木村 芥舟 ( きむら - かいしゅう、文政 13年 2月 5日 ( 1830年 2月 27日 - 明治 34年 ( 1901年 ) 12月 9日 ) は、幕末 期の幕臣 。
幕府海軍 軍制取締、浜御殿添奉行 、本丸 目付 、長崎海軍伝習所 取締、軍艦奉行 、勘定奉行 等幕府の要職を歴任。
咸臨丸 の総督を務め、維新 後は完全に隠居 し、福澤諭吉 と交遊を重ねて詩文三昧の生活を送った文人 である。
死没に際して贈正五位 に叙されているが、幕末の幕閣で明治以後に位階勲等を受けた者は木村を含めて、川路聖謨 ( 贈従四位 )、岩瀬忠震 ( 贈正五位 )、池田長発 ( 贈正五位 ) の 4名だけである[1] 。「幕末の四舟 」のひとりに名を連ねることもある[2] 。
生涯
七代続く浜御殿 奉行の木村喜彦 ( よしひさ ) の子として生まれる。幼名は勘助。
水野忠邦 に仰せつけられ、天保 13年 ( 1842年 )、浜御殿奉行見習として初出仕する。
徳川家慶 の寵恩により、老中 ・若年寄 、三奉行 ( 勘定・寺社・町 ) に列して将軍家の能舞 への出席を許されるなど若くして才能を嘱望される。
林檉宇 に師事して学び、弘化 元年 ( 1844年 ) に両番格となる。
安政 3年 ( 1856年 )、老中・阿部正弘 によって西の丸 目付 に登用された。
この際に木村を強く推薦したのが林家就学時代の先輩の岩瀬忠震 だった。
阿部正弘の下では岩瀬、大久保忠寛 と並んで重用され、目付のまま長崎表御用取締を命ぜられ、長崎奉行 の職務の監察に当たる。
長崎海軍伝習所
安政 4年 ( 1857年 )、長崎 に赴任した木村は長崎海軍伝習所 の取締に就任する。
赴任当初の伝習所は多くの生徒が丸山の遊郭などの悪所に入り浸るなど風紀が乱れており、また奉行所も彼らを別格扱いして特に取締りは行っていなかった。
木村は長崎奉行・岡部長常 と協力して風紀の引締めを行い、宿舎の狭い部屋に大人数を押し込めておくことによるストレスが悪所通いの一因と見て、伝習所近辺の空き屋敷を借り上げるなどして生徒の住環境の改善を併せて行った。
また、それまで長崎周辺の狭い海域に限られて行われていた訓練航海を他藩の領海を含めた広い海域で行えるようにし、生徒の操艦技術の向上に寄与した。
また、伝習所においてペルス・ライケン 、カッテンディーケ らオランダ人教官らと交流できたことは、後年の渡米の際に役立つことになった。
長崎を去る際、木村は厚誼の礼として家伝の太刀をカッテンディーケに贈っている。
伝習所では島津斉彬 、鍋島直正 の 2名と個別に会合して諸藩の海軍事情を探り、特に薩摩藩 の器量の大きさに関心したという。
安政 6年 ( 1859年 ) 5月、木村は海軍伝習所の閉鎖に伴って江戸に帰り、目付に復帰。
一橋派 と南紀派 の争いが激しくなる中、木村はいずれにも属さずに目付局にいながら、外国御用立合、神奈川開港取調を経て召し出され、井伊直弼 の下に軍艦奉行 並を仰せつけられた。
井伊は、安政の大獄 にあたって同僚の岩瀬忠震一人を狙いうちにしたため岩瀬は蟄居となり、上家禄も取り上げられた。
渡米
万延 元年 ( 1860年 )、前 年6月に締結された日米修好通商条約 の批准のためアメリカ に使節 を派遣することになった。
このとき、軍艦奉行・水野忠徳 の建議で、米艦・ポーハタン号 を使用する正使・新見正興 一行とは別に咸臨丸 を派遣することになった。
9月 10日、軍艦奉行並に任じられていた木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられ、軍艦奉行に任じられる。
咸臨丸の司令官に就任するにあたっての航海手当は小栗忠順 と同格以上であった。
木村は乗組士官を選考し、まず佐々倉桐太郎 、鈴藤勇次郎 、浜口興右衛門 を運用方として任命し、測量方として小野友五郎 、伴鉄太郎 、松岡磐吉 を任命し、蒸気方に肥田浜五郎 、山本金次郎 ら軍艦操練所 ・海軍伝習所 の関係者を選定した。従者としては福澤諭吉 を連れて行くことになった。
