堀 織部正利煕 ( おりべのしょうとしひろ )( 1818年 ~ 1860年 ) の墓
堀 利煕は文政元年 ( 1818年 ) 堀 利堅の四男として生まれた。
家督をつぎ、小姓組・徒頭になり嘉永六年 ( 1853年 ) には江戸湾 ( 東京湾 ) の海防のため監察として活躍した。
当時我が国は北からロシアが根室に来航し国交を迫ったが、幕府は「鎖国 ( さこく )」をたてに通商を拒否していた。
折りしもペリーは艦隊 ( くろふね ) を率いて東京湾に入り通商を要求した。
そのために江戸市中は大騒ぎになった。
利煕は、箱館 ( はこだて ) 奉行になった安政元年 ( 1854年 ) 樺太 ( サハリン ) に渡り調査をし、函館においてロシア使節と会談を行った。
安政五年、我が国初代の外国奉行となり神奈川奉行を兼ね、横浜開港についての交渉を行った。
万延元年 ( 1860年 ) プロシアとの条約締結の交渉において幕閣と意見が対立し同年十一年自刃した。( 享年 42歳 )
狂歌 『太平の眠りをさます上喜選 ( 蒸気船 ) たった四はい ( 隻 ) で夜も眠れず』( 上喜選は茶の名 )
(案内板より)
堀利熙の辞世
石 ( いそ ) の上 ( かみ ) ふりにし世々の跡とひて 昔にかへる我身なりけり
● 堀利煕
堀 利煕(ほり としひろ、文政 元年6月19日 (1818年 7月21日 ) - 万延 元年11月6日 (1860年 12月17日 ))は、江戸時代 末期(幕末 )の旗本 、幕臣 。通称は織部、織部正、省之助。字は欽文、士績虎。号は有梅、梅花山人。初名は利忠。父は大目付 の堀利堅 、母は林述斎 の娘。母方のおじに鳥居耀蔵 、林復斎 、従兄弟に岩瀬忠震 がいる。
経歴
嘉永 7年(1854年 )、箱館奉行 となり、樺太 ・蝦夷地 の調査・巡回を行った。同行者に玉虫左太夫 、榎本武揚 、郷純造 、島義勇 がいる。安政 5年(1858年 )には新設された外国奉行 に就任、神奈川奉行 も兼任して諸外国大使との交渉に尽力した。横浜港 開港に尽力し、通商条約では日本全権の1人として署名している。
万延元年(1860年)、プロイセン の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク との条約交渉を行なっていたが、このときに利煕がプロイセンと裏交渉しているという風聞、並びにプロイセンではなくドイツ連邦 (当時、ドイツはまだ統一されておらず、利煕がプロイセン一国だけではなくオーストリア とも秘密交渉を行なっていたというまことしやかな風聞が流れたらしい[2] )との秘密交渉などが行なわれていたことなどが露見して、幕府から追及される。利煕はそれに対して何の弁解も行なわず、プロイセンとの条約締結直前に切腹 した。享年 43。
死後、村垣範正 がオイレンブルクとの交渉を引き継いで日普修好通商条約を結んだ。
詳しい事は『堀利煕ウィキペディア』を御覧下さいませ。 ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%88%A9%E7%85%95
(wikiより)
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