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1453 山本祐二墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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山本 祐二 ( やまもと - ゆうじ、明治 36年 ( 1903年 ) 1月 17日 - 昭和 20年 ( 1945年 ) 4月 7日 ) は、鹿児島県高麗町出身の日本海軍軍人。海軍兵学校 51期。


最終階級は海軍少将。戦艦大和による海上特攻で戦死。


来歴
1903年 1月 17日鹿児島市高麗町で鹿児島貯蓄銀行頭取である山本平吉の次男として生まれる。


1920年 ( 大正 9年 ) 3月 31日鹿児島県立第二鹿児島中学校の 13期生を4年修了。


1920年 8月海軍兵学校の 51期に入学、1923年 7月次席で卒業、御下賜の短剣拝受する。少尉候補生、練習艦乗り組み。

1924年 12月海軍少尉着任。


1925年 12月水雷学校普通科学生。


1926年 5月砲術学校普通科学生。


1926年 12月海軍中尉、駆逐艦「蓼」乗組。


1927年 12月海防艦「出雲」乗組。


1928年 12月海軍大尉、練習艦隊司令部付 ( 候補生指導官 )。


1929年 2月駆逐艦「菊月」航海長。


1929年 11月海軍水雷学校高等科学生、卒業は首席、御下賜の銀時計拝受する。


1930年 12月駆逐艦「秋風」水雷長。


1931年 11月駆逐艦「三日月」水雷長。


1932年 12月 1日海軍大学校甲種 32期学生、1934年 7月卒業。


1934年 11月海軍少佐、青葉水雷長。


1935年 10月軍務局第 1課付。


1936年 2月独国駐在。


1937年 5月独国大使館付武官補佐官。


1938年 11月第二艦隊参謀。


1939年 11月 1日海軍中佐、連合艦隊参謀。


1940年 11月 15日軍令部第 1部第作戦課部員[1]。


1942年 12月 27日から山本は源田実中佐と共に陸軍とガダルカナル島撤退要領、ソロモン方面主戦の合同研究 を 3日間行い、12月末ガダルカナル島撤退作戦が決定された[2]。


1943年 2月から数度にわたり、敵に察知されることなくガダルカナル島の撤退に成功した。


1943年 6月 15日第三艦隊参謀。

第三艦隊長官・小沢治三郎中将がミッドウェー海戦の図面を書いて即座に「暗号がもれてるぞ」と気づき、山本に徹底的に調査するように命令したが、調査した山本は「絶対に海軍の暗号はもれてません」と回答した[3]。

1943年 12月 1日連合艦隊参謀 ( 旗艦「武蔵」)。


1944年 3月 31日海軍乙事件が発生。

古賀峯一連合艦隊司令長官がフィリピンで戦死した際、山本は福留繁参謀長とともに 2番機に搭乗していて戦死を免れたが捕虜となり、作戦計画書、暗号書など最重要機密が米軍の手に渡った。


岳父である海軍大将・豊田貞次郎は乙事件後の山本は死に場所を探しているように見えたという。


豊田は死の床で、山本が最後の出撃の際に家族に思いを残したであろうという趣旨の記事が発表されることに激怒して取りやめさせた。[4]


1944年 4月 6日出仕。
 5月 1日海軍大佐。
 5月 25日第 21駆逐隊司令。

1944年 8月 11日第二艦隊首席参謀[5]( 旗艦「大和」)。
 10月レイテ沖海戦に参戦する。


1945年 ( 昭和 20 ) 年 4月 6日、「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦が開始した。三田尻沖を出航した艦隊は、4月 7日午後 2時 25分、道中の坊ノ岬沖で「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」他 4隻は撃沈され、1945年 4月 7日山本も戦死した。少将に特別進級。享年 42。

