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Channel: Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
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高倉 健さん死去 83歳

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映画俳優の高倉健 ( たかくら・けん、本名・小田剛一 ) さんが、死去していたことが 18日分かった。83歳だった。


よく浅草六区の映画館の看板で「網走番外地」の看板見たなぁ。


なんだよ健さん、今週末鎌倉霊園に行こうと思ってたのに・・・ これじゃ、教えて貰えないかもなぁ・・・


● 高倉 健

高倉 健 ( たかくら - けん、1931年 2月 16日 - 2014年 11月 10日 ) は、日本 俳優 歌手 。愛称、健さん


福岡県 中間市 出身、身長 180cm、血液型 B型[2] 。高倉プロモーション所属。


戦後の日本 を代表する映画 スター である。半世紀以上活躍しており、代表作は映画『網走番外地 』シリーズ、『日本侠客伝 』シリーズ、『昭和残侠伝 』シリーズ、『新幹線大爆破 』、『幸福の黄色いハンカチ 』、『八甲田山 』、『南極物語 』、『鉄道員(ぽっぽや) 』など、いずれも邦画史上に残るヒットを記録している[注釈 1]


2006年度文化功労者


2013年 には文化勲章 を受章した。


2014年 11月 10日午前 3時 49分、悪性リンパ腫 のため東京都内の病院で死去した。83歳[3]


来歴

生い立ち

1931年 福岡県 中間市 の裕福な一家に生まれる。


父は旧海軍 の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[4] 。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。


終戦 を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシング 英語 に興味を持った[4] 。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は 6勝 1敗だった[4]


英語は小倉 米軍 司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS 部を創設して英語力に磨きをかけた[4]


福岡県立東筑高等学校 全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学 商学部 商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。大学卒業後、思ったような就職先がなく一旦帰郷した。


俳優へ

1955年 に大学時代の知人のつてで、美空ひばり らが所属する新芸プロ のマネージャーになるため喫茶店で面接テストを受けたが、その場に居合わせた東映東京撮影所 の所長で映画プロデューサー マキノ光雄 にスカウトされ、東映ニューフェイス 第 2期生として東映 へ入社。


同期に今井健二 丘さとみ ・岡田敏子・五味龍太郎 らがいる。


当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座 演技研究所で 6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で 6か月の修行 ( エキストラ出演など ) を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという[5] 。しかし採用から 1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。


演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌 1956年 の映画『電光空手打ち 』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーラン を塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。その後、アクション 喜劇 刑事 ギャング 青春もの 戦争 文芸作品 ミステリ など、幅広く現代劇 映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍していたが、まともな演技 のトレーニングも受けたこともないまま、数多くの作品に出演し続けることがコンプレックス になっていた。


1960年代 前半まで時代劇 映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵 中村錦之助 ・美空ひばりの映画などにも助演 していた。


任侠映画

1963年 に出演した『人生劇場 飛車角 』以降、仁侠映画 を中心に活躍。


1964年 から始まる『日本侠客伝シリーズ 』、1965年 から始まる『網走番外地 』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ 』などに主演。『網走番外地』シリーズの主題歌 ( 同タイトル ) は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌 になったが公称 200万枚を売り上げ[6] 、『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』もカラオケ などで歌い継がれている[注釈 2]


70年安保 をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」である高倉演じる主人公は、学生運動 に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を受けたが[7] 、本人は年間 10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても ( 映画というのは ) 怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 3] [8]


当時の風貌は、劇画 ゴルゴ13 』の主人公・デューク東郷 のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかを たっての要望であったという[注釈 4]


詳しい事は『高倉健ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%81%A5


高倉健 合掌


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