東郷 茂徳 ( とうごう - しげのり、旧字体: 東鄕茂德、1882年 ( 明治 15年 ) 12月 10日 - 1950年 ( 昭和 25年 ) 7月 23日 ) は日本の外交官、政治家。
太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。朝鮮人陶工の子孫。
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。
鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。
にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮 20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。
略歴
生い立ち
東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。
陶工達が集められた「苗代川」 ( 現在の日置市東市来町美山 ) と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。
薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。
父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。
なお元帥海軍大将の東郷平八郎とは血縁関係はない。
旧制の第七高等学校造士館 ( のち鹿児島大学 ) に進学。
ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友だった。
そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。
その後、東郷は東京帝国大学 ( のち東京大学 ) 文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任。
片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。
1905年 ( 明治 38年 ) 5月、大学の文芸雑誌『帝国大学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルト』( マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートのこと ) を題材とした文芸批評が掲載された。これは東郷の唯一の文芸批評である。
また、翌年 1月に片山が著した『男女と天才』に登張とともに序文を寄せ、この時に「青楓」の雅号を用いている。 [1]
二度のドイツ赴任
1908年東大独文科卒。
初めは登張の影響でドイツ文学者を志していたが、1912年 ( 大正元年 ) に外務省に入省。
1919年 ( 大正 8年 ) - 1921年 ( 大正 10年 ) に対独使節団の一員としてベルリンに東郷が赴任した。
このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。
また、東郷はこの赴任時にユダヤ系[2]ドイツ人エディ・ド・ラロンド ( 建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人、旧姓ピチュケ Pitsschke[3]) と出会い、恋仲となる。
ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年帝国ホテルで挙式した。
1937年 ( 昭和 12年 ) - 1938年 ( 昭和 13年 ) に駐独大使となったが、この際にはナチスが勃興しており、状況は一変していた。
対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。
元々ドイツ文学に深く傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。
日ソ中立条約の交渉
1938年 ( 昭和 ( 13年 ) に東郷は駐ソ大使として赴任した。
それ以前の状況としては、1936年 ( 昭和 11年 ) に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。
その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。
こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争 ( 支那事変 ) の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。
しかし、第 2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。松岡は暗に東郷の外務省退職を求めるが、東郷は逆に懲戒免職を求めて相手にしなかった。
なお、その後に松岡が締結した日ソ中立条約は、日独伊三国同盟が成立していたこと、北部仏印進駐によってアメリカの対日経済制裁が強まってしまっていたこと、ソ連とナチスドイツとの関係が悪化したことなどによって、当初東郷が意図していたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。
結果としてソ連がナチスドイツの侵攻に備えるための意味と日本の大陸での南進への間接的な援護との意味しか持たないものとなった。
加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の蒋介石政権への援助停止も盛り込まれない内容となったことにより、東郷には不満が残る結果となった。
