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1765 杉田玄端墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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杉田 玄端 ( すぎた - げんたん、1818年 10月 19日 ( 文政元年 9月 20日 ) - 1889年 ( 明治 22年 ) 7月 19日 ) は、幕末から明治期にかけての医学者、蘭学者。幕臣 ( 勝海舟の主治医 )。


経歴
尾張藩出身。


旧姓は吉野。名は拡、字は充甫、号は泰岳。


江戸に生まれ、杉田立卿に師事した後、杉田白元の養子となって杉田家の家督を相続し ( 杉田玄白の義理の孫となる )、医術をよく学ぶ。


のちに小浜藩藩医、幕府お抱えの医師となり、戸塚文海と共に勝海舟ら要人奉行の主治医となり、蕃書調所教授となる。


徳川家が陸軍士官を養成するために作った沼津兵学校付属病院に出仕し、明治政府に出仕せず、1875年 ( 明治 8年 ) 福澤諭吉に招かれて慶應義塾内の医学所「尊生舎」教授となる。


その後、東京学士会院会員に選ばれた。


著書

『健全学』
『地學正宗』(地学正宗図)
『化学要論』
『産科宝函』


関連項目
杉田成卿


外部リンク

慶應義塾大学医学所と大学医学部の創設 : 自然科学教育の重視
地学正宗図 (ちがくせいそうず)( http://www.lib.kagoshima-u.ac.jp/~collec/kicho-4th/chikyuzu.html )


脚注

1. 地学正宗図(2012年2月閲覧)


参考文献
『慶應義塾大學醫學部六十周年記念誌』 形成社 昭和58年(1983年)
『慶應義塾出身名流列伝』 三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月。(近代デジタルライブラリー)

(wikiより)


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1766 河合栄治郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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河合 栄治郎 ( かわい - えいじろう、1891年 2月 13日 - 1944年 2月 15日 ) は、日本の社会思想家、経済学者。第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。


経歴

教職に就くまで

東京府南足立郡千住町 ( 現在の東京都足立区千住 2丁目 ) の酒屋を営んでいた家に生まれる。


尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰の平民主義に惹かれていた。


東京府立第三中学校 ( 現・東京都立両国高等学校 )、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒、銀時計受領。


在学中に農商務省が刊行した『日本職工事情』を読み、「労働問題は人間の問題である」と感奮し、労働問題に生涯を捧げる決意をもって農商務省に入省する。


1918年、工場法の研究のため米国に出張し、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、米国労働総同盟 ( AFL-CIO ) 会長のサミュエル・ゴンパーズら労働運動の指導者と会見する。


帰国後第 1回 ILO ( 国際労働機関 ) 会議に対する日本政府方針草案の起草に尽力したが、その改革案は容れられず辞職した。


この間の経緯を『朝日新聞』紙上に「官を辞するに際して」として連載し、自己の所信を論じて世上の話題となった。


学問研究

1920年東京帝大助教授となり経済学史を担当。


1922年より英国に留学し、トーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受ける。


帰国後 ( 1926年 ) に教授となり、社会政策講座を受け持った。


河合の学問の対象はアダム・スミス、ベンサム、J・S・ミル、グリーン、を経てフェビアン協会、イギリス労働党に至るイギリスの社会思想史であり、それに基づいて社会政策学を構築した。


その成果は『社会思想史研究』( 1923年 )、『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』( 1930年 )、『社会政策原理』( 1931年 ) であった。


また、河合門下三羽烏と呼ばれる大河内一男・安井琢磨・木村健康らを育てた[1]。


河合は、以前より存在した東大経済学部の勢力争いの中、多数派の領袖格として行動し、少数派のマルクス主義派と対峙していた。


1936年 3月 31日から 1年間、経済学部長。


妻、国子は初代経済学部長であった金井延の娘。


ファシズムからの弾圧

その後、ファシズムが勢力を伸ばしてくると、河合はファシズム批判の論陣を張った。


それがために、右派陣営からの攻勢は強まり、かつて河合についていた教授も国家主義派 ( 革新派 ) 土方成美の派閥に鞍替えするなど、学部では勢力を失いつつあった。


1938年に『ファッシズム批判』など 4点の著作が内務省により発売禁止処分に付され、翌年これらの著作等における言論が「安寧秩序を紊乱するもの」として、出版法違反に問われ起訴された。


また学内においても、河合の対立勢力であった土方らとの対立が激しくなり、1939年総長・平賀譲の裁定により、1月 31日、河合は休職を発令されるに至った ( 平賀粛学 )。


この過程で、「粛学抗議の辞表を撤回するべからず」との師の言に逆らって経済学部に残留した大河内・安井は事実上の破門となった。


退官後は裁判闘争に明け暮れることとなったが、1943年大審院の上告棄却により、有罪が確定した。


以上、一連の弾圧が河合栄治郎事件と呼ばれる。


晩年

晩年は 1940年 ( 昭和 15年 )『学生に与う』を箱根の旅館で執筆するなど、学生叢書の刊行を継続しながら学生・青年に理想主義を説き続けた。


また河合と共に辞職した山田文雄や木村健康、門下の猪木正道、関嘉彦、土屋清らと定期的に勉強会を開き、研究を継続していた。


1944年、心臓麻痺により逝去。


2日前に 53歳の誕生日を迎えたばかりであった。


思想

教養主義

河合は日本人には珍しく自己の哲学を持つ思想家であった[2]。


その思想は哲学分野では理想主義 ( イデアリスム )、人格主義、教養主義であった。


河合は教養主義者として、学外では『学生叢書』『教養文献解説』を編集発行し、『学生に与う』を著し、学内では社会科学古典研究会を主催して、人格陶冶と教養の意義を説いた ( 昭和教養主義 )[3]。


自由主義

河合は社会思想を、現実社会に対する保守、改良、変革などの態度とし、そのために現実社会の科学的分析と、どのような社会が望ましいのかの社会哲学とが必要であるとした ( 社会思想モデルを提示 ) [4]。


河合は自らの自由主義を「第三期自由主義」と称していた。


河合によると、それは資本主義を無条件で肯定する第一期自由主義とも、資本主義の弊害を認め適宜是正していく改良主義=第二期自由主義とも異なり、個々人の人格の成長に最高の価値を置く理想主義を根底とし、社会の成員全ての人格の成長が実現される社会を理想とするものであり、共産主義や社会主義とは鋭く対立する、というものであった。また、多元的国家論も主張した。


マルクス主義批判

河合は早くから、理想主義 ( イデアリスム )、人格主義、自由主義の立場から、マルクス主義の否を打ち鳴らし、コミンテルンの批判、マルクス主義理論の批判を行った[5]。


ファシズム批判

さらに時代状況が軍国主義の色合いを濃くする中、次第にファシズム批判の立場を強めていった。


1936年に二・二六事件が起こると、河合は『帝大新聞』に軍部批判論文「二・二六事件の批判」を寄稿し、軍部批判・抵抗の姿勢を明確にした[6]。


ファシズム最盛期において、面と向かってファシズム批判論を展開したことは画期的なことである。


満州事変以降、日中戦争、太平洋戦争直前まで時局評論も行った[7]。


影響と意義

戦後十数年間は別として、その後は河合の名前は戦後ほとんど忘れられたに等しい。


例外として、河合の後継者たちが社会思想研究会、社会思想社、民社社会主義研究会を創始し、河合の精神を受け継ごうとした。


関はその後民社党参議院議員となり、猪木、土屋も民社党のブレーンになっている。


渡部昇一は河合を尊敬し、朝日新聞批判を行ったときに河合を追想していた。


また、1972年、三國一朗司会の東京 12チャンネル ( 現在のテレビ東京 ) の番組「私の昭和史」に、木村健康が出演し河合のことを語った。


理想主義、人格主義、教養主義は戦後廃れた。


それは価値観の多様化、科学主義の隆盛、マルクス主義の跋扈などによるものであるが、それでよいのかは大いなる疑問として残る。


河合がなした社会思想モデルの創出、マルクス主義批判、ファシズム批判は史上長く記憶されてよい。


著書

単著
労働問題研究(岩波書店, 1922年)
社会思想史研究(岩波書店, 1923年)
在欧通信(改造社, 1926年)
英国労働党のイデオロギー(千倉書房, 1929年)
トーマス・ヒル・グリーンの思想体系(1,2巻)(日本評論社, 1930年/改装版, 1938年)
社会政策原理(日本評論社, 1931年)
大学生活の反省(日本評論社, 1931年)
書斎の窓から(日本評論社, 1932年)
学生思想問題(岩波書店, 1932年)
マルキシズムとは何か(タイムス出版社, 1932年)
欧州最近の動向(日本評論社, 1934年)
ファッシズム批判(日本評論社, 1934年)
第一学生生活(日本評論社, 1935年)
社会思想家評伝(日本評論社, 1936年)
時局と自由主義(日本評論社, 1937年)
第二学生生活(日本評論社, 1937年)
英国社会主義史研究(日本評論社, 1938年)
金井延の生涯と学績(日本評論社, 1939年)
学生に与う(日本評論社, 1940年/オンデマンド版「学生に与う」文元社, 2004年)
国民に愬う(日本評論社, 出版差止, 全集収録, 1941年)
明治思想史の一断面(日本評論社, 1941年)
自由主義の擁護(白日書院, 1946年)
社会思想と理想主義(実業之日本社, 1947年)
教壇生活二十年(鬼怒書房, 1948年)
学問と政治(社会思想研究会出版部, 1948年)
自由主義の歴史と理論(社会思想研究会出版部, 1948年)
唯一筋の路(日本評論社, 1948年)
学窓記(社会思想研究会出版部, 1948年)
自由に死す――河合栄治郎法廷闘争記(中央公論社, 1950年)
私の社会主義(社会思想研究会出版部, 1950年)[8]


共編著
学生叢書(河合単独編集、全12巻、日本評論社, 1936~1941年) 1.学生と教養
2.学生と生活
3.学生と先哲
4.学生と社会
5.学生と読書
6.学生と学園
7.学生と科学
8.学生と歴史
9.学生と日本
10.学生と芸術
11.学生と西洋
12.学生と哲学

教養文献解説(木村健康との共著、日本評論社, 1941年)


全集

河合栄治郎全集(全23巻、社会思想社、 1967-70年) 蝋山政道、山田文雄、塩尻公明、木村健康、安井琢磨、土屋清、関嘉彦、猪木正道、音田正巳、吉田忠雄編
第1巻=『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系Ⅰ』
第2巻=『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系Ⅱ』(解説:木村健康)
第3巻=『社会政策原理』(解説:山田文雄)
第4巻=『社会思想史研究』附録「経済学史講義案」(解説:木村健康)
第5巻=『英国社会主義史研究』「英国労働史上に於ける石炭罷業」(解説:関嘉彦)
第6巻=『欧州最近の動向』『英国労働党のイデオロギー』(解説:関嘉彦)
第7巻=『社会思想家評伝』(解説:安井琢磨)
第8巻=『明治思想史の一断面――金井延を中心として』(解説:山田文雄)
第9巻=『自由主義の歴史と理論』「ドイツ社会民主党史論」(解説:猪木正道)
第10巻=『労働問題研究』(解説:音田正巳)
第11巻=『ファッシズム批判』(解説:土屋清)
第12巻=『時局と自由主義』『マルキシズムとは何か』(解説:土屋清)
第13巻=『社会思想と理想主義』『私の社会主義』(解説:土屋清)
第14巻=『学生に与う』『国民に愬う』(解説:猪木正道)
第15巻=『大学生活の反省』『書斎の窓から』(解説:安井琢磨)
第16巻=『第一学生生活』(解説:安井琢磨)
第17巻=『第二学生生活』『在欧通信』(解説:安井琢磨)
第18巻=『学窓記』(解説:塩尻公明)[9]
第19巻=『学生思想問題』「時事評論集」(解説:山田文雄)
第20巻=「随想集」「研究ノート」(解説:吉田忠雄)
第21巻=「裁判記録」=「序言」(木村健康)「弁論要旨」(木村健康)「控訴院及び大審院」(木村健康)
第22巻=「日記Ⅰ」
第23巻=「日記Ⅱ」
別巻=『河合榮治郎伝』(江上照彦著)「年譜」(河合武)


