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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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3530 浜口雄幸首相遭難現場(東京駅・新幹線中央乗換口付近)

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● 浜口首相遭難現場
昭和 5年 11月 14日 午前 8時 58分、内閣総理大臣・浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前 9時発の特急「つばめ」号の 1号車に向かってプラットホームを歩いていた。


このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。


かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向かったが翌昭和 6年 8月 26日死去した。


犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などの軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものといわれている。
(案内板より)


● 浜口雄幸

濱口 雄幸[注釈 1] (はまぐち おさち、1870年 5月1日明治 3年4月1日 ) - 1931年昭和 6年)8月26日 )は、日本大蔵 官僚政治家位階正二位勲等勲一等空谷


大蔵大臣 (第2930 代)、内務大臣第43代 )、内閣総理大臣第27代 )、立憲民政党 総裁などを歴任した。


来歴

土佐国 長岡郡 五台山 (現高知市 )の林業 を営む水口家に水口胤平 の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。


1889年明治 22年)、高知県安芸郡 田野村(現田野町 )濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校 )、第三高等中学校 を経て、1895年 (明治28年)帝国大学 法科 (後の東京帝国大学、現:東京大学)を卒業。同窓会であった二八会 は後に政治ネットワークに発展した。


大蔵省 に入り、専売局 長官、逓信 次官大蔵次官 などを務め、1915年大正 4年)に立憲同志会 に入党、衆議院議員 に当選して代議士となる。加藤高明内閣大蔵大臣第1次若槻内閣内務大臣 などを務める。立憲民政党 初代総裁として、張作霖爆殺事件 の責で総辞職した田中義一内閣 の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年 7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界 からの信任のある井上準之助日本銀行 総裁を蔵相に起用して金解禁 や緊縮政策を断行し、また野党立憲政友会 の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約 を結ぶ。明治生まれでは初の内閣総理大臣である。


ライオン宰相の生き様

官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。


濱口は大蔵省入省後、一度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎 ら先輩や友人が、帰京の嘆願を行って東京に呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平財界 入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦 中より帝国海軍 拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省 ・海軍軍令部帝国国防方針 に基づく八八艦隊 確立のため、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、大戦も連合国 の勝利に終わり、平和の到来が確定するや国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じ始めていた。その上、戦後軍拡の名の下に際限なき海軍費の膨張が始まると、列国間の建艦競争が激化することをも憂慮していた。特に米国 が国際社会の中で早晩一番の大国となるのは明らかであり、そのことについて濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。


日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政 から緊縮財政 へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する声がある一方で、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し(後述)社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。


日本の首相で初めて当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもある。


詳しい事は『浜口雄幸ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8

(wikiより)



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