牧野 忠泰 ( まきの - ただひろ、弘化 2年 9月 16日 ( 1845年 10月 16日 ) - 明治 15年 ( 1882年 ) 8月 1日 ) は、三根山 ( 嶺岡 ) 藩主。
肥前国福江藩主・五島盛繁の次男・五島盛保の長男。
養父は牧野忠興。正室は牧野忠恭の娘。継室は牧野康哉の娘。継々室は挙母藩主内藤政成の子、内藤政又の娘。
天保 6年 ( 1835年 ) 生まれとも。官位は従五位下、伊勢守。
旗本から大名へ
安政元年 ( 1854年 ) に三根山領主で旗本の牧野忠興の養子となる。
安政 4年 ( 1857年 ) 2月、忠泰の襲封とともに義父で宗家越後長岡藩主・牧野忠恭の願いにより、それまで 6000石の家格寄合の旗本であったが、新田分 5000石を入れて 11000石に高直しされ、諸侯となり従五位下伊勢守に叙任される。
戊辰戦争
慶応 4年 ( 1868年 ) 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し、本家の長岡藩とともに兵を参加させた。
しかし、長岡城が陥落すると勤皇側であった与板藩に家老の神戸十郎右衛門を派遣して援助を仰いだが、与板藩にも、最早その余裕は無く、新政府軍の出雲崎屯所に出兵する旨を伝えていた。
しかし、その翌日に庄内藩兵が三根山藩領内に侵攻、大砲を向けて威嚇した。
宗家の長岡城が落城しても傍観したことに対して、進退を明らかにするよう脅しをかけたのである。
三根山藩に庄内藩に抗する力は無く、野積・寺泊・出雲崎に奥羽越列藩同盟側として三根山藩兵を出兵させている。
新潟に新政府軍が上陸すると戦局は決した。
新潟・長岡が陥落すると同盟軍側は退却を開始、三根山藩兵は藩内に帰還したが、長岡・新潟の双方からの新政府軍に挟撃される形となった。
弥彦口、赤塚口から挟撃する新政府軍に対して、「新政府軍に加担したかったが庄内藩に抗することができず、やむを得ず戦った」旨の嘆願書を提出。
忠泰と藩兵は新潟に出兵し、新政府軍に恭順した。
ここで三根山藩、そして牧野忠泰の罪は赦されるものの、忠泰は謹慎処分を受ける。
また、83名の藩兵を与板藩等とともに派遣して、庄内藩と戦う。
庄内口での働きぶりが認められ、忠泰の謹慎が解かれることとなった。
そして賊軍とされた、宗家長岡藩へ寛大な処置を願う嘆願書を、新政府軍に提出した。
また、三根山藩は降伏後の働きにより 500石減封に留まった。
しかし、12月に本家の長岡藩に連座する形での転封命令が出る。
翌、明治 2年 ( 1869年 ) に信濃国伊那に決定したが、長岡藩と一緒に懇願して、転封の撤回に成功した。
明治維新後
明治 3年 ( 1870年 ) 5月、牧野忠泰は長岡藩の窮状に心を痛め、米百俵を送る。
同年 10月 29日、峰山藩と紛らわしい為、嶺岡 ( 峰岡 ) 藩と改称。
明治 17年 ( 1884年 ) 7月 8日、忠泰はすでに没していたので長女の千代子に子爵の爵位を授爵した。
後に長女の千代子の養子・牧野忠良 ( 伊達宗城の七男 ) が家督を継いだ。
墓地は東京都港区青山墓地。
(wikiより)
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