● 椿井 ( 台方村七井の一 )
七井とは、初井、花井、北井、南井、御手洗 ( みてらい )、大井、椿井
今より三百五十年前、佐倉宗吾 ( 本名 木内惣五郎 ) が重税に苦しむ佐倉領 三百八十九ヶ村領民の困窮を救わんと決心
一身一家を犠牲ににして四代将軍・家綱公に直訴せんと妻子との決別の砌 ( みぎ ) り水盃に用いられたと云う
2002年吉日
当主 木内利右エ門 記
(案内板より)
● 佐倉惣五郎
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、慶長 10年(1605年 )? - 承応 2年8月3日(1653年 9月24日 )?)は、江戸時代 前期における下総国 印旛郡 公津村 (現在の千葉県 成田市 台方 )の名主 。姓は木内氏、俗称は宗吾。
生涯
出自
下総国印旛郡の堀田領内佐倉城 下に生まれ、本名を木内惣五郎という。
肥後国 五家荘 には、五家荘葉木の地頭 ・緒方左衛門の子で、下総の木内家の養子になったという伝承がある[1] 。
直訴
年貢 の取り立てが年々厳しくなるにつれて、佐倉藩 領を代表して殿様への直訴 を申し出た。
江戸時代 の公津村は佐倉藩領で、惣五郎は藩主 である堀田氏 の苛政を、藩 や江戸役人、幕府 老中 にも訴えたが聞き入れられなかった。このため惣五郎は、1653年 (承応 2年)、上野 寛永寺 に参詣する四代将軍 の徳川家綱 に直訴した。
その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔 (はりつけ)となる一方、男子も死罪 となってしまった。
しかし、こうした伝承がある一方、資料上では惣五郎が一揆や直訴を行ったという記録はない。
死後
心霊
惣五郎事件後、惣五郎は堀田氏に祟るようになったという。当時の佐倉藩主堀田正信 は、佐倉騒動 で改易 となったが、惣五郎の怨霊 によるともされる。
成田市の東勝寺 には、惣五郎の霊を祀る堂があり、宗吾霊堂の名で知られる。
評価
『東山桜荘子』初演の8年後の安政6年(1859年)に信濃国 伊那谷 の白河藩 飛地領で起きた南山一揆 の指導者小木曽猪兵衛 は佐倉惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織したと言われている[2] 。
佐倉の信奉者は多く、幕末期 から明治時代 の思想家である福澤諭吉 も、「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げている[3] [4] 。
文化に与えた影響
江戸時代中期以降、『地蔵堂通夜物語』や『東山桜荘子』などの物語や芝居に取り上げられ、義民 として知られるようになった。歌舞伎 、講談 、浪曲 、前進座 など様々な芸能で「佐倉義民伝」として、今も繰り返し演じられる人気演目となっている。
惣五郎の逸話をモデルにした作品として、第17回小学館文学賞 を受賞した児童文学短編『ベロ出しチョンマ』がある。作者である斎藤隆介 自身が惣五郎の逸話をもとにした創作であると解説している[5] 。
漫画『平成義民伝説 代表人 』には、惣五郎の子孫とする設定の人物が登場する。
脚注
1. 八代市泉第八小学校 五家荘の偉人・佐倉 宗吾(さくら そうご)伝説 (泉第八小学校児童への講話) 八代市泉町葉木在住 民宿・佐倉荘経営 緒方 勢一
3. 『学問のすすめ』第七編
5. 日本児童文学者協会編 『児童文学読本 (日本児童文学別冊)』 すばる書房盛光堂, 1975年.
参考文献
蒲生重章 「佐倉宗五郎傳」:『近世偉人傳・二編』(明治11年)より
(wikiより)
関連項目
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10965391530.html
627 宗吾殿(台東区寿3-19-12)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-12130507309.html
3539 宗吾氏旧宅(千葉県成田市台方569)
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