン・ガニア、クラッシャー・リソワスキー)[18]
AWA大英帝国ヘビー級王座:3回[25]
NWANWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回[22]
NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ビル・ワット)[23]
CWACWA世界ヘビー級王座:4回[26]
Lutte Internationaleインターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):2回[30]
インターナショナル・タッグ王座(モントリオール版):1回(w / ピエール・ルフェーブル)[31]

入場テーマ曲
ブルー・アイド・ソウル(カール・ダグラス)


脚注
1. 『Gスピリッツ Vol.26』、P73(2013年、辰巳出版、ISBN 4777811166)。
2. a b c “Wrestler Profiles: Billy Robinson”. Online World of Wrestling. 2012年4月14日閲覧。
3. a b c 週刊ゴング増刊号『世界名レスラー100人伝説!!』、P142(2003年、日本スポーツ出版社)。
4. 週刊プロレス別冊晩秋号『アメプロの教科書』、P59(2005年、ベースボール・マガジン社)。
5. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P12。
6. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P17。
7. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P18。
8. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P19-24。
9. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P54-56。
10. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P89。
11. a b “European Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月11日閲覧。
12. a b “British Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
13. a b c “Stampede Wrestling North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
14. a b “IWA World Heavyweight Title History: Australia version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
15. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P130。
16. a b 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P131。
17. “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1973”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月10日閲覧。
18. a b c “AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
19. “The Wrestler”. The Internet Movie Database. 2012年4月8日閲覧。
20. 『Gスピリッツ Vol.15』、P77(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X)。
21. “Madison Square Garden - The 70s”. The History of WWE. 2012年4月20日閲覧。
22. a b “NWA Southern Heavyweight Title History: Florida version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
23. a b “NWA United States Tag Team Title History: Tri-State version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
24. a b c “Wrestlers Database: Billy Robinson”. Cagematch.net. 2012年4月8日閲覧。
25. a b “AWA British Empire Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
26. a b c “CWA World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
27. “Memphis Wrestling History 1980”. Memphis Wrestling History. 2012年4月8日閲覧。
28. 『Gスピリッツ Vol.26』、P77(2012年、辰巳出版、ISBN 4777811166)。
29. “Friends remember Lord Alfred Hayes / July 25, 2005”. SLAM! Wrestling. 2012年4月8日閲覧。
30. a b “International Heavyweight Title History: Montreal version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
31. a b “International Tag Team Title History: Montreal version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
32. a b “Pro Wrestling USA”. The History of WWE. 2012年4月20日閲覧。
33. a b 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P161-163。
34. a b c d 『Gスピリッツ Vol.15』、P72-73(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X)。
35. a b c “IWA World Heavyweight Title History: IWE version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
36. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P180-182。
37. 別冊週刊プロレス新年号『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P159(1986年、ベースボール・マガジン社)。
38. a b 週刊ゴング増刊号『THE WRESTLER BEST 1000』、P50(1996年、日本スポーツ出版社)。
39. DVD『国際プロレス クロニクル 外伝』、DISC-2(2011年、クエスト)。
40. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P126。
41. 週刊ゴング増刊号『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』、P10(2002年、日本スポーツ出版社)。
42. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P146-147。
43. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P141。
44. 週刊ゴング増刊号『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』、P20(2002年、日本スポーツ出版社)。
45. a b “NWA United National Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月14日閲覧。
46. a b “PWF Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月14日閲覧。
47. 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P191-194。
48. a b 『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』、P204-205。
49. “Billy Robinson passes away”. WWE.com (2014年3月3日). 2014年3月4日閲覧。
50.“Billy Robinson passes away”. WWE.com (2014年3月3日). 2014年3月4日閲覧。


外部リンク

  • Online World of Wrestling
  • U.W.F.スネークピットジャパン
  • (wikiより)


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    1735 佐佐木行忠墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    佐佐木 行忠 ( ささき - ゆきただ 1893年 7月 26日-1975年 8月 10日 ) は、日本の華族。


    神社本庁統理や神宮の大宮司、國學院大學理事長・学長を務めるなど神職界で中心的な働きをした。侯爵、貴族院議員。


    来歴
    1893年、東京府 ( 現・東京都 ) に生まれる。


    1914年、学習院高等科を卒業して京都帝国大学法科大学政経科に進み、1917年、東京帝国大学文科大学に転入学。


    在学中の 1918年に貴族院議員となり、以後は国政に専念、1937年と 1944年には貴族院副議長も務めた。


    1934年から皇典講究所所長、1942年から國學院大學学長を務め、戦後は皇典講究所を解散して國學院の学長・理事長に就任したが公職追放。


    1946年に神社本庁顧問、1951年に伊勢神宮大宮司、1959年に神社本庁統理を務めた。


    1959年からは國學院大學の理事長・学長に復帰した。


    家族・親族

    祖父は佐佐木高行。父は佐佐木高美。妻・米子は元宮内省大膳頭・上野季三郎の四女[1][2]。行忠・米子夫妻の長男・行美は東京大学理学部の教授を務め[1]、住友財閥の 16代目・当主・住友吉左衛門友成の長女と結婚した[1]。米子の妹・美智子は團琢磨の長男で九州朝日放送の会長等を務めた團伊能と結婚したため[1][3]、伊能は行忠の義弟にあたる。長女・美枝子は串田孫一の妻、串田和美の母[4]。


    参考文献
    『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年10月5日発行、ISBN 4-8205-0693-5
    佐藤朝泰 著 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房、1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2


    脚注・出典

    1. a b c d 佐藤『門閥』、449-451頁。
    2. 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』、427頁。
    3. 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』、633頁。
    4. 『人事興信録』1995「串田孫一」の項。
    (wikiより)


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    俳優・安井昌二さんが死去 85歳

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    劇団新派の二枚目役で知られた俳優の安井昌二(やすい・しょうじ、本名四方正雄=よも・まさお)さんが3日午前9時、急性心不全のため千葉県内の自宅で死去した。85歳。東京都出身。


    葬儀・告別式は近親者のみで行う。


    喪主は未定。後日、しのぶ会を開く。


    長谷川一夫主宰の新演伎座を経て俳優座養成所を卒業。田中絹代監督の「月は上りぬ」に出演、1956年の市川崑監督の「ビルマの竪琴」では水島上等兵役を演じた。


    63年から劇団新派の公演に参加、「滝の白糸」「婦系図」などの舞台をつとめた。


    テレビでは「銭形平次捕物控」や、次女の四方晴美さんと共演した「チャコちゃん」シリーズでも知られた。


    妻は俳優の故小田切みきさん。


    ● 安井 昌二

    安井 昌二 ( やすい しょうじ、1928年 8月 16日 - 2014年 3月 3日 ) は、日本の俳優。本名:四方 正雄 ( よも まさお )。旧芸名は四方正夫。「劇団新派」所属。


    長谷川一夫主宰の劇団・新演伎座、俳優座養成所を経て、活動再開まもない日活映画の専属俳優となり『月は上りぬ』( 1955年、田中絹代監督 ) で映画デビューを果たす。


    これを機に芸名を四方正夫から、役名の「安井昌二」へと改名した。


    1956年に市川崑監督の映画『ビルマの竪琴』の主役・水島上等兵を演じたことで一躍人気を得る。


    1960年代以降はテレビや舞台へと活動拠点を移し、妻・小田切みきと二人の娘・四方正美、四方晴美と夫婦親子役で出演した『パパの育児手帳』『チャコちゃん』などでお茶の間においても人気者となった。


    1963年に初代・水谷八重子の相手役として新派公演へ招かれたのを機に度々客演し、1968年に正式に新派へ入団。


    初代・八重子亡きあとは、二代目・水谷八重子、波乃久里子、菅原謙二と共に「新派四本柱」として劇団を担い、舞台を中心に活動を続けていた。


    2014年 3月 3日、急性心不全のため千葉県の自宅で死去[1]。85歳没。


    出演作品

    舞台
    「劇団新派」定期公演


    映画
    ひめゆりの塔(1953)
    月は上りぬ(1955)
    うちのおばあちゃん(1955)
    こころ(1955)
    幼きものは訴える(1955)
    ビルマの竪琴 第一部(1956)
    ビルマの竪琴 第二部(1956)
    沖縄の民(1956)
    今日のいのち(1957)
    狂った関係(1957)
    海の野郎ども(1957)
    禁じられた唇(1958)
    心と肉体の旅(1958)
    夜の牙(1958)
    錆びたナイフ(1958)
    どうせ拾った恋だもの(1958)
    四季の愛欲(1958)
    絶唱(1958)
    若い川の流れ(1959)
    だから云ったじゃないの(1959)
    俺は淋しいんだ(1959)
    山と谷と雲(1959)
    爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ(1959)
    人間の條件 第3部望郷篇 / 第4部戦雲篇(1959)
    ろくでなし(1960)
    こつまなんきん(1960)
    緋ざくら小天狗(1961)
    霧と影(1961)
    花のお江戸のやくざ姫(1961)
    反逆児(1961)
    ひばりのおしゃれ狂女(1961)
    ひばり・チエミのおしどり千両傘(1963)
    明治大帝御一代記(1964)
    シベリア超特急2(2000年)


    テレビドラマ
    銭形平次 捕物控(1962年)
    パパの育児手帳(1962年) - 小田切みき、四方晴美と家族共演
    赤穂浪士(1964年)
    チャコちゃん (1966年) - 小田切みき、四方晴美と家族共演
    日日の背信(1967年)
    風(1967年)
    大奥(1968年)
    樅ノ木は残った(1970年)
    氷点(1971年)
    コートにかける青春(1971年)
    水戸黄門 第3部 第26話「肥後の競い馬 -熊本-」(1972年5月22日) - 喜助
    第8部 第13話「芝居になった漫遊記 -伊勢-」(1977年10月10日) - 中村錦之丞
    第9部 第14話「鈴に秘めた愛 -高田-」(1978年11月6日) - 長野帯刀
    第10部 第2話「女度胸の鉄火肌 -神奈川-」(1979年8月20日) - 尾張大納言綱誠
    第15部 第14話「めざす敵は仁術医者 -浜田-」(1985年4月29日) - 笹木順庵

    花のいのち(1973年)
    太陽にほえろ! 第184話「アリバイ」(1976年) - 田島
    赤い疑惑 第11話「近くて遠い街・パリ」(1975年) - 機長
    必殺商売人 第11話「女体が舞台の弁天小僧」(1978年) - 京屋庄兵衛
    東芝日曜劇場 - 多数出演。
    銭形平次(大川橋蔵 版) - ゲスト出演
    特命刑事(1980年)
    眠狂四郎無頼控 第19話「毒牙を隠した花嫁」(1983年) - 水野忠邦
    暴れ九庵(1984年~1985年) - 奥医師・半井元養
    特捜最前線 第425話「あるサラリーマンの死!」(1985年)
    夢の女(1993年)
    子連れ狼2(2003年) - 左兵衛
    逃亡者 おりん(2007年) - 安藤帯刀


    脚注
    1. 俳優・安井昌二さんが死去 85歳、急性心不全 スポーツ報知 2014年3月4日


    外部リンク

    安井昌二 - 日本映画データベース

    (wikiより)

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    1736 潮田千勢子墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    潮田千勢子 弘化 2年 ( 1845.10.9 ) 9月 9日 ~ 明治 36年 ( 1903 ) 7月 4日


    明治期の社会運動家。婦人伝道者。


    信濃国飯田藩の藩医・丸山竜眼の二女として厳格な教育を受けて成長した。
     
    慶応元年 ( 1865 ) 同藩士・潮田健次郎と結婚した。


    明治 15年 ( 1882 ) 信州飯田の空家になった生家が教会として用いられていたことからキリスト教に接近し、ソーパー,J.宣教師により受洗した。


    明治 16年 ( 1883 ) 夫と死別し 39歳で未亡人となったため、3男 2女とともに上京した。


    子女を養育しながら桜井女学校の保母科に入学し、末娘を付属幼稚園に通園させながら学業を終え、幼児教育にあたった。


    あわせて外国賛助員会長のミス・スペンサー,M.A.とともに伝道に従事したが、明治 20年 ( 1887 ) 横浜聖経女学校に入学し、23年 ( 1890 ) 卒業して婦人伝道者となる。


    上京以来 7年間、勉学と伝道に従事した。


    その間に同 19年 12月 6日、東京婦人矯風会 ( 日本基督教婦人矯風会 ) が日本橋教会を会場にして発会式を挙行した。


    その発起人のひとりに千勢子は名を連ねている。


    以後、矢島楫子、佐々城豊寿らとともにリーダー格の運動を展開した。


    明治 22年 ( 1889 ) 12月 23日、東京の宿舎にいた新島襄から「女性の権利の拡大を」と激励を受けた。


    大学設立のために募金活動に奔走していた新島襄は、群馬県前橋で腹痛 ( 胃腸カタル ) で病床に付し、湯たんぽを抱えて東京に引き上げて療養していたところであった。
     
    千勢子は、メンバー佐々城豊寿とともに白票倶楽部を設けて婦人の政治活動抑圧に反対運動も起こした。


    娼婦救済所をつくり、社会矯風、廃娼を唱えた。


    足尾銅山鉱毒事件が起こると田中正造の依頼を受けて矢嶋楫子、島田信子 ( 島田三郎代議士夫人 ) とともに現地に出向き、ただちに救済婦人会を組織して被害地で救済にあたり女子を慈愛館に保護した。


    明治 34年 ( 1901 ) 11月 29日、神田基督教青年会館において鉱毒地救済婦人会」の発会式が行われた。


    千勢子が会長となった。


    その講演会の様子を聞いた足尾銅山鉱業主・古河市兵衛夫人・為子が、神田川に投身自殺した。


    作家の吉屋信子の父・雄一は、当時、官吏として、田中正造と何度も接触を重ね、ときには信子の父は田中正造の前で土下座をするなど、役割として苦渋の日々を送ったことを、後年、文筆に残した。
     
    千勢子は、そのときの事件に連座して拘置所に入れられていた 黒澤酉蔵に聖書を差し入れて信仰に導き入れるきっかけをつくった。
     
    16歳の酉蔵少年は青雲志を高く持って茨城県久慈郡世矢村 ( 常陸太田市 ) から上京して海軍兵学校進学を目指していた。


    ところが、田中正造が足尾銅山の鉱毒直訴を行う事件を知った。


    熱い衝動を抑えがたく、田中正造の宿舎を訪ね、足尾銅山の経緯を知り、災害地学生視察団に加わったのち、自らも農民のために立ち上がり、鉱毒救済会を組織して鉱毒根絶の農民運動に奔走し、青年同士友愛会を結成した。