指導を受けた門下生
学界 山田文雄(愛知大学学長)、山田盛太郎(東京大学教授)、馬場敬治(東京大学教授)、柳川昇(弘前大学学長)、木下広居(専修大学教授)、大河内一男(東京大学総長)、飯塚浩二(東京大学教授)、戸田武雄(駒沢大学教授)、木村健康(東京大学教授)、安井琢磨(大阪大学教授)、山本和(関東学院大学教授)、江上照彦(相模女子大学教授)、関嘉彦(東京都立大学教授)、石上良平(成蹊大学教授)、猪木正道(京都大学教授、防衛大学校校長)、熊谷尚夫(大阪大学教授)、音田正巳(大阪府立大学教授)など[10]

ビジネス界 木川田一隆(東京電力社長)、山際正道(日本銀行総裁)、長尾春雄(日本生命)、宇佐美洵(慶応、日本銀行総裁)、佐々木直(日本銀行総裁)、美作太郎(新評論社長)、菊地庄次郎(日本郵船社長)、竹内俊夫(トーメン社長)、土屋清(朝日新聞論説委員、評論家)、外山茂(日本銀行理事)、山中宏(明治生命保険会長)、水野勲(新日本製鐵顧問)、二宮俊夫(日本証券代行会長)など


脚注

1. 河合は3人のほかにも、多くの学者・研究者を育てた。それらの学者・研究者については、「指導を受けた門下生」を参照。
2. このことを最初に指摘したのは粕谷一希である。粕谷一希『河合栄治郎』日本経済新聞社、1983年。その思想の体系性を指摘し、図解したのは青木育志である。青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年。
3. このことを最初に本格的に採り上げたのは渡辺かよ子である。渡辺かよ子『近現代日本の教養論』行路社、1997年。教養主義者河合を描いたのは青木育志である。青木育志『教養主義者・河合栄治郎』春風社、2012年。
4. 河合の社会思想観については、青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、1911年、61-62頁参照。
5. 「コミンテルンの崩壊」『社会政策時報』1934年3月。後『コミンテルンの運命』弘文堂、1950年。『マルキシズムとは何か』タイムス出版社、1932年。
6. 青空文庫「二・二六事件に就て」
7. 従来その評論に対しては、ファシズム批判と矛盾するとの説と単に愛国的言動であるとの説があった。前者では名古忠行『フェビアン協会の研究』(法律文化社、1987年)、岩本典隆『近代日本のリベラリズム』(文理閣、1996年)あり。後者では扇谷正造「一記者の見た河合教授」(『河合栄治郎全集第6巻月報』1968年)、粕谷一希『河合栄治郎』(日本経済新聞社、1983年)あり。最近では松井慎一郎『評伝河合栄治郎』(玉川大学出版部、2004年)、青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』(春風社、2011年)あり。
8. 河合は短い期間に多くの著作を発表した。その多産性とその秘密を指摘したのは青木育志であった。多産性については『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年、308-309頁、その秘密については『教養主義者・河合栄治郎』春風社、2012年、194-198頁。
9. 『学窓記』は『学生叢書』への執筆論文を集めたものである。
10. 河合が指導した学生から多くの学者が育った。その数の多さとその理由について解明したのは青木育志である。青木育志『教養主義者・河合栄治郎』春風社、2012年、109-112頁。


参考文献
河合栄治郎・伝記と追想(社会思想研究会編, 社会思想研究会出版部, 1948年, 1952年)
河合栄治郎伝(江上照彦, 河合栄治郎全集別巻、社会思想社, 1971年) 新装版 河合栄治郎教授(講談社学術文庫, 1981年)

日本の知識人-その系譜と役割(日本文化会議編, PHP研究書, 1980年)
河合栄治郎-戦う自由主義者とその系譜(粕谷一希, 日本経済新聞社, 1983年)
昭和史のなかの社会政策-河合栄治郎と二・二六事件(佐野稔, 平原社, 1993年)
河合栄治郎文献目録(青木育志編、河合栄治郎研究会、1994年)
近代日本のリベラリズム-河合栄治郎と永井隆太郎の理念をめぐって(岩本典隆, 文理閣, 1996年)
近現代日本の教養論 1930年代を中心に(渡辺かよ子、行路社、1997年)
戦闘的自由主義者河合栄治郎(松井慎一郎, 社会思想社, 2001年) 改訂版 評伝河合栄治郎(玉川大学出版部, 2004年)

教養の思想(河合栄治郎研究会編, 社会思想社, 2002年)
評伝河合栄治郎 不撓不屈の思想家(遠藤欣之助、毎日ワンズ, 2004年)
河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実 (松井慎一郎, 中公新書, 2009年)
河合栄治郎の社会思想体系(青木育志, 春風社, 2011年)
教養主義者・河合栄治郎(青木育志, 春風社, 2012年)


関連項目
理想主義(イデアリスム)
人格主義
教養主義
学生叢書
学生に与う
社会思想、社会思想史
自由主義(第三期自由主義)
イギリス社会主義(フェビアン主義)
多元的国家論
民主的社会主義
マルクス主義批判
ファシズム批判(二・二六事件批判)
河合栄治郎事件(平賀粛学、思想弾圧事件)
日本評論社


外部リンク
作家別作品リスト:河合 栄治郎(青空文庫)( http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person506.html )

(wikiより)


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吉座傳右衛門(奈良市本子守町5-1)

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こちらの御店も、すぐ満員となってしまいますので「予約を入れてから」来店した方が宜しいと思います。


来店された御客様は、コース料理を注文している方が多かったです。


○ 「梅コース」3,885円
○ 「竹コース」5,250円
○ 「松コース ( 要予約 )」8,400円
○ 「雅コース ( 要予約 )」10,500円


その他コースも有ります。

「板さん」も 3人いらっしゃったのですが、宴会が入ると つまみが出てくるのが遅くなります。


早めに注文しておくのが良いかもしれません。


注文したのが
○ 吉座御酒の肴盛り合わせ 1,300円
9種類 ( 10種類かな? ) の肴が少しずつ持ってあります。


○ 地鶏の天ぷら ( 料金失念 )
ジューシーな天ぷらでした。


○ げその炙り ( 料金失念 )
若干の塩気で、御酒が進みます。


それに、生ビール 2杯 梅酒 1杯で、5,000円弱でした。


雰囲気と御味で大満足でした。


また奈良を再訪した際は、是非立ち寄りたいです。


吉座傳右衛門 ( 食べログ )
http://tabelog.com/nara/A2901/A290101/29000426/


129a 店外観
129b 吉座御酒の肴盛り合わせ 1,300円
129c 地鶏の天ぷら ( 料金失念 )
129d げその炙り ( 料金失念 )









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1767 大久保春野墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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大久保 春野 ( おおくぼ - はるの、弘化 3年 8月 18日 ( 1846年 10月 8日 ) - 1915年 ( 大正 4年 ) 1月 26日 ) は、日本の陸軍軍人、華族。


朝鮮駐剳軍司令官、第 3師団長、第 6師団長等を歴任する。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級男爵。


経歴
大久保氏は古代孝昭天皇の子孫で、和邇部臣の流れにある。


古くは西尾氏を称していた。


相州小田原藩主・大久保氏は同族。


大久保家は代々式内社である県社淡海国玉神社 ( 静岡県磐田市 ) 祠官家で、父の大久保忠尚もやはり宮司であった。


春野は忠尚の長男として生まれ、遠州報国団として父と共に戊辰戦争に従軍する。


維新後、明治 3年 ( 1870年 ) 5月、大阪兵学校内幼年校生徒となる。


同 10月からフランスに留学し、1875年 ( 明治 8年 ) 7月帰国。


陸軍省七等出仕に命ぜられる。


1877年 ( 明治 10年 ) 4月、陸軍歩兵少佐に任官され陸軍省第 2局第 5課長、1879年 ( 明治 12年 ) 1月、第 2局第 1課長に移り、同 10月呼称変更となり人員局歩兵課長となる。


1880年 ( 明治 13年 ) 5月に熊本鎮台歩兵第 14連隊大隊長となり、1882年 ( 明治 15年 ) 12月、参謀本部管西局員に移る。


1885年 ( 明治 18年 )、中佐に進み 7月 24日から参謀本部編纂課長兼第 2局第 3課長に就任する。


1886年 ( 明治 19年 ) 3月 19日、歩兵第 12連隊長に移り、1889年 ( 明治 22年 )、歩兵大佐に進級する。


1890年 ( 明治 23年 ) 6月 13日、茨木惟昭の後を受け陸軍戸山学校長に就き、1891年 ( 明治 24年 ) 6月 15日、陸軍士官学校長に移る。


翌年 11月 24日、第2師団参謀長に就任し、1894年 ( 明治 27年 ) には陸軍少将に任命され歩兵第 7旅団長を補され、日清戦争に出征する。


日清戦争では海城方面守備隊司令官、鳳凰城方面守備隊司令官を務め、続く台湾出兵に参加し 1897年 ( 明治 30年 ) 12月、近衛歩兵第 1旅団長に就任する。


1900年 ( 明治 33年 ) に陸軍中将に進級し教育総監部参謀長 ( 後の教育総監部本部長 ) を経て 1902年 ( 明治 35年 ) 5月 5日、第 6師団長に親補され、第 2軍隷下として日露戦争に従軍する。


沙河会戦を経て第 4軍隷下に移り奉天会戦に参加する。


戦後、功により 1906年 ( 明治 39年 ) 4月 1日、勲一等旭日大綬章及び功二級金鵄勲章を受章、同 7月 6日、第 3師団長に移り、1907年 ( 明治 40年 ) 9月 21日、男爵を授けられ華族に列せられる。


1908年 ( 明治 41年 ) 8月 7日、陸軍大将に進み同 12月から韓国駐剳軍司令官に就任する。


1910年 ( 明治 43年 ) 10月、先の韓国併合に伴い呼称変更され朝鮮駐剳軍司令官。


1911年 ( 明治 44年 ) 8月 18日、後備役。


1915年 ( 大正 4年 ) 1月 26日薨去。特旨により従二位に叙される。


親族
娘婿 金井延(東京帝国大学教授・初代経済学部長)、一戸寛(陸軍少佐・黒羽藩主大関増徳六男・陸軍大将一戸兵衛嫡養子)