その他、通訳にはアメリカの事情に通じた中浜万次郎 を、その他才覚を表し始めていた勝海舟 を同乗させるなど、勘定所から巨費を受けて出帆準備を進めた。
また、航海の道案内と米国側との連絡のため、海軍大尉・ジョン・ブルック を始めとする米国の軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた[3] 。
万延 元年 ( 1860年 ) 1月 19日、浦賀 を発った咸臨丸は 2月 26日にサンフランシスコ に到着し、木村ら一行は遅れて到着した正使一行と共に市民の熱烈な歓迎を受けた。
また、公式の歓迎行事の他に咸臨丸が修理を受ける間、現地の人々との交流も行っている。
ワシントン へ向う正使一行と別れ、閏 3月 19日にサンフランシスコを発った咸臨丸はホノルル を経て 5月 5日に浦賀へと帰還した。
帰国後
帰国後の木村は井上清直 とともに軍艦奉行の職務に復帰。
幕府海軍 の創設を目指して様々な活動を行っている。
文久 元年 ( 1861年 ) 5月 21日に軍制掛 となり、事実上の幕府海軍長官となる。
文久 元年 ( 1861年) 6月 2日、軍艦組を創設。
翌年には御船手組を統合し小普請組からも人数を補充することで海軍の組織としての体裁を整えた。
文久 2年 ( 1862年 ) 5月 2日、初の国産蒸気式軍艦「千代田形 」の建造を開始 ( 完成は 1867年 )。
併せてアメリカとオランダ に軍艦計 3隻 ( 富士山丸 、東艦 、開陽丸 )を発注する。
同年 6月 18日、9名の留学生をオランダに派遣[4] 。
このとき派遣されたメンバーには榎本武揚 ・赤松則良 をはじめ、西周 ・林紀 など、海軍だけでなく後に明治の政治・教育・医学分野の発展に貢献する人物も含まれていた。
木村は、日本周辺海域を 6つに分割し、それぞれの海域防備を担当する艦隊を江戸 ・函館 など 6箇所に配置する構想をもっていたが、幕府首脳には必要な艦船の調達と人員の育成に時間がかかるとの理由で却下される[5] 。
また海軍に優秀な人材を集めるため、身分によらない人材登用と西洋の軍隊を模した階級・俸給制度の導入を建議したが、これも身分制度の崩壊を懸念する幕府首脳には受け入れられなかった。
こうして文久 3年 ( 1863年 ) 9月 26日、失意の内に軍艦奉行の職を去ることになる。
元治 元年 ( 1864年 )、木村は開成所 の頭取に就任、次いで目付に再任され幕政に復帰する。
外国御用立合及び海陸備向掛となるが、翌慶応 元年 ( 1865年 )、長州征伐 のため上洛して、兵庫開港問題を巡って老中・小笠原長行 と対立し、罷免された。
慶応 2年 ( 1866年 )、再び軍艦奉行並となり小栗忠順・勝海舟らと共に海軍の組織整備を進め、翌年には幕府海軍に西洋式の階級・俸給制度が導入され、近代海軍の基礎が創られた。
明治元年 ( 1868年 ) には勘定奉行 に進み、戊辰戦争 では江戸城 開城の事務処理を務めた。
徳川慶喜 が水戸へ退去するにあたって幕閣を辞任し、明治維新 と共に新銭座の住居を畳んで身辺整理を行い、江戸を出てしばらく山奥の神官 の下に身を寄せた。
晩年・福沢諭吉との交遊
明治新政府からもその実力を評価されて、仕官の誘いがあったが、木村はそれらを全て謝絶して完全に隠居し、親友の福澤諭吉と交遊しながら、詩文を読む生活を送ったといわれている。
慶應義塾 の面倒も見ており、親睦会で度々塾を訪れたり、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に土地を用意したりしている。
勝海舟とはあまり折が合わなかった様子で、常に「公明正大」を信条とし、温情で小細工を好まなかった木村に対し、明治維新後に伯爵 ・枢密顧問官 の地位に転じた勝は根本的に人物が違っていた。
福澤はこのことを見抜いており、時の経過とともに福澤と勝の関係は悪化していったという。
