大達 茂雄 ( おおだち- しげお、1892年 ( 明治 25年 ) 1月 5日 - 1955年 ( 昭和 30年 ) 9月 25日 ) は、日本 の内務官僚 、政治家 。小磯内閣 で内務大臣 、第 5次吉田内閣 で文部大臣 を務めた。参議院議員 1期。
来歴
島根県 那賀郡 浜田町 ( 現・浜田市 ) に、酒造業 ・大達新作の次男として生まれる。
浜田中学 から一高 に進み、1916年 ( 大正 5年 ) に東京帝国大学 法科大学政治学科を卒業、内務省 に入る。
内務省では地方局財務課長を経て 1932年 ( 昭和 7年 ) 福井県 知事となる。
その後満州国国務院 総務庁 法制局長、同国務院総務庁長などを歴任。
しかし満州国産業開発五ヵ年計画などを中心とした満州の重化学工業化方針を巡って関東軍 と対立、結局星野直樹 などの経済官僚と入れ替わる形で辞任した[1] 。
その後は阿部内閣 と米内内閣 で内務次官 を務めた後、大戦中の 1942年 ( 昭和 17年 ) に昭南特別市 市長を務めた。
1943年 ( 昭和 18年 ) 7月 1日の東京都制 施行により東京市 と東京府 が廃止され新たに東京都 が設置されたのを受けて、大達は初代東京都長官 ( 都知事 ) に就任した。
都長官としては学童疎開 や建物疎開を推進、空襲 から御真影 を守ろうとして殉職する校長を懸念して各校の御真影までをも疎開させた。
同年9月には上野動物園 に対し戦時猛獣処分 を命じたが、これが後に土家由岐雄 のノンフィクション童話『かわいそうなぞう 』の原案となった。
翌 1944年 ( 昭和 19年 ) には西武鉄道 の堤康次郎 と計って鉄道による糞尿輸送 を実施している。
そして同年 7月に発足した小磯内閣に内務大臣として入閣した。
戦後、小磯内閣で閣僚だった責任を問われて 1946年 ( 昭和 21年 ) にA級戦犯 容疑で逮捕されたが、不起訴となり、それでも公職追放 となった。
1952年 ( 昭和 27年 ) に追放解除となると、翌年の第 3回参院選 に吉田自由党 公認で島根選挙区から立候補し当選。
直後に発足した第 5次吉田内閣 では組閣参謀となった緒方竹虎 の強力な推薦により文部大臣に就任した。
文相在任中には教育方針を巡って教員と父母が保守派と進歩派に割れて対立した京都旭丘中学事件 では、学校を封鎖した進歩派を「暴力革命」と痛烈に非難、これを契機に日教組 の影響力を抑制することに全力を注ぎ、いわゆる教育二法 を成立させた。
1955年 9月 25日、胃癌 のため満 63歳で死去した。
略年譜
・1916年 ( 大正 5年 ) - 東京帝国大学法科大学政治学科卒業、内務省入省
・1932年 ( 昭和 7年 ) - 福井県知事
・1934年 ( 昭和 9年 ) - 満州国法制顧問
・1939年 ( 昭和 14年 ) - 内務次官
・1942年 ( 昭和 17年 ) - 昭南特別市市長
・1943年 ( 昭和 18年 ) - 東京都長官
・1944年 ( 昭和 19年 ) - 小磯内閣で内務大臣
・1953年 ( 昭和 28年 ) - 参議院議員
・1954年 ( 昭和 29年 ) - 第 5次吉田内閣で文部大臣
栄典
・昭和 19年 9月 12日 - 勲一等瑞宝章
・昭和 30年 9月 25日 - 勲一等旭日大綬章
家族
・妻:芳子 ( 小泉惣吉 : 二女 )
参考文献
・『新日本人物大観』(島根県版) 人事調査通信社 1957年 オ…34頁
補注
1. 辞任の直接の原因は、1936年 ( 昭和 11年 ) 9月に関東軍司令官植田謙吉 ・大将名で出された「満州帝国協和会の根本精神」と題した小冊子 に大達が抗議してのものだった。
この小冊子は関東軍参謀辻政信 大尉の筆によるもので、石原莞爾 らが創設した官民一体の国民教化組織・満州国協和会 を満州国政府をも指導しうる機関と一方的に規定したり、関東軍司令官を「哲人」と表現したりしていて大問題となった。
大達の辞任を受けて関東軍もこの小冊子を必死に回収するという騒動に発展した ( 古海忠之 『忘れ得ぬ満州国』、経済往来社 、1978年、 P147 )。