脚注

1. 『官報』第8449号、明治44年8月19日。

(wikiより)


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1768 牛島満墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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牛島 満 ( うしじま - みつる、1887年 ( 明治 20年 ) 7月 31日 - 1945年 ( 昭和 20年 ) 6月 23日 ) は、日本の陸軍軍人。鹿児島県鹿児島市出身。


沖縄戦において、第 32軍を指揮し、自決した。


温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、指揮官としても、歩兵第 36旅団長として武漢、南京攻略に参加し、功績を挙げた。


生涯

生い立ち

牛島満は 1887年7月、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父と、同じく薩摩藩の武家の出である母との間に 4人目の子として生まれた。


出生地は東京であるが、牛島が生まれてすぐ父が急逝したため、母は子ども達を連れて郷里である鹿児島に帰郷している。


亡き父の後を継ぐために軍人への道を志し、1897年に熊本陸軍地方幼年学校に入校。


1906年に陸軍士官学校に入校し、1908年に士官学校を第 20期生として卒業。


同年 12月少尉に昇進し、近衛歩兵第 4連隊附となった。


1911年 12月、中尉に昇進。


1912年に陸軍大学校に入校。


同期には山下奉文、田中静壱、下村定らがいる。


1916年に陸大を第 28期生として卒業。


1918年 8月、シベリア出兵が始まり、シベリア派遣軍野戦交通部参謀としてウラジオストクに赴任。


同年 12月大尉に昇進し、シベリアからの帰国後は功績から功 5級金鵄勲章を授与された。


1919年 4月、原隊である近衛歩兵第 4連隊の中隊長を務めた後、1920年 8月から陸軍歩兵学校教官となり、1924年少佐に昇進する。


同年、歩兵第 43連隊大隊長を拝命し、1925年 4月に歩兵第 45連隊附の配属将校として、母校である第一鹿児島中学校に配属された。


日中戦争に従軍

1928年3月、歩兵第 23連隊附となり、同年 8月中佐に昇進。


1930年には下関要塞参謀、1932年には陸軍戸山学校教育部長となり、大佐に昇進する。


1933年、牛島が幼年学校に在学中、区隊長を務めていた山岡重厚陸軍省軍務局長の推薦により、牛島は陸軍省高級副官に就任。


荒木貞夫、林銑十郎、川島義之と三代の陸軍大臣に仕えた。


1936年 2月 26日に起こった 226事件の際には、牛島は中国大陸に出張中だったため事件には遭遇しなかったが、翌 3月、牛島は事件の首謀者の一人、栗原安秀大尉らの所属部隊である歩兵第 1連隊長に任ぜられ、満洲北部や南満洲と朝鮮との国境付近にある寛甸周辺で活動する東北抗日聯軍などの抗日パルチザンや匪賊との戦闘に従事した。


1937年 3月、少将に進級し、郷里鹿児島の第6師団歩兵第 36旅団長に任ぜられる。


まもなく日中戦争が勃発し、牛島率いる歩兵第 36旅団は 8月初旬、列車で朝鮮半島から華北にある山海関に向かい、北京近郊に展開する蒋介石精鋭の中国国民政府軍第 14軍の 3個師の拠点である千軍台と下馬嶺を激しい戦闘の末に占領した。


この戦闘では、第 36旅団だけで将校 7名、准士官以下 170名が戦死するという予想を上回る犠牲者が出ている。


その後、牛島率いる 36旅団は、9月中旬に保定、10月 8日に正定、10月 14日には石家荘南郊の内邸まで進撃し、牛島旅団の凄まじい突進ぶりに敵味方も舌を巻いて驚き、華北の戦線に「日本に牛島旅団あり」との勇名をとどろかせた。


11月には、膠着状態にある上海方面の戦勢を打開するため、第 6師団が同方面に投入された。


第 36旅団は上海上陸後、崑山から蘇州の線に沿って進撃し、12月 11日に始まった南京攻略戦に参加した。


南京戦後は、南京郊外の蕪胡地区に駐屯し、1938年 7月に始まった武漢作戦にも、中核部隊として参加している。


同年 12月には第 11軍司令官岡村寧次から牛島に感状が授与されている。同時に陸軍予科士官学校幹事にも任命されている。


教育者として

1939年 3月、牛島は歩兵第 36旅団長を転出し、陸軍予科士官学校校長兼陸軍戸山学校校長に就任。


同年 8月には中将に進級した。


同年 12月第 11師団長に親補されて満洲国とソ連国境の町、虎林に赴任し、対ソ防衛の任にあたる。


翌 1941年 10月には陸軍公主嶺学校校長となる。


この年の 12月 8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦するが、牛島自身は政府・軍統帥部の無謀さと戦争の将来に強い懸念を示したとされる。


牛島自身は平和主義者であり、日中戦争を早く終結させ、北方の脅威であるソ連の脅威に対し万全の備えを講ずるべきというのが牛島の持論だったと言われている。


1942年 4月、牛島は陸軍士官学校校長に就任する。


これは軍事参議官の土肥原賢二、山田乙三教育総監が強く牛島を推薦したからだと言われている。


当時はの世相はシンガポールが陥落し、国内が軍民共に戦勝気分に酔っていた時期であるが、牛島は陸士の教官に対し、士官候補生や教官の間にも驕りや楽観的空気が蔓延していると指摘して注意を与えている。


また、陸士の教授部戦術課長をしていた加藤道雄に対し、従来のマンネリ的な戦術教育を改めて、圧倒的物量を誇るアメリカ合衆国を想定した実戦既応の教育方針を打ち出すよう指示している。


後に加藤大佐がラバウルに参謀として赴任する際には、見聞した米軍の戦法を具体的に知らせるよう頼んでいる。


沖縄の戦い

「沖縄戦」も参照 ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6 )


1944年 9月、戦況が日々悪化する中、牛島は第 32軍司令官に親補され、沖縄に赴任する。


牛島は、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。


当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。


牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。


また 60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。


牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。


八原博通高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持していた。( 一方で、北部にある密林地帯、同地域で「やんばる」と呼ばれるその一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調や餓死者が出るということは容易に想像が出来たのではないか、とする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死であった。ただ、牛島個人としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にもその旨を漏らしている )。


また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。


牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。


県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。


1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸すると、当初は八原高級参謀の立案通りに米軍を沖縄本島内陸部に誘い込んで攻撃するという持久戦を展開した。


しかし、大本営や 32軍を管轄する第 10方面軍から「消極的」であるとその作戦方針を批判され、ただちに同島の飛行場を奪回するよう圧力がかかり、これに積極攻撃論者の長勇参謀長が同調。八原が反対する中、牛島は総攻撃を認可し、5月 4日に攻撃を実行するが、失敗。第 32軍は兵力の半数を失うという損害を被る。


これを受けて、八原高級参謀の発案により、第 32軍司令部が置かれていた首里を放棄し、南部の喜屋武半島に司令部を移動したが、この際に沖縄県民も日本軍と共に南部に逃れ、多くが戦闘に巻き込まれて多大な犠牲者を生んだ。


このことに関して、八原参謀の提案とはいえ、県民のことを深く考慮せずに南部撤退を決済した牛島の判断は誤っていたのではないかと批判される。


最期
6月 23日午前 4時 30分、牛島は長参謀長と摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決をした。


自決の直前、牛島は長と共に東方を拝して「天皇陛下万歳」を三唱。頬には涙が伝っていたという。


午前4時頃、牛島は幕僚と共に、洞窟から外に出て眼下に広がる沖縄の空と海を見渡し、再度洞窟に引き返した。


当初は摩文仁の丘の上で自害するつもりであったが、米軍の攻撃が激しく断念している。


その夜は壕にいた生存者全員が集められ、牛島は皆に「笑って別れよう」と語り、一人ずつに酒とパイナップルの缶詰を振舞い、今までの労をねぎらった。


牛島は、戦闘に汚れた服から礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座した。


牛島は手に銘刀「来国俊」を持ち、刀を腹に突き当てた。


そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官、坂口勝大尉が軍刀を牛島の首に振り落とした。


遺体は鍾乳洞の自然の穴に埋めたと言われているが、今日まで正確な場所は分かっていない。


また、介錯した牛島の首の行方についても、当番兵が抱えたまま手榴弾で自爆した、米軍の砲弾で吹き飛ばされたなどの諸説がある。


一方、元沖縄県知事の大田昌秀は、米国立公文書館から牛島と長勇の最期の様子を記録した文書と二人の遺骸の写真を発見したと主張し、二人の遺骸とされる写真を見る限り、切腹や介錯した後は確認できなかったとし、文書では、牛島と長は青酸カリを含んだ注射器によって服毒自殺したと記されているという[1]。


ただし、写真の遺体の人物については、牛島と長では無いとの意見もある。


沖縄憲兵隊の副官だった人物の証言によると、牛島の遺体を確認したいという米軍の要請により摩文仁の軍司令部壕跡に向かうと、司令部壕の下方 30 ~ 40メートルのところにあるくぼ地に、同じ場所に並べるように石を積んで埋葬されていた牛島と長参謀長の遺体を確認したという。


遺体には首が無く、略章をつけた軍服に白い手袋をしていたとされる[2]。


評価
沖縄戦において、牛島は万事を長勇参謀長ら参謀に一任し、自らは責任のみ負うとした。


しかし、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしば他の参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因ともなった。


また、大打撃を受けた 1945年 5月 4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。


島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行った硫黄島の栗林忠道陸軍大将や、沖縄戦において、玉砕前に戦後の沖縄県民に対して配慮の要望を記述した『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の惜別電文を打った大田実海軍中将と比較すると、沖縄戦での牛島の采配に対しては評価が分かれている。( ただし前者については当時の沖縄県と硫黄島では人口が明らかに違ううえに、船舶の確保が難しい情勢および対馬丸撃沈に代表される制海権・制空権喪失による安全な疎開船運航ができない状況では、単純な比較は難しい )


また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったり自決に追い込まれことへの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったことから[3]、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある。


昭和史家の半藤一利も、自著「指揮官と参謀」の中で牛島個人の人間性や武勇を評価しつつも、「悠揚秦然と微笑をうかべるのみではいけなかった」と第 32軍司令官として全てを参謀まかせにしたことを批判している。


沖縄戦がクローズアップされがちな牛島だが、2.26事件以後に歩兵第 1連隊の新連隊長に着任した際、事件に関わった下士官兵に対し、「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」と恫喝したという。下士官兵は一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命令に従って適法な出動と誤認し襲撃に加わっていた。歩兵第 1連隊第 11中隊の堀口真助二等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じ、連隊長の人間性を疑った」と回想している。


事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤輝三中隊に所属していた下士官兵は殆どが戦死した。


一方で、元陸軍少佐の奥田鑛一郎は、首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第 32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と述べている。


軍事評論家である伊藤正徳は「小学校の校長によし、大学の総長にしてもよし。およそ校長として牛島ほど似合いの人は無い」と天性の教育者であったと評している。


また、アメリカ軍事評論家のハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」と評し ( 田中とは、第二水雷戦隊司令官であった田中頼三海軍中将のこと )、沖縄戦における牛島の采配を高く評価している。