    その運動の最中に、未決のまま投獄されたのであった。


    酉蔵は、出獄後、田中正造に伴われて新井奥遂の門をたたき、キリスト教を更に学んだ。


    のち、北海道にわたり、札幌の新聞社社長の紹介で、、牧場主の宇都宮仙太郎の見習い牧夫となった。


    札幌メソジスト教会で、明治 42年に受洗した。


    現在の雪印乳業の祖である北海道製酪班外組合 ( 宇都宮仙太郎組合長 ) の設立に尽くし、また、現在の酪農学園大学を創立させた。


    さて、千勢子は、さらに貧困層の人々のための救済施療、教育の必要を痛感して東京婦人慈善会をつくった。


    女子の実業を奨励した背後には、本人自身の人生行路からの体験もあろうが、女子の他人への依頼心を排除することにつとめていたのであった。


    明治 36年 ( 1903 )、第 10回矯風会全国大会において、古希を迎えた矢嶋が会頭辞任をほのめかしたことにより潮田 33票、矢嶋 10票で会頭に推された。


    しかし、千勢子は胃がんに冒され病中の身だった。


    「わが矯風会は、社会を相手として働く所のものなれば、いやしくもかかる公共的事業に当たらんと欲するものは、その間決して私意私情を挟むべからず」の姿勢を貫き通し、病中心血を注いで言動一致の誠実な活動を展開した。
     
    その間、渡米後に芝浦電工を創始した長男・伝五郎が幼児を残して 35歳で他界した。
     
    千勢子はお遍路に出る人の気持ちがわかるといいながらも私情を挟まずに悲しみを乗り越えて全国運動を続けた。


    第 2代会頭就任 3月後、讃美の歌声に送られて天に召された。
     
    60歳弱の生涯に対して葬儀には 300名が参列し、神と人に仕えた千勢子の死を悼んだ。


    田中正造は弔辞を読み上げながら泣いた。


    渡良瀬の堤防がすぐ目の前に見える足利市川崎の岩崎家の庭先に千勢子の碑が建った。遺骨は青山墓地に葬られた。


    50年後、千勢子の孫にあたる元慶応大学塾長・潮田江次 ( 在任 1947 - 1956 ) が、小泉信三後援会長のもとに、矯風会本部会館建設発起人のひとりとなった。


    まさしく、千勢子の精神が死後も生きている証拠といえる。


    出典
    『キリスト教歴史』 
    『女性人名』 
    『銀座教会九十年史』 
    『矯風会百年史』

    黒沢酉蔵翁 
    http://www.across.or.jp/s-amano/ippin/yuuki/siryositu/torizo/torizo.html


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10639689524.html
    314 新島襄先生終焉之地碑(神奈川県中郡大磯町大磯)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10638745374.html
    313 新島襄先生 生誕地記念の碑(千代田区神田錦町3・学士会館敷地内)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11532272378.html
    1475 津田仙墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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    1737 長谷川潔墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    長谷川 潔 ( はせがわ - きよし、1891年 ( 明治 24年 ) 12月 9日 - 1980年 ( 昭和 55年 ) 12月 13日 ) は大正・昭和期に活躍した日本の版画家。


    1918年 ( 大正 7年 ) にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。


    特にメゾチント ( マニエール・ノワールとも ) と呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させたことで有名。


    渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けたが、一度も帰国せずにパリで没した。


    生涯

    銀行家であった長谷川一彦の長男として神奈川県横浜市に生まれる。


    裕福な家庭に育ち、小学生の頃より父から論語の素読や書、日本画などを教わる。


    大阪在住の 1902年 ( 明治 35年 ) に父・一彦が死去。東京の麻布に転居する。


    虚弱体質であったため、勤め人は無理だと判断され、好きであった美術の道へ進む。


    麻布中学校卒業前に母・欣子が死去する。


    1910年 ( 明治 43年 ) に麻布中学校を卒業した後、葵橋洋画研究所で黒田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学ぶ。


    また、バーナード・リーチからはエッチング技法の指導を受けている。


    その後、1913年 ( 大正 2年 ) に文芸同人誌『仮面』に参加、表紙や口絵を木版画で製作する。


    日夏耿之介や堀口大學の本の装幀なども担当した。


    1918年 ( 大正 7年 )、版画技術の習得の為フランスへ渡航。


    翌年の 4月 4日にパリに到着するが、静養のため 10月から南フランスに約三年間滞在。


    その間、版画技法の研鑽を積む。


    そしてパリに戻り、1923年 ( 大正 12年 ) からサロン・ドートンヌ等のサロンや展覧会に作品を出品。


    1925年 ( 大正 14年 ) には初の版画の個展を開き、高い評価を得る。


    翌年にはサロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。


    しかし、1939年 ( 昭和 14年 ) に第二次世界大戦が勃発すると、長谷川の生活は一変する。


    フランス在住の多くの画家が帰国してしまう中、長谷川はフランスに留まるが、パリを離れることを余儀なくされる。


    その為サルト県にある斎藤豊作邸に疎開、その後もボルドー、ビアリッツなどを転々とする。


    一時パリに戻り製作を続けるが、経済的にも健康面でも苦しい日々を送った。


    1945年 ( 昭和 20年 ) にはパリ中央監獄、ドランシー収容所に収監されるも、知人の助力もあり約一ヶ月後に解放される。


    戦後、再び創作を再開。


    銅版画に没頭し、様々な技法を最高の域まで高める。


    そして最後には自らが復活させたメゾチントに没頭、数々の名作を発表した。


    1980年 ( 昭和 55年 ) 12月 13日、パリの自宅で死去。89歳。渡仏してから一度も日本へ帰ることはなかった。


    年譜

    1891年 ( 明治 24年 ) 12月 9日:誕生。


    1916年 ( 大正 5年 ):広島晃甫 ( 広島新太郎 )、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。


    1918年 ( 大正 7年 ):フランスに渡る。


    1928年 ( 昭和 3年):春陽会会員。


    1931年 ( 昭和 6年):日本版画協会創立会員。


    1935年 ( 昭和 10年):フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。


    1939年 ( 昭和 14年 ) :第二次世界大戦勃発。


    1943年 ( 昭和 18年 ) :ミシェリーヌ・M・ビアンキと結婚。


    1945年 ( 昭和 20年 ) :パリ中央監獄、ドランシー収容所に収監される。


    1964年 ( 昭和 39年 ) :フランス芸術院コレスポンダン会員。


    1966年 ( 昭和 41年 ) :フランス文化勲章を受章。


    1966年 ( 昭和 41年 ) :現代日本美術展で特賞を受賞。


    1967年 ( 昭和 42年 ) :勲三等瑞宝章を授与される。


    1980年 ( 昭和 55年 ) :京都国立近代美術館で大回顧展「銅版画の巨匠・長谷川潔展」が開催。


    1980年 ( 昭和 55年 ) 12月 13日:死去。


    補足・エピソード
    第二次大戦中のエピソードとして有名なものに、『一本の樹』にまつわる話がある。


    これは、「画題を探すために散歩をしていたところ、一本の樹が不意に「ボンジュール」と語りかけてきた。私も「ボンジュール」と答える。すると、その樹が実に素晴らしいものに見えてきた。」というもので、長谷川の自然観や思想、作品を考える上で重要なエピソードである。


    1972年 ( 昭和 47年 ) にはフランスの国立貨幣・賞牌鋳造局からメダルが発行された。( 日本人としては葛飾北斎、藤田嗣治に次いで三人目 )


    主にメゾチントによる幻想的な作品が知られているが、アクアチント、エッチング、ドライポイント、エングレービング等の、他の技法による銅版画も評価が高い。


    また、銅版画だけでなく、木版画、水彩、油彩等も描いている。


    インクや紙に強いこだわりを持っており、特にインクに関しては顔料や油、調合方法などに細心の注意を払い、イタリアの石の粉を加えるなど工夫を凝らしていた。


    『黒の版画家』とされる通り、「黒には 7色の色がある」と語っている。

    長谷川の作品を摺っていたのはケネヴィルという摺師である。


    彼に長谷川は細かく注文を付け、互いに技術を高め合うことで多くの名作を世に送りだした。


    長谷川はケネヴィルを深く信頼しており、1970年 ( 昭和 45年 ) に彼が亡くなると、『横顔』という作品を最後に活動を止めている。


    主な作品

    ※年号の後に書かれているのは使われている技法である。


    『南仏古村 ( ムーアン・サントゥー )』 1925年 ( 大正 14年 )、メゾチント
    『アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船』 1930年 ( 昭和 5年 )、メゾチント
    『竹取物語 挿絵』 1933年 ( 昭和 8年 )、ドライポイント、エングレービング
    『2つのアネモネ』 1934年 ( 昭和 9年 )、メゾチント
    『一樹 ( ニレの木 )』 1941年 ( 昭和 16年 )、ドライポイント
    『花 ( 切子ガラスに挿したアネモネと草花 )』 1945年 ( 昭和 20年 )、アクアチント
    『狐と葡萄 ( ラ・フォンテーヌの寓話 )』 1963年 ( 昭和 38年 )、メゾチント
    『時、静物画』 1969年 ( 昭和 44年 )、メゾチント
    その他、1980年に回顧展が開かれた京都国立近代美術館や、彼の故郷、横浜市にある横浜美術館には多数の作品が所蔵されている。


    関連書

    評伝

    「作品集 長谷川潔」長谷川潔著、玲風書房
    「白昼に神を視る」 長谷川潔著・長谷川仁ほか編、白水社
    「長谷川潔の世界 上」猿渡紀代子著、有隣堂
    「長谷川潔の世界 中」(同上)
    「長谷川潔の世界 下」(同上)


    画集
    「長谷川潔作品集 京都国立近代美術館所蔵」画・長谷川潔 編・京都国立近代美術館、光村推古書院、2004年
    「長谷川潔版画作品集」 美術出版社 1981年
    「銅版画家長谷川潔作品のひみつ」画・長谷川潔 企画監修・横浜美術館、玲風書房 2006年
    「長谷川潔の全版画」編・魚津章夫、玲風書房 1999年
    「長谷川潔の全版画 第二版」(同上)
    「長谷川潔展図録 銅版画の巨匠 京都国立近代美術館所蔵作品による」 1994年
    「長谷川潔展  パリに生きた銅版画の巨匠 版画・油彩・デッサンを中心に」 東京都庭園美術館編  1993年 


    関連項目
    藤田嗣治:同じくフランスで活躍し、高い評価を得た画家。
    堀口大學:長谷川が本の装幀を担当。
    日夏耿之介:(同上)
    齋藤磯雄:(友人)


    外部リンク
    長谷川潔全版画リスト ( http://www.ddart.co.jp/hasegawa.html )
    長谷川潔の生涯 魚津章夫 ( http://www16.ocn.ne.jp/~uozu/asahi1.htm )
    (wikiより)


    長谷川潔の作品画像

    http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%BD%94%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81


    なんでも鑑定団お宝情報局

    http://otakarajoho.blog10.fc2.com/blog-entry-98.html


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    1738 吉永道雄墓(台東区谷中1-2-14・天眼寺)

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    吉永道雄 ( よしなが - みちお ) 大正 6年 4月 29日 ~ 昭和 61年 9月 6日 ( 1917 - 1986 )


    日本で初めてガスライターを製品化した人。


    昭和 9年 ( 1934 ) 東京都立工芸卒業。


    昭和 13年 ( 1938 ) 家業の機械製作業を継ぎ、のち「吉永商店」を創設。


    昭和 23年 ( 1948 ) 8月 31日吉永プリンス株式会社に改組して社長に就任。


    東京都喫煙具商業共同組合理事長・日本喫煙具協会長・日本軽工業品団体連合会長を歴任。


    昭和 36年 ( 1961 ) オイルライター全盛の時代にガスライターを草加市にある自社工場で完成させた。


    この時のモデル「プロナ61」は、プリンスガスライター第 1号機として発売された。


    69歳没。


    プロナ61 ( http://www.barockhaus.co.jp/1-special.htm )


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    1739 円城寺清墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    円城寺清 ( えんじょうじ - きよし )


    明治 3年 11月 ~ 明治 41年 10月 21日 ( 1870 ~ 1908 )


    佐賀小城生まれ。政論記者。


    明治 22年 ( 1889 ) 東京専門学校の邦語政治科に入学し、25年 ( 1892 ) に卒業。


    大隈派の新聞だった郵便報知新聞に入るが、立憲改進党党報局に迎えられる。


    同党が分裂の後、憲政本党党報の主任記者、32年 ( 1899 ) に万朝報の論説記者となり、行動する言論人として知られた。


    著作に『大隈伯昔日譚』 ( 1893 ) 『地租全廃論』 ( 1903 ) などがある。


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    1740 岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡(台東区谷中5-7)

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    日本美術院は明治三十一年 ( 1898 ) 岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。


    活動は絵画が主で、従来の日本画家の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新の気を与えた。


    この場所に建てられた美術院は明治三十一年九月に竣工した木造二階建で、南館 ( 絵画研究室 ) と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、付属建物も二、三あったといわれている。


    明治三十九年 ( 1906 ) 十二月に美術院が茨城県五浦 ( いずら ) に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。


    昭和四十一年 ( 1966 ) 岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置去れている。
    (案内板より)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10959157426.html
    621 岡倉天心墓(豊島区駒込5・染井霊園)


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    岡山堂(京都府京都市左京区岡崎東天王町24)

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    此方のお店は、同志社墓地参拝後に立ち寄ったお店です。


    日本蕎麦から洋食も出しているようで、この近辺の食事処が喫茶店、お好み焼き店、甘味処しかないのも残念かも知れません。


    注文したのは、
    1. 焼き飯 650円
    胡麻、青菜、海苔、玉子が入っていました。


    2. 焼きそば 650円
    こちらは、玉子が入っていました 若干甘目のソースです。

    どちらも美味しかったです。


    また此方方面を周る時は、立ち寄りたいと思います。


    岡山堂飲食店(食べログ)
    http://tabelog.com/kyoto/A2603/A260301/26014665/


    131a 店外観
    131b 焼き飯 650円
    131c 焼きそば 650円









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    1741 滝沢馬琴墓(文京区小日向4-9-5・深光寺)

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    ● 滝沢馬琴墓
    馬琴は、江戸の人。


    明和 4年 ~ 嘉永元年 ( 1767 ~ 1848 )。


    江戸時代後期の著名な戯作者。


    "南総里見八犬伝"、"椿説弓張月"など、多数の作品を残した。


    著作堂 ( ちょさどう )、蓑笠 ( さりゅう )、玄同 ( げんどう ) など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。


    墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士 ( ちょさどういんよさりゅうこじ )」と、馬琴より先に没した妻・お百の法名「黙誉静舟到岸大姉 ( もくよせいしゅうとうがんだいし )」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家型の模様が刻まれている。


    江戸時代後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い ( 墓は本堂左わき )