外相経験もある元老西園寺公望は、東郷が松岡によって駐ソ連大使を更迭され外務省から追われそうだとの風説を自らの死の床にて聞き及び、深く慨嘆したと言われている。
開戦回避交渉
1941年 ( 昭和 16年 ) 10月、東條内閣に外務大臣として入閣する。
大命降下を受けた東條はもともとは対米強硬派であったが、昭和天皇から直接、対米参戦回避に尽くすよう告げられてただちに態度を改め、対米協調派の東郷を外相に起用したのである。
外務省における東郷は職業外交官としての手腕には定評があったが、主流派とは言えず、打ち解けない性格から省内人脈も少なかった。
外相に就任した東郷は次官に西春彦、アメリカ局長に山本熊一 ( 東亜局長兼任 )、アメリカ課長に加瀬俊一 ( としかず ) を迎えて対米交渉の布陣とし、また分裂する省内を引き締めるために枢軸派の大使 1名に辞表提出を求め、その他課長 2名・事務官 1名を休職として統制を回復した[4]。
東郷も天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。
まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は 2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。
このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。
内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。
その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、回答期限は付いておらず、単なる強い調子の交渉文であったハル・ノートを「最後通牒」であると偽りの上奏を行い[5]、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。
吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。
真珠湾攻撃へ
1941年 ( 昭和 16年 ) 12月 1日の御前会議において、昭和天皇から東條英機首相に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。また、野村吉三郎駐米大使からも 11月 27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。
このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針だった海軍側との交渉を開始。
山本五十六連合艦隊司令長官も上京し、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間 7日午後 1時 ( 日本時間 8日午前 3時 ) に通告、ワシントン時間 7日午後 1時 20分攻撃、とする事が決定した。
しかし、駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際によって、当初予定より 1時間 20分遅れたワシントン時間 7日午後 2時 20分通告 ( 真珠湾攻撃開始 1時間後 ) となってしまった。
また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容 ( 交渉打ち切り ) をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段を避けて行われていた。
開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった。
しかし、法廷において東郷は、海軍は無通告で攻撃しようとしたことを強調し、軍に責任を擦り付けようとしていると反感を呼んだ。
東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條首相と対立して辞任した。
外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動だったと見られる。
終戦交渉
1944年 ( 昭和 19年 ) 7月 9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。
獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。
敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。
致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。
1945年 ( 昭和 20年 ) 4月、東郷は終戦内閣である鈴木貫太郎内閣の外相に就任する。
「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」[6]という鈴木貫太郎首相の言葉を受けて入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。
当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなどの状況となっていたにもかかわらず、陸軍を中心に本土決戦が叫ばれ、事態は猶予のない状態になっていた。
対ソ交渉
東郷は和平に向けた意見交換の場を設けるため、首相・外相・陸海軍の大臣および統帥の長 ( 参謀総長・軍令部総長 ) の 6人による会合を開くことを他の 5人に提案する[7][8]。