辞世の句

「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」


逸話
昔から戦場で用便を済ます癖があり、必ず見晴らしのいい場所などを選んでいたらしい。中国戦線では用便中に中国軍の 1個分隊が目の前に現れたが、その 1個分隊を捕虜にしたというエピソードも残っている。


ある日、自宅に酔っ払いが表札の「牛島」を「牛鳥」と読み間違え、料亭と間違えて上がって来た事があったが、牛島は嫌な顔をせずに酔っ払いと深夜まで飲み明かしたという[4]。


陸士校長の在任中に校内で火災が発生するという事件が起こっている。


幸い火は懸命の消化活動で幹部室だけで食い止め、生徒宿舎に被害は無かった。


火事の報を聞いた牛島は「私が出向いたからといって、火が消えるわけでは無いだろう」と特に慌てる風でもなく、翌朝普段通りに出勤し、現場を見回った際には怒るわけでもなく「1人も怪我をしなくてよかった。しかし、一角だけ綺麗に焼けたもんだ」と笑い、何事も無かったかのように校長室に入っていき、生徒隊長や幹部らを驚かした。


失火の責任者として中隊長と当番士官は左遷されたが、この件を聞いた東條英機首相 ( 陸相兼務 ) は、牛島に対して責任者を処罰するよう要求し、最前線部隊に転出という懲罰人事にまで言及した。


これに対して牛島は「校長の私が責任をとる。ましてや中隊長を刑罰的に最前線に送るなど絶対反対」と拒否回答を東條に送りつけた。


山田教育総監も牛島の主張を支持したため、結局、牛島と生徒隊長の謹慎処分だけで事は済んだ。


牛島に接したことのある沖縄県民の間では、彼の温厚な人柄を懐かしむ声は多い。


司令部壕掘りを手伝っていた人物の回想では、「穏やかな人で、敬礼すると『学生さん、ご苦労』と言っていた。


靴がすり切れたので、はだしで作業をしていたら、『靴はどうした』と聞いて、早速新しい靴を持ってきた」という。


また、32軍幹部の馬の世話をしていた獣医部の回想では、ある日指定時間に遅れて牛島の馬を連れてきた際、怒鳴られるのを覚悟したが、牛島は「私の方が早く来すぎたから」と語り、怒るどころかにこやかに答えたという。[5]


牛島満の慰霊碑が、鹿児島市加治屋町の甲突川河川敷に建立されている。周囲には桜が植樹されており、鹿児島市民には花見の名所として人気がある。


孫に当たる牛島貞満は東京で小学校の教師をし統合教育に尽力している。


牛島満を演じた人物[
嵐寛寿郎 『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(1962年公開の映画)
小林桂樹 『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年公開の映画)


関連項目
慰霊の日
鹿児島県立鶴丸高等学校


参考文献
「沖縄軍司令官 牛島満」 奥田鑛一郎著 芙蓉書房
「沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯」 小松茂朗著 光人社NF文庫
「指揮官と参謀」 半藤一利著 文春文庫
『歴代陸軍大将全覧 昭和編 太平洋戦争期』半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛 中央公論新社 新書ラクレ


脚注
1. http://www.news.janjan.jp/living/0902/0902187768/1.php
2. http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156404-storytopic-212.html
3. ただし、この文を起草したのは長野英雄作戦参謀で、『生きて虜囚の~』の文は長参謀長が付け加えたものである。
4. 「沖縄軍司令官 牛島満」奥田鑛一郎著 49~50頁
5. http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-154151-storytopic-205.html
(wikiより)


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1769 渡辺沙鴎墓(豊島区南池袋4丁目・雑司が谷霊園)

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渡辺 沙鷗 ( わたなべ - さおう、文久 3年 12月 21日 ( 1864年 1月 29日 ) - 大正 5年 ( 1916年 ) 10月 15日 ) は、名古屋生まれの書家。


名は周、沙鷗は号で、別号に飛清閣主・清華道人・東海道人などがある。若い頃は清華と号した。


業績
明治時代に活躍した能書で、鶴門四天王の一人。


明治時代後期、書を芸術に組み入れようと、「日本書道会」などで展覧会を主宰し、後人の育成にも尽力した。


略歴
文久 3年 12月 ( 1864年 1月 ) 名古屋に生まれる。


幼いときから書を水谷魯堂に学び、12歳のとき中京でその名も高い恒川宕谷 ( 1819年 - 1907年 ) に師事した。


天与の才があり、15歳にして早くも数多い門弟中、助教授に抜擢され、手本を執筆した。


明治 22年 ( 1889年 ) 上京し、日下部鳴鶴の門に入り、その後、鳴鶴の勧めで、巌谷一六、中林梧竹を訪ねる。


日本郵船に勤務の傍ら、鳴鶴・梧竹の益を受け、特に梧竹の書論の影響を受けた。


そして中国の碑帖、元・明より六朝・漢・魏に至る古典を探究し、格調の高い独自の書風を確立した。


明治 40年 ( 1907年 ) 7月、「日本書道会」が創立し、沙鷗は野村素軒・中根半嶺・久志本梅荘らとともに幹事に選ばれた。


そして、明治 44年 ( 1911年 ) 6月、沙鷗主宰の「日本書道会」第 1回展覧会が、両国の回向院で開催された。


40歳代に書いた楷書体の代表作『詩小雅天保』( ししょうがてんぽう ) の明るく素朴な書風から、その手腕のほどが窺える。


大正 5年 ( 1916年 ) 東京にて 52歳で没した。


梧竹の影響

沙鷗は『筆之友』( 明治 33年 ( 1900年 ) に創刊された「書道奨励協会」発行の書道雑誌 ) で、「余の書道研究と梧竹先生の書論」と題して次のように中村梧竹の書論を紹介している。


「現今、師匠の流儀によって型の如き書で満足している者の多いのは誠に遺憾である」


「人にはそれぞれ個性がある。書には筆者の個性が表現されていなければならない」


「書に限らずすべての芸術は人格の表現である。書学を修むる者は徒らに筆論の末技のみに腐心せず、その根本たる精神修養の一大事に考え及ばねばならない」


「書の研究方法としては、日本は勿論、唐宋、六朝辺の大家の書を自分の血肉とし、その後においてはじめて自己の本領を発揮すべきである」


また、文中、沙鷗は、「梧竹先生の説に従い、先生の指導を仰ぎながらその通り学んだ」と述べている。


門人

門人に大橋不染 ( 1873年 - 1922年 ) がいる。


沙鷗同様、50歳という若さで他界しているが、比田井天来は、「大橋君は立派に完成して居った」と賛辞を惜しまなかったという。


関連項目
日本の書道史


参考文献
書道専門誌 『墨』 - 芸術新聞社発行 - 1981年10月臨時増刊 近代日本の書
『書道講座8 書道辞典』 二玄社発行 - 編集責任者 西川寧など - 1969年7月
季刊墨スペシャル第12号『図説 日本書道史』 - 芸術新聞社発行 - 1992年7月

(wikiより)


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1770 静間知次墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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静間知次 ( しずま - ともじ 1876 ‐ 1926 ) 明治 - 大正時代の軍人。


明治 9年 5月 5日生まれ。


日露戦争に野戦鉄道提理部員として従軍。


戦後、陸軍砲工学校教官、イタリア大使館付武官などをつとめ、大正 9年国際連盟空軍代表、13年砲工学校長となる。


14年中将。


15年工兵監となり、同年 12月 7日死去。51歳。


山口県出身。陸軍士官学校卒。旧姓は高柳。


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1771 沖牙太郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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沖 牙太郎 ( おき - きばたろう、1848年 5月 10日 ( 嘉永元年 4月 8日 ) - 1906年 ( 明治 39年 5月 29日 ) は、明工舎 ( 沖電気の前身 ) 創業者。日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した技術者・実業家。


略歴
1848年 5月 10日広島県沼田郡新庄村 ( 現在の広島市西区新庄町 ) に生まれる。


因みに、同日に資生堂創業者の福原有信も産まれている。


1874年 ( 明治 7年 ) 実家の農業を嫌い 27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。


1881年 ( 明治 14年 ) 電信機・電話機・電線・電鈴等の製造、販売を目的として明工舎を設立。


日本初の通信機器メーカー、後の沖電気工業の前身。国産第 1号電話機を製造。

           
1889年 ( 明治 22年 ) 明工舎を沖電気工場と改称。


1906年 ( 明治 39年 5月 29日 ) 死去。


脚注

1. a b c d 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』63-65頁
2. a b c d e f #流される18-26頁
3. 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
4. a b 第2回 起業、そして事業拡大へ|時代とOKI|OKI
5. a b わが国初の通信機器メーカー「明工舎」
6. 最初の197回線 - NTT
7. 沖のあゆみ 電話拡張計画実施でトップメーカーに/WE社との提携交渉


参考文献・ウェブサイト
『日本の創業者 近現代起業家人名事典』2010年、日外アソシエーツ
時代とOKI|OKI
最初の197回線 - NTT
沖牙太郎と 岩垂邦彦―(日本の企業家活動シリーズNo.50) - 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
小林信彦 『流される』 文藝春秋、2011年。


関連項目
岩垂邦彦
小林信彦


外部リンク
朝日日本歴史人物事典『沖牙太郎』 - コトバンク ( http://kotobank.jp/word/%E6%B2%96%E7%89%99%E5%A4%AA%E9%83%8E )
沖のあゆみ ( http://www.oki.com/jp/Home/JIS/Profile/120y/ )
港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)( http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=111 )

(wikiより)


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1772 斎藤利行墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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ちょっと出かけてしまう為、早めに記事更新をします。


夕方の記事更新は、通常通りです。



斎藤 利行 ( さいとう - としゆき、1822年 2月 2日 ( 文政 5年 1月 11日 ) - 1881年 ( 明治 14年 ) 5月 26日 ) は、幕末の土佐藩家老。


明治政府に出仕して刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。旧名は渡辺 弥久馬 ( わたなべ - やくま )。同藩士・斎藤利成の子。


来歴・人物
若くして藩主・山内豊煕の御側物頭として仕えるが、おこぜ組に加わったことから 1843年 ( 天保 14年 ) に反対派によって失脚させられる。


後に吉田東洋の命によって復職し、近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任後、慶応年間には仕置役・家老となる。


1867年 ( 慶応 3年 ) に長崎で起きた土佐藩士によるイギリス水兵殺害事件では、後藤象二郎とともにイギリス公使ハリー・パークスと交渉して補償問題を解決した他、佐々木高行とともに坂本龍馬とも結んで武器調達に活躍した。


明治維新後は名を「斎藤利行」と改名して、新政府に仕える。


1870年 ( 明治 3年 ) には刑部大輔となり、続いて参議として明治政府の中枢に経ち新律綱領編纂にあたるが、翌年西郷隆盛と木戸孝允の対立から全参議が辞任することになり斎藤もこれに従った。


その後、病気のために一時故郷高知県に戻って静養していたが、板垣退助が征韓論政変で下野して自由民権運動を起こすために立志社を結成すると、東京にいる佐々木の依頼を受けて原轍とともにその切り崩しにあたるとともに高知の反板垣勢力の結集にあたることになる。


前者は一定の成果を上げたものの、後者は結果的に旧佐幕派勢力の復権を招き、佐々木・斎藤も板垣と同類 ( 新政府を作った裏切者 ) として糾弾されたために失敗に終わった。