    なお、馬琴の墓の後左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女 ( みちじょ ) が眠る墓がある。


    法名・操誉順節路霜大姉 ( そうよじゅんせつろそうだいし )。
    (案内板より)


    曲亭 馬琴 ( きょくてい - ばきん、明和 4年 6月 9日 ( 1767年 7月 4日 ) - 嘉永元年 11月 6日 ( 1848年 12月 1日 )) は、江戸時代後期の読本作者。著作堂主人とも。


    本名は瀧澤興邦 ( たきざわ - おきくに )、漢字制限 ( 当用漢字、常用漢字、教育漢字 ) により滝沢興邦とかく。後に解 ( とく ) と改める。


    筆名の曲亭馬琴は、読み方を変えると「くるわでまこと」( 廓で誠 )、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味である。


    なお、現在は多くの本や教科書に滝沢馬琴と書かれているが、これは明治以降に使われるようになった表記であり、現在確認できる限り本人は滝沢 ( 瀧澤 ) 馬琴という筆名は用いていない。


    生涯
    江戸深川の旗本・松平鍋五郎の屋敷の用人、滝沢興義の三男として生まれる。


    9歳の時に父が亡くなり、その翌年に長兄から家督を譲り受け松平家に仕えるが、15歳の時松平家を出て放蕩生活に入る。


    24歳の時に山東京伝の弟子となり、戯作者として出発した。


    寛政 5年 ( 1793 ) 27歳の時に蔦屋重三郎の世話で生活のため履物商会田家の未亡人お百の婿となる。


    商売には精を出さず後顧の憂いなく文筆業に打ち込み、家業におろそかであったため、いきおい夫婦仲は険悪だった。


    『椿説弓張月』のような読本のほか、より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。


    ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。


    『南総里見八犬伝』の執筆には、文化 11年 ( 1814年 ) から天保 13年 ( 1842年 ) までの 28年を費やした。


    最後の所を書いていた頃には老齢と長年の多忙な作家活動のため目が見えなくなっており、息子の宗伯の妻、土岐村路 ( お路 ) に口述筆記をしてもらっていた。


    このことにも妻のお百が嫉妬し、何かとお路をいじめていたという。


    文政 7年 ( 1824年 ) 58歳まで、飯田町世継稲荷 ( 現・築土神社 ) 下にあった会田家に居住。


    その後は晩年まで、神田明神下にあった息子の宗伯宅 ( 秋葉原の芳林公園付近 ) に居住した。


    晩年に執筆していた『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の完結を見ないまま、嘉永元年 ( 1848年 ) 82歳で死去する。命日の 11月 6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。


    中年以後の日記が残っており、芥川龍之介はこれに基づいて『戯作三昧』を書いたが、以後、小説に登場する馬琴は老人であることが多い。


    杉本苑子『滝沢馬琴』、平岩弓枝『へんこつ』、森田誠吾『曲亭馬琴遺稿』などがある。山田風太郎『八犬伝』は、八犬伝の筋を紹介しつつ馬琴の生活も描くものである。


    柴田光彦校注『曲亭馬琴日記 新訂増補』が、2009年 7月から中央公論新社全 4巻別巻1で刊行。( 旧版全 4巻は暉峻康隆ほか校注で中央公論社、1973年 )


    関連情報
    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10616068881.html
    286 滝沢馬琴(曲亭馬琴)住居跡(千代田区立昌平小学校前・芳林公園)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10505754572.html
    99 野菊の墓文学碑(千葉県松戸市松戸下矢切261 西蓮寺内)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10528341696.html
    145 史跡 国府台の戦争(千葉県松戸市松戸下矢切261 西蓮寺内)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10612248878.html
    280 山東京伝机塚の碑(浅草神社)



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    1740e 路女の墓
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    1742 仙石貢墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    明日は早く出かけてしまう為、とても早いですが新規記事の更新をします。


    夕方の記事は、いつも通りになると思います。



    仙石 貢 ( せんごく - みつぎ / せんごく - みつぐ[1]、安政 4年 6月 2日 ( 1857年 7月 22日 ) - 昭和 6年 ( 1931年 ) 10月 30日 ) は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。高知県高知市出身。工学博士。


    没後勲一等旭日大綬章追贈 ( 昭和 6年 10月 30日付 )。名はみつぐと読むこともある。


    「雷大臣」などといわれ、一生奇行で通した人物であるが、鉄道技術者、経営者として果たした功績は大きい。


    略歴
    明治 5年 ( 1872年 ) 高知藩病院附属吸江学校に入学し、英語を学ぶ。


    明治 11年 ( 1878年 ) 7月 東京帝国大学理学部土木工学科卒業。

     ・同 9月東京府土木掛。


    明治 14年 ( 1881年 ) 東北鉄道株式会社の設立に参画。


    明治 17年 ( 1884年 ) 工部省鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道工事を担当。


    明治 24年 ( 1891年 ) 工学博士学位。


    明治 29年 ( 1896年 ) 10月 逓信省鉄道技監を最後に退官。

     ・筑豊鉄道社長。


    明治 31年 ( 1898年 ) 4月 九州鉄道社長。


    明治 39年(1906年 ) 4月 南満州鉄道設立委員。


    明治 41年 ( 1908年 ) 7月 政党・戊申倶楽部設立に参加。


    明治 44年 ( 1911年 ) 10月 猪苗代水力電気会社社長。


    大正 3年 ( 1914年 ) 4月 鉄道院総裁。


    大正 4年 ( 1915年 ) 3月 高知県選出の衆議院議員。


    大正 9年 ( 1920年 ) 土木学会第7代会長。


    大正 13年 ( 1924年 ) 6月 11日 加藤高明内閣で鉄道大臣。


    大正 15年 ( 1926年 ) 1月 30日 第 1次若槻禮次郎内閣で鉄道大臣 ( 6月 3日途中辞任 )。


    昭和 4年 ( 1929年 ) 8月 14日 南満州鉄道総裁に就任。


    昭和 6年 ( 1931年 ) 6月 13日 南満州鉄道総裁辞任。

    10月 30日 没。享年 75 ( 数え )。


    主な事跡
    浴衣の卒業式
    東京帝国大学の卒業式に洗いざらしの浴衣で出席した、というエピソードがある。当然関係方面から苦情が来たが、「天にも地にも此れ1枚しかない」と言って押し通した。


    甲武鉄道 ( 現:中央本線 ) の直線
    甲武鉄道の工事担当者であった時期、中野 ~ 立川間の線路敷設で悩んでいた。青梅街道や甲州街道沿いに敷設したかったが、当時鉄道敷設には強烈な反対運動が起こっていた。


    しかし、反対運動がないところを通せば、利用客は少ない。


    悩みに悩んでついに怒り心頭に発し、地図上に「えい、やっ」と、一直線の赤線を引いた。


    これが、現在の中野駅から立川駅に至る約 25kmの直線であるという。


    当時は、一面の原野と桑畑だった。


    なお、この話については「測量技師がルート選定にいろいろ注文を付けられて腹を立て、放り投げた定規が地図の上に落ちたところに決めた」という異説もあり、いずれも伝説の域を出ないと思われる。


    日本鉄道 ( 現:東北本線 ) 建設の猛烈監督
    栗橋から宇都宮までの建設を担当した。


    朝は 5時に起きて床の中での朝食後、洗顔もせずに靴を座敷ではいて現場に行き、昼食は付近の畑から野菜をもぎとり、一日中歩きまわって親方達を督促し、月が出るまでは工事をやめさせないという仕事ぶりを発揮した。


    測量などでは邪魔になる家屋があると無断で壁に穴をぶちあけるという奇行ぶりであったという。


    しかし、工学士としてはじめて鉄道をつくっただけあり、それまでの線路より合理的に作られていると評判になった。


    碓氷峠のアプト式鉄道建設
    碓氷峠を越える鉄道建設ルートの検討では、25‰から 100‰にも達する急勾配線、ループ線、スイッチバック、鋼索鉄道などが候補に挙がっていた。


    しかし鉄道局長官井上勝は、当時ドイツに留学中の仙石と吉川三次郎からの報告により、明治 18年 ( 1885年 ) ドイツで 60‰の勾配をラックレール ( 歯型レール ) で登る鉄道が完成したことを知り、横川 ~ 軽井沢間をアプト式鉄道で建設することを決定した。


    明治 24年 ( 1891年 ) 3月 24日に着工し、明治 26年 ( 1893年 ) 4月 1日に開通している。


    九州鉄道の設立
    明治 29年に筑豊鉄道社長に就任したのち、九州内の鉄道経営の合理化を図って会社合併を進めた。


    2年後に結実して九州鉄道が創立され、社長に就任した。


    末期には、豪華客車をアメリカのブリル社に発注したりもしているが、日本に到着したのは同社の国有化後で、満足に活用されることはなかった。


    なお、この九州鉄道の社長時代にしばしば山陽鉄道を利用したが、そのスピード運行ぶりには批判的な感想を残している。


    鉄道広軌化
    仙石は鉄道広軌化論者であり、鉄道院総裁時にはいろいろな献策をしている。詳しくは日本の改軌論争を参照。


    電車運転不調の謝罪広告
    1914年 ( 大正 3年 ) 12月 20日の東京駅開業に合わせ、東京駅 ~ 高島町仮駅 ( 後の二代目横浜駅 ) の間で京浜線電車の運転を開始した。


    しかし、軌道が固まっていなかったことや米国製パンタグラフの不調もあって、運行開始当日から電車が立ち往生するトラブルが発生。


    翌日、鉄道院総裁である仙石の名前で新聞に謝罪広告が掲載されるに至った。


    その後もトラブルが続発したことで、同年 12月 26日から半年近く休止に踏み切り、対策を講じた上で翌年 5月 10日に運行を再開した。


    脚注

    1. 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


    参考文献
    中村建治『山手線誕生 半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史』(イカロス出版、2005年6月) ISBN 4-87149-683-X


    外部リンク
    第二十八議会衆議院議員写真列伝(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより)仙石貢略歴及び肖像
    (wikiより)


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    1743 英一蝶墓(港区高輪2-8-2・承教寺)

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    ● 英一蝶
    英 一蝶 ( はなぶさ - いっちょう、承応元年 ( 1652年 ) - 享保 9年 1月 13日 ( 1724年 2月 7日 )) は、日本の江戸時代中期 ( 元禄期 ) の画家、芸人。


    本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄 ( やすかつ? )、のちに信香 ( のぶか )。字は君受 ( くんじゅ )。幼名は猪三郎 ( いさぶろう )、次右衛門 ( じえもん )、助之進 ( すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。


    剃髪後に多賀朝湖 ( たが - ちょうこ ) と名乗るようになった。


    俳号は暁雲 ( ぎょううん )、狂雲堂 ( きょううんどう )、夕寥 ( せきりょう )。


    名を英一蝶、画号を北窓翁 ( ほくそうおう ) に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁 ( すいさおう )、隣樵庵 ( りんしょうあん )、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。


    生涯
    承応元年 ( 1652年 )、多賀伯庵 ( たが - はくあん ) の子として京都で生まれる[1]。


    父・伯庵は伊勢亀山藩の侍医 ( 藩お抱えの国許の医師 ) であったが、一蝶が 15歳の頃 ( 異説では 8歳の頃 )、藩主の石川憲之に付き従っての江戸詰めが決まり、一家で江戸へ転居する。


    絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野安信に入門するが、のちに破門されたといわれる。


    多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人・宝井其角、松尾芭蕉と交友を持つようになる。


    書道は玄竜門下に学ぶ。


    名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名、豪商まで、広く親交を持つようになる。


    版画の作品はないが肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残している。


    また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で自ら幇間としても活動していた。


    その話術・芸風は、豪商や大大名すらもついつい財布を緩め、ぱっと散財してしまうような見事に愉快な芸であったと伝わっている。


    特に豪商の紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門との交流もあった。


    元禄 6年 ( 1693年 )、罪を得て入牢する。理由は不明で、2ヵ月後に釈放される。


    元禄 11年 ( 1698年 )、今度は生類憐れみの令に対する違反 ( 後述 ) により、三宅島へ流罪となった[2]。


    配流中の罪人には、親族から年数度の仕送り ( 物品 ) が許されていたが、一蝶は制限ある仕送りに毎度のように絵具を要求し、江戸の自分を贔屓にしてくれる人々や島で自分に便宜を図ってくれる人達のため、さらには江戸に残した家族 ( 母 ) の家計のために、絵を描き続けた ( 現在も新島にその頃の絵が残る )。


    乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を見てきたように活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いた多数の縁起絵などが残されている。


    この時期の風俗画は、推定も含め「四季日待図巻」「吉原風俗図巻」「布晒舞図」「松風村雨図」の4点確認されている。


    画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、わが身を省みて心情を託して描かれた作品群は、これもまた代表作として知られる。


    この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。


    また、配流中の元禄 15年 ( 1702年 ) に、随筆『朝清水記 ( あさしみずき )』を記す。


    宝永 6年 ( 1709年 )、将軍・徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。


    この頃に北窓翁英一蝶と名乗り、深川宜雲寺に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。


    また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、共に豪商の奈良屋茂左衛門や紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる。


    江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び懐かしんで書いた一文が『浮世絵類考』に収録されている。


    「此道 ( 岩佐又兵衛・菱川師宣などによる画 ) 予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」、自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる。


    享保 9年 ( 1724年 )、死去。享年 73。戒名は英受院一蝶日意居士。東京都港区高輪二丁目の承教寺顕乗院に墓所があり、大正 13年 ( 1924年 ) 2月には東京府知事によって史跡に指定された。


    なお次の歌が、辞世と言われている。 「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空[3]。」


    作風

    配流以前の画風は、当時すでに形式化しつつあった狩野派を学びながらも浮世絵に惹かれ、古典の軽妙なパロディや俳諧趣味を加味することで、浮世絵の大家である岩佐又兵衛や菱川師宣を超える新しい都市風俗画を目指した。


    また、水面や障子に映る影を描く[4]といった、新しい表現にも挑戦している。


    島流し時代は、島民の求めに応じて天神 ( 菅原道真 ) や七福神の絵を描き、生活の糧としていた。


    江戸復帰以後は、大作を含む多くの作品を残し、市井の風俗や生活を採り入れた、良い意味での俗っぽさ・町絵師らしさがある、と言われる。


    一蝶には師宣の作品に倣ったことを明記した作品がある。


    「業平涅槃図」がそれで、「以菱川師宣圖蹟 北窓翁一蝶書」と落款している。在原業平の死を釈尊の涅槃に見立てた物で、北枕の業平を、歎き悲しむ老若の女性や鶴や鹿といった鳥獣が取り囲む、という諧謔味の強い作品である。


