名は忠行、または藤五郎と称す。
三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。
一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以後、家康に菓子を献じたという。
天正十八年 ( 1590 ) 家康は江戸に入り町づくりを始める。
用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。
これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。
この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。
以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めた。
なお、墓の近くにある八角形の井戸は、天保六年 ( 1835 ) 十代目・忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。
元和三年(1617)没。
(案内板より)
● 大久保主水
大久保 忠行 ( おおくぼ - ただゆき )
生年不詳 - 元和 3年 7月 6日 ( 1617年
8月 7日 )) は戦国時代 から江戸時代 の武士、治水 家。
宇津忠茂 の五男。大久保忠俊 ・大久保忠員 の弟。妻は遠山氏 の娘・伊可。通称は藤五郎、主水 ( もんと )。
三河国 上和田の武士。徳川家康 に仕え、永禄 3年 ( 1560年 ) に三河国宝飯郡 赤坂郷で領地 300石を与えられる[1] 。
永禄 6年 ( 1563年 )、三河一向一揆 に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。
これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に住んだ。
何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子類の制作ができ、この技術により家康の陣営に茶菓 ( 餅 ) を献上する役目、いわゆる菓子司となった。
忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた、また家康は毒殺を恐れて餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信じて食べていた[2] 、などの話が残る。
三方ヶ原の戦い の際には従軍する代わりに、出陣に際し六種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった[3] 。
天正 18年 ( 1590年 ) 7月 12日、江戸城下の上水工事の命を受ける[4] 。
その後、約 3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の神田上水 の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた[5] 。
元和 3年 ( 1617年 ) 7月 6日死去。墓所は東京都台東区 谷中 の瑞輪寺 、戒名は清浄院蓮来日富。実子は無く、甥の忠元 ( 兄の忠員の子 ) を養子とした[6] 。
主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。
幕末の大久保主水は徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を旧幕臣の重鎮で同族の大久保一翁 の子息の嫁としている。
大正 13年 ( 1924年 ) 2月、贈従五位 [7] 。
脚注
1. 阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 316頁
2. 『大日本人名辭書』経済雑誌社、1896年 443-444頁
3. 『下谷区史』下谷区、1935年 1202頁
4. 「天正日記」
5. 朝日日本歴史人物事典
6. 阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 318頁
7. 『贈位諸賢伝』第1巻 国友社、1927年 199頁
参考文献
河原芳嗣『江戸の旗本たち -墓碑銘をたずねて-』 アグネ技術センター、1997年 2-7頁
外部リンク
大久保藤五郎と三河餅 (虎屋 ホームページ内)
(wikiより)
↑のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。