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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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2359 本野一郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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明日より 14日まで お休みを頂いて京都に行って来ます。


今回はくろ谷 金戒光明寺會津藩殉難者墓地の 3人と、ほかにもバラエティーに富んでいます。


なんとか天気は持ちそうなのですが、全部周れるかが心配です。


取りあえず立ち寄り先も、前もって電話で見学が可能かを問い合わせて、原則見学不可とされていた御寺もOKを貰いましたのでボチボチ見付けて行こう思います。


また画像の整理が終わったら、後日談の記事がup出来るかもしれませんので宜しく御願い致します。





本野 一郎 ( もとの - いちろう、1862年 3月 23日 ( 文久 2年 2月 23日 ) - 1918年 ( 大正 7年 ) 9月 17日 ) は明治 大正 外交官 政治家 である。子爵


来歴

肥前国 佐賀 久保田徳万村生まれ。


11歳で渡仏し、3年間パリ で学ぶ。


横浜 の小学校を卒業後、東京外語学校 へ進学。


18歳で横浜貿易商会 に入社し、リヨン 支店に赴任。


務めの傍ら、富井政章 梅謙次郎 と共にフランスのリヨン大学 で法学を学び、法学博士 の学位を得る。


特に梅謙次郎とは同じ下宿で暮らし、同時に学位を得た[1]


フランス滞在が 8年ほど過ぎたころ、外務大臣だった大隈重信 に誘われ帰国し、陸奥宗光 外務大臣の秘書官となる。


同時に、帝大 などで国際法 を教える。


その後、ベルギー フランス ロシア 公使 を経て、ロシア大使 に就任。


10年に渡るロシア駐在中の功績から子爵 が授けられ、寺内内閣 外務大臣 へと出世したが、胃癌 を発病し辞職、57歳で亡くなる。[1]


人物

・フランスの銀行家で富豪のアルベール・カーン と家族ぐるみの交友があり、しばしばカーンの南仏の別荘でバカンスを楽しんだ[2]


家族

父は読売新聞 創業者の本野盛亨


弟に化学者 早稲田大学 教授 本野英吉郎 、妻は、野村靖 の娘で、万里小路正秀男爵の元妻だった久子。息子の盛一も外交官。孫に元駐フランス大使の本野盛幸 がいる。


年賦

1873年 単身フランス パリ に留学[1]


1876年 帰国し、東京外国語学校 入学[1]


1880年 横浜貿易商会入社[1]


1881年 フランス・リヨン大学 法学部入学[1]


1889年 法学博士 の学位を授与され、帰国[1]


1890年 外務省 翻訳官[3]


1893年 法学博士 ( 帝国大学 )、法典調査会 委員[1]


1896年 ロシア公使館一等書記官[3]


1898年 ベルギー 公使 [3]


1901年 フランス公使[3]


1905年
3月 1日 奉天会戦 に際し、フランス外務大臣テオフィール・デルカッセ を通じて講和の打診を受ける


1906年 ロシア 公使。日露戦争 後の日露協約 締結に尽力


1907年 9月 14日 男爵となり勲一等旭日大綬章 受章


1908年 5月 ロシア大使


1916年

  7月 14日 子爵 となる

  10月 9日 外務大 ( 寺内内閣 ) に就任


1917年 ロシア革命 に対しシベリア出兵 を強硬に主張


1918年

  ・4月 23日 外務大臣を辞職 [3]

  ・9月 17日
死去。勲一等旭日桐花大綬章 追贈


脚注

1. a b c d e f g h 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(11)査定委員1・主査委員 8 : 土方寧・本野一郎」
(PDF ) (法学セミナー2010年3月号70ページ)

2. BBC Four - Japan in Colour: The Wonderful World of Albert Kahn

3. a b c d e 大畑篤四郎「本野一郎」『国史大辞典 第13巻』(吉川弘文館、1992年)

(wikiより)


2359 本野一郎 本野 一郎
2359a
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