    師宣の父は上総国の松翁院のために縫箔の大涅槃圖を制作し、自身にも『無常重夢物語』( 無款、刊行年未詳 ) の挿絵に涅槃図があることから、師宣は何度か涅槃図を描く機会があったと想像できる。


    しかし、師宣の作品には諧謔性の強い物や見立絵は皆無に等しく、業平涅槃図のような作品を残したとは考え難い。


    一蝶は、師宣の業平涅槃図を見て、この図を制作したのではなく、師宣の新様式ではあるが常態の釈迦涅槃図を見たのであって、業平に転化させたのは一蝶自身ではないかと想像される。


    浮世絵に俳諧的見立による作品が盛行するのが正徳頃からであること、そして、一蝶の俳趣味の強さがそれを裏付ける。


    交友関係

    芭蕉や其角との交友関係、つまりは一蝶自身を含む当時の芸術サロン的な人々 ( 文化人や趣味人、後援者ら ) との交流は前述したとおりであるが、漆芸家や金属工芸作家ら、当時の江戸を代表するような芸術家・工芸家らとの交流もあった。


    漆芸家・小川破笠 ( 同郷伊勢国出身 ) などが有名である。


    英派 ( 英流、一蝶流とも ) と呼ばれる彼の画業の弟子には、佐脇嵩之 ( 代表作:『百怪図巻』) とその弟子達や、一蜂、一舟らがいる。一舟は弟子であったが後に一蝶の養子となり、英家 ( 英流 ) 二代目となった。


    島流し時代に子をもうけ、赦免後には江戸に連れ帰り画を学ばせた。


    英一蝶二代を名乗るがのちに一蝶と不和になった。


    英一蜩は次男で、父に画を学び、のち久留米藩に仕えたとされている。


    そのほか、福王流能楽師・八世福王盛有も弟子の一人であり、福王雪岑の画号で知られる。


    島流しに至る経緯

    当時幕府は、元禄文化の過剰な華やかさ、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛正しようと試みていた感がある。


    元禄 6年 ( 1693年 ) には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。


    島流しに至る経緯については───
    1. 為政者の風刺時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で実の娘を将軍綱吉の側室に差し出したことを、一蝶が風刺作品にしたから。代表作『朝妻舟図』 ( #絵画を参照 ) が関係している ( 吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの ) とも言われる。


    2. 釣りの罪町人の分際で釣りを行った ( 武士は修練目的として黙認されていた ) ことが、綱吉政権が発令した生類憐れみの令違反とされた ( 同年、追加条例として“釣り具の販売禁止令”すらも出ている )。


    3. 禁句の罪“馬がもの言う”という歌を広めたから。

    これは今で言うところの、放送禁止歌謡指定も同然である。[5]


    4. そそのかしの罪ある時、いつものように芸で座敷を盛り上げていた際、とある殿様をそそのかし、勢いで花魁を身請け ( つまり、武家らしからぬ行状と、巨額浪費 ) させてしまった。


    ところがその殿様は将軍・綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守であったため、その方面の怒りを買った、という話も伝わる ( 表高家旗本の六角家の当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により、元禄 10年[ 1697年 ]頃に閉門蟄居命令」が確認される六角広治[越前守]か。


    広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は、著名な近江国守護大名の六角氏とは別の家系。公家の烏丸家系。


    またこれ以外にも掛川藩主・井伊直武をそそのかせた ( 遊びで盛り上げた ) 話なども伝わり、島流しの際は同時に幇間であった村田半兵衛らも流されている)。


      ───などの諸説があるが、「正式な罪状として採用された」のは、上記 2 の“釣り罪”であるらしい。


    代表作
    絵画
    立美人図 [たち びじん ず] :千葉市美術館。
    朝鮮通信使小童図 [ちょうせんつうしんし しょうどう ず] :別項「朝鮮通信使#絵画、工芸、芸能に伝わる朝鮮通信使」を参照のこと。
    鉢廻図 [はちまわし ず] :片足立ちし、口の先に盃を乗せて回す芸を披露する大道芸人と、それを観て大いに喜ぶ取り巻きの子供達。
    朝暾曳馬図 [ちょうとん えいば ず]:墨画。朝靄の中、馬を曳いて行く童子。その姿を朝陽が川面に映す。配流前の作。静嘉堂文庫。
    朝妻舟図 [あさずまぶね ず] :琵琶湖畔に浮かべた舟(浅妻船)で客を待つ、物悲しげな白拍子の佇まい。流刑の罪状との絡みについては「#島流しに至る経緯」の説を参照のこと。板橋区立美術館。
    徒然草 御室法師図 [つれづれぐさ おむろほうし ず] :『徒然草』の中にある、酔っ払った挙句の悪乗りで鼎(かなえ)を頭から被ったものの抜けなくなってしまったという御室(仁和寺)の僧の滑稽な逸話を画題としたもの。
    雷神 [らいじん] :絹本着色。右列に画像あり。
    四季日待図巻 [しき ひまち ずかん] :一巻。四季それぞれの日待[6]の様子を描く。配流中(1700年頃)、江戸の友人の求めに応えて描いた画巻の一つ。出光美術館。重要文化財。
    布晒舞図 [ぬのさらしまい ず] :紙本着色。布晒舞(お囃子に乗り、長い晒し布を地に着けないように踊る芸事)を披露する踊り子。配流中の作(江戸の友人に応じての一画)。遠山記念館。重要文化財。
    見立琴棋書画図屏風 [みたて きんきしょが ず] :遠山記念館。
    狂言福の神図 [きょうげん ふくのかみ ず] :紙本着色。個人蔵。
    虚空蔵菩薩像 [こくうぞうぼさつ ぞう] :紙本着色。配流中の作(島民の求めに応じての一画)。個人蔵。
    天神図 [てんじん ず] :菅原道真の図像。配流中の作(島民の求めに応じての一画)。個人蔵。
    十二天像火天図 [じゅうにてんぞう かてん ず] :十二天の一柱・火天を描く。右列に画像あり。
    十二天像風天図 [じゅうにてんぞう ふうてん ず] :十二天の一柱・風天を描く。別項「風天」に画像あり。
    吉原風俗図巻 [よしわら ふうぞく ずかん] :紙本着色。 配流中の作(江戸の友人に応じて描いた画巻)。サントリー美術館。
    田園風俗図屏風 [でんえん ふうぞくず びょうぶ] :6曲一双。驟雨に襲われて村の屋敷に身を寄せる大勢の老若男女の様子。のちに描かれる『雨宿り図屏風』に通じる作品。サントリー美術館。
    月次風俗図屏風 [つきなみ ふうぞくず びょうぶ] :東京国立博物館。
    月次風俗図屏風 [つきなみ ふうぞくず びょうぶ] :六曲一双。紙本著色。宝永6年から享保2年までの作。ボストン美術館。
    六歌仙図屏風 [ろくかせんず びょうぶ] :板橋区立美術館。
    僧正遍昭落馬図 [そうじょう へんしょう らくば ず] :野に咲く女郎花(おみなえし)に見とれて落馬した遍昭(六歌仙の一人である僧正)を描く。大和文華館。
    富士山図 [ふじさん ず] :山梨県立博物館所蔵。法量は縦56.5センチメートル、横117.0センチメートル。落款に「北窓翁一蝶書」、「趣在山雲和泉石間」(朱文円印) の印章、箱書には「御掛物一幅 富士之絵 英一蝶筆」とある。馬入川(相模川)渡口から見た富士山を遠景に船頭や旅人、子どもたちなどを描いている。
    鍾馗図 [しょうき ず]
    茶挽坊主悪戯図 [ちゃひきぼうず あくぎ ず]
    麦搗図 [むぎつき ず]
    阿弥陀来迎図 [あみだ らいごう ず] :来迎する阿弥陀如来と25尊の菩薩を極彩色に描く。
    大井川渡口図 [おおいがわ わたしぐち ず] :紙本淡彩。板橋区立美術館。
    投扇図 [とうせん ず] :紙本着色。大鳥居の隙間めがけて投扇の願掛け(扇を投げて運試しをする習俗)をする3人の酔っ払い。板橋区立美術館。
    芭蕉柳図 [ばしょう と やなぎ ず] :紙本墨画。大きな柳の木の横枝に寄りかかり、疲れを癒す松尾芭蕉の旅姿。江東区芭蕉記念館。
    梅月山鵲 [ばいげつ さんじゃく] :紙本墨画。満月の夜、花咲く梅の木の枝に留まる一羽の山鵲[7]。個人蔵。
    蓮鷺図 [れんろ ず、はすさぎ ず] :紙本墨画。個人蔵。
    四条河原納涼図 [しじょうかわら のうりょう ず] :夕刻の京は四条河原町、鴨川の川床(鴨川納涼床)にて涼を楽しむ人々の様子。千葉市美術館。
    群盲撫象図 [ぐんもう ぶぞう ず] :三井記念美術館。右列に画像あり。
    狂言猩猩図(狂言猩々図) [きょうげん しょうじょう ず] :肉筆画、桐板金箔地額面着色。三井記念美術館。
    大井川渡し図 [おおいがわ わたし ず] :三井記念美術館。
    雨宿り図屏風 [あまやどり ず びょうぶ] :6曲一隻。驟雨を武家屋敷の門前に寄せて凌ぐ、身分の上下を超えた大勢の老若男女の様子を描く。江戸復帰後、間もなくの作。東京国立博物館。
    一休和尚酔臥図 [いっきゅうおしょう すいが ず] :紙本墨画淡彩。酒屋の前で酔い潰れて倒れている一休宗純。江戸復帰後の作。板橋区立美術館。
    不動図 [ふどう ず] :滝行に励む青不動。得物の剣・羂索(けんじゃく、縄)のみならず、普段は背負っている炎まで脇の岩場に取り外して置いてある滑稽さが一蝶らしい。江戸復帰後の作。
    士農工商図屏風 [しのうこうしょう ず びょうぶ] :紙本着色。板橋区立美術館。
    松風村雨図 [まつかぜむらさめ ず] :紙本着色。三宅島流謫時の島一蝶と推定されている。須磨の浦の松に掛けられた、在原行平形見の狩衣、烏帽子を見上げる松風と村雨は、江戸の踊り子のように軽やかな足取りで舞い踊る。沈々とした深い想いが地裁画面に満ちている。
    業平涅槃図 [なりひらねはん ず] :紙本着色。東京国立博物館。
    賀茂競馬図屏風 :紙本着色 6曲1双 城西大学水田美術館。
    大名火消絵巻 :紙本着色 2巻 城西大学水田美術館。
    扇面役者肖像図 :紙本着色 扇面 城西大学水田美術館。


    俳句
    初鰹 芥子がなくて 涙かな [はつがつお からしがなくて なみだかな] :別項「カツオ#食材」中の「刺 ( 芝づくり ) 」を参照のこと。


    演じた俳優
    片岡鶴太郎 :NHK大河ドラマ『元禄繚乱』


    脚注

    1. 山東京伝著の『近世奇跡考』に摂津国の生まれとされ、長らく定説となっていたが、当時の島流しに関する公文書では京の生まれと記されており、こちらが史実とも考えられる。
    2. 住まわされたのは、阿古(現在の阿古地区)。
    3. 大田南畝「半日閑話」吉川弘文館(日本随筆大成 巻4)1927年,316頁より。
    4. 作品例 :『朝暾曳馬図』
    5. 「馬がもの言う、牛がもの言う」とは将軍綱吉が館林藩主時代「館林右馬頭」と名乗っており、腹心の柳沢吉保の幼名が牛之助であったことを風刺している戯曲であり、真の作者とされる筑紫園右衛門は捕縛後、斬首刑となっている。
    6. 日待 :お日待ち。前夜から潔斎(けっさい。祭事を前に沐浴などをして心身を清めること)して翌朝の日の出を拝む古習。時代が下るほどに遊興化し、飲食と歌舞音曲を楽しむ場と化した。
    7. サンジャクは、冠羽と長い尾羽を持つ鳥を指す「綬帯鳥(じゅたいちょう)」の名でも呼ばれる。


    関連項目
    久隅守景 :独特の画風で英一蝶と並び評される画家。
    江戸時代の人物一覧#絵師
    浮世絵
    肉筆浮世絵


    参考文献
    小林忠執筆・編集 『日本の美術 No.260 英一蝶』 至文堂、1988年。
    『週刊アーティストジャパン〈改訂版〉No.32』 デアゴスティーニ・ジャパン、2007年。
    『美術の窓』2009年9月号「大江戸散歩 英一蝶ものがたり」 生活の友社([1])。
    特別展図録『〈開館30周年記念 御赦免300年記念〉江戸文化シリーズ No.25 一蝶リターンズ ~元禄風流子 英一蝶の画業~』 板橋区立美術館、2009年。


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11727854368.html
    1644 英一蝶墓(大田区池上1-1-1・池上本門寺)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503906839.html
    94 宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞いの碑)〔墨田区向島2-5-17・三囲神社 〕


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    1744 山梨勝之進墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    早く出かけてしまう為、とても早いですが新規記事の更新をします。


    夕方の記事は、いつも通りになると思います。


    山梨 勝之進 ( やまなし - かつのしん、1877年 ( 明治 10年 ) 7月 26日 - 1967年 ( 昭和 42年 ) 12月 17日 ) は、日本の海軍の軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。


    主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた、所謂条約派の 1人。


    また帝国海軍の 77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない 9名のうちの 1人である。


    概要

    宮城県宮城郡仙台出身。


    旧仙台藩士の長男として生まれ、宮城英学校より海軍兵学校 ( 25期 ) に進んだ。


    席次は入校時 36名中 5番、卒業時は 32名中 2番の恩賜である。


    松岡静雄、鳥巣玉樹、四竈孝輔らが同期生である。


    山本権兵衛の副官などを務め、ワシントン軍縮会議では全権随員として加藤友三郎を補佐。


    人事局長在任中は軍縮条約を日本国内で反映させるべく尽力し、また海軍大臣・財部彪に鹿児島優遇人事をやめるよう進言している[1]。


    海軍次官在任中はロンドン海軍軍縮条約の締結に奔走した。


    反対勢力から暗殺される危険があったが、軍務局長・堀悌吉、海軍省先任副官・古賀峯一と暗殺される覚悟で所信を貫く。


    海軍大臣が不在の海軍省を預かり、岡田啓介の助力を得て、艦隊派の軍令部次長・末次信正をして「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」[2]と言わしめる活躍であった。