木村にとっての生涯の知己は、岩瀬忠震と福澤諭吉であり、福澤の死後の明治 34年 ( 1901年 ) 3月 3日『時事新報 』に木村は『福澤先生を憶う 』という切々たる長文を寄せている。
このほか、福澤は、特に木村の息子の浩吉 に目をかけていたばかりでなく、維新後に収入の無くなった木村家を援助し続けた。
明治 14年 ( 1881年 ) には漢文 の随筆『菊窓偶筆』『黄粱一夢 』や『三十年史 』( 序文・福澤諭吉 ) を、福澤の協力によって交詢社 から私費で出版した。日誌『備忘小録』の記録も残っている。
明治 34年 ( 1901年 ) 12月 9日に 72歳で死去。戒名は芥舟院穆如清風大居士。千駄ヶ谷 の瑞円寺 に埋葬されたが昭和 8年 ( 1933年 ) に青山墓地 に改葬された。
逸話
・初出仕の際、父親が年齢を17歳と偽って幕府に届け出ていた ( 実際は 12歳 )。
・渡米の際、木村は咸臨丸の乗組員たちが西洋の軍人に対して見劣りがしないように、士分の者には加増、それ以外の者達にも相応の俸給を幕府に要望したが受け入れられなかったため、家財を処分して 3千両の資金を捻出してこれに充てた。幕府からも渡航費用として 5百両を下賜されたが、これには殆ど手を付けず、帰国後に返還している。
・サンフランシスコ入港後、木村は乗組員らに「無断外泊の禁止」「単独行動の禁止」「私的な飲食 ( 飲酒 ) の禁止」などを通達したので、咸臨丸の一行は現地の人々との間にトラブルを殆ど起こさず、その礼儀正しさを賞讃された。
・サンフランシスコで新聞社を訪問した時に、印刷した名刺をプレゼントされた。これによって、日本人として最初に印刷した名刺 を使用した人物とされる。名刺には次の文字が印刷されていた。
Admiral KIM-MOO-RAH SET-TO-NO-KAMI, Japanese Steam Corvette CANDINMARRUH.
( 日本国蒸気コルベット 咸臨丸
提督 ・木村摂津守 )— 木村摂津守、新人物往来社 2007 、49頁
・木村のことを終生尊敬していた福澤諭吉は維新後の木村家に経済的な援助を続けていた。日清戦争 に出征した木村の息子・浩吉 に宛てた黄海海戦 の勝利を祝う手紙に「万が一、君が討死しても、ご両親の面倒は私の命が続く限り見るから安心しなさい」とつづっている[6] 。戦後、浩吉が福澤を訪ねて「自分も昇進して生活も安定したので」と援助の辞退を申し出ると、「貴方に援助している訳ではない、お父上に心尽くしをしているだけだ」と怒られたという。
「年譜」、「家系」、「参考文献」、「登場人物」、「脚注」、「外部リンク」については、『木村芥舟ウィキペディア』を御覧下さいませ。 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8A%A5%E8%88%9F
(wikiより)
関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10730528754.html
415 咸臨丸図面発見の地碑(神奈川県藤沢市江の島1-4-3・児玉神社)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10714280030.html
384 川路聖謨墓(台東区池之端2-1-21・大正寺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10973807790.html
635 岩瀬肥後之守(忠震)墓(豊島区東池袋4丁目・雑司が谷霊園)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10602037656.html
268 榎本武揚の像(墨田区堤通二丁目・梅若公園内)
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