俵 孫一 ( たわら - まごいち、1869年 6月 16日 ( 明治 2年 5月 7日 ) - 1944年 ( 昭和 19年 ) 6月 17日 ) は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。
浜田市長を務めた俵三九郎は甥。政治評論家の俵孝太郎は孫。
経歴
1869年 ( 明治 2年 ) 5月 7日、現在の島根県浜田市に俵家の 3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。
幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。
共立学校 ( 現・開成中学校 )、第一高等学校を経て 1895年 ( 明治 28年 ) 帝国大学法科大学英法科 ( 現東京大学法学部 ) を卒業する。
卒業後は、官界に入り、1907年 ( 明治 40年 ) 大韓帝国の学部次官、1910年 ( 明治 43年 ) 同国の土地調査局副総裁 ( 後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁 ) に就任。
本国に帰国した後、三重県知事、宮城県知事、北海道庁長官を歴任する。
1924年 ( 大正 13年 ) 憲政会から衆議院議員総選挙に立候補し当選する。
以後、憲政会、民政党に所属し、通算 6期当選。
加藤高明内閣で鉄道政務次官、内務政務次官に就任し、1929年 ( 昭和 4年 ) には民政党幹事長。
浜口雄幸内閣で商工大臣となる。
浜口内閣総辞職後は、民政党の重鎮として、総務、政策調査会長を務めた。
太平洋戦争中の 1942年 ( 昭和 17年 ) に実施された翼賛選挙では、推薦候補となるも落選し、1944年 ( 昭和 19年 ) 6月 17日に死去した。
人物
大政翼賛会の成立に際し、俵は「政党の解消と単一政党の出現は国民の正しき判断力を相殺するもので、批判なき所には必ず腐敗が伴う」と語ったという。[1]
関連項目
大日本運動
外部リンク
俵孫一 銅像 ( リンク切れ )
脚注
1. 『敗因を衝く』 田中隆吉 山水社 1946年1月20日 33p
(wikiより)
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