    このため伏見宮博恭王や東郷平八郎を頂点とする艦隊派から忌避され[3]、大角人事により予備役に編入される。


    ロンドン軍縮会議の際に反対派が持ち出した理論が統帥権干犯であるが、山梨は「憲法解釈は枢密院の権限で、軍人が憲法を論ずるなど論外である」と書き残している。


    その後 6年間船橋に閑居していたが、昭和天皇の信任が厚かった[4]。


    山梨は、当時の皇太子・明仁親王の教育を任せられる適材適所の人材として学習院長を拝命する。


    その際に山梨を訪問し内意を問うたのは、ロンドン軍縮会議の全権の一人である宮内大臣・松平恒雄であった。


    戦後は宮城育英会五城寮舎監、水交会初代会長を務めつつ、軍人恩給の復活に尽力し、海上自衛隊の創建にあたっては吉田茂ら政財界の説得にあたる[5]。


    1965年 ( 昭和 40年 ) にはかつて副官を務めた山本権兵衛を偲ぶ会を催した。


    また中山定義、杉江一三、内田一臣ら旧海軍出身の海上自衛隊幹部の依頼で、海上自衛隊幹部学校において戦史学の特別講師となり、講義内容は『歴史と名将』と題され刊行された。


    人物像

    温厚な性格ながら粘り強さを備えた人物であり、およそ人の批判をするようなことはなかった。


    予備役編入が内定した際に、ロンドン軍縮会議全権であった若槻禮次郎が「貴方はこんな会議さえ無ければ海軍大臣でも連合艦隊司令長官にもなり得たのに誠に申し訳ない」と発言した際、山梨は「誰かが犠牲になって会議が成功したのだから気にするに及びません」と答えた[6]。


    出身地の宮城の自宅は幼稚園に寄付されている。


    なお井上成美の山梨に対する評価は高い[7]。


    海軍部内でも卓越した軍政家であった。


    海軍次官在任当時、内務大臣であった安達謙蔵が、海軍部外者の立場から「山梨は頭もよく誠実で、機を見るに敏、しかも、将来の国防問題にたいする的確な見通しを持ち、部内を統制する識見を持っていた」と評している ( 安達の自叙伝より )。


    しかし、艦長としての操艦はすこぶるつきの下手で、特に入港時の操艦では、そばにいる者をハラハラさせどおしであった、と富岡定俊少将が回想している。[8]


    1919年 ( 大正 8年 ) までは、「軍艦職員勤務令」で、航海中の艦長の役目として「艦長は其の出入港、狭小なる水路の通過及艦隊陣形変換等の時は必ず自ら其の艦の運用を掌るべし」と規定されていた。


    1919年 ( 大正 8年 ) に新たに「艦船職員服務規定」が制定され、駆逐艦・潜水艦のような小艦艇を除き、出入港など注意を要する状況においても、航海長に操艦させることが許された。[9]


    山梨が大佐で「香取」艦長を務めたのは 1917年 ( 大正 6年 ) 12月 1日から 1年間であり、艦長に「出入港時の操艦義務」が課せられていた。


    年譜
    1877年 ( 明治 10年 ) 7月 26日- 宮城県宮城郡仙台・中島町生


    1895年 ( 明治 28年 ) 1月 29日- 海軍兵学校第 25期入校


    1896年 ( 明治 29年 ) 12月 12日- 学術優等牌品行善良牌を受ける。


    1897年 ( 明治 30年 ) 12月 18日- 海軍兵学校卒業 ・ 少尉候補生・砲艦「金剛 ( 初代 ) 」乗組


    1898年 ( 明治 31年 ) 3月 17日- 練習艦遠洋航海 シドニー - ブリスベーン - メルボルン - ウィン方面巡航

     ・9月 18日 - 帰着

     ・9月 27日 - 戦艦「八島」乗組


    1899年 ( 明治 32年 ) 2月 1日- 任 海軍少尉


    1900年 ( 明治 33年 ) 5月 15日- 戦艦「三笠」本国回航委員

     ・9月 25日- 任 海軍中尉


    1901年 ( 明治 34年 ) 5月 11日- 戦艦「三笠」乗組


    1902年 ( 明治 35年 ) 3月 13日- 戦艦「三笠」イギリス出発

     ・5月 18日- 帰朝

     ・5月19日- 練習艦「扶桑 ( 甲鉄艦 )」水雷長心得兼分隊長心得


    1903年 ( 明治 36年 ) 9月 26日- 任 海軍大尉


    1904年 ( 明治 37年 ) 5月 8日- 砲艦「済遠」分隊長

     ・10月 6日- 練習艦「扶桑 ( 初代 )」航海長


    1905年 ( 明治 38年 ) 8月 5日- 2等巡洋艦「千歳 ( 初代 )」航海長

     ・11月 13日- 第四艦隊参謀
     ・12月 20日- 練習艦隊参謀


    1906年 ( 明治 39年 ) 1月 25日- 海軍大学校甲種第 5期学生


    1907年 ( 明治 40年 ) 12月 17日- 海軍大学校卒業 卒業時成績順位 16名中次席

     ・12月 18日- 舞鶴鎮守府参謀兼望楼監督官


    1908年 ( 明治 41年 ) 2月 20日- 海軍省副官心得兼海軍大臣秘書官

     ・7月 31日- 軍事参議官附

     ・9月 25日- 任 海軍少佐


    1910年 ( 明治 43年 ) 3月 1日- 巡洋戦艦「生駒」分隊長


    1911年 ( 明治 44年 ) 7月 15日- 海軍省副官兼大臣秘書官兼軍事参議官副官


    1912年 ( 大正元年 ) 12月 1日- 任 海軍中佐


    1913年 ( 大正 2年 ) 4月 21日- 免 軍事参議官副官

     ・9月 20日- 巡洋戦艦「比叡」副長兼横須賀海軍工廠艤装員


    1914年 ( 大正 3年 ) 8月 20日- 軍令部出仕

     ・8月 25日- 対独戦従事

     ・9月 26日- 在東洋イギリス艦隊司令長官旗艦 エンブレスオブジャパン 乗艦
     ・12月 13日- 退艦


    1915年 ( 大正 4年 ) 2月 1日- 海軍大学校教官

     ・2月 9日- 軍令部参謀


    1916年 ( 大正 5年 ) 2月 21日- 欧米出張

     ・12月 1日- 任 海軍大佐


    1917年 ( 大正 6年 ) 12月 1日- 戦艦「香取」艦長


    1918年 ( 大正 7年 ) 12月 1日- 海軍省軍務局第 1課長


    1921年 ( 大正 10年 ) 8月 17日- 海軍省軍令部出仕

     ・9月 27日- ワシントン軍縮会議全権随員

     ・12月 1日- 任 海軍少将


    1922年 ( 大正 11年 ) 2月 23日- 帰朝

     ・5月 25日- 横須賀鎮守府参謀長


    1923年 ( 大正 12年 ) 9月 5日- 海軍省人事局長


    1924年 ( 大正 13年 ) 12月 1日- 海軍省軍令部出仕


    1925年 ( 大正 14年 ) 4月 15日- 横須賀海軍工廠長

     ・12月 1日- 任 海軍中将


    1926年 ( 大正 15年 ) 12月 10日- 海軍省艦政本部長兼将官会議議員


    1928年 ( 昭和 3年 ) 12月 10日- 海軍次官


    1930年 ( 昭和 5年 ) 12月 1日- 佐世保鎮守府司令長官に親補される


    1931年 ( 昭和 6年 ) 12月 1日- 呉鎮守府司令長官に親補される


    1932年 ( 昭和 7年 ) 4月 1日- 海軍大将に親任される

     ・5月 14日- 勲一等瑞宝章受章
     ・2月 1日- 軍事参議官に親補される


    1933年 ( 昭和 8年 ) 3月 6日- 待命

     ・3月 11日- 予備役編入


    1939年 ( 昭和 14年 ) 10月 4日- 学習院長就任


    1946年 ( 昭和 21年 ) 10月 4日- 東宮御教育参与

     ・10月 15日- 学習院長辞職


    1948年 ( 昭和 23年 ) 10月 26日- 東宮御教育参与辞任


    1951年 ( 昭和 26年 ) 1月 24日- 新海軍再建委員会顧問


    1952年 ( 昭和 27年 ) 5月 10日- 戦争受刑者家族世話会理事

     ・9月 14日- 水交会初代会長


    1963年 ( 昭和 38年 ) 4月 27日- 水交会顧問


    1964年 ( 昭和 39年 ) 4月 1日- 仙台育英会会長

     ・7月 26日- 学習院名誉院長


    1966年 ( 昭和 41年 ) 11月 3日- 宮中杖を下賜される


    1967年 ( 昭和 42年 ) 10月 23日- 死去 享年 90


    家族親族
    長男・進一は埼玉大学教授。
    二女・泰子は日商会頭を務めた足立正の二男龍雄の妻。


    「系譜」については、『山梨勝之進ウィキペディア』を御覧下さいませ。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E9%80%B2


    主要著述物
    歴史と名将(毎日新聞社)ISBN 4-620-30340-2 C0020
    山梨会長挨拶発起趣意書(機関誌水交) 昭和27年・第1号
    防衛大学校第七期生卒業式における祝辞(機関誌水交) 昭和38年・第125号
    山本伯を偲ぶ(1~2)(機関誌水交) 昭和39年・第131~134号
    大正十年天皇陛下皇太子としての御渡欧に就いて回想(1~2)(機関誌水交) 昭和40年・第142~143号
    加藤元帥の片鱗(1~2)(機関誌水交) 昭和42年・第167~168号


    脚注

    1. 井上成美伝記刊行会『井上成美』pp資310-311
    2. 『昭和史の軍人たち』p301
    3. 伏見宮は「山梨はあれで軍服を着ているのか」と述べた程であった。
    4. 昭和天皇は「重臣、軍人の中で一番御信任なさったのは誰ですか」と問われた際に「山梨勝之進」と即答している。『平和の海と戦いの海と』p277
    5. 『回想の海軍ひとすじ物語』p150
    6. 『明治・大正・昭和政界秘史』p324
    7. 『沈黙の提督井上成美真実を語る』pp.9-11
    8. 池田清 『日本の海軍(下)』 朝日ソノラマ文庫(航空戦史シリーズ)、1987年、100頁。
    9. 雨倉孝之 『海軍士官入門』 光人社NF文庫、2007年、364-365頁。


    参考文献
    山梨勝之進先生遺芳録(山梨勝之進先生出版委員会編・水交会)
    高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社)ISBN 4-12-403391-5 C0320
    細川日記(細川護貞著、中央公論新社、中公文庫上下)ISBN 4-12-000818-5 C0020
    山本五十六(阿川弘之著・新潮社、新潮文庫上下)ISBN 4-10-300415-0 C0093
    米内光政(阿川弘之著・新潮社 同文庫)ISBN 4-10-300413-4 C0093
    井上成美(阿川弘之著・新潮社 同文庫)ISBN 4-10-300414-2 C0093
    井上成美 (井上成美伝記刊行会)
    平和の海と戦いの海(平川祐弘著、新潮社、講談社学術文庫)
    高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房)ISBN 4-622-03506-5 C3031
    日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
    海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
    海軍兵学校出身者名簿(小野崎誠 編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)
    回想の日本海軍 (水交会編・原書房)ISBN 4-562-01672-8
    海軍の逸材 堀悌吉(宮野澄・光人社NF文庫)
    回想の海軍ひとすじ物語 (福地誠夫・光人社)ISBN 4-7698-0274-9
    昭和史の軍人たち (秦郁彦・文藝春秋)
    日本の海軍(下)(池田清・朝日ソノラマ)ISBN 4-257-17084-0
    沈黙の提督井上成美真実を語る(新名丈夫・新人物文庫)ISBN 978-4-40403718-3
    海軍良識派の支柱山梨勝之進忘れられた提督の生涯>(工藤 美知尋・芙蓉書房出版)ISBN 978-4829505755


    関連項目大日本帝国海軍軍人一覧
    ワシントン会議 (1922年)
    ロンドン海軍軍縮会議
    学校法人学習院
    宮城県出身の人物一覧


    外部リンク山梨勝之進 銅像 ( http://www.burari2161.fc2.com/yamanashikatunosin.htm )
    (wikiより)


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    1745 藤沢浅二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    藤澤 浅二郎 ( 藤沢-、ふじさわ - あさじろう、天保暦 慶応 2年 4月 25日 / グレゴリオ暦 1866年 6月 8日 - 1917年 3月 3日[1]) は、日本の俳優、劇作家、ジャーナリストである。


    人物・来歴
    1866年 6月 8日 ( 旧暦 慶応 2年 4月 25日 )、京都府に生まれる。


    長じて、京都市河原町通三條大黒町 ( 現在の同市中京区大黒町 ) にあった平民新聞社で雑誌『活眼』の記者となり、1888年 ( 明治 21年 )、中江兆民を主筆に大阪で創刊された『東雲新聞』 ( 東雲新聞社 ) の記者となる。


    このころ、川上音二郎と知り合う。


    1891年 ( 明治 24年 )、川上音二郎が堺で旗揚げした書生芝居に参加、『板垣君遭難実記』、『日清戦争』等の戯曲を執筆、俳優としても舞台に立った。


    「川上音二郎一座」の副将となった。


    高田実らとも共演した。


    当時の当たり役は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の「貫一」、菊池幽芳の『己が罪』の「塚口」等であった。


    1908年 ( 明治 41年 ) 11月 11日、自費で、東京・牛込に東京俳優養成所を開設した。


    1910年 ( 明治 43年 )、東京俳優学校と改称、1911年 ( 明治 44年 ) には閉校となった。


    諸口十九、田中栄三、勝見庸太郎、新井淳らを輩出した。


    このころから、吉沢商店目黒撮影所の映画に出演を始める。


    同撮影所は、吉沢商店が合併して日活となった翌年の 1913年 ( 大正 2年 ) には日活向島撮影所となり、閉鎖された。


    日活向島の映画にも引き続き出演した。


    1917年 ( 大正 6年 ) 3月 3日、東京府東京市浅草区今戸町 ( 現在の東京都台東区今戸 ) で死去した。満 50歳没。青山霊園に眠る。


    おもなフィルモグラフィ
    ・吉沢商店

    1910年
    『ハイカラ』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
    『保険ぎらい』 : 監督・脚本不明、原作益田太郎冠者、共演木下吉之助
    『競艶録』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・五味国太郎
    『玉手箱』 : 監督・脚本不明、原作益田太郎冠者、共演木下吉之助・五味国太郎
    『心の闇』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・五味国太郎
    『新野崎村』 : 監督・脚本不明、共演福島清
    『貸間』 : 監督・脚本不明
    『犠牲』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・関根達発
    『良心』 : 監督・脚本不明、共演木村操・関根達発


