( 碑文 )
伏鉦登壇衆所尊功成百戦得雄藩大賢自著多聞政
賤子頻嘗有味言萬里駆馳思景行卅年事変潮重源
神鴉社鼓江之嶋矍相当時盖僅存奉題
児玉公神社 大同元年十二月
満州國外交部総長謝介石
台湾の人 謝介石の奉献。
国民の尊敬を集めた御祭神の武勲、才知、徳を讃えている。
謝介石 ( 字は又安 ) は満州國初代外交部総長を務め、のち満州國駐日全権大使として日本に駐在したこともある。
(案内板より)
● 謝介石
謝介石 ( しゃかいせき ) は満洲国 初代外交部総長。満州国の台湾人で最高官職に就任した人物である。字は又安 ( 幼安とも作る )。
生涯
幼少にして私塾に学び、日本統治時代 には新竹国語伝習所 で日本語 を学び、伊藤博文 が訪台した際には通訳を務めている。その後日本に留学、明治大学 法学部を卒業後、中国 天津市 の張勲 の下で勤務した。
1904年 10月から二年間、台湾協会専門学校 ( 現・拓殖大学 ) 台湾語教師。
1915年 、日本国籍を放棄し中華民国 国籍を取得、張勲が 1917年 に溥儀 の復辟 を画策した計画に謝介石も参加している。
1927年 、謝介石は溥儀の外務部右丞兼天津行在御前顧問に就任、その後吉林省 に赴任し、吉林省省長熙洽 の吉林省陸軍部尚書に転任している。
1932年 ( 大同 元年 ) 3月 9日に満洲国 が正式に建国され、翌 10日に謝は初代外交部総長に任官された[1] 。
同年、中華民国国籍を放棄し、満洲国国籍を取得した。
1935年 ( 康徳 2年 ) 5月 21日、参議府 参議に移ったが[2] 、直後の 25日に初代駐日満州国全権大使に起用されている[3] 。
謝介石の満洲国での成功を見た多くの台湾人が満洲にわたり行政機関への就職を求めている。
謝介石は台湾への一時帰国を果たし、またその後は実業部長などを歴任した。
1937年 ( 康徳 4年 ) 6月、謝介石は駐日大使を辞任して満州国に戻り、その後は満洲国国営事業の董事長 などを務めた。
日本の敗戦により満洲国が瓦解すると日本軍協力者として逮捕され、その後北京 の獄中で病死した。
注
1. 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞 』昭和7年(1932年)3月11日。
2. 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月22日夕刊。
3. 「初代駐日大使とし謝氏赴任に決定す」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月26日夕刊。
(wikiより)
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