酒井 忠邦 ( さかい - ただくに ) は、播磨 姫路藩 の第 10代 ( 最後の ) 藩主。雅楽頭系酒井家 宗家18代、
生涯
嘉永 7年 ( 1854年 ) 正月 15日、上野 伊勢崎藩 主・酒井忠恒 の九男として江戸の伊勢崎藩邸 で生まれる。
先代姫路藩主の酒井忠惇 が将軍・徳川慶喜 に従ってあくまで佐幕派の立場を貫いて江戸まで赴いたことで、姫路藩は朝敵とみなされた。
このため慶応 4年 ( 1868年 ) 5月 2日、忠惇は強制隠居となって一族の忠邦が跡を継ぐこととなった[1] 。
忠邦は新政府に与することを明確にするため、新政府に対して 15万両の献金や旧幕府派の家臣の大量処分を行なっている。
明治元年 11月に忠邦は版籍奉還 の建白書を提出[2] 、版籍奉還実施により知藩事 となった。
明治 4年 ( 1871年 ) 7月14日の廃藩置県 で免官されると、忠邦は東京へ出て、慶應義塾 に入学した。
同年 12月にはアメリカ へ留学し、4年間滞米したあと帰国した。
明治 12年 ( 1879年 ) 3月 25日、26歳で死去した。
長男の忠興 の誕生は忠邦の死から 3ヶ月近く後の同年 6月 6日であり、酒井家当主の座には忠邦正室鏐子の父・忠顕の未亡人である文子 が一時的に就き、忠興が満 8歳になるまでその地位にあった。
略歴
・1854年 ( 安政元年 )、伊勢崎藩主・酒井忠恒の九男として江戸 に生まれる。
・1868年 ( 明治元年 )、酒井忠惇が強制隠居となり家督を継ぐ。
・版籍奉還により知藩事となる。
・1871年 ( 明治 4年 )、廃藩置県により知藩事職を免官となる。
脚注
1. 姫路藩酒井家は伊勢崎藩酒井家にとって宗家にあたるだけでなく、忠邦の兄たちとの間に姻戚関係もあった。酒井文子#系図 を参照。
2. 薩長土肥の4藩主が版籍奉還を上奏 (明治2年=1869年3月2日) 1月20日
外部リンク
(wikiより)
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