江戸・東京の農業 檜前 ( ひのくま ) の馬牧 ( うままき )
大宝元年 ( 701年 )、大宝律令で厩牧令 ( きゅうもくれい ) が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場 ( 官牧 = かんまき ) が 39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により 32ヶ所の牧場 ( 勅旨牧 = ちょくしまき ) が設置されました。
東京には「檜前 ( ひのくま ) の馬牧 ( うままき )」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治 19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
平成 9年度 JA東京グループ
農業共同組合法施行五十周年記念事業
(案内板より)
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