西郷頼母近悳夫妻の墓は生前から保科家歴代の墓所 この善龍寺に用意されていたが祖先の墓石の何れよりも小さくその人柄が偲ばれる
正面に 保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位 右側面には近悳の命日 明治三十六年四月二十八日が刻まれる
西郷頼母は よく時局の大勢を洞察し会津藩の将来を考え職を賭して藩主松平容保の京都守護職就任を強く諫止
戊辰の役では会津の幸福を願い非戦恭順を主張した憂国の士である
墓地周辺の荒廃を嘆く飯盛フミ氏の発願と同憂のご協賛により整備が完成し ここに改めてその偉業を顕彰する
平成元年四月二十八日
西郷頼母墓地環境整備委員会
(石碑碑文より)
● 西郷頼母
西郷 頼母 近悳 ( さいごう - たのも - ちかのり、文政 13年閏 3月 24日 ( 1830年 5月 16日 ) - 1903年 ( 明治 36年 ) 4月 28日 ) は、江戸時代後期、幕末期の会津藩の家老。家禄 1700石。
父は西郷近思 ( ちかし )、母は律子、兄弟多数。
妻は千重子。子は長女・細布子、次女・瀑布子、長男・吉十郎有鄰 ( ありちか )、三女・田鶴子、次男・五郎 ( 夭逝 )、四女・常盤子、五女・季子の二男五女。菊池氏族西郷氏。
家紋は鷹の羽、また保科家の九曜紋を許されていた。
明治維新後は保科 頼母 ( ほしな たのも ) と改名。号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。
講道館柔道草創期の講道館四天王の一人である西郷四郎は養子である。
経歴
西郷家は、室町時代に仁木氏の守護代を務めた三河の名家であったが、やがて勢力を拡大させる松平家に臣従した。
その後、徳川政権下で御三家や有力譜代の家臣として存続し続けた。
そして会津藩における西郷家とは その傍流の 1つとして目され、初代の西郷頼母助近房以来 200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄であり、本稿の頼母近悳 ( 以降、頼母と表記 ) で 9代目となっていた。
激動した幕末期の混乱によって、頼母の人生も前半・後半で激変している。
会津家老時代
1860年 ( 万延元年 )、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。
1862年 ( 文久 2年 )、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために、容保の怒りを買う。
その後も、藩の請け負った“京都守護の責務”に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。
ところが、賛同されずに帰国を強いられた。
しかも、家老職まで解任された上に、蟄居させられる。
この解任理由は、無断上京を咎められたからとも言うが定かではない。
その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。
1868年 ( 明治元年 )、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。
このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの“容保親子の斬首”要求に態度を一変した。
やむなく頼母も白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥 ( 白河口の戦い )。
その白河城の奪還を果たせず、会津防衛に方針転換してからは進入路に当たる峠の 1つを守っていたが、他方面の母成峠を突破されたために、新政府軍には城下へ侵入されてしまった。
そこで若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めた。
しかし会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。
意見の折り合わぬ頼母は、長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することとなった。[1]
この際の頼母自身は“軽き使者の任を仰せつかり…”、と述べており ( 栖雲記 )、越後口の萱野権兵衛の軍への連絡にかこつけた追放措置とされる。
道中には藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけるが、客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいう。
戊辰戦争以降
会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。
1872年 ( 明治 5年 ) に赦免されて伊豆で私塾を開く。
その後は神社で神職を務めたが、一時期政治運動にも参加した。
ただ、政府と袂を分かった西郷隆盛との関係から内通疑惑を抱かれた為、明治政府に職を追われた。
実際、隆盛と頼母の手紙のやりとりはあったが、慶応年間からの知り合いと伝承では成り立っている[2]。
1903年 ( 明治 36年 ) に会津若松の十軒長屋で 74歳で死去。
著作に『栖雲記』がある。
家族の受難は戊辰戦争の悲話として紹介され、頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価もされている。
明治維新後の略歴
1870年 ( 明治 3年 ) 西郷家は藩主である保科家 ( 会津松平家 ) の分家[3]でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となる。
1872年 ( 明治 5年 ) 依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となる。
1875年 ( 明治 8年 ) 現福島県東白川郡棚倉町にある都々古別 ( つつこわけ ) 神社の宮司となる。
1877年 ( 明治 10年 ) 西南戦争が勃発すると、西南戦争に荷担した疑いで宮司を解任される。
・保科頼母は西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われた。
1879年 ( 明治 12年 ) 長男吉十郎病没。 志田四郎を養子とする。
1880年 ( 明治 13年 ) 旧会津藩主であった松平容保が日光東照宮の宮司となり、保科頼母は禰宜となった。
1887年 ( 明治 20年 ) 日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。
・会津と東京を拠点として政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松 ( 現会津若松市 ) に戻った。
1889年 ( 明治 22年 ) 現福島県伊達市霊山町にある霊山神社の宮司となる。
・大東流合気柔術の伝承によると、西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門から御式内等の武芸と陰陽道を学び、1898年 ( 明治 31年 ) に霊山神社を訪ねた武田惣角 ( 武田惣右衛門の孫 ) に御式内を伝授したという。
1899年 ( 明治 32年 ) 霊山神社の宮司を辞し、郷里の若松に戻った。
1903年 ( 明治 36年 ) 死去。 墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。
西郷一族の辞世
母 律子 ( 58歳 )
「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」
妻 千重子 ( 34歳 )
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
妹 眉寿子 ( 26歳 )
「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」
妹 由布子 ( 23歳 )
「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」
長女 細布子 ( 16歳 ) 下の句
次女 瀑布子 ( 13歳 ) 上の句
「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
関連項目
幕末の人物一覧
西郷近房 会津藩西郷氏の家祖
参考文献
「幕末の会津藩家老 西郷頼母」堀田節夫
「『帰る雁が祢』私注」堀田節夫
「自叙伝『栖雲記』私注」堀田節夫
「会津史談」「御守護職以降憶測誌」倉澤平治右衛門著 伊藤哲也
訳・解説
「幕末・会津藩士銘々伝」「倉澤平治右衛門」伊藤哲也著
「幕末・会津藩士銘々伝」「西郷頼母」堀田節夫著
「栖雲記」西郷頼母著 宮崎十三八、堀田氏訳
「会津若松市史研究五号」「守護職以降ノ概略記」倉澤平治右衛門著 伊藤哲也訳・解説
「歴史読本・幕末京都志士日誌」「会津藩」伊藤哲也著
「戊辰落日」綱淵謙錠 文春文庫
補注
1. なお、母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自邸で自刃している。土佐藩士中島信行はこの自刃現場を目撃し、息があった長女を介錯している。
2. 偶然ではあるが、頼母と隆盛は同族の関係にある。詳細は西郷氏参照。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%B0%8F
3. 保科正之の養父であった正光の叔父の血統。その子・正近(正光の従弟)が外孫を養子に迎えたが、事情により生家の西郷姓を名乗っていた
(wikiより)
関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10722619102.html
393 中島信行墓(神奈川県中郡大磯町大磯・大運寺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10891068571.html
556 西郷邸跡(福島県会津若松市追手町5-3 )
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11457171987.html
1374 西郷頼母の関係者21人の墓(福島県会津若松市北青木13-33・善流寺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11457170087.html
1375 なよたけの碑(福島県会津若松市北青木13-33・善流寺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11435570814.html
1282 西郷四郎像(会津若松市東山町大字石山字院内1・会津武家屋敷)