明日より 14日まで お休みを頂いて京都に行って来ます。
今回は『くろ谷 金戒光明寺』の會津藩殉難者墓地の 3人と、ほかにもバラエティーに富んでいます。
なんとか天気は持ちそうなのですが、全部周れるかが心配です。
取りあえず立ち寄り先も、前もって電話で見学が可能かを問い合わせて、『原則見学不可』とされていた御寺もOKを貰いましたのでボチボチ見付けて行こう思います。
また画像の整理が終わったら、後日談の記事がup出来るかもしれませんので宜しく御願い致します。
本野 一郎 ( もとの - いちろう、1862年 3月 23日 ( 文久 2年 2月 23日 ) - 1918年 ( 大正 7年 ) 9月 17日 ) は明治 、大正 の外交官 、政治家 である。子爵 。
来歴
11歳で渡仏し、3年間パリ で学ぶ。
務めの傍ら、富井政章 、梅謙次郎 と共にフランスのリヨン大学 で法学を学び、法学博士 の学位を得る。
特に梅謙次郎とは同じ下宿で暮らし、同時に学位を得た[1] 。
フランス滞在が 8年ほど過ぎたころ、外務大臣だった大隈重信 に誘われ帰国し、陸奥宗光 外務大臣の秘書官となる。
その後、ベルギー 、フランス 、ロシア 公使 を経て、ロシア大使 に就任。
10年に渡るロシア駐在中の功績から子爵 が授けられ、寺内内閣 の外務大臣 へと出世したが、胃癌 を発病し辞職、57歳で亡くなる。[1]
人物
・フランスの銀行家で富豪のアルベール・カーン と家族ぐるみの交友があり、しばしばカーンの南仏の別荘でバカンスを楽しんだ[2] 。
家族
弟に化学者 ・早稲田大学 教授 の本野英吉郎 、妻は、野村靖 の娘で、万里小路正秀男爵の元妻だった久子。息子の盛一も外交官。孫に元駐フランス大使の本野盛幸 がいる。
年賦
・1893年 法学博士 ( 帝国大学 )、法典調査会 委員[1]
・1905年
3月 1日 の奉天会戦 に際し、フランス外務大臣テオフィール・デルカッセ を通じて講和の打診を受ける
・1906年 ロシア 公使。日露戦争 後の日露協約 締結に尽力
・1907年 9月 14日 男爵となり勲一等旭日大綬章 受章
・9月 17日
死去。勲一等旭日桐花大綬章 追贈
脚注
1. a b c d e f g h 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(11)査定委員1・主査委員 8 : 土方寧・本野一郎」
(PDF ) (法学セミナー2010年3月号70ページ)
2. BBC Four - Japan in Colour: The Wonderful World of Albert Kahn
3. a b c d e 大畑篤四郎「本野一郎」『国史大辞典 第13巻』(吉川弘文館、1992年)
(wikiより)
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