1874年 ( 明治 7年 ) に宮内省に出仕して翌年には元老院議官に任じられて海上裁判所設置に尽力する。


だが、1881年 ( 明治 14年 ) に肺病に倒れ、勲二等旭日重光章を授与されるが、間もなく死去した。墓所は青山霊園にある。
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10642411633.html
317 後藤象二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10662431593.html
333 坂本龍馬・中岡慎太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11008380918.html
661 吉田東洋墓(高知市塩屋崎町2周辺)


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1773 真鍋斌墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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真鍋 斌 ( まなべ - あきら / さかり、1851年 3月 7日 ( 嘉永 4年 2月 5日 ) - 1918年 12月 14日 ) は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。


経歴
長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。


明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。


1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。


陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。


以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第 1局第 3課などを経て、1877年 4月から 10月まで西南戦争に出征した。


陸軍省第 1局第 3課長心得、総務局武学課長、同局第 3課長心得、同課長、歩兵第 3連隊長、第1軍事課長、第 4師団参謀長、第 1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年 7月、陸軍少将に進級。


1900年 7月から 10月まで北清事変に歩兵第 9旅団長として出征した。


その際、清国の馬蹄銀を横領した嫌疑が明るみとなり、1902年 6月に休職となった ( 馬蹄銀事件 )。


将来の陸軍大臣とも嘱望されていたが、その道は馬蹄銀事件により閉ざされた。


1904年 4月、留守第 5師団長を経て、1905年 2月、陸軍中将となり翌年 7月に休職、1907年 11月、予備役に編入された。


1907年 9月、男爵を叙爵し華族となり、貴族院議員 ( 1911年 7月 - 1918年 7月 )、陸軍省参政官 ( 1915年 7月 - 1916年 10月 ) を歴任。


親族

養子 : 真鍋十蔵 ( 司法官 )
娘婿 : 小出覚之助 ( 陸軍少佐 )・林二輔 ( 陸軍少将 )


脚注

1. 『官報』第7315号、明治40年11月14日。
2. 『官報』第503号、大正3年4月6日。


関連項目
義和団の乱


参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)


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実は麻薬や覚醒剤以上に危険なことを、あの福本伸行氏のマンガなどでご説明します。

1774 周布政之助墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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周布 政之助 ( すふ - まさのすけ、1823年 5月 3日 ( 文政 6年 3月 23日 ) - 1864年 10月 26日 ( 元治元年 9月 26日 )) は日本の武士・長州藩士。


諱は兼翼 ( かねすけ )。政之助は通称、変名に麻田公輔、松岡敬助など。


略歴
1823年、長州藩士 ( 大組 219石 ) 周布吉左衛門の 5男として生まれる。


父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を 68石に減ぜられ、わずか生後 6ヵ月で家督を相続した。


来原良蔵や松島剛三らと嚶鳴社を結成し、弘化 4年 ( 1847年 ) に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。


しかし、周布は天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けており、村田の政敵であった坪井九右衛門派の椋梨らと対立することになる。


周布は村田の路線を継ぎ、財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また、桂小五郎・高杉晋作ら吉田松陰の薫陶を受けた若い人材の登用に熱心であったが、藩内の派閥争いに敗れて一時失脚した。


しかし、その実直な性格から多くの人望を集めて藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立った。


本来は攘夷の愚を知る開国論者であり、文久 2年 ( 1862年 ) 頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時は同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一のためにあえて攘夷を唱えた。


守旧派に対抗し、藩政改革の起爆剤とする意図があったとされる。


1864年の禁門の変や第 1次長州征伐に際して事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。


同年 9月、責任を感じて山口矢原 ( 現・山口市幸町 ) にて切腹した。享年 42。


備考
酒癖が悪かったともいわれ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。


舌禍事件の一つとして、1862年に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。

明治期、周布の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。


のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。


子孫
周布藤吾 - 長男。第二次長州征伐で戦死。
周布公平 - 次男。
周布兼道 - 孫 ( 公平の長男 )。


関連項目
幕末の人物一覧
村田清風記念館


外部リンク

墓所:周布政之助 ( http://blog.goo.ne.jp/akiller_2006/e/d5253b2162214270876e8bb5cc5b90ec )
武家家伝_周布氏 ( http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sufu_kz.html )
(wikiより)


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安西水丸さん死去 71歳

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イラストレーターで作家の安西水丸(あんざい・みずまる、本名渡辺昇〈わたなべ・のぼる〉)さんが19日、脳出血のため死去した。71歳だった。


安西さんは17日午後2時ごろ、神奈川県鎌倉市内で執筆中に倒れ、病院で治療を受けていたが19日午後9時7分、亡くなった。


葬儀は22日、親族のみでおこなった。


● 安西 水丸 ( あんざい - みずまる、本名:渡辺 昇 ( わたなべ のぼる )、1942年 7月 22日 - 2014年 3月 19日 ) は、日本のイラストレーター、漫画家、エッセイスト、作家。


来歴[

東京都港区赤坂生まれ。


血液型AB型。7人兄弟の末っ子で姉が 5人いた。一番下の姉とは 7つ離れている。


生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた[1]。


1945年、重い喘息を患い、母の郷里である千葉県千倉町 ( 現・南房総市千倉町 )へと移住[1]。幼少期を千倉で暮らす。


その頃の体験や思い出は、初期の漫画作品、エッセイ、小説など多くの作品に登場している。


「千倉」は安西水丸にとっての、重要なキーワードとなっている。


千倉はすべての心象のルーツであるように描かれている。


1949年、千倉町立七浦小学校に入学[1]。


元来からイラストレーター志望であった。


日本大学豊山高等学校、日本大学藝術学部 美術学科造形コース卒業後、電通にアートディレクターとして就職するも退社。


27歳のころに渡米し現地でADAC ( N.Y.のデザインスタジオ ) へと就職。


帰国後、平凡社のADとなり、そこで当時雑誌『太陽』の編集をしていた嵐山光三郎に誘われたのをきっかけに、デザイナーからイラストレーターへと転向。


ペンネームの「安西」は、嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われ、祖母の苗字「安西」から取った。また「水丸」は、子どもの頃から「水」という漢字が好きだったことから。


また、嵐山の紹介で、ガロ等で多数の漫画も発表していた。


1979年「パレットクラブ」発足。メンバーは、ペーター佐藤、原田治、当時「ポパイ」のアートディレクターの新谷雅弘の4人。パレットクラブから派生した東京築地にあるイラストの学校「パレットクラブ・スクール」に於いては、講師にも就いている。


1981年に安西水丸事務所を設立し、本格的にフリーのイラストレーターとなる。


その後イラストレーターと平行して日藝の講師を 1991年から 2003年まで務める。


2005年に東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。


また、1987年の『青インクの東京地図』以降、エッセイや小説も発表している。


小説の代表作に『メランコリー・ララバイ』、『バードの妹』、『アマリリス』など。


村上春樹とは彼がジャズ喫茶の経営者時代からの付き合いで、親交が深く、共著として『象工場のハッピーエンド』、『村上朝日堂』、『ランゲルハンス島の午後』、『夜のくもざる 』などがある。


また、村上春樹の小説に多数登場する「渡辺昇」あるいは「ワタナベノボル」は、安西水丸の本名が元となっている[2]。


スノードームのコレクターとしても知られ、「日本スノードーム協会」会長 ( 事務局長:百瀬博教 ) であり、また、コレクションを本にしている。


また、ブルーウィローの絵柄の陶器もコレクションしている。


2014年 3月 17日に神奈川県鎌倉市にて執筆中に倒れ、病院に搬送されて治療を受けていたが、3月 19日の 21時 7分、脳出血のために死去した[3]。71歳没。


著書
ピッキーとポッキー あらしやまこうざぶろう、あんざいみずまる 福音館書店, 1976.3

安西水丸ビックリ漫画館 ブロンズ社, 1977.5
ふりかえりおじさん あんざいみずまる コーキ出版, 1979.11
ピッキーとポッキーのかいすいよく あらしやまこうざぶろう、あんざいみずまる 福音館書店, 1980.8
ハナクロ探検隊 けいせい出版, 1981.4
バスにのりたかったおばけ あんざいみずまる 好学社, 1981.7
普通の人 JICC出版局, 1982.12
東京エレジー 青林堂, 1982.5
象工場のハッピーエンド 村上春樹文,安西水丸絵 CBS・ソニー出版, 1983.12
新日本漫遊記 松木直也文 安西水丸画 CBS・ソニー出版, 1984.11
のりものおばけのんのん 矢玉四郎さく 安西水丸え PHP研究所, 1984.9
村上朝日堂 村上春樹,安西水丸 若林出版企画, 1984.7
食卓のプラネタリウム 山本益博著 安西水丸画 講談社, 1984.5
水玉全集 小玉節郎文 安西水丸絵 JICC出版局, 1985.3
安西水丸vs.奥村靫正 安西水丸,奥村靫正 小学館, 1985.10
東京こちょこちょ物語 松木直也文 安西水丸画 若林出版企画, 1985.10
ランゲルハンス島の午後 村上春樹文,安西水丸絵 光文社, 1986.11
ぷーぷーぷー 嵐山光三郎文 安西水丸絵 あすなろ書房, 1986.10
村上朝日堂の逆襲 村上春樹,安西水丸 朝日新聞社, 1986.6
青インクの東京地図 講談社, 1987.3
日出る国の工場 村上春樹,安西水丸 平凡社, 1987.4
がたんごとんがたんごとん 福音館書店, 1987.6
青の時代 青林堂, 1987.4
春はやて 筑摩書房, 1987.12
ポストカード 学生援護会, 1987.5
黄色チューリップ 角川書店, 1988.6
アマリリス 新潮社, 1989.6
青山の青空 PHP研究所, 1989.8
70パーセントの青空 角川書店, 1989.10
シネマ・ストリート キネマ旬報社, 1990.2
冬の電車 徳間書店, 1990.10
朱色の島バリ 稲越功一,安西水丸 扶桑社, 1990.8
手のひらのトークン 新潮社, 1990.10
リヴィングストンの指 マガジンハウス, 1990.10
Mysteric restaurant A to Z 架空社, 1990.7
エンピツ絵描きの一人旅 新潮社, 1991.10
十五歳のボート 平凡社, 1992.3
平成版普通の人 南風社, 1993.4
エンピツ画の風景 日本文芸社, 1993.7
荒れた海辺 新潮社, 1993.12
シネマ・ストリートpart2 キネマ旬報社, 1993.9
空を見る PHP研究所, 1994.7
町の誘惑 安西水丸,稲越功一 宝島社, 1994.9
草のなかの線路 徳間書店, 1994.1
ガラスのプロペラ 誠文堂新光社, 1994.4
ぼくの映画あそび 広済堂出版, 1995.3
夜のくもざる 村上春樹,安西水丸 平凡社, 1995.6
丘の上 文藝春秋, 1995.11
ストローハウスからの手紙 毎日新聞社, 1995.5
スノードーム 安西水丸,百瀬博教 日本スノードーム協会 1996.2
青山の青空2 清水書院, 1996.4
普通の食事 山本益博文 安西水丸絵 マガジンハウス, 1996.9
アトランタの案山子、アラバマのワニ 安西水丸文、小平尚典写真 小学館, 1996.8
村上朝日堂はいかにして鍛えられたか 村上春樹,安西水丸 朝日新聞社, 1997.6
スケッチブックの一人旅 JTB, 1997.11
夜の草を踏む 光文社, 1998.7
CD-ROM版村上朝日堂 夢のサーフシティー 村上春樹,安西水丸 朝日新聞社, 1998.7
バードの妹 平凡社, 1998.9
安西水丸の二本立て映画館 前篇 朝日新聞社, 1998.11
安西水丸の二本立て映画館 後篇 朝日新聞社, 1998.11
たびたびの旅 フレーベル館, 1998.10
カレーを食べに行こう 安西水丸とカレーの地位向上委員会編 平凡社, 1998.3
青山へかえる夜 マガジンハウス, 1998.1
メランコリー・ララバイ 日本放送出版協会, 1998.5
ふわふわ 村上春樹,安西水丸 講談社, 1998.6
ぼくのいつか見た部屋 KSS出版, 1998.8
安西水丸が見た建設の世界 安西水丸,増田彰久 大成建設広報部, 1999.3
三月の魚 岸田ますみ画集 岸田ますみ画、安西水丸詩 新潮社, 1999.8
ニッポン・あっちこっち 家の光協会, 1999.11
東京美女2 小沢忠恭写真、安西水丸文 モッツ出版, 2000.7
4番目の美学 心交社, 2000.6
さるとかに 日本昔話 蘭巴文、安西水丸絵 小学館, 2000.3
メロンが食べたい 実業之日本社, 2001.10
おんなの仕種 中央公論新社, 2001.3
CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団 村上春樹,安西水丸 朝日新聞社, 2001.4
No idea 安西水丸,和田誠 金の星社, 2002.10
サボテンの花 実業之日本社, 2002.6
美味しいか恋しいか 光文社, 2002.8
魚心なくとも水心 ぴあ, 2002.3
少年カフカ 村上春樹,安西水丸 新潮社, 2003.6
青豆とうふ 安西水丸,和田誠 講談社, 2003.9
彼はメンフィスで生まれた アメリカン・ジャーニー 安西水丸文、小平尚典写真 阪急コミュニケーションズ, 2005.7
あげたおはなし 中山千夏ぶん 安西水丸え 自由国民社, 2005.5
クッキーのおべんとうやさん ポプラ社, 2005.7
テーブルの上の犬や猫 安西水丸,和田誠 文藝春秋, 2005.7
りんごりんごりんご・りんごりんごりんご 主婦の友社, 2006.1
クッキーのぼうしやさん ポプラ社, 2006.1
大衆食堂へ行こう 朝日新聞社, 2006.8
おばけのアイスクリームやさん 教育画劇, 2006.6
はるのどきどきマジック! きむらゆういちのしかけクイズえほん きむらゆういち作、安西水丸絵 教育画劇, 2007.2
村上かるた うさぎおいしーフランス人 村上春樹,安西水丸 文藝春秋, 2007.3
おさるのケーキやさん 教育画劇, 2007.6


