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3662 生麦事件犠牲者の墓(横浜市中区山手町96番地・横浜外人墓地)

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● ウッドソープ・クラーク

ウッドソープ・チャールズ・クラーク(Woodthope Charls Clark, 1834年 - 1867年 )は、横浜イギリス 人会社員。生麦事件 に遭遇したイギリス人の一人。


アメリカ 商社のハード商会の社員で、1860年 に上海支局、1862年 に横浜支局へ派遣される。


1862年、上海で交友のあった同国出身の商人チャールス・リチャードソン と再会する。その後、ビリヤード 仲間であったウィリアム・マーシャル に誘われて、ボラディル夫人 を加えた4人で川崎大師 へ観光に向かう。その途中、生麦村島津久光 の行列と遭遇し、先頭を騎馬で歩いていたリチャードソンが薩摩藩 士に斬り付けられたのを皮切りに、生麦事件 が発生した。クラークも薩摩藩士に肩を斬られる重傷を負ったため、アメリカ領事館本覚寺 へ避難する。後に到着したマーシャルとともに治療を受けた。


肩に後遺症を残すことになったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事し、同地で没した。墓所は横浜市中区 の外人墓地にある。


参考文献

宮澤眞一 『「幕末」に殺された男-生麦事件のリチャードソン』 新潮社新潮選書 〉、1997年


● ウィリアム・マーシャル ( 貿易商 )

ウィリアム・マーシャル(William Marshall, 1827年 - 1873年 2月24日 )は、幕末 から明治 初期にかけて横浜 で活動したイギリス 人商人。生麦事件 に遭遇した人物の一人である。


日本 の開国によって開放された横浜に在住し、主に絹輸入業に成果を挙げた。


1862年 、妻クレメンティナの実妹にあたるマーガレット・ボラディル香港 より来日しマーシャルを訪ねてきたため、ビリヤード 仲間のウッドソープ・クラーク を誘って川崎大師 へ旅行する事を計画。クラークが誘ったチャールズ・リチャードソン を加えた4人で川崎大師へ乗馬で向かった。しかしその道中で島津久光 の行列と遭遇、先頭を騎馬で歩いていたリチャードソンが薩摩藩 士に斬り付けられ、自身も脇と背中を斬られる軽傷を負った(生麦事件 )。マーシャルは義妹のボラディル夫人を逃がし、重傷を負ったリチャードソンを助けて逃走しようとするが、リチャードソンが落馬してしまったために救出を断念し、アメリカ 領事館 だった本覚寺 へ逃れた。そこで先に到着していたクラークとともに治療を受けた。


事件後も横浜で引き続き商業に従事し、同地で没した。墓所は横浜市中区横浜外国人墓地 にある。


参考文献

宮澤眞一『「幕末」に殺された男-生麦事件のリチャードソン』 新潮社新潮選書 〉、1997年


● 生麦事件


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 『生麦之発殺』(早川松山 画)
明治になって想像で描かれた錦絵 で、名前が出ているのは島津久光小松帯刀 のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。


生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末文久 2年8月21日1862年 9月14日 )に、武蔵国 橘樹郡 生麦村(現・神奈川県 横浜市 鶴見区 生麦 )付近において、薩摩藩島津茂久 (忠義)の父・島津久光 の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士 が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。

尊王攘夷 運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争 (文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線 生麦駅 近くに残っている[1]


事件の概要

事件の勃発

文久 2年(1862年 )、薩摩藩島津茂久 (忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光 は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸 へ出向いたのち(文久の改革 も参照)、勅使大原重徳 とともに京都 へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった[2]


行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人 と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク 、横浜在住の生糸 商人ウィリアム・マーシャル 、マーシャルの従姉妹で香港 在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール 夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソン である。4人はこの日、東海道 で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師 に向かっていたとの説もある。


生麦村住人の届け出書[3] 神奈川奉行 所の役人の覚書[4] 、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウ の日記[5] を突き合せてみると、ほぼ以下のような経緯を辿った。


行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠 のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった。


4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川 にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺 へ駆け込んで助けを求め、ヘボン 博士の手当を受けることになった。


『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは奈良原喜左衛門 [6] であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休 が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯 のつもりでとどめをさしたのは海江田信義 であったという[7] 。なお、当時近習番だった松方正義 の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。


詳しい事は『生麦事件ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10762030362.html
435 海江田信義墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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3602b
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 ウッドソープ・チャールズ・クラーク墓


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 ウィリアム・マーシャル墓








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