戦後、次男・山本祐義は母へ寄せた手紙を収録した『まあちゃん、こんにちは』を出版する。

年表
1903年 1月 17日 - 鹿児島市高麗町で鹿児島貯蓄銀行頭取である山本平吉の次男として生まれる。


1920年 3月 31日 - 鹿児島県立第二鹿児島中学校 4年修了。


1920年 8月 - 海軍兵学校入校 ( 51期 )


1923年 7月 - 同上を次席で卒業。御下賜の短剣を拝受。少尉候補生。


1924年 12月 - 海軍少尉。


1925年 12月 - 水雷学校普通科学生。


1926年 5月 - 砲術学校普通科学生。


1926年 12月 - 海軍中尉。駆逐艦「蓼」乗組。


1927年 12月 - 海防艦「出雲」乗組。


1928年 12月 - 海軍大尉、練習艦隊司令部付 ( 候補生指導官 )


1929年 2月 - 駆逐艦「菊月」航海長。


1929年 11月 - 海軍水雷学校高等科学生 ( 卒業時首席、御下賜の銀時計拝受 )


1930年 12月 - 駆逐艦「秋風」水雷長。


1931年 11月 - 駆逐艦「三日月」水雷長。


1932年 12月 - 海軍大学校甲種 32期学生。


1934年 7月 - 同上卒業。


1934年 11月 - 海軍少佐、青葉水雷長。


1935年 10月 - 軍務局第 1課付。


1936年 2月 - 独国駐在。


1937年 5月 - 独国大使館付武官補佐官。


1938年 11月 - 第二艦隊参謀


1939年 11月 1日 - 海軍中佐、連合艦隊参謀


1940年 11月 15日 - 軍令部第 1部第作戦課部員[6]。


1943年 6月 15日 - 第三艦隊参謀


1943年 12月 1日 - 連合艦隊参謀 ( 旗艦「武蔵」)


1944年 3月 31日 - 海軍乙事件


1944年 4月 6日 - 出仕。


1944年 5月 1日 - 海軍大佐、


1944年 5月 25日 - 第 21駆逐隊司令


1944年 8月 11日 - 第二艦隊参謀 ( 旗艦「大和」)


1945年 4月 7日 - 戦死。享年 42。


出典
1. 外山操編纂『 陸海軍将官人事総覧(海軍編)』芙蓉書房p232

2. 戦史叢書77 大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで 497頁
3. 戸高一成『証言録海軍反省会3』PHP研究所p208
4. 『太平洋戦争海藻録』「山本祐二」
5. 外山操編纂『 陸海軍将官人事総覧(海軍編)』芙蓉書房p232
6. 外山操編纂『 陸海軍将官人事総覧(海軍編)』芙蓉書房p232

参考文献
岩崎剛二『太平洋戦争海藻録』光人社 ISBN 4-7698-0644-2
外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍編』芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0003-4
千早正隆『日本海軍の戦略発想』中公文庫 ISBN 4-12-202372-6
秦郁彦『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会


● 海軍乙事件
海軍乙事件 ( かいぐんおつじけん ) とは、太平洋戦争中の 1944年 ( 昭和 19年 ) 3月 31日、連合艦隊司令長官・古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件。


先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件 ( 1943年 4月 18日 ) を海軍甲事件と呼ぶことから、本件を乙事件と呼んでいる。


事件概要
1944年 2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受けた。


そのため、古賀ら司令部の要員は 3月 31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇 ( 二式大艇 ) で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、古賀が乗っていた一番機は行方不明となった。


この事故で古賀以下の司令部要員7名を含む全搭乗員は「殉職」とされた。古賀の殉職はすぐに国民には知らされず、同年の 5月 5日に発表され、古賀は元帥府に列せられ元帥の称号が与えられた。

一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員 3名 ( 他、山本祐二作戦参謀、山形掌通信長 ) を含む 9名は泳いで上陸したがゲリラの捕虜となり、3月 8日に作成されたばかりの新 Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。


ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった ( かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収されたという )。

