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中上川 彦次郎 ( なかみがわ - ひこじろう、嘉永 7年 8月 13日 ( 1854年 10月 4日 ) - 明治 3434年 ( 1901年 ) 10月 7日 ) は、明治時代の官吏 ・実業家 。
三井財閥 の工業 化と三井銀行 の不良債権 処理を推進し、三井家 の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。
「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位 。
福澤諭吉 の甥 ( 母・婉が諭吉の姉 ) にあたる。
三女はタレント・参議院議員の藤原あき 。
経歴
生い立ち
現在の大分県 中津市 金谷森ノ丁に豊前 中津 藩士 ・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。
手島物斎 ( 仁太郎 ) と弟の橋本塩巖 ( 手島中次郎 ) の下で漢学 を修め、15歳頃まで藩校 ・進脩館 で四書五経 を学んだ後、講師となる。
1869年 ( 明治 2年 ) には東京留学が許され慶應義塾 に入学。
卒業後、中津市学校・伊予 宇和島藩 の洋学会社の教員などを歴任後、小泉信吉 と共にイギリス 留学、元老院議官 井上馨 を知る。
井上馨の知己
井上が外務卿 となると中上川も外務省 に入り、従六位 に叙せられ太政官 少書記官 となり、中野健明 の後を次いで公信局長 となる。
1880年に、外務省太政官権大書記官に昇進、従五位 に進む。
井上の下で条約改正 案の作成にあたる。
同時期に、慶應義塾で同窓であった小松原英太郎 が外務省権少書記官に居た。
この頃、伊藤博文から要請を受けた官制新聞・『公布日誌』発刊の計画の打診について、福沢諭吉の代わりに断りの打診を告げる。
明治十四年の政変 による失脚という政変に伴い、外務省を辞す。に福澤の勧めで時事新報社 社長となる。
山陽鉄道時代
三菱 の荘田平五郎 から社長就任の要請があり、1887年 山陽鉄道 ( 現在のJR山陽本線 の前身 ) 創設時の社長となる。
建設に当たっては、瀬戸内海 航路との競争を意識して、「線路の勾配を100分の1以内 ( 10パーミル 以内 ) にせよ」との方針を打ち出し、「百分の一」「ワン・ハンドレッド」とあだ名された ( 長船友則『山陽鉄道物語』JTBキャンブックス、2008年 )。
しかし 90年不況の影響で経営不振となり、工事がストップしたまま、1891年に中上川彦次郎は辞任する。
1892年社長に就任した松本重太郎 は借入金と社債発行により資金調達の道をつけ、三原、広島間の敷設を 1894年までに完成させた。
三井改革
1891年、三井銀行 の経営危機に際して井上馨 の要請を受けて福澤諭吉は当初、学卒第一号の高橋義雄 を慶應から選んだが、失敗した。
そこで、慶應を卒業して福澤の甥っ子であり、上述のように井上とも知己であった中上川が山陽鉄道を退社して三井財閥 に入る[2] 。
1891年、山陽鉄道 を辞して三井銀行に入行、理事となる。
三井鉱山 理事、三井物産 理事、三井呉服店 調査委員を兼務し、三井大元方参事となる。
三井銀行及び同財閥の経営を任された中上川は益田孝 らとともに三井財閥が政商 として抱えていた明治政府 との不透明な関係を一掃。
不良債権の回収に奔走し、まず手始めに本願寺 から差し押さえも辞さない態度で債権回収に成功、また伊藤博文 の京遊びの不足分の借り受けの申し込みも断り、さらに井上馨の反対を押し切って桂太郎 の邸宅を差し押さえるなど、豪腕にして財務体質の健全化を図ったが、水面下では次第に中上川反対派が結成された[3] 。
一方、王子製紙 ・鐘淵紡績 ・芝浦製作所 などを傘下に置いて三井財閥の工業化を推進した。
1893年、日本郵船 会社取締役に就任。
没後の 1904年に三井呉服店 ( 旧越後屋 ) を三井本体から分離して三越百貨店 としたのも中上川の構想とされている ))。
また、学卒者の定期採用としてほぼ慶應出身者のみを採用し、柳荘太郎 、藤山雷太 ・武藤山治 ・藤原銀次郎 ・小林一三 ・池田成彬 らを有能な人材を育てた。中上川の死後、中上川の「工業化路線」は、益田孝の「商業化路線」に取って代わられ、さらに後継最有力候補と目されていた朝吹英二 らも益田を補佐する地位に一旦はあったが、最後は退任に追い込まれた[3] 。
中上川の政府高官に対するあまりにも厳しい貸金回収策は、井上馨の意見を無視してのものであったために、のちに中上川と井上の関係はうまくいかなくなるという、中上川には好ましからざる結果を生む事になった。
家族・親族
長男: 太郎一
長女: 艶 ( 池田成彬 に嫁す )
次男: 次郎吉
次女: 道
三男: 三郎治
三女: アキ ( タレント・政治家。母は彦次郎の妾・つね )
四男: 鐡四郎
四女: 銀 ( 母は彦次郎の妾・つね )
五男: 勇五郎
六男: 小六郎 ( 松方正義 の孫の富子と結婚 )
妹: 澄 ( 朝吹英二 に嫁す )
義妹: 峰 ( 妻・勝の妹。藤山雷太 に嫁す )
妾: つね ( 三女・アキ及び四女・銀の生母 )
著書
地理略
関連項目
脚注
1. 「中上川彦次郎逝く」1901年10月8日時事新報『新聞集成明治編年史. 第十一卷』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
2. 三井は、近代的高等教育を受けた人材の中途採用を積極的に推し進めていたが、中上川のように慶應から時事新報(現 産経新聞 )経由者が優秀だとされていた。『慶應の人脈力』(国貞文隆、朝日新書 、2010年6月30日) P204
3. a b 『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎、新風社) P120~P123
外部リンク
中上川彦次郎|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴
慶應キャンパス新聞 : 塾統~慶應義塾の伝統24 中上川彦次郎
中上川彦次郎 Bibliographical Database of Keio Economists
(wikiより)
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