翻訳書
ハリーズ・バー 世界でいちばん愛されている伝説的なバーの物語 アリーゴ・チプリアーニ にじゅうに, 1999.2
真夏の航海 トルーマン・カポーティ ランダムハウス講談社, 2006.9


脚注

1. a b c 『夢のサーフシティー』(1998年7月、朝日新聞社) 「安西水丸の宝箱」ホームページ展
2. 和田誠『仕事場対談』
3. 安西水丸さん死去 イラストレーター・作家 71歳 朝日新聞 2014年3月24日閲覧


外部リンク

(wikiより)


1 ほのぼのとした絵が好きだった。合掌。









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  • 青山時間|安西水丸の青山日記
  • 東京イラストレーターズソサエティ (TIS) | 作家 | 安西水丸
  • 1775 牧野忠泰墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    牧野 忠泰 ( まきの - ただひろ、弘化 2年 9月 16日 ( 1845年 10月 16日 ) - 明治 15年 ( 1882年 ) 8月 1日 ) は、三根山 ( 嶺岡 ) 藩主。


    肥前国福江藩主・五島盛繁の次男・五島盛保の長男。


    養父は牧野忠興。正室は牧野忠恭の娘。継室は牧野康哉の娘。継々室は挙母藩主内藤政成の子、内藤政又の娘。


    天保 6年 ( 1835年 ) 生まれとも。官位は従五位下、伊勢守。


    旗本から大名へ
    安政元年 ( 1854年 ) に三根山領主で旗本の牧野忠興の養子となる。


    安政 4年 ( 1857年 ) 2月、忠泰の襲封とともに義父で宗家越後長岡藩主・牧野忠恭の願いにより、それまで 6000石の家格寄合の旗本であったが、新田分 5000石を入れて 11000石に高直しされ、諸侯となり従五位下伊勢守に叙任される。


    戊辰戦争
    慶応 4年 ( 1868年 ) 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し、本家の長岡藩とともに兵を参加させた。


    しかし、長岡城が陥落すると勤皇側であった与板藩に家老の神戸十郎右衛門を派遣して援助を仰いだが、与板藩にも、最早その余裕は無く、新政府軍の出雲崎屯所に出兵する旨を伝えていた。


    しかし、その翌日に庄内藩兵が三根山藩領内に侵攻、大砲を向けて威嚇した。


    宗家の長岡城が落城しても傍観したことに対して、進退を明らかにするよう脅しをかけたのである。


    三根山藩に庄内藩に抗する力は無く、野積・寺泊・出雲崎に奥羽越列藩同盟側として三根山藩兵を出兵させている。


    新潟に新政府軍が上陸すると戦局は決した。


    新潟・長岡が陥落すると同盟軍側は退却を開始、三根山藩兵は藩内に帰還したが、長岡・新潟の双方からの新政府軍に挟撃される形となった。


    弥彦口、赤塚口から挟撃する新政府軍に対して、「新政府軍に加担したかったが庄内藩に抗することができず、やむを得ず戦った」旨の嘆願書を提出。


    忠泰と藩兵は新潟に出兵し、新政府軍に恭順した。


    ここで三根山藩、そして牧野忠泰の罪は赦されるものの、忠泰は謹慎処分を受ける。


    また、83名の藩兵を与板藩等とともに派遣して、庄内藩と戦う。


    庄内口での働きぶりが認められ、忠泰の謹慎が解かれることとなった。


    そして賊軍とされた、宗家長岡藩へ寛大な処置を願う嘆願書を、新政府軍に提出した。


    また、三根山藩は降伏後の働きにより 500石減封に留まった。


    しかし、12月に本家の長岡藩に連座する形での転封命令が出る。


    翌、明治 2年 ( 1869年 ) に信濃国伊那に決定したが、長岡藩と一緒に懇願して、転封の撤回に成功した。


    明治維新後
    明治 3年 ( 1870年 ) 5月、牧野忠泰は長岡藩の窮状に心を痛め、米百俵を送る。


    同年 10月 29日、峰山藩と紛らわしい為、嶺岡 ( 峰岡 ) 藩と改称。


    明治 17年 ( 1884年 ) 7月 8日、忠泰はすでに没していたので長女の千代子に子爵の爵位を授爵した。


    後に長女の千代子の養子・牧野忠良 ( 伊達宗城の七男 ) が家督を継いだ。


    墓地は東京都港区青山墓地。
    (wikiより)


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    1776 瀬脇寿人(手塚律蔵)墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    生年:文政 5. 6. 8 ( 1822. 7. 25 )


    没年:明治 11. 11. 29 ( 1878 ) 幕末・明治前期の蘭・英学者。


    防州小周防村 ( 山口県光市 ) 生まれ。


    父は医師の手塚治孝 ( 寿仙 )、母は瀬脇氏。


    17歳からの 4年間長崎の高島秋帆に砲術を、21歳からの 4年間は江戸の坪井信道に蘭学を学んだ。


    嘉永 4 ( 1851 ) 年、佐倉藩 ( 藩主は堀田正睦 ) に召され,蘭学教官として江戸藩邸で教育を開始、のち又新塾を開いた。


    英語の重要性を早くから認識、門人から西周、三宅秀、津田仙など優れた英学者を輩出した。


    攘夷論者の襲撃後、後難を恐れて瀬脇良弼と改名。


    維新後外務省に出仕し、ロシア・朝鮮事情を視察。


    ウラジオストク駐在より帰国途中病死、墓は青山墓地。


    関連情報
    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10803893819.html
    476 高島秋帆墓(文京区向丘1・大円寺)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11511900034.html
    1466 西周墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11532272378.html
    1475 津田仙墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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    1777 内藤政義墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    内藤 政義 ( ないとう - まさよし、文政 3年 3月 3日 ( 1820年 4月 15日 )) - 明治 21年 ( 1888年 ) 11月 18日 ) は、日向延岡藩の第 7代藩主。延岡藩内藤家宗家 12代。


    近江国彦根藩主・井伊直中の十五男。井伊直弼の同母弟に当たる。


    正室は溝口直諒の娘、継室は立花鑑賢の娘。初名は井伊直恭。官位は従五位下、能登守、右近将監。通称は帯刀。


    文政 3年 ( 1820年 ) 3月 3日生まれ。


    先代藩主の内藤政順に嗣子が無かったため、兄の直弼とともに政順の養子候補となる。


    結果、後嗣は直恭に決まり、名を政義に改めて延岡藩世嗣となる。


    天保 5年 ( 1834年 )、政順の死により後を継いだ。


    藩政においては天保 12年 ( 1841年 )、嘉永元年 ( 1848年 ) の相次ぐ飢饉における救済対策、軍制改革、学制改革、新田開発などの改革に従事している。


    嘉永 3年 ( 1850年 )、藩校学寮を「廣業館」と改称した。


    文久 2年 ( 1862年 ) 10月 24日、養嗣子の内藤政挙に家督を譲って隠居し、明治 21年 ( 1888年 ) 11月 18日に 69歳で死去した。


    法号:興徳院行誉立道常山居士。墓所:東京都港区の青山墓地。
    (wikiより)


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    1778 志賀三左衛門墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    文政 10年 ~ 明治 39年 ( 1828 ~ 1906 )


    五太夫、直道。中村藩士。


    嘉永 5年、御仕法掛見習代官次席。


    安政 1年、二宮尊徳に随身。


    同 3年、御仕法掛中頭次席。


    同 5年、日光今市詰めとなり、妻子ともに日光役宅に住まいました。


    小説家・志賀直哉の祖父。


    関連情報
    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11434475736.html
    1249 志賀直哉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11179759070.html
    934 二宮尊徳墓碑(文京区本駒込3-19-17・吉祥寺)


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    1779 坂田警軒墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    坂田 警軒 ( さかた - けいけん、天保 10年 5月 5日 ( 1839年 6月 15日 ) - 明治 32年 ( 1899年 ) 8月 15日 ) は、明治期の漢学者、衆議院議員。


    名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。


    経歴

    備中国川上郡九名村 ( 現・岡山県井原市 ) に生まれる。阪谷朗廬の甥。


    嘉永 6年 ( 1853年 ) に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。


    万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。


    慶応元年 ( 1865年 ) に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応 3年 ( 1867年 ) に帰郷して岡山藩家老・池田氏の賓師から、明治元年 ( 1868年 ) に阪谷朗廬の後をうけて第 2代興譲館館長に就任。


