徳 三宝 ( とく - さんぽう )
( 1887年 12月 12日 - 1945年 3月 10日 ) は、日本 の柔道家 。講道館 柔道九段。大日本武徳会 柔道教士 [1] 。
経歴
鹿児島県立第二鹿児島中学校 時代[2] 剣道・柔道に励み、全九州の中学柔道大会を制しその名を知られる。
師事した七校の佐村嘉一郎 三段 ( 後の十段 ) の勧めで上京し、1906年 に講道館に入門。
一日に 100本超える程の猛稽古を積み上達すると、当時の講道館でも最強を誇り、稽古中に姿勢が崩れる事のない強さ故に野中の一本杉とあだ名され、また、“膝つき一本 ( 徳に膝をつかせただけでも、通常の一本に値するという意 )”という言葉が生まれた。
なお、徳は「柔道は相手を投げる為のものであり、受身 が巧くても意味はない」と放言し、現に受身を殆ど稽古しなかったとの語り草がある。
この頃の三船久蔵 や田畑昇太郎 ( 共に後の十段 ) との名勝負で全国にその名を轟かせると同時に、講道館の暴れ者としても知られ、当時在京していた空手家 の船越義珍 に対決を申し込んだりもした。
1912年 、講道館に試合を申し込んできた、当時寄港中のブラジル艦隊の水兵 15人を返り討ちにしたが、これが政治的な問題となり講道館を破門される ( 破門理由については、徳の強さ・昇段の早さを周囲が妬み、嘉納館長 がかばいきれなくなった為だとか、鹿島神流 ・國井善弥 の道場破りに徳が敗北し、逆に徳が国井の強さに惚れ込んで師事してしまった為など、諸説ある )。
6年後の 1917年 に破門を許された後は林岩三 など後進の指導に当たったほか、40歳を越えた徳自身も全日本選士権 に出場し、第 1回大会 ( 1930年 ) こそ 1回戦で宇土虎雄 6段に優勢負けを喫したものの、第 3回大会 ( 1932年 ) では 3位に食い込んだ( 第 1回大会は専門成年後期の部、第 3回大会は専門成年後期の部 )。
地区予選・本大会を含めて、既に講道館の名物男となっていた徳が試合場にあがると会場は大変盛り上がったという。
1945年
3月 10日 、東京大空襲 により逝去。郷土の天城町立天城中学校 に、その功績を称える銅像 が存在する。
註
1. 『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合 802頁 』 - 国立国会図書館 デジタルコレクション
2. 徳が在籍したのは「鹿児島県立鹿児島中学校 “分校”」で、徳が転校する一ヶ月前に「鹿児島県立第二鹿児島中学校」と改称した。なお、「会員名簿(平成11年版) 一中・一高女・鶴丸高等学校 一鶴同窓会」には、「大正7年以前終了(途中進学者)」の項に「元柔道家・講道館師範」として徳の名が掲載されている。
参考文献
・柔道一代 徳三宝(南方新社)2007年
・日本格闘技おもしろ史話(毎日新聞社)1993年
・昭和武闘伝(出版芸術社)2009年
・柔道資料館パンフレット(講道館)
(wikiより)
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