関連項目
・逆コース
● 京都旭丘中学事件
京都旭丘中学事件 ( きょうとあさひがおかちゅうがくじけん ) とは、1953年
4月 29日 から1954年
6月 1日 にかけて発生した、京都市立旭丘中学校 の教育方針を巡る保守派と進歩派の教員・父母による対立事件。
概要
日本共産党 日教組 教員による赤化教育を支持する進歩派とそれに反対する保守派の保護者との対立から、生徒を巻き込んだ学校分裂事件。1953年 ~ 1954年。
日教組 の政治活動とそれを抑えたい政府と自由党 の思惑から問題は全国区となり、擁護する進歩的文化人に反し市民からは支持を得られなかった。
旭丘中学ではかねてより日本共産党 日教組 教員による赤化教育がなされており、それを平和教育 か偏向教育 と取るかで対立がなされていた。
これは日本共産党 の「平和と独立と民主主義のために闘う青少年を育成しなければならない」という指示、すなわち「子供を革命戦士に仕立て上げることで文化革命、教育革命、政治革命を目指す」を実践していたものである。
具体的には校内で革命歌 や赤旗 を強要し、全関西平和まつり に生徒を引率するなどが行われていた。
1953年 12月 8日の朝日新聞 はこれを「政治的色彩はない」と論じたが 12月 13日の読売新聞 では旭丘中学の教育について非難の記事を掲載している。
1954年 2月 11日に京都市教育委員会 は生徒の指導方法・教員の組合活動の制限など7項目にわたる勧告書を手交し、3月 24日に赤化教育の指導的立場であった北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論の異動を内示し 3教員を他校に転任させることで事態を収拾しようとした。
これに対して 3教員が転任命令を拒否したことから 5月 5日に 3教員の懲戒免職 を決定した。
この懲戒免職 を受け 3教員の支持派は北畑紀一郎校長を 5月 6日の正午から 5月 7日の朝 5時まで団交 ( 事実上の監禁 ) し、7日の生徒大会では校長辞職決議がなされ辞表を強制的に執筆させたが、京都市教育委員会 はこれを強要されたものとし受理せず 5月 10日より旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。
この通知を不服とし 5月 10日より進歩派の教員・父母と日教組 下部組織の京都府教職員組合が学校を封鎖して自主管理授業 を強行することになり校舎には闘争本部が設けられ赤旗が林立する。
これに対して保守派の父母は市教委とともに 5月 11日から岡崎の京都勧業館を用いた補習授業を行い生徒は 2分されることになる。
分裂した 5月 11日の生徒数は旭丘管理授業 449名に対し岡崎補習授業は 818名であった。
分裂授業の始まった 5月 11日、公安調査庁は自主管理授業を日本共産党 の政禁法を骨抜きにする新戦術と発表している。
更に高山義三 京都市長 や大達茂雄 ・文部大臣 が学校封鎖を「暴力革命」と非難して、当時の政治課題とされていた「教育 2法案」の早期成立を訴えたために事態は益々混乱した。
事態の長期化につれて子供を争いを材料にしているとして双方に対する世論の批判も高まり、京都府教育委員会 などが調停に入り、懲戒免職とされた 3名以外の全教員の処分を行わずに他校に転任させて校長以下全教員を入れ替えることを条件に双方が妥協し、6月 1日に授業が再開された。
これは 3教員の懲戒免職の撤回とその他 45名の教員による授業再開を要求していた進歩派の実質的敗北である。
この妥協案を飲まざるを得ない背景には、5月 13日に左右両社会党ならびに日教組本部も生徒を闘争へ巻き込んだことへの批判声明を出し、支持母体が日本共産党 だけとなり京教組と旭丘中学教員が孤立したことが大きい。
なお、懲戒免職とされた 3名はその後処分の取消を求める訴訟を起こしたが、1974年 に最高裁判所 で原告敗訴が確定した。
(wikiより)
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