    明治 23年 ( 1890年 ) に岡山県選出で第 1回衆議院議員総選挙に当選 ( 以後 2回当選 )。


    明治 26年 ( 1893年 ) には東京に移り、慶應義塾及び高等師範学校で講師を務めた。


    死没に際して従五位に叙される。


    参考文献
    いばらの偉人バックナンバー ( http://www.city.ibara.okayama.jp/mahoroba/hp/ijin-bn.html#1003 )


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10694826710.html
    369 安井息軒墓(文京区千駄木5・養源寺)


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    1780 松尾相永墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    松尾相永 ( まつお - すけなが )


    生年:文政 11年 ( 1828) )
    没年:明治 10年. 12月 ( 1877) )


    幕末の非蔵人。


    公家と地下官人の間にあり、御所内の雑務担当を職務とする身分の出身。


    通称但馬。


    安政 5年 ( 1858 ) 3月、同志の非蔵人 50名余と条約調印反対を建議。


    のち尊攘運動に接近し、文久 3年 ( 1863 ) の 8月 18日の政変で参朝停止の処分を受ける。


    慶応 3年 ( 1867 ) 1月処分解除、同年 12月、王政復古の前日には岩倉邸にあり、鴨脚光長、松尾相保、中川元績、吉田良栄ら非蔵人と共に政変の準備に当たる。


    翌明治 1年 ( 1868 ) 参与、嘉仁親王に従い会津攻撃に参画。


    次いで宮内省に入る。


    同 10年王政復古の功を追賞され、500円を下賜された。

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    1781 斎藤茂吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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    斎藤 茂吉 ( さいとう - もきち、1882年 5月 14日 ( 戸籍では 7月 27日 ) - 1953年 2月 25日 ) は、山形県南村山郡金瓶村 ( 現在の上山市金瓶 ) 出身の歌人、精神科医である。


    伊藤左千夫門下。


    大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。


    長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香がいる。また、妻の弟・齋藤西洋の妻の兄は堀内敬三。


    概要
    守谷伝右衛門熊次郎の三男。父方の祖父の金沢治右衛門は和歌を嗜んだ。


    守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、親戚で浅草の医師の斎藤紀一の家に養子に入ることとなった。


    だが、後に結婚した紀一の長女・輝子は派手好きな女性で、律儀な茂吉とは性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。


    守谷家は近所の時宗 ( のち浄土宗 ) 宝泉寺の檀家であり、茂吉も住職佐原窿応の薫陶を受けた。


    第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。


    また時宗大本山 ( のち浄土宗本山 ) 蓮華寺 49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。


    養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。


    中学時代から短歌の創作を開始する。


    高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。


    精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。


    また、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『念珠集』などのすぐれた随筆も残した。太平洋戦争中は積極的に戦争協力していたために、戦後になってからは批判にさらされた。


    生涯に全17冊の歌集を発表し、全 17907首の歌を詠んだ。


    年譜
    1882年 ( 明治 15年 ):5月 14日、山形県南村山郡堀田村大字金瓶に出生 ( 戸籍上は届出遅れにより 7月 27日 )


    1896年 ( 明治 29年 ):上山尋常高等小学校高等科卒業。

     ・東京府開成中学校 ( 現・開成高 ) に編入し卒業

     ・正則英語学校 ( 現・正則学園高校 ) に入学し卒業


    1905年 ( 明治 38年 ):正岡子規『竹の里歌』に出会い、作歌を志す。

     ・第一高等学校 ( 現在の東京大学教養学部 ) 第三部卒業


    1906年 ( 明治 39年 ):伊藤左千夫の門下となる。


    1910年 ( 明治 43年 ):東京帝国大学医科大学 ( 現在の東大医学部 ) 医学科卒業


    1911年 ( 明治 44年 ):東大教室と巣鴨病院勤務。

     ・「アララギ」の編集を担当


    1913年 ( 大正 2年 ):5月、生母いく死去。

     ・7月、師・伊藤左千夫死去


    1914年 ( 大正 3年 ):4月、養家の長女、13歳年下の齋藤輝子 ( 19歳 ) と結婚。


    1917年 ( 大正 6年 ):官立長崎医学専門学校 ( 現在の長崎大学医学部 ) 精神病科第 2代教授 ( 先輩で文学を通じて交流のあった石田昇のあとをうけたもの )


    1921年 ( 大正 10年 ):10月、欧州留学に出発 ( ウィーン大学およびミュンヘン大学に 4年間留学 )


    1924年 ( 大正 13年 ):10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。

     ・12月、青山脳病院全焼


    1925年 ( 大正 14年 ):1月、帰国


    1926年 ( 大正 15年 ):青山脳病院復興


    1927年 ( 昭和 2年 ):青山脳病院院長

    1929年 ( 昭和 4年 ):11月、朝日新聞社機コメット 102号機で東京、箱根等の上空を約 2時間飛翔


    1933年 ( 昭和 8年 ):ダンスホール事件


    1937年 ( 昭和 12年 ):帝国芸術院会員


    1940年 ( 昭和 15年 ):『柿本人麿』で帝国学士院賞受賞


    1945年 ( 昭和 20年 ):太平洋戦争の悪化を理由に院長を辞職 ( 病院は東京都に移管され、後に東京都立梅ヶ丘病院となる )。

     ・4月、山形県上ノ山町金瓶に疎開。

     ・5月、青山脳病院および自宅が空襲により全焼


    1946年 ( 昭和 21年 ):昭和 22年度以降 26年度迄歌会始選者


    1948年 ( 昭和 23年 ):朝日新聞歌壇選者


    1950年 ( 昭和 25年 ):歌集『ともしび』で第 1回読売文学賞詩歌賞受賞


    1951年 ( 昭和 26年 ):文化勲章受章


    1952年 ( 昭和 27年 ):「斎藤茂吉全集」( 岩波書店 ) 配本開始


    1953年 ( 昭和 28年 ):2月 25日死去


    1953年 ( 昭和 28年 ):3月 2日築地本願寺にて葬儀及び告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」


    私生活

    1914年 ( 大正 3年 ) 4月、養父・斎藤紀一の長女で13歳年下で当時 19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の婿養子となった。


    結婚 2年後の 1916年 ( 大正 5年 ) には、長男・茂太が誕生している。


    養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘・輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。


    しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった[4]。


    輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。


    欧州留学中の 1924年 ( 大正 13年 ) 7月には現地に輝子を迎え、共にヨーロッパ各地を旅行 (「歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ」)、滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記している。


    帰国後の 1925年 ( 大正 14年 ) 2月には長女・百子、1929年 ( 昭和 4年 ) 10月には次女・昌子が誕生した。次男・宗吉は年譜の通り。


    1933年 ( 昭和 8年 )、ダンス教師が華族や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとするスキャンダル、「ダンスホール事件」が発生した。


    この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが大新聞をはじめとするメディアに報じられ[5]、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。


    この事件の結果、夫婦は以後約 10年ほどに渡って別居することになった。


    輝子は、母の生家がある秩父や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・上山の旅館 「山城館」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた[6]。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。


    その後、大東亜戦争中に輝子が茂吉の故郷・山形に疎開することになったのを機に 1945年 ( 昭和 20年 ) から同居を再開、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。


    輝子自身は、80歳を超えても世界中を旅行し、エベレスト登山にまで挑むような活発な女性であった。


    性格
    かなりの食いしん坊であった。中でも鰻が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の缶詰を食べていた[7]。


    味噌汁の具にも口うるさく注文し、家人からネギもあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほどこだわった。


    非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。


    その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった[8]。茂吉が風邪で寝ていた時、ぜひともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。


    あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産のカステラを食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

    癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。


    根に持つタイプで、「病雁論争」では自身の作品をこき下ろした太田水穂に対し「水穂征伐」なる反論を書き「僕にかりそめにも刃向かうごとき者がゐたなら必ず死ぬ。水穂もそろそろ要心せよ。」「そんな低級魯鈍者流ではもはや僕の論敵にはなれぬ。」などと云ったかなりどぎつい表現を用いて相手に挑んだことがあった。


    入院患者に頬を平手打ちされたとき、どのようにして仕返ししてやろうか一人妄想にふけっていたと随筆「瞬間」に記している。


    留学時代ミュンヘンでエミール・クレペリンに握手を求めて拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。

    粘着性気質で、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。


    子供のころ質素倹約を旨とした農村社会の生活をしていたので、物を大事にする傾向が強かった。妻との旅行中、ドイツの山間の駅で絵葉書を物色中に、汽車が妻を乗せたまま出発、慌てた茂吉は猛スピードで追いかけ辛うじて飛び乗った。この時もきちんと金を払って絵葉書を買ってから汽車を追いかけたという。


    逸話
    終戦後、戦意高揚の和歌を多く作成し非難を浴びたが、茂吉自身は狂信的な国粋主義者でもなく、戦争や皇室に関しては平均的な日本人の感情を持っていた。


    それでも昭和天皇とマッカーサー元帥との有名な会見の写真が新聞に掲載された時は、憤慨し「ウヌ、マッカーサーの野郎」と日記に書きしるしている。


    「もきち」という名前は当時としても古臭いイメージがあったため、養父の勧めにより「しげよし」と読ませていた時期がある。


    医者としても、かなりの腕を持ち、患者にはやさしく接して評判が良かった。


    ドイツ留学時代から膨大な精神医学書を購入し、論文を著述する計画であったが、これらの既に日本に送り届けてあった書籍を留学からの帰朝直前に青山脳病院の火災で焼いてしまった。この火災の原因は茂吉の帰朝を祝う餅つきの残り火であった。


    文学関係者では永井荷風や芥川龍之介、宇野浩二も診察を受けた。


    とくに芥川の神経衰弱から来る不眠症には真剣に接し、さまざまな療養法を手紙でアドバイスしたり、臭素加里やアヘンチンキ、ドイツバイエル社製のべロナール ( バルビタール ) などの睡眠薬を施した。


    それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。


    夜尿症で中学時まで寝小便が治らなかった。息子の斎藤茂太やその孫にまで遺伝していた。普段も頻繁な便意に悩まされ、疎開中には、バケツを借りて用を足していた。バケツには「極楽」と名付けていたが、使用後、「洗えばいい。」とそのバケツに野菜などを入れて周囲を驚かせた。


    学生時代の北杜夫 ( 宗吉 ) が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。


    だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた[9]。


    代表歌
    ・「赤光」

     ・はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に ( 1905年 ( 明治 38年 ))


     ・蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし ( 1906年 ( 明治 39年 ))


     ・月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも ( 1907年 ( 明治 40年 ))


     ・高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり ( 1908年 ( 明治 41年 ))


     ・萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ ( 1909年 ( 明治 42年 ))


     ・墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ ( 1910年 ( 明治 43年 ))


     ・生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや ( 1911年 ( 明治 44年 ))


     ・けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは ( 1912年 ( 大正元年 ))


     ・啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに ( 1913年 ( 大正 2年 ))


