石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
江戸時代の初期、寛文年間 ( 1661 ~ 1672 ) 新吉原雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。
采女は悲しんで浅茅ケ原の鏡が池に身を投げた。時に十七才。
翌朝、草刈りの人たちが
『名をそれとしらずともしれさる沢の
あとをかがみが池にしずめば』
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目のあたりを指し、『江戸名所図会』によると、鏡が池の面積は、文政 ( 1818 ~ 1829 ) の頃、約五百平方メートル、橋場一丁目の北部あたりにあったという。
碑は、文化元年 ( 1804 ) 大田南畝ら文人たちによって建立。
第二次世界大戦で火をあびている。
(案内板より)
↑のバナーを「ポチッ」と押して応援して頂くと、管理人の励みになります。