当時、最高意思決定機関としては、この 6人に加えて次官級が出席する最高戦争指導会議があったが、この席では軍の佐官級参謀が作成起案した強硬な原案を審議することが多く、それを追認する形になりがちであった[7][8]。
東郷はトップが下からの圧力を受けずに腹蔵なく懇談できる会議を求めたのである。
他の 5人もこれに賛同し、内容は一切口外しない条件で、最高戦争指導会議構成員会合として開かれることになった。
1945年 5月中旬に開かれた最初の最高戦争指導会議構成員会合で、陸軍参謀総長の梅津美治郎が、ドイツの敗戦後、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることを指摘し、ソ連の参戦を防止するための対ソ交渉の必要性が議題になった。
そこで東郷は、ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案した。
これに対し陸軍大臣の阿南惟幾は、日本は負けたわけではないので和平交渉よりもソ連の参戦防止を主目的とした対ソ交渉とすべきだとして東郷の見解に反対する。
結局、米内光政海軍大臣が間に入り、まずソ連の参戦防止と好意的中立の獲得を第一目的とし、和平交渉はソ連の側の様子をみておこなうという方針が決定された[9][10]。
この会議では、ソ連の参戦防止のため、代償として樺太の返還、漁業権の譲渡、南満州の中立化などを容認することで一致した[9][10]。
この決定を受けて東郷は、ソ連通の広田弘毅元首相を、疎開先の箱根に滞在していたマリク駐日ソ連大使のもとに派遣し、ソ連の意向をさぐることにした。
マリクと広田は旧知の間柄であった。
しかし 2度の会談ではお互いが自らの意見は明確にせず、相手の具体的要求を探る形に終始した[11]。
マリクにはソ連の対日参戦の意向は知らされていなかったが、モロトフ外相に対する会談の報告には「具体的な要求を受け取らない限りいかなる発言もできないと回答するつもりだ」と記した[12]。
これに対してモロトフはこの立場を支持し、今後は広田からの要請でのみ会談をおこない、一般的な問題提起しかなければその報告は外交クーリエ便だけにとどめよと訓令した[13]。
その後、広田とマリクは2度の会談をおこない、6月 29日の最後の会談では日本の撤兵を含む満州国の中立化・ソ連の石油と日本の漁業権との交換・その他ソ連の望む条件についての議論の用意を条件として挙げたが、成果をあげることなく終わった[14][15]。
モスクワにあってソ連の動向を探っていたソ連大使の佐藤尚武はソ連を仲介とした和平交渉の斡旋を求める東郷の訓令に反対する意見を具申したが、東郷の受け入れるところとはならなかった。
この最高戦争指導会議構成員会合の対ソ交渉の決定により、それまでスウェーデン、スイス、バチカンなどでおこなわれていた陸海軍・外務省などの秘密ルートを通じておこなわれていた講和をめぐる交渉はすべて打ち切られることになった[16]。
ソ連大使時代に苦労をした東郷はもともとソ連外交の狡猾さを知り尽くしていたはずにもかかわらず、東郷は結果的にはソ連に期待する外交を展開してしまったわけである。
これについては、ソ連大使時代から気心を通じていたモロトフ外相の心情に期待したのだという説もあるが[要出典]、当時外務省で東郷に直接仕えていた加瀬俊一 ( としかず ) が証言するように、強硬派の陸軍が、ソ連交渉だけなら ( 中立維持のための交渉という前提で ) 目をつぶるというふうな態度だったため、東郷はそれに従ったのだ、というふうに解釈されるのが一般的である。
また昭和天皇がソ連交渉には好意的であったことも東郷の考えに影響していた。
東郷自身はポツダム宣言受諾後の 8月 15日に枢密院でおこなった説明の中で、米英が「無条件降伏ではない和平」「話し合いによる和平」を拒否する態度だったために話し合いに事態を導きたかったが、バチカン・スイス・スウェーデンを仲介とした交渉はほぼ確実に無条件降伏が前提になるとみられたので放棄し、ソ連への利益提供で日本の利益にかなうよう誘導して終戦に持ち込むことが得策とされたと述べている[16]。
ソ連側の態度が不明なまま時間は推移していく中、6月 22日、天皇臨席の最高戦争指導会議構成員会合の場で、参戦防止だけではなく、和平交渉をソ連に求めるという国家方針が天皇の意思により決定された。
鈴木・東郷・陸海軍は近衛文麿元首相をモスクワに特使として派遣する方針を決め、7月に入り、ソ連側にそれを打診した。
しかしソ連側は近々開催されるポツダム会談の準備のため忙しいということで近衛特使案の回答を先延ばしにするばかりであった。こうして 7月 26日のポツダム宣言に日本は直面することになる。
ポツダム宣言を知った東郷は、「1.この宣言は基本的に受諾した方がよい 2.但しソ連が宣言に参加署名していないことや内容に曖昧な点があるため、ソ連とこの宣言の関係をさぐり、ソ連との交渉と通じて曖昧な点を明らかにするべきである」という結論を出し、参内して天皇と話しあった[17]。
このとき、昭和天皇がポツダム宣言に対してどのような反応を示したかは不明確である。
東郷自身のメモでは「このまま受諾するわけにはいかざるも、交渉の基礎となし得べしと思わる」と述べたという[18]。
一方、東郷の部下だった加瀬俊一 ( としかず ) は「原則的に受諾可能と考える」と述べたと記しているが、纐纈厚はこの発言は確認不可能で、「天皇は、特に宣言に重大な関心を示さなかったという」と記述している[19]。
天皇は宣言の具体的な点についてはソ連を通じた折衝で明らかにしたいという東郷の意見に賛同し、木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉の結果を待つという東郷の意見を認めた[20]。