    1911年
    『影弁慶』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
    『松の緑』 : 監督・脚本不明、原作吉沢商店考案部、共演福島清
    『見合ひ』 : 監督・脚本不明、原作松井松翁
    『梅の月影』 : 監督・脚本不明
    『天風組』 : 監督・脚本不明、原作田口掬汀、共演本郷座合同一座・村田正雄・佐藤歳三
    『約束ちがひ』 : 監督・脚本不明
    『はこべ売』 : 監督・脚本不明
    『金貸と武士』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
    『隣の女』 : 監督・脚本不明、原作紅葉山人
    『薬ちがい』 : 監督・脚本不明、原作吉沢商店考案部
    『走馬燈』 : 監督・脚本不明
    『河内屋』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・関根達発
    『坂本竜馬』 : 監督・脚本不明
    『しめだし』 : 監督・脚本不明
    『炎』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
    『女文士』 : 監督・脚本不明
    『闇と光』 : 監督・脚本不明

    ・日活向島撮影所

    1913年
    『八重欅』 : 監督・脚本不明、共演村田正雄
    『天風組』 : 監督・脚本不明、共演村田正雄・関根達発・福島清 - 1911年吉沢作品の再映


    1915年
    『鳩の家』 : 監督・脚本不明、共演坊藤三郎・五月操・大村正雄
    『狂美人 (サロメ劇)』 : 監督細山喜代松、共演関根達発・立花貞二郎・五月操・大村正雄・横山運平・水島亮太郎・土方勝三郎

    参考文献[編集]
    『名家真相録16・藤沢浅二郎』 - 『演芸画報』明治41年4月号、1908年


    関連事項
    新派


    1. a b c d e f g h i j k l 藤沢浅二郎、『朝日日本歴史人物事典』、執筆藤木宏幸、朝日新聞出版、コトバンク、2009年12月25日閲覧。
    2. 東雲新聞、デジタル大辞泉、小学館、コトバンク、2009年12月25日閲覧。


    外部リンク
    Asajiro Fujisawa - インターネット・ムービー・データベース(英語)( http://www.imdb.com/name/nm3360294/ )
    藤沢浅二郎 - 日本映画データベース ( http://www.jmdb.ne.jp/person/p0309720.htm )
    藤沢浅二郎 - allcinema ONLINE ( http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=261865 )

    (wikiより)


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11119540343.html
    792 中江兆民先生誕生地(高知市はりまや町3-18)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10564588307.html
    218 近代スタジオ発祥の地(堤通2-19・堤小学校)


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    1746 若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説(荒川区南千住6-35・若宮八幡神社)

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    若宮八幡は、別名・杉苗八幡ともいう。


    若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。


    また、平安時代、奥州攻めに向かう源義家が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたところと伝える。


    また、足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。


    夫人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描い絵馬を奉納するという。


    近隣の祟敬を受け、平成十四年に社殿を新造営が行われた。
    (案内板より)


    ● 源義家
    源 義家 ( みなもと - の - よしいえ ) は、平安時代後期の武将。


    河内源氏の源頼信の孫。


    八幡太郎 ( はちまん - たろう ) の通称でも知られる。


    後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康の祖先に当たることから後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。


    比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。


    その後約 10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許されたが、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳 2年 10月 23日条に「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。


    昇殿をゆるさるるに、世人、甘心せざるの気あるか」と書く。


    その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。


    このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。


    生涯
    出生と没年
    生没とも諸説あってはっきりしないが、68歳で死去とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』 1106年 ( 嘉承 1 ) 7月 15日条から逆算し、1039年 ( 長暦 3 ) の生まれとする説が有力である。


    源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井 ( 現大阪府羽曳野市壺井 ) の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。幼名は不動丸、または源太丸。


    七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。


    前九年の役から下野守まで
    鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年 ( 天喜 5 ) 11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。


    その後出羽国の清原氏の応援を得て父・頼義はやっと安倍氏を平定する。


    しかし、『奥州後三年記』 (『続群書類従』収録 ) には清原家衡の乳母の千任に、「なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍 ( 鎮守府将軍・清原武則 ) をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり。」といわれて激怒したことが載っているが、「名簿」 ( みょうぶ ) を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。


    1063年 ( 康平 6 ) 2月 25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。


    しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌年朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。


    ただしそれが承認されたかどうかは不明である。


    この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。


    1070年 ( 延久 2 ) 義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶桑略記』 8月 1日条に見える。


    当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。


    この件に関して野口実氏は義家陰謀説も出されている。


    白河帝の爪牙
    1079年 ( 承暦 3 ) 8月に美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗 ( 清和源氏満正流 4代 ) を官命により追討。


    1081年 ( 永保 1 ) 9月 14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補 (『扶桑略記』)。


    その年の 10月 14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧 ( 僧兵 ) の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官 ( 官職 ) が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。


    さらに帰りが夜となったので義家は束帯 ( 朝廷での正式な装束 ) から非常時に戦いやすい布衣 ( ほい:常服 ) に着替え、弓箭 ( きゅうせん ) を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦 ( ほうれん ) に扈従 ( こしゅう ) す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。


    同年 12月 4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した 100名の兵を率いて白河天皇を警護する。


    この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。のちの「北面の武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。


    後三年の役
    1083年 ( 永保 3 ) に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。


    ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。


    朝廷では 1087年 ( 寛治 1 ) 7月 9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定した事実も有る事から、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。


    後三年の役において動員した兵は、石井進の国衙軍制の概念にそって分類すれば、国守軍の「館の者共」、つまり受領国守の私的郎党として動員した近畿から美濃国、そして相模国の武者 ( 大半は側近、または京でのコネクションを思わせる辺境軍事貴族 ) と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。


    「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国の吉彦秀武の軍からなると思われる。


    最終局面での主要な作戦が吉彦秀武から出ていること、及び前九年の役の例を勘案すれば、最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。


    1087 ( 寛治 1 ) 11月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破り、12月、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年 1088年 ( 寛治 2 ) 正月には陸奥守を罷免される。


    何よりも陸奥国の兵 ( つわもの ) を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの ( 兵 ) をととの」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る(『中右記』1096年(永長1)12月15日条、1097年(永長2) 2月25日条)。当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。


    弟義綱
    1091年 ( 寛治 5 ) 6月 義家の郎党・藤原実清と源義綱の郎党藤原則清が、河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兵を構える事件がおき、京を震撼させた。


    弟・義綱はその年 1091年 ( 寛治 5 ) の正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた他、翌 1092年 ( 寛治 6 ) 2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、1093年 ( 寛治 7 ) 12月には、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記に見えるが、義家の方は 1104年まで、そうした活動は記録にない。


    1093年 ( 寛治 7 ) 10月の除目で、義綱は陸奥守に就任。


    翌年の 1094年 ( 寛治 8 ) には出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙 ( もろたえ ) を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄・義家と並び、翌年の 1095年 ( 嘉保 2 ) 正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任する。


    その美濃における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶが、関白・藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に命じてそれを実力で撃退する。


    このときも比叡山延暦寺・日吉社側の神人・大衆に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。


    比叡山は天台密教の総本山であり、呪詛の最大の権威であって、朝廷にとっては最大の精神的脅威であったと思われる。


    それに追い打ちをかけたのが、その 4年後の 1099年 ( 承徳 3 ) 6月に、当事者の関白藤原師通が 38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。


    この件の影響か、このあと義綱が受領に任じられることはなかった。


    院昇殿から没まで
    後三年の役から 10年後の 1098年 ( 承徳 2 ) に「今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依済舊國公事、除目以前被忩 ( そう ) 行也 ( 件事依有院御気色也 )、左大史廣親候奏」 (『中右記』正月 23日条 ) と白河法皇の意向もあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。


    しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳 2年 10月 23日条の裏書きに「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と書く。


    1101年 ( 康和 3 ) 7月 7日、次男対馬守源義親が、鎮西に於い大宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す (『殿暦』)。


    しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通 ( 山内首藤氏の祖 ) は 1102年 ( 康和 4 ) 2月 20日、義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまう。


    12月 28日ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定する。


    その後『中右記』によると、1104年 ( 長治 1 ) 10月 30日、義家・義綱はそろって延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。


    1106年 ( 嘉承 1 ) には別の子の源義国 ( 足利氏の祖 ) が、叔父の新羅三郎源義光等と常陸国において合戦し、6月 10日、常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。


    義国と争っていた源義光、平重幹等にも捕縛命令が出る。 


    そうした中で義家は、1106年 ( 嘉承 1 ) 7月 15日に 68歳で没する。


    その翌日、藤原宗忠はその日記『中右記』に、「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と追悼する。 


    その翌年の 1107年 ( 嘉承 2 ) 12月 19日、隠岐に配流されていた源義親が、出雲国目代を殺害、その周辺諸国に義親に同心する動きも現れたため、白河法皇は隣国因幡国の国守であり院近臣でもあった平正盛に義親の追討を命じる


    翌年の 1108年 ( 天仁 1 ) 1月 29日に平正盛は源義親の首級を持って京に凱旋、大々的な凱旋パレードが行われ、平正盛が白河院の爪牙として脚光を浴びる。このパレードに対して、藤原宗忠は『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記す。


    「白河法皇の陰謀」説とその後の研究
    戦後初期の義家観
    戦後初期の歴史学者の中での通説となったものは、石母田正の『中世的世界の形成』をベースに、古代支配階級である貴族や宗教勢力に対して、新たに発生した在地領主層 ( 封建的農奴主階級 ) が武装したものが「武士」であり、その新興勢力 ( 武士階級 ) が、古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、鎌倉幕府という武士階級を中心とした中世世界をもたらしたという歴史観であった。


    当時の学説では「武士」はその在地領主をベースとしたものであり、平将門や藤原秀郷などは学会用語としては「武士」ではなく、その前段階の「兵」 ( つわもの ) といわれていた。


    両者の違いを、竹内理三は 1965年にこのようにも説明している。


    「兵と武士の相違を今一度述べれば、兵は所従 ( 従者 ) を持つが、兵の上に兵は居ない。つまり重層的な階級制が無い。彼らはそれぞれ一個の独立した力量で従者を従えたもので、支配の組織をもっていない。ところが武士となると、その下に郎党があり、さらにその下に郎党があると言う具合に支配関係は重層的であった。(『日本の歴史』第 6巻「武士の登場」( 中央公論社 )」


    そうした「重層的な階級制」は、ちょうど義家の頃に見られるようになり、その背景には、地方経済社会での大きな変動、在地での有力者は田堵・負名 ( 公田請作経営者 ) から在地領主 ( 所領経営者 ) へと変化があったと考えられている。 そうした歴史の大きな流れの中で、新興勢力・武士階級と古代支配階級の最初の衝突 ( 抑圧 ) を源義家の中に見ようとする傾向が大勢を占めていた。


    1966年の安田元久『源義家』( 吉川弘文館 ) もそのような視点から書かれている。


    その最初の衝突 ( 抑圧 ) の具体例としてあげられたのが、後三年の役の勝利にも関わらず恩賞が与えられず、冷遇されたこと、そして義家に対する荘園寄進が禁じられたことなどである。


    更に、義家の死後の河内源氏の内紛の中で孫の源為義が意図的に取り立てられ、いっそう河内源氏の結束が乱された。


    更にその為義も冷遇されて一生受領にはなれなかった、などとされた。


    白河法皇や摂関家など、当時の支配者が義家を危険視したという竹内理三、安田元久の論は、当時の国土のほとんどが荘園となっていたという認識を前提としている。


    そうした状況のなかで、義家はその荘園の最上位の所有者層に割り込み、白河法皇や摂関家など、王家・上級貴族の経済基盤を脅かしたというものである。


    例えば竹内理三は 1965年『武士の登場』の中で、「諸国の百姓から田畑の寄進をうけて貴族と同じ荘園領家化することは、上皇をふくめての貴族層にとってはたえがたいことであった」と説明されている。


    その後の荘園史の進展
    しかしこの論は、1970年代以降の荘園史研究の進展から、3つの点で見直しが必要とされている。


    そのひとつは、網野善彦の 1969年「若狭国における荘園制の形成」や石井進の 1970年「院政時代」、1978年の「相武の武士団」 (『鎌倉武士の実像』に収録 ) における「太田文」の詳細な研究から、荘園がもっとも盛んに立荘された時期は、12世紀中葉以降の鳥羽・後白河院政期であり、更にその大規模荘園の乱立が完了した 13世紀においてさえも、荘園領と国衙領は地方により相違はあるものの、平均すれば 6対 4とほぼ半々であることが明らかになった。


    石井進は 1986年 4月の「中世の村を歩く-寺院と荘園」 (『中世の村を歩く』収録 ) において「摂関時代の成立とともに全国土が荘園となったという従来の説には、とても従えないのである。」と書かれている。


    ふたつめは、「貴族と同じ荘園領家化」 ( 石井進 )、「上級貴族達と同じように荘園領主」( 安田元久 ) と、荘園支配の階層の最上位に義家がなっていったとみなしていることである。


    荘園支配の階層には荘園領主である「本所や領家」、その代官である「預所」、現地での実質支配者で、多くの場合寄進者である「庄司 ( 下司 )」の 3段階があるが、その最上位が権門といわれる「上皇をふくめての貴族層」や、大寺院・神社が位置する。


    1960年代には、義家がその最上位に、権門を押しのけて、あるいは新たな権門として割り込もうとしたかのとうに捉えられていたが、これはたかだか四位の諸大夫・受領層である義家には考えにくい。


    福田豊彦は、1974年の「王朝国家をめぐって」 (『東国の兵乱ともののふたち』に収録 ) と言う論文で、「荘園寄進の対象 ( 本家領家 ) ではなくて、寄進に当たっての媒介の役割を果たした貴族層 ( 預所など ) との接点で考える必要がありそうに思います。」と述べている。


    また田中文英は 1997年に書いた論文「河内源氏とその時代」 (『院政とその時代』に収録 ) において、義家が立荘して摂関家に寄進し、自らは預所となってそれを子の左衛門尉義時が受け継いだものかと推測する石川荘が、かなり広い地域の中に散在する数町から小さいものでは数段、つまり数十石から数石ぐらいの田畑の寄せ集めの様相を示していることを紹介している。


    1091年 ( 寛治 5 ) 6月の義家の郎党と義綱の郎党の河内国の所領の領有権争いは、こうした小さな単位の田畠をめぐって争われたものと思われる。


    この傾向は近畿一帯に共通する性格であり、12世紀中頃以降の東国などに見られる大規模寄進系荘園と同一視することは出来ない。


    『後二条師通記』と『百錬抄』
    次に、「義家に対して随兵の入京禁止令」「義家への土地の寄進禁止」であるが、これは、1091 ( 寛治 5 ) 6月 義家の郎党・藤原実清と義綱の郎党・藤原則清、河内国の所領の領有権を争いから、源義家・源義綱が兵を構える事態となり、京が騒然としたことに関する当時内大臣・藤原師通の日記『後二条師通記』と、鎌倉時代後期に、それまでの諸日記を編纂した『百錬抄』( ひゃくれんしょう ) に見える記事である。


