西川耕蔵 ( 1823 ~ 65 ) は、三条通の本屋に生まれたが学問を好み、梅田雲浜 ( 1815 ~ 59 ) に学び勤王家となった。
元治元年 ( 1864 ) 6月 5日 池田屋の密議に加わっていたが、新選組の急襲を逃れ、聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられ、慶応元年 ( 1865 ) 斬罪となった。
この碑は西川耕蔵の霊を祀るために建てられた。
碑を建てた西川太治郎は西川耕蔵の一族で、近江新報社長。
のちに大津市長 ( 在任明治 41 ~ 43年 ) となる。
● 西川太治郎
西川 太治郎 ( にしかわ - たいじろう、元治元年 5月 17日 ( 1864年 6月 20日 ) - 昭和 17年 ( 1942年 )) は、衆議院議員 ( 立憲同志会 → 憲政会 )、大津市長。
経歴
近江国浅井郡南浜村 ( 現在の滋賀県長浜市 ) 出身。
同人社で学んだ後、1888年 ( 明治 21年 ) に東京専門学校 ( 現在の早稲田大学 ) を卒業した[1]。
卒業後、山梨日日新聞の記者となり、3年後に近江新報に主筆として招かれ、1896年 ( 明治 29年 ) には社長に就任した。
その一方で、前田正名の地方産業振興運動に加わって全国を奔走。
さらに農商務省の嘱託として、1898年 ( 明治 31年 ) に清の商工業を視察、1903年 ( 明治 36年 ) には北清やシベリアでの日本製品販売の調査を行った。
1899年 ( 明治 32年 )、大津市会参事会員となり、大津商業会議所会員、同会頭を歴任し、1907年 ( 明治 40年 ) に県会議員に当選した[2]。
1908年 ( 明治 41年 ) には大津市長に選出され、1910年 ( 明治 43年 ) まで務めた。
1915年 ( 大正 4年 )、第 12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
第 13回衆議院議員総選挙でも再選された。
その他、埋もれた志士や学者の顕彰に取り組み、池田屋事件で処刑された一族の西川耕蔵の招魂碑を建立した。
著書
『全国週遊日記』(1897年)
『長等の桜』(1927年)
脚注
1. 『滋賀県名士録』p.56-57
2. 『現代日本の政治家』立憲同志会p.54-56
参考文献
細井肇 『現代日本の政治家』 国光社、1916年。
滋賀新報社編 『御大典記念 滋賀県名士録』 滋賀県名士録刊行会、1929年。
(wikiより)
関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10509079555.html
108 梅田雲浜邸址碑(中京区烏丸通御池上る東側)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10556240905.html
201 梅田雲浜(うんぴん)墓(台東区松が谷・海禅寺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10772345825.html
446 梅田源次郎(雲浜)墓(荒川区南千住5-33-13・小塚原回向院)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10772347587.html
447 梅田雲浜墓(京都市東山区五条通東大路東入ル遊行前町・安祥院)
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