元々フィリピンはアメリカの植民地であり、日本軍の軍政が上手く行かずにフィリピンの経済にマイナスの影響しか及ぼさなかったこともあって、住民の感情はどちらかといえば親米的であった。


そのためアメリカ軍は日本の支配が続いていた間、潜水艦での連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。


日本側のセブ島の守備隊長はゲリラのリーダーに対して、「解放しなければ報復を加える」と、取引に応じるようにゲリラ側を脅した。


このことにより福留等は解放されたもののカバンはゲリラに没収され、作戦計画書等の機密文書はのちにゲリラからアメリカ軍の手に渡り、ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳部で、アメリカ陸軍情報部 ( Military Intelligence Service, MIS ) の要員によって翻訳された[1]。

マリアナ沖海戦での状況
『太平洋暗号戦史』や『太平洋戦争暗号作戦 ( 下 )』のように、文書の入手や暗号解読に関わった関係者の回顧では、この計画書類は太平洋で日本軍と対峙する太平洋艦隊やその指揮下の第 3艦隊にも回送されて活用されたという。


より詳しく述べると、マッカーサーの司令部の日本語専門家は海軍用語に十分通じておらず、要旨を訳した段階で、真珠湾の太平洋方面統合情報センター ( JICPOA ) に回送された。


ミッドウェー海戦で情報戦にも勝利した後、太平洋方面ではアメリカ海軍を中心として情報組織の再編が行われた。


このとき、太平洋艦隊情報参謀として数々の重要暗号解読に当たってきたエドウィン・T・レートンは太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツに対して提案を行い、太平洋方面情報センター ( ICPOA ) が誕生した。


JICPOAはその後、ICPOAを母体に、既存の暗号解読組織などを統合して生まれ、太平洋方面司令官の任にもついたニミッツの指揮下にあった。


これらの組織は、1943年 2月に日本語翻訳の速成教育を受けた予備士官 20名を受け入れてから、日々その規模を拡大し続けていた。


第 5艦隊および両用作戦部隊はマリアナ諸島を目標としてエニウェトク環礁に集結しており、この時もレートンがニミッツに文書回送を具申していた。


文書はハワイでの徹夜の作業によって、その全体が翻訳され、そのコピーが飛行艇で前線の艦隊に送付された。

太平洋艦隊司令部の毎日の回報は、日本軍の行動と意図、特にZ号作戦を実施しようとしているあらゆる証拠についての情報摘要なるものを流していた。


例えば、5月 22日の回報では伊勢型戦艦からなる第四航空戦隊の新編などがマーシャルで回収された将校のノートなどと合わせて提示されている。


5月 30日の回報では、連合軍の大規模な作戦を予期し、これに対抗する為の作戦の艦隊戦闘の準備であったなどと述べている。


実際、モルッカ諸島のバチャアン泊地に第一戦隊などが進出しており、日本国外の文献ではジョン・ウィントンがこれを「あ号作戦」の実施の為と書いているが、実際は渾作戦のためであった[2]。

6月 17日、グアム西方 600海里に日本の艦隊が発見された際も第 5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンスは日本軍の誘いに乗らず、マリアナの橋頭堡確保に専念した。


レートンはこの作戦文書の入手により第 5艦隊司令部が日本軍の作戦を知っていたからこそ、結果としてマリアナの航空兵力と艦隊からの挟撃を受けずに済んだ旨を述べている ( 戦いの詳細はマリアナ沖海戦参照 )[3]。

レイテ沖海戦での状況
しかし、カール・ソルバーグによれば、マリアナ沖海戦にはこの計画書類の回送・分析は間に合わなかったように記されている。


また、新 Z号作戦は大まかに言って 3通りの邀撃策を提示しており、マリアナ諸島の次の侵攻作戦を行った際に、日本軍がどの策を採用するかは不明であった。


更に、捷号作戦が計画された際に、陸軍との合同研究などによって作戦要領等も若干変化していた。


その後、アメリカ軍の次期の大規模進攻はレイテ島に向けられる事となったが、日本軍の動静は、暗号解読、通信解析、地形・浜辺の調査、高高度からの偵察写真、墜落した敵機の分析、捕虜の尋問等に拠っても、推定しようとしていた。戦時であるからこれらの推定は多くの誤りも含んでいた。