しかし阿南陸相は東郷の見解に猛反対し、ポツダム宣言の全面拒否を主張する。
またもともと和平派的立場だった鈴木首相と米内光政海軍大臣は、「この宣言を軽視しても大したことにはならない。ソ連交渉で和平を実現する」という甘い認識のもと、ポツダム宣言には曖昧な見解であった。
結局、ポツダム宣言に対しては「受諾も拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになった。
しかし、アメリカの短波放送がすでに宣言の内容を広く伝えたためこれを無視できないとして、コメントなしの小ニュースとして国内には伝えることとした。
だが、7月 28日朝刊には「笑止」( 読売新聞 )「黙殺」( 朝日新聞 ) といった表現が現れた[21]。
28日午前に東郷が欠席した大本営と政府の連絡会議では、阿南と豊田副武軍令部長・梅津美治郎参謀総長が政府によるポツダム宣言非難声明を強硬に主張、米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められた[21]。
同日、鈴木首相の会見は「ポツダム宣言を黙殺する」という表現で報じられた。
鈴木は実際には「ノーコメント」と言ったという記者の証言も残されているが、実際の報道は「黙殺」と表現され[22]、連合国はこの古めかしい日本語に対し「reject ( 拒否 )」という意味を与えてしまったのである。
こうして 8月 6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月 8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れることになる。
終戦の実現
事態の急変を受けて、8月 9日午前、最高戦争指導会議が開催された。
東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張し、米内海相と平沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成した。
しかし阿南陸相は、皇室の安泰以外に、武装解除は日本側の手でおこなう、占領は最小限にし東京を占領対象からはずす、戦犯は日本人の手で処罰する、との 4条件説を唱え、これに梅津陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が同意して議論は平行線になった。
特に東郷・米内と阿南の間では激しい議論が続いた。
「戦局は五分五分である」という阿南に対し「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」と米内は反論した。また「本土決戦は勝算がある」と主張する阿南・梅津に対し「もし仮に上陸部隊の第一波を撃破できたとしても、我が方はそこで戦力が尽きるのは明白である。
敵側は続いて第二波の上陸作戦を敢行するに違いない。
それ以降まで我が方が勝てるという保証はまったくない」と東郷は主張した。
この会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下されている。
会議は深夜にいたり、天皇臨席の御前会議となった。鈴木首相は議論の収集がつかない旨を天皇に進言、結論を天皇の聖断にゆだねる旨を述べた。
天皇は外務大臣の案に同意であると発言、またその理由として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていないこと、このまま戦いを続ければ日本という国がなくなってしまうことなどを述べた。
こうしてポツダム宣言の受諾は決まった。
その受諾案において東郷は「皇室の安泰」という内容を ( 国体護持を講和の絶対条件とする抗戦派への印象を和らげるため )「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下」としていたのに対し、平沼の異議を受け「天皇の国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる了解の下」と変更が加えられた上で、天皇が受諾を決定したのである[23]。
東郷は原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一 ( しゅんいち ) 公使へ指示するに促し、「大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり… 罪なき 30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして…」と述べた。
また宣戦布告を通告してきたマリク・ソ連大使に向かって直接、中立条約に違反したソ連の国際法違反に厳重に抗議をしている。
日本の降伏に関して、天皇や皇室は終戦後の日本の混乱を収拾するために必要な存在であると認識は、連合国の政府に少なからず存在した。しかし「天皇の統治大権に変更を加えない」という受諾案はアメリカ首脳の間に波紋を与えた。
トルーマン大統領は、ホワイトハウスで開いた会議で「天皇制を維持しながら日本の軍国主義を抹殺することができるか、条件付きの宣言受諾を考慮すべきか」と問いかけた[24]。
出席者の中でフォレスタル海軍長官やスティムソン陸軍長官、リーヒ海軍元帥は日本側回答の受諾を主張したが、外交の中心人物であるバーンズ国務長官が「なぜ日本側に妥協する必要があるのかわからない」と反論して、トルーマンがこれに賛同する[24]。
フォレスタルが「( 連合国側が ) 降伏の条件を定義する形で日本の受諾を受け入れる」という妥協案を示し、トルーマンがこれを受け入れてバーンズに回答文の作成を命じ[24]、天皇皇室に関しては曖昧にこれを認めるという回答文が日本側に 8月 12日に提示されることになった。
