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2727 石黒忠悳詩碑(神奈川県藤沢市江ノ島1-4-3・児玉神社)

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( 碑文 )
出将入相無匹儔武功文勲伝千秋


英魂長鎮画島裡天明海洪浮白鴎


子爵であった石黒忠悳 ( いしぐろ ただのり ) の奉献。


御祭神の文武の功績を比類なしと絶賛している。


石黒は陸軍軍医総監も務めた軍医であり、医学者として西洋医学の普及に努め、日本赤十字社長などを歴任した。
(案内板より)


● 石黒 忠悳

石黒 忠悳 ( いしぐろ - ただのり[1] ) 弘化 2年 2月 11日 ( 1845年
3月 18日 ) - 1941年 ( 昭和 16年 ) 4月 26日 ) は、明治時代 医師 日本陸軍 軍医 。草創期の軍医制度を確立した。爵位 子爵 学位 医学博士


経歴

幼名は庸太郎。父・平野順作は幕府代官 手代 になり、奥州(福島県)の陣屋に務めているときに庸太郎が生まれた。父母は早く亡くなり、16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村 ( 今の新潟県 小千谷市 ) の石黒家の養子になった。


私塾を開き、松代の佐久間象山 に会って感銘を受けた。江戸へ出て、幕府の医学所 ( 後の大学東校 、現在の東京大 医学部 ) を卒業。


1871年 松本良順 の勧めで兵部省に入り、軍医 となった。佐賀の乱 西南戦争 に従軍。


1890年 、陸軍軍医総監 に昇進するとともに、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長 ( 陸軍軍医・序列第一位 ) に就任した。日清戦争 のとき、医務局長として大本 陸軍部の野戦衛生長官をつとめており、脚気惨害の責任が指摘されている ( 詳細は、日清戦争での陸軍脚気大流 を参照のこと )。


戦後、台湾 での脚気惨害を知る高島鞆之助 陸軍大臣 に就任すると、軍医制度を確立した功労者でありながら、1897 医務局 長を辞任した ( 事実上の引責辞任 )。しかし、長州閥のトップ山県有朋 や薩摩閥のトップ大山巌 、また児玉源太郎 などと懇意で、その後も陸軍軍医部 ( 後年、陸軍衛生部に改称 ) に隠然たる影響力をもった。


1901年 4月 17日、予備役 に編入[2]


1907年 4月 1日、後備役 [3] 1912年 退官。


後に貴族院 勅選議員、日本赤十字社 の第 4代社長などをつとめた。


1895年 に男爵、1920年 子爵 となった。茶人としても知られ、况斎・况翁の号がある。長男・石黒忠篤 太平洋戦争 終戦時の農商大臣 をつとめた。


栄典

1895年 ( 明治 28年 ) 11月 18日 - 明治二十七八年従軍記 [4]

1906年 ( 明治 39年 ) 4月 1日 - 勲一等 旭日大綬章 [5]

・1906年 ( 明治 39年 ) 4月 1日 - 明治三十七八年従軍記 [5]

1915年 ( 大正 4年 ) 11月 10日 - 大礼記念章 [6]

1941年 ( 昭和 16年 ) 4月 26日 - 従一位 [7]


著書

・懐旧九十年(博文館 、1936年、私家版) 

本人の懐古談を坪谷水哉 の編集でまとめたもの。復刻版が大空社 から刊行されている(2004年)。岩波文庫 版(1983年)は乃木希典 小松宮 などに関する記事(全体の7分の1弱)や図版が削除されている。


その他

後藤新平 の才能を見出し、愛知県病院長から内務省衛生局への採用を後押しした。そして相馬事件 で後藤が衛生局長を非職となり、失脚しても、長與專齋 と違って後藤を見捨てず、その後ろ盾となり、日清戦争 の検疫事業を後藤に担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎 に提案した。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことが、児玉台湾総督の下で後藤が台湾総督府 民政長官に起用されるきっかけとなった[8]

・研究者には森鴎外 の上官として、よく知られている(両者の確執が論じられることもある)。

大倉喜八郎 とは古くから交遊があり、大倉商業学校 (今の東京経済大学 )の設立に参加。理事兼督長(現在の理事長兼校長)をつとめた。

日比谷公園 の開設に関わった。安寧健康上の設計を林学博士の本多静六 から依頼され、洋風の公園となった。


脚注

1. 忠悳は忠徳(ただのり)と同音異字で表記されることがある。

2. 『官報』第5334号、明治34年4月18日。

3. 『官報』第7180号、明治40年6月7日。

4. 『官報』第3824号・付録、「辞令」1896年04月01日。

5. a b 『官報』第7072号・号外、「叙任及辞令」1907年01月28日。

6. 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。

7. 『官報』第4290号、1941年04月30日。

8. 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』南窓社、2007年、73-79頁。ISBN 978-4-8165-0354-2


関連項目

相良知安

後藤新平

石黒孝次郎 (孫)


外部リンク

国立国会図書館 憲政資料室 石黒忠悳関係文書

(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10537157597.html
159 佐久間象山寓居之址(木屋町通り御池下がる)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11434450707.html
1240 高島鞆之助墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11758110932.html
1845 山縣有朋墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)


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