レイテ島の進攻に呼応して、捷一号作戦が発動された後も、出撃する日本艦隊に対処する任務を与えられていた第 3艦隊は動静の全く掴めていなかった空母機動部隊 ( 小沢艦隊 )を含む日本軍の航空作戦に気を取られ、戦策の一つとして示されていた水上艦の活用には注意が向いていなかった。

24日の段階では第 3艦隊は進撃する日本艦隊 ( 栗田艦隊 ) に空襲を加えた ( シブヤン海海戦 )。


その日の晩の集計では大和級戦艦 1隻炎上傾斜、金剛級 1隻損傷大、他戦艦 2隻に爆弾・魚雷命中、軽巡洋艦 1隻転覆、重巡洋艦 2隻に魚雷命中などと報告があり、第 3艦隊司令部は栗田艦隊に壊滅的な打撃を与えたと判断した。


加えて栗田艦隊は欺瞞の為に一時反転していた為、司令長官のウィリアム・ハルゼーはもとより首脳部は本当の意図に気付かず、夕方に索敵機が発見した小沢艦隊の捜索が目下の課題となっていた。

カール・ソルバーグは著書の冒頭にて「情報に関する一般的な仕事とは、敵の全てを知って、その知った事柄をどう解釈するか」であることを述べている。


カールはこの戦いの時、第 3艦隊司令部のスタッフとしてニュージャージー ( USS New Jersey, BB - 62 ) に乗組んでおり、彼の同室者だった情報士官のハリスコックス大尉は計画書を別の観点から分析していた。


ハリスコックスは第 3艦隊の他のスタッフほど航空戦を経験してなかったため、航空機への過度な重み付けがなく、水上艦の動きに注目した。


その結果 24日の夜、日本艦隊の本当の目的が栗田艦隊による輸送船団攻撃であるという結論に達した。


彼は上司の情報参謀マリオン・チーク大佐にこの検討結果を伝え、チーク大佐は司令部の他の面々と作戦行動の変更を求めて掛け合ったが、ハルゼーは就寝中であり、司令部の中では航空参謀ホレスト・モルトン大佐などの声望が大きく、チークの司令部内での影は薄かった。このため、モルトンはこの推測をぞんざいに扱い、作戦行動に反映されなかった。


25日朝、サマール沖で護衛空母群が栗田艦隊の攻撃を受け、その報告により司令部は騒然となった。


その後、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将による救援要請や、それを受けたチェスター・ニミッツからの電文などが続々着電し、第 3艦隊は栗田艦隊追撃の為にサンベルナルジノ海峡に向け反転した。


靡下の第 34、第 38の各任務部隊に反転を指令する電文を起草したのはモルトンであった。

こうしてレイテ沖海戦においても、鹵獲した新 Z号作戦計画書は有効に使われなかった。


戦後カールが書いた『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』を訳した高城肇は訳者あとがきで「アメリカ艦隊の作戦行動に影響を与えたという事実は見当たらない」と述べている。

その後
ただし鹵獲された書類は上述のように新 Z号作戦計画書以外にもあり、その後も日本本土空襲などで活用された。暗号書類は戦後公開されたアメリカの公文書の中から発見されている。

当時の日本では敵の捕虜となる事をこの上ない恥としており、福留がゲリラに捕縛された事は、敵の捕虜になったとみなすかどうかが問題となった。


福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられる事も、予備役に退かされる事もなく、その後も第二航空艦隊司令長官としてレイテ沖海戦に参陣するなど海軍内の要路に留まった。


