此方の御墓は 奈良井宿に立ち寄った際、偶然見つけました。
この御寺の拝観料は \ 100円 ( 大人 ) で 見所としては、作庭は享保年間 ( 1716 - 35 ) という庭 ( そんなに大きくはないが素晴らしい )、と マリア地蔵 ( 隠れキリシタン )。
本堂に掛かる扁額「大寶寺」の文字は、幕末に活躍した山岡鉄舟の揮毫である。」と言うことです ( 大宝禅寺パンフレットより )。撮影するの忘れた ( 泣 )。
● 奈良井治部小輔義高の墓
木曽義仲十七世の孫・義高は、父を左京太夫義在、母は小笠原大膳大夫長時の女、兄・義康は福島の城主であった。
義高長じて奈良井に砦 ( この跡 奈良井西方にあり今も僅かに空壕の跡を留め大部分は耕地に変っている
耕地の際、古武器の一片など出土したことがある ) を構え奈良井治郎小輔と号した。
弘治三年 ( 1557 ) 武田信玄自ら出馬し将となり、ここに来政交戦した。
義高遂に破れて、その従者もほとんど運命を共にした。
小笠原長時の子・季政、松本にあってこれを聞き一子・義尚を助け保護した。
その後、奈良井氏世々小笠原氏の庇護となった。
この義高の墓、大宝寺境内にあり法名は、広伝寺殿誾翁宗誾大禅寺定門
(案内板より)
● 奈良井義高 ( ならい - よしたか 生没年未詳 )
治部少輔。
木曽氏の一族とも、信濃三村氏の一族ともいうが、詳細は不明。
天文中期ころまで木曽氏と同盟関係にあった国人領主。
天文末期には武田氏に与している。
武田氏支配下に入ってからは、木曽氏の監視役としての役割を担っていたようである。