旧岩崎邸庭園 ( きゅういわさきていていえん ) は、東京都台東区池之端にある都立庭園である。
指定管理者制度により東京都公園協会が運営している。
三菱財閥岩崎家の旧邸宅を公園として整備したもので、園内の歴史的建造物は国の重要文化財に指定されている。
もとは ( 明治初期、牧野弼成 ( 旧舞鶴藩主 )) 邸 明治 11年、牧野弼成から邸地を購入 。
さて持ち主は、いま有名な岩崎弥太郎さんです 「龍馬伝」にも出ています。
土佐国 ( 現在の高知県安芸市 ) の地下浪人・岩崎彌次郎 ( やじろう、1808年 - 1873年 ) とその妻・美和の長男として生まれた。
地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。
曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。
幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。
21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾する。
1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。
父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放される。
その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得る。
東洋が参政となると、これに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
この頃、27歳で結婚した。
土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されると、その犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐一郎と共に、藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。
しかし、大坂で単独行動する際に必要な届出に不備があった事をとがめられ帰国。
この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺され、弥太郎は一命を取り留めた形になったため、実は尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し無断で帰国したともいわれる。帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、職を辞した。
慶応 3年 ( 1867年 ) 、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。
坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当した。
弥太郎と龍馬は不仲であったともいわれるが、弥太郎の日記には、龍馬と酒を酌み交わすなど親交があった様子が記されている。
明治元年 ( 1868年 )、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所 ( 大阪商会 ) に移る。
翌年 10月、大阪商会は九十九 ( つくも ) 商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。
廃藩置県後の明治 6年 ( 1873年 ) に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船 2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷 ( 土佐稲荷神社付近 ) に九十九商会を改称した「三菱商会 ( 後の郵便汽船三菱会社 )」を設立。
三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。
この時、土佐藩主・山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作ったということはつとに有名である。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引である。
弥太郎は最初から政商として暗躍した。
弥太郎の三菱商会は、1874年 ( 明治 7年 ) の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。
1877年 ( 明治 10年 ) の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。
政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。
しかし、政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。
農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。
1878年 ( 明治 11年 )、大久保利通が暗殺され ( 紀尾井坂の変 )、1881年 ( 明治 14年 ) には大隈重信が失脚し、弥太郎は強力な後援者を失う。
1882年 7月、三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資しあい共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは 2年間も続き、運賃が競争開始以前の 10分の 1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
こうしたライバルとの競争の最中、1885年 ( 明治 18年 ) 2月 7日、弥太郎は51歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。
このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の 2人の内閣総理大臣を輩出している。
単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が 2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。
三菱商船学校 ( のちに官立の東京商船学校を経て現国立東京海洋大学海洋工学部 ) 創設者である。
(wikiより)
関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11008380918.html
661 吉田東洋墓(高知市塩屋崎町2周辺)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10642411633.html
317 後藤象二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10662431593.html
333 坂本龍馬・中岡慎太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
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