堀田正利 ( 正吉 ) ( 1571 ~ 1629 )
旗本・堀田正秀の五男。
母は浅野長一の娘。
通称 勘左衛門。
正室は稲葉正成の娘萬。
織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。
関ヶ原の戦いののち、慶長 10年 ( 1605 ) 江戸幕府に出仕した。
墓所は、東京都台東区日輪寺。
この供養塔は、堀田正俊がせ延宝 5年 ( 1677 ) に建立。
(案内板より)
● 堀田正吉
堀田 正吉 ( ほった - まさよし )
元亀 2年 ( 1571年 ) - 寛永 6年 2月 17日 ( 1629年
3月 11日 )) は、江戸時代 初期の旗本 。
堀田正秀 の五男。母は浅野長一 の娘。通称は、勘左衛門。別名、正利。妻は稲葉正成 の娘・まん。子に堀田正盛 、脇坂安利 、堀田正茂 、大草高正 妻、勝境院 ( 喜多見重勝 妻 )、水谷勝俊 室。
当初、織田信長 、そして浅野長政 に仕え、文禄 元年 ( 1592年 ) より、小早川隆景 、次代の養子・小早川秀秋 に仕えた。
関ヶ原の戦い ののち、慶長 7年 ( 1602年 ) に秀秋が没すると、慶長 10年 ( 1605年 ) に江戸幕府に出仕し 500石を給される。
寛永元年 ( 1624年 ) 、福島正則 が没するとその検視役として赴く。
寛永 6年 ( 1629年 ) に 59歳で没する。
身分の低い自分が、子の正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。墓所は、東京都台東区日輪寺。
妻のまんは、稲葉正成の妻の春日局 の義娘にあたり、子の正盛は早くより将軍・徳川家光 に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、大名 となり子孫は繁栄した。
外部リンク
(wikiより)
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