    ・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる

       
    ・死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる 


    ・のど赤き玄鳥 ( つばくらめ ) ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり 


    ・どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも


    ・めんどりら砂浴びゐたれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり


    ・「あらたま」

     ・あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり


     ・夕されば大根の葉に降るしぐれいたく寂しく降りにけるかも ( 1914年 ( 大正 3年 ))


     ・朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山 ( 1917年 ( 大正 6年 ))


    ・「つゆじも」

     ・あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして


     ・「遠遊」

     ・Praterにひとり来たりて奇術師と蚤戦争と泣く小劇と


    ・「遍歴」

     ・体ぢゆうが空 ( から ) になりしごと楽にして途中靴墨とマッチとを買ふ


    ・「ともしび」

     ・家出てわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり


    ・「たかはら」

     ・はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ ( 1929年 ( 昭和 4年 ))


     ・電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾


    ・「連山」

     ・機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵をわれは思ほゆ ( 1930年 ( 昭和 5年 ))


    ・「石泉」

     ・おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬか ( 1932年 ( 昭和 7年 ))


    ・「白桃」

     ・新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり ( 1934年 ( 昭和 9年 ))


     ・ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行したりし樂も悲しも 


     ・陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ


    ・「暁紅」

     ・ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり ( 1935年 ( 昭和 10年 ))


    ・「寒雲」

     ・歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る ( 1937年 ( 昭和 12年 ))


    ・「のぼり路」

     ・交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人も一心となる ( 1939年 ( 昭和 14年 ))


    ・「霜」

    体に自浄作用のあることを吾聞きしより三十三年経たり ( 1941年 ( 昭和 16年 ))


     ・楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに与へてやまず ( 1942年 ( 昭和 17年 ))


    ・「小園」

     ・どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の実煮たり ( 1943年 ( 昭和 18年 ))


     ・鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ ( 1944年 ( 昭和 19年 ))


     ・この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし ( 1945年 ( 昭和 20年 ))


     ・このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね ( 1945年 ( 昭和 20年 ))


     ・沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ ( 今昔秀歌百撰 78 )


    ・「白き山」

     ・水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども ( 1946年 ( 昭和 21年 ))


     ・最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも ( 1946年 ( 昭和 21年 ))


     ・勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや ( 1947年 ( 昭和 22年 ))


    ・「つきかげ」

     ・たかむらの中ににほへる一木あり柿なるやといへば「応」とこそいへ ( 1948年 ( 昭和 23年 ))


     ・時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人 ( おいびと ) われは ( 1949年 ( 昭和 24年 ))


     ・円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ ( 1950年 ( 昭和 25年 ))


     ・おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震 ( なゐ ) ふるふころ ( 1951年 ( 昭和 26年 ))


     ・梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心 ( なかど ) にてもの栄 ( は ) ゆるらし ( 1952年 ( 昭和 27年 ))


    著書
    歌集

    以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。


    歌集名 制作年 ( 発行所、上梓年 )
    『赤光』明治38 - 大正2 (東雲堂書店、1913年(大正2年)10月)
    『あらたま』 大正2 - 6(春陽堂、1921年(大正10年)1月)
    『朝の蛍』?(改造社、1925年(大正14年)4月) 自選歌集
    『つゆじも』 大正6 - 11(岩波書店、1946年(昭和21年)8月)
    『遠遊』 大正11 - 12 (岩波書店、1947年(昭和22年)8月)
    『遍歴』 大正12 - 14 (岩波書店、1948年(昭和23年)4月)
    『ともしび』 大正14 - 昭和3(岩波書店、1950年(昭和25年)1月)
    『たかはら』 昭和4 - 5(岩波書店、1950年(昭和25年)6月)
    『連山』 昭和5(岩波書店、1950年(昭和25年)11月)
    『石泉』 昭和6 - 7(岩波書店、1951年(昭和25年)6月)
    『白桃』 昭和8 - 9(岩波書店、1942年(昭和17年)2月)
    『暁紅』 昭和10 - 11(岩波書店、1940年(昭和15年)6月)
    『寒雲』 昭和12 - 14(古今書院、1940年(昭和15年)3月)
    『のぼり路』 昭和14 - 15(岩波書店、1943年(昭和18年)11月)
    『霜』 昭和16 - 17(岩波書店、1951年(昭和26年)12月)
    『小園』 昭和18 - 21(岩波書店、1949年(昭和24年)4月)
    『白き山』 昭和21 - 22(岩波書店、1949年(昭和24年)8月)
    『つきかげ』 昭和23 - 27(岩波書店、1954年(昭和29年)2月) 遺作


    歌論・随筆[編集]
    『短歌私抄』(白日社、1916年(大正5年)4月)
    『続短歌私抄』(岩波書店、1917年(大正6年)4月)
    『童馬漫語』(春陽堂、1919年(大正8年)8月)
    『金塊集私抄』(春陽堂、1926年(大正15年)4月)
    『短歌写生の説』(鉄塔書院、1929年(昭和4年)4月)
    『念珠集』(鉄塔書院、1930年(昭和5年)8月)
    『新選秀歌百首』(改造文庫、1933年(昭和8年)5月)
    『柿本人麿(総論篇)』(岩波書店、1934年(昭和9年)11月)
    『柿本人麿(鴨山考補注篇)』(岩波書店、1935年(昭和10年)10月)
    『柿本人麿(評釈篇巻之.上)』(岩波書店、1937年(昭和12年)5月)
    『万葉秀歌(上下)』(岩波新書、1938年(昭和13年)11月)-※数度改版され重刷。
    『柿本人麿(評釈篇巻之.下)』(岩波書店、1939年(昭和14年)2月)
    『不断経』(書物展望社、1940年(昭和15年)4月)
    『高千穂峰』(改造社、1940年(昭和15年)6月)
    『柿本人麿(雑纂篇)』(岩波書店、1940年(昭和15年)12月)
    『伊藤左千夫』(中央公論社、1942年(昭和17年)8月)
    『源実朝』(岩波書店、1943年(昭和18年)6月)
    『小歌論』(第一書房、1943年(昭和18年)11月)
    『童馬山房夜話第一』(八雲書店、1944年(昭和19年)7月)
    『童馬山房夜話第二』(八雲書店、1944年(昭和19年)9月)
    『文学直路』(青磁社、1945年(昭和20年)4月)
    『短歌一家言』(斎藤書店、1947年(昭和22年)1月)
    『作歌実語抄』(要書房、1947年(昭和22年)4月)
    『万葉の歌境』(青磁社、1947年(昭和22年)4月)
    『童牛漫語』(斎藤書店、1947年(昭和22年)7月)
    『茂吉小文』(朝日新聞社、1949年(昭和24年)2月)
    『島木赤彦』(角川書店、1949年(昭和24年)3月)
    『幸田露伴』(洗心書林、1949年(昭和24年)7月)
    『近世歌人評伝』(要書房、1949年(昭和24年)9月)
    『明治大正短歌史』(中央公論社、1950年(昭和25年)10月)
    『続明治大正短歌史』(中央公論社、1951年(昭和26)3月)
    『歌壇夜叉語』(中央公論社、1951年(昭和26)4月)


    以下、文庫再刊
    『斎藤茂吉随筆集』 阿川弘之・北杜夫編、岩波文庫、1986年(昭和61年)
    『念珠集』 講談社文芸文庫、2004年(平成16年)
    『島木赤彦/斎藤茂吉』 近代浪漫派文庫19:新学社、2006年(平成18年)

    参考文献[編集]
    北杜夫 『青年茂吉――「赤光」「あらたま」時代』 岩波書店、のち岩波現代文庫 ISBN 4006020279
    北杜夫 『壮年茂吉――「つゆじも」~「ともしび」時代』  岩波現代文庫 ISBN 4006020287
    北杜夫 『茂吉彷徨――「たかはら」~「小園」時代』  岩波現代文庫 ISBN 4006020295
    北杜夫 『茂吉晩年――「白き山」「つきかげ」時代』  岩波現代文庫 ISBN 4006020309
    北杜夫 『楡家の人々』 新潮文庫
    「アララギ 斎藤茂吉追悼号」(1953年(昭和28年)10月号)
    山口茂吉・柴生田稔・佐藤佐太郎編 
    『斎藤茂吉歌集』 岩波文庫 ISBN 4003104420『斎藤茂吉歌論集』 岩波文庫 ISBN 4003104439、柴生田稔編
    中野重治 「斎藤茂吉ノート」 ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08180-1
    土屋文明編 「斎藤茂吉短歌合評 上下」 明治書院 1985年(昭和60年)
    佐藤佐太郎  斎藤茂吉秀歌(中央公論社) 斎藤茂吉秀歌選(寶文館) 斎藤茂吉研究(宝文館) 斎藤茂吉言行(角川書店) 童馬山房隨聞(岩波書店) 茂吉解説(彌生書房) 茂吉秀歌 上・下巻(岩波書店)
    岡井隆 『斎藤茂吉と中野重治』 砂子屋書房 1993年(平成5年)
    塚本邦雄 「茂吉秀歌」全5冊、 各文藝春秋、新版・講談社学術文庫
     「茂吉秀歌『赤光』百首」、「茂吉秀歌『あらたま』百首」、「茂吉秀歌『つゆじも』『遠遊』『遍歴』『ともしび』『たかはら』『連山』『石泉』百首」、「茂吉秀歌『白桃』『暁紅』『寒雲』『のぼり路』百首」、「茂吉秀歌『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』百首」
    秋葉四郎 『新論 歌人茂吉』(角川書店) 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版) 『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)


    伝記文献
    斎藤茂太 『茂吉の体臭』 岩波書店、1964年(昭和39年)
    岩波現代文庫で再刊、2000年(平成12年)柴生田稔 『斎藤茂吉伝』 新潮社、1979年(昭和54年)
    柴生田稔 『続斎藤茂吉伝』 新潮社、1981年(昭和56年)
    品田悦一 『斎藤茂吉 あかあかと一本の道とほりたり』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2010年(平成22年)


    関連項目

    短歌
    茂吉記念館前駅
    赤光
    歌人一覧


    脚注

    1. 戸籍では明治15年7月27日生
    2. 斎藤茂太 「赤いレンガ」 『医学芸術』 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年 坪井医院(千代田区神田和泉町1)のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧
    3. a b c d e f 「斉藤茂吉略年譜」 財団法人 斎藤茂吉記念館
    4. このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている
    5. この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日
    6. 山上次郎 文芸春秋 p359
    7. 齋藤茂吉全集第三十一巻P540およびP681(岩波書店)
    8. 北杜夫『どくどるマンボウ青春記』
    9. 北杜夫「マンボウ最後の大バクチ」新潮社


    外部リンク
    斎藤茂吉記念館 ( http://www.mokichi.or.jp/ )
    斎藤茂吉:作家別作品リスト - 青空文庫 ( http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1059.html )
    ISIS本座「龍は眠っている」 第12回 人間のいる歌~斎藤茂吉 茂吉を詠みこんだ歌を紹介 ( リンク切れ )
    今昔秀歌百撰 78齋藤茂吉 ( http://researchmap.jp/jo6xnvb0i-1787586/#_1787586/ )
    (wikiより)


    関連情報

    http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11732171730.html
    1725 永井ふさ子墓(松山市御幸1-281・長建寺)


    1781a
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