    両史料は片方は一次史料であり、もう片方は約 2世紀も後での 2次史料である。


    「義家に対して随兵の入京禁止令」といわれるものは『百錬抄』の「前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること…を停止」であるが、同じ事実を『後二条師通記』には「諸国国司隋兵留めらるべきの官符」とある。


    「諸国国司隋兵留めらるべき」は「義家に対して随兵の入京禁止」とは全く異なる。


    もうひとつの「義家への土地の寄進禁止」は『百錬抄』には同じ寛治 5年 6月 12日のこととあるが、『後二条師通記』にはその記述は無い。


    かわりに翌年の寛治 6年 5月 12日条に義家が構立した荘園が停止されたことが記されている。


    この件は、安田元久も『百錬抄』には疑いを拭いきれないようで、1974年の『日本の歴史 ( 7) ) 院政と平家』の中で「もし『百錬抄』にいう措置がとられたのであれば、それは左大臣俊房以下の公卿たちが、関白師実とともにとった処置であって、上皇の意志からでたものではなかったことになる。」と微妙な書きかたをしている。


    関白藤原師実は『後二条師通記』の藤原師通の父であり、藤原師通はその公卿議定に内大臣として出席しており、当時の公卿の日記の書き方から『後二条師通記』寛治 5年 6月 12日条はその翌朝に書かれたものと推察できほぼリアルタイムとみなしてよい。


    もし『百錬抄』にいう措置がとられたのであれば、左大臣が白河法皇に上奏し、院の意向が公卿議定に伝えられた後に関白が介入したことになるが、当時の官奏の手順から不自然感を免れない。


    もしあったとすればその関白の息子である藤原師通がその変則介入を日記に書かないなどということがあるだろうか。安田元久の疑いはその点にも及んでいると思われる。


    この件に関して、元木泰雄は 1994年の『武士の成立』で、約 1年を隔てた 2件の事柄をまとめて編集してしまった可能性があると指摘している。


    なお、以下は元木の指摘ではないが、『百錬抄』の編者の認識の誤りはこれだけではない。もう一件は一次史料である複数の公卿の日記と相違している。


    後三年の役の恩賞
    なお、後三年の役の勝利にも関わらず恩賞が与えられなかった点に関しては、本来朝廷の命令 ( 官符 ) 無しに合戦を起こすことは当時でも違法行為であり、合戦の途中においても「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりしている。


    従って追討の事後承認を求めたのに対して、これを拒否したのは不思議ではない。


    更に当時は「財貨」であるより以前に、朝廷の諸行事の装飾の貴重にして重要な材料であり、ほとんど陸奥からしか手に入らなかった砂金の「不貢金」を起こしている。


    これは租税未収以上の、朝廷の諸行事に支障をきたす大問題であり、そのために朝廷の公卿議定で議題にあがっている。


    受領の勤務評定である受領功過定を 10年も通らなかったのは当時の制度にそった処置であり、義家だけがそうであった訳ではない。


    白河院が院近臣であった国守を、受領功過定を経ずに同じ国でそのまま重任 ( 他国に転ずるより利益は大きい ) させようとしたのを藤原師通が猛反対して諦めさせたことまである。


    その官物未進の決着に 10年がかかるが、それがやっと完済できたのかどうかは記録が無いが、その合格は内大臣藤原宗忠の日記である中右記・承徳 2年正月 23日条には「件事依有院御気色也」、つまり白河法皇の意向であったことが記されている。


    伝承の世界
    前九年の役のとき、1057年 ( 天喜 5 ) 11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎となって逃れたが、その戦いの中で「将軍の長男義家、驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。
    白刀を冒し、重圍を突き、賊の左右 に出でて、大鏃の箭を以て、頻りに賊の師を射る。矢空しく発たず。中たる所必ず斃れぬ。雷の如く奔り、風の如く飛び、神武命世なり」。と『陸奥話記』にある。


    同じ『陸奥話記』には、その後、清原武則が「君が弓勢を試さんと欲す。いかに」と問うと、義家は「善し」と。そこで武則は「堅き甲 ( かぶと:と読むが鎧のことか ) 三領を重ねて、これを樹の枝に懸る。義家は一発にて甲三領を貫かせしむ。」武則は大いに驚いて「これ神明の変化なり。あに凡人の堪える所ならんや。宜しく武士の為に帰伏する所、かくの如し」。と語ったという逸話がも残る。


    義家が 2歳のときに用いた「源太が産衣」という鎧と、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったことから「髭切」と名付けられた刀は、河内源氏嫡子に伝えられる宝となり、後の平治の乱では源頼朝が用いたという逸話が鎌倉時代初期の『平治物語』にある。


    これは源頼朝が源氏の嫡流であると印象づけるための創作といわれている。


    鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』には前九年の役の後、捕虜となったのち、家来とした ( 事実ではないが ) 安部宗任との話がいくつかあり、射芸に秀で、意味もなく動物を殺そうとしない優しさ、更に射た矢を取ってきたかつての敵・安部宗任に背中を向け、背負った矢入れに入れさせた剛胆さ、更には神通力まで備えた超人的な武士として描かれている。


    しかしその一方では以下のような伝承も残されている。


    京の義家の屋敷の近所の者が、ある夜に義家が鬼に引きずられて門を出て行く夢を見た。


    そこで義家の屋敷を覗うと、屋敷の中では義家が死んだと大騒ぎになっていた。あれは義家が地獄に引きずられていくところだったに違いない。


    父頼義も殺生の罪人で、本来なら地獄に堕ちるべき人間である。


    前九年の役で切り落とした首は 1万八千、その片耳を取り集めて、乾して皮古二合に入て上洛した。


    しかし、後年仏門に入って、その耳を堂 ( 京・六条坊門北の耳納堂 ) の土壇の下に埋めて弔い、自分の殺生を悔いたために最後は成仏できた。しかし義家は罪も無い人を沢山殺して、それを悔いるところも無かったので無限地獄へ堕ちた。(『古事談』)


    今様狂いの後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」はそのような言い伝えを反映しているものと思われる。それらの伝承は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのものであるが、同時代の藤原宗忠がその日記『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記したことも合わせ考えると、それらの説話も、個々には事実ではあり得ないが、しかし当時の京の人間の義家観として、義家の実像の一面を伝えているようにもとれる。


    後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、義家は河内国石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。


    ただし平安時代末期の『奥州後三年記』にはその記述はない。


    後世では、東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなったというのは、主に南北朝時代の末に、義家の子孫である足利幕府の正統性をうたう為に書かれた『源威集』にある「諸家輩、源家将軍ヲ代々仁王ト奉仰ハ此故也」からの派生。


    足利氏に伝わる伝承としては、「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」という八幡殿 ( 義家 ) の置き文が足利家に伝わったとされる。


    義家から七代目にあたる足利家時は、自分の代では達成できないため、三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したと『難太平記』にある。


    足利尊氏が北条氏打倒に立ち上がったのは、家時から三代後の子孫としてそれを見せられたからであり、『難太平記』の著者今川了俊も、自分もそれを見たと記している。しかし、義家の時代に「天下を取る」というような概念は無い。


    義家の名声を恐れた白河法皇や、摂関家の陰謀によって、河内源氏は凋落していったとされるのは主に戦後である。


    現在研究者の間では本稿で紹介したような見直しが行われているが、ネット上ではその陰謀説はいまだに非常に根強い。


    尚、「天下第一武勇の士」と評したのは白河法皇と書いてあるサイトがネット上に散見されるが、前述の通り藤原宗忠の日記『中右記』承徳 2年 10月 23日条である。


    和歌
    『八幡太郎』 1912年の『尋常小学唱歌』に発出。

    駒のひづめも匂ふまで、
    「道もせに散る山櫻かな。」
    しばしながめて、
    「吹く風を 勿來の關と思へども」
    かひなき名やとほほ笑みて、
    ゆるく打たせしやさしさよ。

    落ちゆく敵をよびとめて、
    「衣のたては綻びにけり。」
    敵は見かへり、
    「年を經し 絲のみだれの苦しさに」
    つけたることのめでたきに、
    めでてゆるししやさしさよ。


    「敵」とは安倍貞任で、衣川関を捨てて敗走する安倍貞任を追う源義家が、矢を番えながら下の句を歌いかけると、貞任は即座にその上の句を返したので、義家は感じいって「武士の情け」と、矢を放つのを止めたという話。中世の説話集『古今著聞集』にある。ただし江戸時代に水戸光圀が編纂させた『大日本史』の段階から「疑ふらくは、和歌者流好事家の所為に出でしなり。故に今、取らず。」とされている。


    系譜
    清和天皇-貞純親王-経基王-多田満仲-源頼信-源頼義-八幡太郎源義家
    清和天皇-陽成天皇-元平親王-経基王-多田満仲-源頼信-源頼義-八幡太郎源義家


    兄弟
    賀茂次郎義綱 京都の賀茂神社で元服。
    新羅三郎義光 近江の新羅明神で元服。
    三島四郎親清 伊予の大山祇神社で元服。



    義宗 早世。
    義親 対馬守となるが、現地で反乱を起こし、平正盛に討伐される。義親の嫡子に六条判官為義がいる。子孫は対馬氏など。
    義国 都で問題を起こし、坂東へ追放。兄義親の死後、源氏の棟梁後継であったがその地位を失う。子孫は新田氏・足利氏など。
    義忠 家督を継がせるが暗殺される。子孫は存続する。義家の遺命で為義を養子とする。子孫は河内氏、稲沢氏、飯富氏、源氏など。
    義時 河内源氏の本拠地の河内国石川の地を継がせる。子孫は石川源氏、石川氏、紺戸氏など。
    義隆 相模国森庄 ( 毛利庄 ) を与える。官途は不明だが位は六位という。子孫は源姓毛利氏・若槻氏・森氏など。
    為義 祖父義家の養子となっていたが、幼少のため、義忠が義家の後継になった。義忠が父の遺志を汲んで為義を養子となし、次代の源氏の棟梁とした。


    子孫
    鎌倉幕府を開いた源頼朝は、義家のひ孫にあたる源義朝の子。
    室町幕府を開いた足利尊氏 ( 源尊氏 ) は、義家の三男の源義国の次男の足利義康 ( 源義康 ) の子孫。
    南朝方の新田義貞 ( 源義貞 ) は、同じく源義国の長男の新田義重(源義重)の子孫。徳川家康は新田氏の分家である得川氏の後裔と称した。
    河内源氏氏神の壷井八幡宮の宮司の高木氏は、義家の五男の源義時の子孫という。

    墓所
    河内源氏の本拠地だった大阪府羽曳野市壷井に楼門だけが残る源氏の氏寺の通法寺跡近くに、祖父の頼信、父の頼義と供にある。
    (wikiより)


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    1747 常陸丸事件碑(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    常陸丸殉難・近衛後備隊将士之墓


    明治三十七年 ( 1904 ) 日露戦争が勃発 ( ぼっぱつ ) し、同年六月十四日、後備近衛歩兵第一連隊長・須知 ( すち ) 中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸 ( ひたちまる ) に乗船して宇品を出発し、勇躍征途に就いた。


    翌十五日午前十時ごろ、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。


    もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術 ( すべ ) なく、忽 ( たちま ) ちにして船上は修羅 ( しゅら ) の巷 ( ちまた ) と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃 ( たお ) れた。


    野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉 ( ひし ) ぐべき益荒雄 ( ますらお ) も、海上では如何 ( いかん ) とも為し難く、今はこれまでと覚悟した連隊長は、皇城を遥拝 ( ようはい ) し、軍旗奉焼した後従容 ( しょうよう ) として自決し、大隊長・山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。


    武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙 ( かいしゃ ) し、人々はその悲劇の最後を悼んだ。


    明治三十七年十月三十日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊六百三十五柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。


    昭和六十一年六月十五日
      殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
                  常陸丸遺族会
                  全国近歩一会
    (案内板より)


    ● 常陸丸事件

    常陸丸事件 ( ひたちまるじけん ) とは、日露戦争中の 1904年 ( 明治 37年 ) 6月 15日に玄界灘を西航中の、陸軍徴傭運送船 3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊 ( ウラジオ艦隊 ) 所属の 3隻の装甲巡洋艦、「ロシア ( 英語版 )」、「リューリク」および「グロモボーイ」によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより撃沈破された事件である。


    特に、陸軍徴傭運送船「常陸丸」 ( 日本郵船、6,172トン ) の喪失は日本の国内世論を憤激させ、連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対して非難の声が向けられることとなり、第二艦隊は事件から二か月後の 8月 14日に起こった蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を事実上壊滅させるまでの間、強い批判にさらされた。


    本項では、事件当日の 6月 15日とそれにかかわる事項に極力絞って記述する。


    ウラジオストク巡洋艦隊のその他の行動については当該項目を参照されたい。


    背景

    ロシア帝国海軍の基本戦略の方針は、19世紀半ばに海軍統監に就任して近代化に辣腕をふるったロシア大公コンスタンチン・ニコラエヴィチによって、フランス海軍に範をとった沿岸防御を主とする艦隊の整備と通商破壊向けの艦艇の整備が進められた[1]。


    事件の一方の主役、日本側から見れば敵役の「リューリク」、「ロシア」および「グロモボーイ」といった装甲巡洋艦は、帆走用の装備を備えて砲塔配置も中心線上ではなく片舷に配されており、艦隊決戦ではなく通商破壊を念頭に置いた艦艇でもあった[2]。


    ところが、ロシア帝国海軍においてもアメリカ海軍の軍人アルフレッド・セイヤー・マハンの『海上権力史論』に感化された世代が徐々に増えつつあり、コンスタンチン以来の思想とマハン流の思想は決して相容れなかった[2]。


    コンスタンチン派にとって掩護射撃となったのはステパン・マカロフ少将が著した『海軍戦術論』で、敵を正面突破ではなく急所を突き続けることによって敵を弱体化させる、というマカロフの主張は、コンスタンチン派が信奉する伝統戦法に十分合致しうるものであった[2]。


    日清戦争後の三国干渉を経て遼東半島南端の旅順と大連を租借したロシアは艦隊を配備し、次いで太平洋戦隊長オスカル・スタルク少将の命でウラジオストクに巡洋艦 4隻を配して使命を「敵交通路の遮断」、「敵国沿岸への脅威」、「敵戦力の分散」と位置付けた[3]。


    1903年 6月 7日、ウラジオ艦隊は旅順にて公式に編成された[4]。


    1904年 2月 8日に旅順口攻撃によって日露戦争が始まるとウラジオ艦隊はただちに蠢動を開始し、旅順口攻撃翌日の 2月 9日から 4月 26日までの間に、津軽海峡西口方面と元山方面で三度の通商破壊行動に撃って出て輸送船「金州丸」 ( 日本郵船、3,967トン )[5]など各種船舶を撃沈破あるいは拿捕した。


