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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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1474 金井延墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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金井延 ( かない - のぶる、1865年 2月 26日 ( 元治 2年 2月 1日 ) - 1933年 8月 13日 ) は静岡県出身の経済学者・社会政策学者。


日露戦争開戦に際し、強硬に主戦論を主張したことで知られる。


戸水寛人らを含む「東大七博士」のひとり。


人物
東京帝国大学を卒業した後、ドイツへ留学し、グスタフ・フォン・シュモラー、アドルフ・ワグナーらに師事。


帰国後は社会政策学会に参加しその中心メンバーになるとともに、東京帝国大学にて 1925年まで教授を務めた。


ドイツにて修得した経済学、社会政策の立場に基づき、帰国後社会政策学会に参加して中心メンバーとなり、自由主義経済への批判や、国家による労働者の保護および金銀複本位制度などの提唱を行った。


日露戦争に先立つ 1903年6月、戸水寛人、富井政章、寺尾亨、高橋作衛、小野塚喜平次、中村進午らと共に開戦論を主張する意見書 ( 七博士意見書 ) を提出し、世論を開戦の方向へと位置付けた。


また、日露講和条約にも反対の主張を行うなどしている。


著書
『経済学の近況と講壇社会主義』
『社会経済学』

関連項目
七博士意見書
高野岩三郎 - 福田徳三
社会政策学会


● 七博士意見書
七博士意見書 ( しちはくしいけんしょ ) とは、日露戦争開戦直前の 1903年 ( 明治 36年 ) 6月 10日付で当時の内閣総理大臣、桂太郎・外務大臣、小村壽太郎らに提出された意見書。


経緯
東京帝国大学教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午の7人[1]によって書かれた。


6月 11日におそらく作者のリークにより東京日日新聞に一部が掲載され、6月 24日には東京朝日新聞 4面に全文掲載された。


内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「バイカル湖まで侵攻しろ」と主戦論を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫ったものであり、世論の反響も大きかった。


この意見書を読んだ伊藤博文が「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べたと言われている。


同書を渡された桂太郎は「政策のことまではいいが、軍事のことまで言うか」と困惑した。


なお、戸水は日露戦争末期に賠償金 30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣・久保田譲は 1905年 ( 明治 38年 ) 8月に文官分限令を適用して休職処分とした。


ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。


このため、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。


このため、翌年 1月に戸水の復帰が認められた (「戸水事件」)。


脚注
1. 「東大七博士」と言われるが中村は学習院教授であった。


関連文献
宮武実知子「「帝大七博士事件」をめぐる輿論と世論: メディアと学者の相利共生の事例として」マス・コミュニケーション研究70、2007年1月。


関連項目
対外硬

外部リンク
全文と解説 ( リンク切れ )

(wikiより)


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