しかし捕虜経験者とみなすかどうかという事に論点が集中した事により、軍機を奪われたという、より重大事についての追求が疎かになってしまった。

後は連合軍に一時期収監されるものの無事復員し、結局事件直後からその最期まで軍機を奪われた事を認めようとはしなかった[4]。


もっとも、この理由には、奪われた計画書類が具体的にどのような形で利用されたか、日本側からの取材のみでは、世間一般に十分に明らかにならなかった事もある。


例えば吉村昭とアメリカ軍関係者ではアメリカ軍に渡った後の利用状況の詳述度合いに差があり、吉村は文庫版の後書きで単行本発刊後、米側資料による裏づけが日本でも報道され、自分の推測通り、福留が鞄を奪われたことについて追記している。


その後、連合軍側での活用について述べた本が複数出版され、日本でも訳書が出版された。戦後、海軍は身内に甘い体質を持つと批判されたが、その理由として本件を挙げる評者も多い[5]。

脚注
1. ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第十章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』P217 (邦訳初出1995年)
 同書では福留が解放されるまでの過程について細部が異なる 2つの説を挙げている。2番目の説では当初古賀が不時着に成功してゲリラに捕らえられ、解放前に死亡して遺体はパラオに送られたという内容である。ゲリラのリーダーはクッシング大尉という人物だったとなっている。しかし、訳者の左近允の解説にもあるように、実際には古賀の乗機は上述のように行方不明となったままであった。


2. ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第十章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』P220-221


3. エドウィン・T・レートン ( Edwin T. Layton ) 著 毎日新聞外信グループ訳「エピローグ 東京湾へ」『太平洋戦争暗号作戦 ( 下 )』P335-337

4. 半藤一利は伝聞として次のような話を紹介している。戦後、福留がGHQで戦史編纂の仕事をしていた大井篤のところに出向き、「君や千早が機密書類が盗まれたと言っており、迷惑している。こんな事実は全くないんだ。」と述べたところ、大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい。」と言い返したと言う。
『日本海軍 戦場の教訓』P309 PHP文庫


5. 一例として半藤一利 秦郁彦 横山恵一『日本海軍 戦場の教訓』P310での鼎談

文献
吉村昭著、『海軍乙事件』文藝春秋(初出1976年、1982年以後数度に渡り文庫化)
W.J.ホルムズ著 妹尾作太男訳『太平洋暗号戦史』ダイヤモンド社 (初出1980年11月、1985年朝日ソノラマにて文庫化)
 巻末に大戦当時英訳された新Z作戦と日本語の原文を掲載。

エドウィン・T・レートン(Edwin T. Layton)著 毎日新聞外信グループ訳「エピローグ 東京湾へ」『太平洋戦争暗号作戦(下)』(邦訳1987年3月)TBSブリタニカ ISBN 4-484-87122-x
 原題『"AND I WAS THERE":Pearl Harbor and Midway - Breaking the Secrets』著者は1929年から3年間互角研修生として滞日。1940年12月より終戦まで太平洋艦隊情報参謀。なおJICPOA設立については同書35「私はもどらないだろう」を参照のこと。

ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第十章 環礁の戦い」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』ISBN 4-7698-0738-4 (邦訳初出1995年)
春名幹男著、『秘密のファイル(上)』共同通信社 ISBN:4-7641-0453-9 (初出2000年、2003年文庫化)
カール・ソルバーグ著、高城肇訳『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』光人社 ISBN 4-7698-0934-4 (1999年邦訳初出、原書は1995年単行本)
 著者はTIME誌記者を経て軍に志願、空中戦闘情報(ACI)将校として南西太平洋軍に勤務、本海戦時は第3艦隊司令部に配属され旗艦ニュージャージーに乗組み従軍した。訳者は光人社創業者。本項の新Z号作戦の連合軍側での活用の記述については主に本書に拠る。

関連項目
戦艦大和
坊ノ岬沖海戦
(wikiより)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1453a
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