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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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1809 横田秀雄墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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横田 秀雄 ( よこた - ひでお、1862年 ( 文久 2年 ) 8月 18日 - 1938年 ( 昭和 13年 ) 11月 16日 ) は、日本の裁判官 ( 大審院長 )。法学博士。明治大学総長。帝国学士院会員。雅号は、鵠山。


第 4代最高裁判所長官・横田正俊の実父。元鉄道大臣・小松謙次郎の実兄。


経歴
埴科郡松代町 ( のち長野市 ) に、信州松代藩士の父・横田数馬、母・亀代子の長男として生まれる。


明治21年 ( 1888年 ) 帝国大学法科 ( のち東京大学法学部 ) を卒業。判事になる。


大正 12年 ( 1923年 ) から昭和 2年 ( 1927年 ) まで大審院長を務めた。


昭和 13年 ( 1938年 ) 11月 16日死去。享年 77歳。東京・青山墓地に眠る。


人物像
横田は乃木希典将軍を非常に尊敬していた。


長男の正俊によると、「軍人や役人は乃木さんのようでなければならない。」というのが口癖で、乃木将軍殉死の報に接したときは、正座してハラハラと涙を流したという。


横田は寄席が好きだった。


寄席について横田は「一体講談や落語はいいものです。世間の事情、下層階級の生活状態がよくわかる。裁判官はこういう処へ行って見るのもいいですね。私がよく通った頃は円朝の全盛時代でしてね、その頃橘之助という三味線の爪弾などをよくやる女がいて書生に人気があった…」と述べている ( 昭和 2年 8月、国民新聞 )。


退職後の横田は明治大学学長、総長のかたわら郷里に象山神社を建設しようと奔走した。


横田は「七十五歳になった今日しなればならないことが二つある。


その一つは同郷の先輩である佐久間象山先生のことで、神社建設のために狂奔していること、今一つは、今少し先生の事蹟を世間に発表したいこと」と述べている ( 昭和 11年 8月、文藝春秋 )。


家族・親族
実家父・数馬 ( 信州松代藩士 )
母・亀代子
姉・英 (『富岡日記』の著者 )
弟・謙次郎 ( 元鉄道大 )、俊夫 ( 元朝鮮高等法院判事 )
妹・志能武 ( 長野県士族、間庭延俊に嫁す ) ほか
自家妻・秀野( 岡山県士族・元大審院長霜山精一の姉)
長男・正俊 ( 裁判官・元最高裁判所長官 )
次男・光俊 ( 元一橋大学教授 )
三男・保俊
四男・雄俊 ( 弁護士 ) …華族赤化事件に関与する
五男・明俊


「系譜」については、『横田秀雄ウィキペディア』を御覧下さいませ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E7%A7%80%E9%9B%84


脚注
1. 信州の旅.com/真田十万石の城下町/旧横田家住宅


関連
士族
霜山精一
横田正俊


参考文献
慶應義塾百年史.別巻,大学編

外部リンク
国指定文化財一覧 旧横田家住宅 ( http://www.city.nagano.nagano.jp/soshiki/bunka/16956.html )
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10537157597.html
159 佐久間象山寓居之址(木屋町通り御池下がる)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10537062596.html
158 お玉ヶ池種痘所跡(千代田区岩本町2-7-11加島ビル横)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10863968842.html
533 佐久間象山先生・大村益二郎遭難の碑(木屋町御池上ル・中華料理ハマムラ横)


1809 横田秀雄  
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