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2558 初代・中村吉右衛門句碑(台東区浅草2-3・浅草神社)

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「女房も 同じ氏子や 除夜詣で」
                吉右衛門


建碑 昭和二十八年四月二十一日


初代中村吉右衛門 歌舞伎俳優 日本芸術院会員 文化勲章受賞

明治十九年三月二十四日 浅草象潟町に生まれ 幼少から舞台に立って名声を得 長じて大成し 大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優となった。


高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり 句集も三冊に及ぶ

初め秀山と号したが後に吉右衛門の名前を用いた


妻千代もまた浅草の生まれ この句の由縁である


昭和十四年冬の作 この碑は自詠自筆である


実名 波野辰次郎
昭和二十九年九月五日没 享年六十八
(案内板より)


● 初代・中村吉右衛門

初代中村 吉右衛門 ( しょだい・なかむら - きちえもん、1886年 ( 明治 19年 ) 3月 24日 - 1954年 ( 昭和 29年 ) 9月 5日 ) は、明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎 役者。屋号 播磨屋 定紋 揚羽蝶 、替紋は村山片喰 大向う からの「大播磨」( おおはりま ) の掛け声 で知られた。


来歴

東京浅草象潟町 ( 浅草寺 の裏手 ) 生まれ。三代目・中村歌六 の次男で、本名、波野辰次郎。弟に三代目・中村時蔵 十七代目・中村勘三郎 、娘婿に八代目・松本幸四郎 がいる。


1897年 ( 明治 30年 )、初舞台を踏んだ。子供歌舞伎の中心として初代・助高屋小伝次、初代・中村又五郎らと舞台に立った。長じて 1908年 ( 明治 41年 )、六代目・尾上菊五郎 と共に市村座 専属となり、若手の歌舞伎役者として人気を博した。


1911年 ( 明治 44年 ) に文学者・小宮豊隆 が「中村吉右衛門論」を「新小説」に発表したほどで、知識人の間にも支援者が多かった。市村座では菊五郎との共演が評判を呼び、「菊吉時代」「二長町時代」を築いた ( 下谷区二長町に市村座があった )。


1921年 ( 大正 10年 )、市村座を脱退。のち松竹に移った。


大正から昭和にかけて菊五郎と並ぶ名優として高い評価を得た。父・歌六ゆずりの上方風の芸風に九代目・市川團十郎 系の近代的な演技をくわえた独自の雰囲気を持っていた。丸本物と生世話物の立役を得意とし後代に大きな影響を与えた。また、父譲りの上方狂言も得意とするなど芸の幅も広かった。父を亡くし孤立無援であった六代目・中村福助を抜擢、六代目・中村歌右衛門 を襲名させ昭和を代表する名女形に育て上げたのも大きな功績である。


1947年 ( 昭和 22年 ) 日本芸術院 会員。


1951年 ( 昭和 26年 ) に文化勲章 を受章した。

墓所は青山霊園


当り役

吉右衛門の当り役は

一谷嫩軍記 』「熊谷陣屋」の熊谷直実

菅原伝授手習鑑 』「寺子屋」の松王丸と武部源蔵

釣瓶花街酔醒 』「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門

天衣紛上野初花 』「河内山」の河内山宗俊

極付幡随長兵衛 』( 湯殿の長兵衛 ) の幡随長兵衛

隅田川続俤 』( 法界坊 ) の法界坊

妹背山婦女庭訓 』( 妹背山 ) の大判事清澄、漁師鱶七実ハ金輪五郎

時今也桔梗旗揚 』( 馬盥の光秀 ) の武智光秀

絵本太功記 』「十段目尼ケ崎閑居」( 太十 ) の武智光秀

塩原多助経済鑑 』( 塩原多助 ) の久六

松竹梅湯島掛額 』「お土砂」の紅長

夏祭浪花鑑 』「鳥居前」「泥場」の團七九郎兵衛

盲長屋梅加賀鳶 』( 加賀鳶 ) の日陰町松蔵

『梅雨小袖昔八丈』( 髪結新三 ) の弥太五郎源七

平家女護島 』「俊寛」の俊寛

仮名手本忠臣蔵 』の大星由良助、桃井若狭之助、加古川本蔵

近江源氏先陣館 』「盛綱陣屋」の佐々木盛綱

ひらかな盛衰記 』の樋口次郎

梶原平三誉石切 』( 石切梶原 ) の梶原平三

松浦の太鼓 』の松浦侯 など数多い。

増補桃山譚 』( 地震加藤 ) や『二條城の清正』の加藤清正 ( 自他共に認める「清正役者」で特に得意としていた )


人物

趣味は弓道と俳句。弓道は日置流 弓道 ( 重藤の位 ) で、自宅に道場を造るほどであった。


高浜虚子 の弟子で『ホトトギス 』の俳句 を嗜んだ。俳号 は吉右衛門を使用した。句集『吉右衛門句集』を刊行しており、浅草神社 の境内には句碑が建てられている。


逸話


熱演型でどんな役でも懸命に演じたので舞台では唾がよく飛んだという。


吉右衛門には跡継ぎがいなかった。そこで一人娘の正子は八代目・松本幸四郎 に嫁ぐ際、父に「男の子を二人は産んで、そのうちの一人に吉右衛門の名を継がせます」と約束したところ、果してその通りに男子ふたりを授かった。長男が父方の「幸四郎」をついだ九代目・松本幸四郎 、次男が母方の「吉右衛門」を継いだ当代の二代目・中村吉右衛門 である。


昭和天皇 の初めての天覧歌舞伎になるという、名人の名高い舞台に選ばれている。


山田風太郎 の著書・『人間臨終図巻 』によると、吉右衛門は医者好きで、ちょっと風邪 をひいただけでも「医者を呼べ」と大騒ぎし、挙句の果てには自身の主治医の家の隣に引っ越したほどであった。そのため、梨園 では一時期、ちょっとした風邪等の軽い病気に罹ると、「吉右衛門になった」という隠語が使われたといわれる。


2006年 ( 平成 18年 ) 9月、初代・吉右衛門生誕 120年を記念して、孫の二代目・中村吉右衛門や九代目・松本幸四郎らによって初めて秀山祭が催された。「秀山」は初代・吉右衛門の俳名 にちなんだもので、第 1回は盛況のうちに成功を納め、以後歌舞伎座 九月公演の定番となった。


関連項目


秀山十種


関連書

・中村吉右衛門 『吉右衛門句集』 本阿弥書店 ISBN 978-4-7768-0411-6

小宮豊隆  『中村吉右衛門』 岩波現代文庫 岩波書店
ISBN 4-00-602004-X

・山田風太郎 『人間臨終図巻 2』 徳間書店
ISBN 4-19-891491-5


外部リンク

NPO靫彦・沐芳会

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10725429691.html
408 初代・中村吉右衛門墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


2558 初代・中村吉右衛門 初代・中村 吉右衛門
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