この「バーンズ回答」によると、天皇は「連合国最高司令官の権限に従属する ( subject to )」こと、そして「天皇制度など日本政府の形態は日本国民の意思により自由に決定すること」と記されていた。
これは巧みな形で天皇・皇室の維持を認めている曖昧な文章であった。
阿南陸相、梅津参謀総長などはこの回答に対し、天皇皇室に関して曖昧なので連合国に再照会すべきだと強硬に主張し、ふたたび政府首脳は議論の対立に陥った。
東郷と米内海相は再照会は交渉の決裂を意味するとして反論したが、当初はポツダム宣言受諾に賛成していた平沼枢密院議長が陸軍に同意するなどして事態は混乱、12日深夜、失意と疲労に満ちた東郷はいったん辞任を表明しかけてしまう。
東郷の辞意に驚いた鈴木首相は再度の御前会議により事態の収拾をはかることを東郷に約束、辞意を翻させた。
こうして14日、昭和天皇が二度目の「聖断」として東郷支持を涙を流して表明したことにより、陸軍の強硬派もようやく折れ、ポツダム宣言受諾を迎えた。
阿南は終戦の手続きに署名したのち論敵だった東郷を訪れ、「色々とお世話になりました」とにこやかに礼を述べ、東郷も「無事に終わって本当によかったです」と阿南に礼を述べた。
あらゆる意味で几帳面な東郷は宣言受諾に際し、連合軍先方に、日本陸軍の武装解除は最大限名誉ある形にしてもらいたいと厳重に注意通告し、阿南はそのことを東郷に感謝していると述べて立ち去った。
阿南は鈴木首相にも別れを告げたのち、翌 15日未明、自殺する。
人前で涙など見せたことのない東郷だが、阿南自決の方に「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と落涙した。
極東国際軍事裁判
戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。
しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月 11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。
終戦の翌年の 1946年 5月 1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。
弁護人には同じ鹿児島県出身であり、最初の外務大臣時代の外務次官だった西春彦 ( 後の駐英大使 ) と、アメリカ人弁護団唯一の日系人であるジョージ山岡らが付き、娘婿の東郷文彦が事務を担当した。
裁判は 1947年 ( 昭和 22年 ) 12月 15日に東郷の個人反証に入った。
この日「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて望んでいる。
検事側と東郷・弁護人らの激しい応酬が繰り広げられた。
特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎元海軍大臣とのやり取り ( 開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件 ) について紛糾して当時の話題となった。
開戦時及び終戦時に外相の地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を国際法の要求する究極の限界まで食い止めることに成功した。余は余の責任をいささかも回避するものではないが、同時に他の人々がその責任を余に押し付けんとしても、これに伏そうとするものではない。」と、如何に軍国主義者と対立してきたかを、口述書に述べた。
これに対して、永野修身の担当弁護人のジョン・ブラナンが、海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか、と東郷に質問した。
すると、「裁判が開廷してから、嶋田と永野から、海軍が奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ」と脅迫を受けたかのような証言をした。
この発言を「海軍の名誉に関する重大事」と判断した嶋田は、証言台において「よほど彼の心中にやましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない。すなわち彼の心の中にはよほどやましいところがある。と言うのが一つの解釈。」また「まことに言いにくい事ではありますけども、彼は外交的手段を使った。すなわち、イカのスミを出して逃げる方法を使ったと。すなわち言葉を変えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すためにとんでもない、普通使えないような『脅迫』という言葉を使って逃げたと。」と反論した。
東郷個人としては、昭和において自分が体験・経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身の行動が連合国側の指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においており、決して悪意あるものではなかったが、被告人の間でも見解が異なる事も決して少なくなく、嶋田の弁護人だった法制史学者の瀧川政次郎を始め、被告人・弁護人達の批判の対象となった。
それ以外にも、木戸幸一が天皇が和平を望む発言をしたことを自分に伝えなかったこと、梅津美治郎が前述の通り本土決戦を主張し、和平を拒み続けたことも述べた。
特に梅津とは声を荒らげてやり合う場面も見せ、木戸に対しても、木戸の担当弁護人のウィリアム・ローガンが尋問を開始しても発言を止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸を好かないのでしょう」と言う場面もあった。