    対する日本海軍は当初、第三艦隊 ( 片岡七郎中将 ) を対馬海峡警備にあたらせていたが、ウラジオ艦隊の猛威に驚いて第二艦隊を追加配備した[6]。


    しかし、第二艦隊の追加配備後、ウラジオ艦隊の行動は抑制された。


    戦闘経過

    6月 12日、ウラジオ艦隊のうち「リューリク」、「ロシア」および「グロモボーイ」はピョートル・ベゾブラーゾフ中将に率いられてウラジオストクを出撃[7][8]。


    ウラジオ艦隊司令官カールル・イェッセン少将は損傷修理中の「ボガトィーリ ( 英語版 )」に将旗を掲げた。


    ところで、艦隊出撃は 6月 12日であるが、過去のウラジオ艦隊の行動は日本側にはトラウマとなっており、巡洋艦隊出撃前の 6月 9日には松前弁天島近海で「軍艦らしきものを見た」との報告が上がっていた[9]。


    問題の 6月 15日 8時ごろ、防護巡洋艦「対馬」から沖ノ島近海でウラジオ艦隊を発見したとの報を受けた第二艦隊は、水雷艇隊を急行させると同時に往来の船舶に竹敷などへの退避を指令した[10]。


    ウラジオ艦隊は日本側の動きに構わず対馬海峡に達し、まず輸送船「和泉丸」 ( 日本郵船、3,225トン、肥後猪之丞船長)[11][12]を発見する[13]。


    「和泉丸」は 6月 13日に遼東半島の塩大澳を出港して日本に向かっていたものである[14]。


    ウラジオ艦隊は「和泉丸」を停船させて乗船者に対し退去を勧告し、退去を確認後砲撃を加えて撃沈した[13]。


    「和泉丸」に関して日本側の情報は少なく、4名が死亡して退去した乗船者のほとんどはウラジオ艦隊に収容されたものとみていた[15]。


    戦争終結後の調査により、陸軍兵 2名、海軍兵 1名の便乗者 3名を含む 112名のうち、戦死者 7名、倉野伊兵衛海軍上等兵曹を含む 83名が捕虜として収容され、残る 22名が生還[注釈 1]したことが分かった[16][17]。


    「常陸丸」は「佐渡丸」( 日本郵船、6,219トン、ジョージ・アンダーソン船長 )[18][19]とともに 6月 14日に宇品を出港し、「常陸丸」は大孤山、「佐渡丸」は塩大澳が目的地であった[14]。


    両船の搭載部隊、船員その他便乗者は以下のとおりであった。


    「常陸丸」( 輸送指揮官:連隊長須知源次郎中佐、運送船監督官:山村彌四郎予備役海軍中佐 )[14][20][16]後備近衛歩兵第一連隊本部および第二大隊第八中隊:727名 ( うち将校 20名 )

    第一大隊の三中隊:不明
    第十師団糧食一縦列:359名 ( うち将校 4名 )

    海軍関係者:4名 ( うち将校 1名 )
    各種乗組員:148名
    総計:1,238名

    「佐渡丸」( 輸送指揮官:田村義一陸軍工兵大佐、運送船監督官:小椋元吉後備役海軍少佐 )[14][20]野戦鉄道提理部:867名 ( うち将校 18名 )
    第二臨時築城団:34名(うち将校9名)
    攻城砲兵司令部:14名(うち将校3名)
    戊碇泊場司令部:169名(うち将校4名)
    海軍関係者:4名(うち将校1名)
    便乗者:3名
    各種乗組員:167名
    総計:1,258名


    「常陸丸」がウラジオ艦隊に遭遇したのは午前 10時から 11時の間とみられ[21]、艦隊ははじめ空砲を発射し、間もなく実弾発射に切り替えられ、「常陸丸」は全速力で後方への遁走を図るも一発が「常陸丸」の機関部に命中したのをはじめに、近接射撃によりおよそ 100発もの射撃を受けて戦死者が続出して機関は破裂し、やがて第三甲板から出火した[22]。


    「常陸丸」船内は血の海そのものといった様相となり[23]、わずかに残った第一連隊将兵は直ちに小銃で反撃するが、圧倒的な攻撃力の差は如何ともし難く、イギリス人船長ジョン・キャンベル ( John Campbell )、機関長ジェームズ・ヒュー・グラス ( James Hugh Grass )、運転士サミュエル・ジョゼ・ビショップ ( Samuel Jose Bishop )[注釈 2]も相次いで敵弾に倒れた。


    須知は運命を悟り、軍旗奉焼と旗竿の破壊を命じ、軍旗を奉じていた藤崎乕一陸軍二等卒らに対して生き残って事の仔細を報告するよう命じたが、直後に砲弾が命中して負傷したのち切腹[24]。


    残る将校も切腹、拳銃自殺および海中への投身自殺で須知と沈む「常陸丸」に殉じた[25]。


    「常陸丸」は三度目の一斉射撃を受け、15時ごろに沈没した[26]。


    「常陸丸」の戦死者は陸軍 958名、海軍 3名、乗組員 130名の総計 1,091名に達した[20][16][17]。


    残る生存者のうち須知の遺命により脱出した藤崎を含む 37名は御用船「土佐丸」( 日本郵船、5,402トン )[27]に救助され六連島に上陸[25]。


    生存者の内訳は、後備近衛歩兵第一連隊本部の 96名、第十師団糧食一縦列 32名、海軍関係者 1名、各種乗組員 18名の計 147名であった[20][16]。


    「佐渡丸」は午前 6時 20分に関門海峡を通過し、「常陸丸」に近接して航行していた[28]。


    「常陸丸」と相前後して艦隊に遭遇し、反転して遁走を開始したが砲撃を受け、艦隊から軍使が派遣されて非戦闘員の「佐渡丸」からの退去を促した[29]。


    1時間 40分の猶予ののち、艦隊は「佐渡丸」に対して砲撃を開始し、続いて「ロシア」と推定された巡洋艦が「佐渡丸」の左右両舷に魚雷を命中させて退去した[30]。


    魚雷は機関部に命中して浸水が激しく、乗船部隊は天皇陛下万歳を三唱したのち最後の「儀式」の準備を整えていたが、艦隊が急速に去って行ったのを見て生き残るための方策に切り替えた[31]。


    そして、30時間もの漂流ののち沖ノ島にたどり着き、危機を脱した。


    「佐渡丸」の戦死者は陸軍 219名、乗組員 17名の総計 236名[20][17]、捕虜は陸軍 ( 宮沢泰次郎陸軍三等軍医 ) と海軍 ( 小椋 ) の将校各 1名、文官 14名、乗組員その他 13名の計 29名[17]、生存者は野戦鉄道提理部 694名 ( うち将校 12名 )、第二臨時築城団 22名 ( うち将校 5名 )、攻城砲兵司令部 13名 ( うち将校 3名 )、戊碇泊場司令部 135名 ( うち将校 4名 )、海軍関係者 3名、便乗者 2名、各種乗組員 124名の計 993名であった[20]。


    事件の影響
    「常陸丸」の遭難は多大な衝撃を与えた。


    悲壮な乗員の行動は大日本帝国軍人の立派な最期として万世に伝えるべき事蹟であるとされ、千鳥ヶ淵公園に「常陸丸殉難慰霊碑」が建てられ[32]、引き上げられた遺骨の合同墓が「常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓」として青山霊園に建てられた。


    このうち「常陸丸殉難慰霊碑」は芝公園にあった「佐渡丸遭難記念碑」とともに第二次世界大戦終結後に「国民の敵愾心を刺戟し且つ国際友好を害する虞れがある」という東京都の「忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会」の勧告で一度撤去されたが[33]、1965年 ( 昭和 40年 ) に靖国神社境内に移設の上再建された[32]。


    また、事件により死亡した 3名のイギリス人は外国人のために靖国神社には合祀されていないが、毎年 6月 15日に斎行される慰霊碑前での常陸丸殉難者慰霊祭では等しく慰霊されている。


    遺族には閣議決定により特に弔慰金が支給された[34]。


    その他、軍歌や琵琶歌の題材にもなった[32]。


    しかし第二艦隊がウラジオ艦隊を取り逃がしたことが伝えられると、激昂した民衆が留守の上村の自宅を襲撃した[6][35]。


    留守宅には石を投げつけられ、切腹勧告状の類や「腹を切れ」という意味合いで本物の短刀を投げ込む者も現れた[6][35]。


    代議士が開く演説会でも「濃霧濃霧と言えども、逆さに読めば無能なり」云々と煽り立てた[6][35]。


    第二艦隊は「ロシアの探偵」、すなわち「露探艦隊」と呼ばれることとなり、ついには「上野に鳥が出たからと言って、新橋から駆けつけても間に合うわけがない」といった意味の投書まで寄せられた[6][35]。


    もっとも、半藤一利は「通信網や命令系統[注釈 3]に問題があったのであって、第二艦隊が無能だったわけではない」と擁護している[6]。


    また、第二艦隊の担当海域が広すぎた[注釈 4]ことと濃霧も要因だったが[35]、いずれにせよ民衆がこういった事情を知ることはなかった。


    常陸丸事件以降、日本が通商破壊の面で痛手を蒙るのは第一次世界大戦でのドイツ帝国Uボートおよび仮装巡洋艦による攻撃と太平洋戦争であるが、後者での痛手や悲惨さが常陸丸事件の比ではないことは、改めて説明するまでもない。


    しかし、海軍に落ち度があれば民衆がこれを責める構図は、太平洋戦争の初期にはわずかに残されていた。


    事実、太平洋戦争開戦前から連合艦隊の作戦参謀を務めていた三和義勇大佐によると、1942年 4月 18日のドーリットル空襲の直後に連合艦隊司令長官・山本五十六大将のもとに対して、本土空襲を許した海軍の落ち度を責める投書が相次いだといい、山本自身も上村への攻撃のような事態が日本人の国民性から起こりうると予想して気にしていたという[36]。


    事件を描いた作品

    『日本海大海戦』 (1969年 東宝 監督:丸山誠治 特技監督:円谷英二) 敵艦への小銃での応戦、キャンベル船長の戦死、幹部の自決及び事件後の上村の苦悩を描いている。


    脚注

    注釈
    1. 本項での「生還」および「生存者」は、戦死者と捕虜を除いた、救助を経て日本に直接帰還できた人物の表現として使用。
    2. 英文綴りは[1]、[2]、[3]などに従い、現代日本語での一般的な読みを充てた。『明治天皇紀』には「船長ジョン・ガンベル、機関長ジェームス・エッチ・グラス、運転士エス・ジェー・ビシヨップ」とある。
    3. 命令系統上は大本営の方が連合艦隊より上であり、ウラジオ艦隊が房総半島沖に出現した際には、津軽海峡での待ち伏せを指示した連合艦隊の命令より、太平洋への進出を命じた大本営の命令が優先された結果、ウラジオ艦隊を取り逃がしている(#半藤 p.86)。
    4. 対馬海峡以東の日本海全域(#大原)


    出典

    1. #半藤 pp.84-85
    2. a b c #半藤 p.85
    3. #半藤 p.84,86
    4. “Приложение 3. Владивостокский отряд крейсеров”, Мельников, P. M. (1989)
    5. #郵船100年史 p.95
    6. a b c d e f #半藤 p.86
    7. #常陸丸 (2) p.18
    8. #真鍋 p.203
    9. #常陸丸 (1) p.1
    10. #常陸丸 (2) p.14,21
    11. #郵船100年史 p.86
    12. #常陸丸 (3) p.20
    13. a b #常陸丸 (2) p.17
    14. a b c d #運送船名表 p.2
    15. #常陸丸 (3) pp.3-4
    16. a b c d #生存者員数表 (2)
    17. a b c d #被捕者一覧表
    18. #郵船100年史 p.102
    19. #常陸丸 (3) p.34,36
    20. a b c d e f #生存者員数表 (1)
    21. #常陸丸 (1) pp.12-14, p.16
    22. #常陸丸 (1) p.14,18,60
    23. #半藤 p.84
    24. #常陸丸 (1) p.14,41
    25. a b #常陸丸 (1) p.14
    26. #常陸丸 (1) p.12,14
    27. #郵船100年史 p.89
    28. #常陸丸 (1) p.14,18,39,59
    29. #常陸丸 (1) p.18,39,60
    30. #常陸丸 (1) p.18,39,41
    31. #常陸丸 (1) p.41
    32. a b c #山高 p.104
    33. #谷村 p.157
    34. 宮内庁『明治天皇紀 第10巻』吉川弘文館、1974年。
    35. a b c d e #大原
    36. #秦 p.134


    参考文献
    アジア歴史資料センター(公式)(外務省外交史料館) Ref.B07090680200 『日露戦役ノ際浦塩艦隊玄海方面二来襲常陸丸、佐渡丸及和泉丸遭難一件』。
    Ref.B07090680300 『日露戦役ノ際浦塩艦隊玄海方面二来襲常陸丸、佐渡丸及和泉丸遭難一件』。
    Ref.B07090680400 『日露戦役ノ際浦塩艦隊玄海方面二来襲常陸丸、佐渡丸及和泉丸遭難一件』。

    アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所) Ref.C03025818700 『常陸丸遭難ノ際死別外国人遺族ハ特別賜金ハ現金ヲ以テ交付ノ件』。
    Ref.C05110074100 『露艦出現ノ際危険ヲ感セシ運送船名表』。
    Ref.C05110074200 『佐渡丸、常陸丸、和泉丸乗組人員及ヒ生存者員数表』。
    Ref.C05110074300 『佐渡丸、常陸丸、和泉丸乗組人員及ヒ生存者員数表』。
    Ref.C05110074400 『佐渡丸、和泉丸被捕者一覧表』。

    山高五郎 『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』 至誠堂、1981年。
    木津重俊(編) 『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』 海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6。
    半藤一利「日露戦争におけるロシアのウラジオ艦隊」、『世界の艦船』第446号、海人社、1985年、 84-87頁。
    真鍋重忠 『日露旅順海戦史』 吉川弘文館、1985年。ISBN 4-642-07251-9。
    野間恒・山田廸生 『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』 海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。
    大原徹「上村彦之丞 「露探」から「英雄」へ」、『別冊歴史読本特別増刊 日本陸海軍名将名参謀総覧』第295号、新人物往来社、1995年、 218頁。
    秦郁彦「シャングリラからの贈物」 『太平洋戦争航空史話』上、中公文庫、1995年。ISBN 4-12-202370-X。
    谷村政次郎 『行進曲『軍艦』百年の軌跡』 大村書店、2000年。ISBN 4756-3012-6。


    常陸丸」については、『常陸丸ウイキペディア』を御覧下さいませ。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E4%B8%B8


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