このように、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、重光葵は「罪せむと罵るものあり逃れむと 焦る人あり愚かなるもの」と歌に詠んで批判している[25]。
1948年 ( 昭和 23年 ) 11月 4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮 20年の判決を下された[26]。
東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第 9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。
だが、1960年 ( 昭和 35年 ) の日米安全保障条約改訂において、憲法第 9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和がもたらされないと考える西春彦や石黒忠篤 ( 東郷の親友、当時参議院議員 ) らと交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという事態も発生している。
東郷は以前から文明史の著書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録の執筆を獄中で行い、『時代の一面』と命名する。
だが、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化、転院先の米陸軍第 361病院 ( 現同愛記念病院 ) で病死した。
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脚注
1. 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』原書房、1985年、ISBN 4562039523
2. 筒井功『新・忘れられた日本人』p.212
3. Albert Axell, Hideaki Kase Kamikaze: Japan's Suicide Gods p.24, Longman, 2002
4. 森山 優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか -「両論併記」と「非決定」-』新潮選書、2012年、p103
5. 別宮暖朗、兵頭二十八『大東亜戦争の謎を解く』
6. 『時代の一面』より。
7. a b 長谷川毅『暗闘 (上)』中公文庫、2011年、pp.148 - 149
8. a b NHK取材班『太平洋戦争日本の敗因 6 外交なき戦争の終末』角川文庫、1995年、pp.115 - 116
9. a b 『暗闘(上)』pp.149 - 151
10. a b 『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』pp.116 - 120
11. 『暗闘 (上)』、p189
12. 『暗闘(上)』pp.190-191
13. 『暗闘(上)』pp.206-207。この訓令はスターリンも承認したもので、長谷川毅はソ連首脳が日本の戦争を長引かせるのに広田・マリク会談を利用したと記している。
14. 『暗闘(上)』pp.223 - 226
15. 『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』pp,192 - 198
16. a b 『暗闘 (上)』pp.152-153
17. 『暗闘(上)』pp.353 - 354
18. 竹内修司『幻の終戦工作』文春新書、2005年、p201。この内容は中尾裕司(編)『昭和天皇発言記録集成 下』(芙蓉書房出版、2003年)が出典である。
19. 纐纈厚『「聖断」虚構と昭和天皇』新日本出版社、2006年、p130。加瀬の記述は『ミズリー号への道程』からの引用。纐纈は、「原則的に受諾可能」だったとしても、天皇も外務省当局もソ連との交渉による和平実現の期待を依然として持ち続けていたため、その結果を見るまでは宣言を即座に受け入れるところまで踏み切れなかったとも記している。
20. 『暗闘(上)』pp.354-355
21. a b 『暗闘(上)』pp.356-357
22. 『暗闘(上)』p358
23. 長谷川毅『暗闘(下)』中公文庫、2011年、pp89 - 95。ポツダム宣言受諾は一種の条約と見なされ、批准権を持つ枢密院の承認が必要であり、それを簡略化する目的で議長である平沼が出席していた。
24. a b c 『暗闘(下)』pp.106 - 112
25. ただし、東郷と重光は在官中から個人的確執があったといわれている。
26. 刑としては重光に次いで軽い。
27. 「昭和戦争」読売新聞検証報告 戦争の惨禍、指導者責任=見開き特集
28. ただしアメリカ海軍提督・大統領主席補佐官であるウィリアム・リーヒは、ソ連を仲介とする和平をしたことを意図的に無視したトルーマンを非難している。
29. 竹内修司『幻の終戦工作』文春新書、2005年、p203
30. 『暗闘(上)』pp.276 - 279
31. 『暗闘(上)』pp.228 - 229
32. 『暗闘(上)』p360
33. 『官報』1941年5月12日 敍任及辭令
34. 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令
35. 『官報』1938年4月11日 敍任及辭令
外部リンク
東郷茂徳記念館(鹿児島県)( リンク切れ)
(wikiより)
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